第5話 記録の穴、時刻の穴

戸田警部補から電話があったのは、すずと階段裏の棚札を照らし合わせた翌日の夕方だった。

「時系列を引き直しました。見にきてもらえますか」

用件だけを告げる、戸田らしい短い言葉だった。感情の起伏を探る余地もないほど簡潔で、だからこそ私はすぐに頷いた。閉館の鍵を咲枝に預け、秋雨の中を市役所へ向かう。傘を差しても、裾のあたりはすぐに湿った。銀杏の葉が歩道の端に積もり、踏むたびに紙を重ねて潰すような、湿った音を立てた。

生活安全課の窓口を抜けると、戸田は奥の机にいた。蛍光灯の白さの下で、彼の周りだけ紙の匂いが濃く立ちこめている。机の上には、見覚えのある書類が並んでいた。失踪届の控え、図書館の事故報告、閉架書庫の整理記録の写し。どれも古びているのに、角が妙にきれいに揃えられている。戸田の手が触れた場所だけ、紙は規律を取り戻すようだった。

「座ってください」

戸田は顔も上げずに言った。向かいの椅子は固く、座面が冷えていた。机の端には、湯気の消えかけたコーヒーが一杯だけ置かれている。彼はそれに口をつけず、書類の端を親指で押さえながら、手帳を開いた。

「失踪届が出たのは、火災未遂の三日後です。早瀬静さん、当時四十一歳。提出者は、当時の館長代理」

「早瀬さんが、ではなく」

「周囲が届け出た。本人は現れていません」

戸田は手帳のページをめくった。古い鉛筆の線が、同じ日付の上に何重にも重なっている。一本では足りず、二本、三本と書き足された跡だ。まるで、同じ場所を何度も確かめずにはいられなかった人間の手つきだった。

「閉架書庫整理記録には、火災未遂の夜、複数の職員が出入りした記録が残っています。二十時五十分、早瀬静。二十一時五分、久保田咲枝。二十一時十二分――」

戸田はそこで言葉を切り、私を見た。目の奥に、責める色はなかった。ただ、紙の上の名前と、目の前にいる人間を重ねることをためらうような、わずかな間があった。

「柊真さん、あなたです」

胸ポケットの名札に、指が触れた。布越しの薄い金具が冷たい。自分の名前が、紙の上の文字として存在していることに、私はいつまで経っても慣れない。

「その後の記録は」

「ここで途切れています。翌朝、二十一時四十分まで職員が残っていたという記述はある。ですが、二十一時十二分からその間に、誰が何をしたのかは一行もない」

戸田は紙を一枚、机の中央へ滑らせた。閉架書庫整理記録の写しだった。日付の欄は確かに存在する。だが、その下の記述欄だけ、文字の密度がふっと薄くなっている。インクの色が均一でなく、ところどころ滲んだようにぼやけていた。

「消した跡ですか」

「違うと思います」

戸田は即座に答えた。

「消した跡なら、紙の繊維がもっと荒れる。これは、最初から書かれなかった。もしくは、書く途中で手が止まった」

「どちらにしても、空白は空白でしょう」

「空白にも、できかたの違いがあります」

戸田はコーヒーに口をつけた。薄く、もう冷めているはずだった。それでも彼は顔をしかめなかった。

「書けなかったのか、書かなかったのか。前者なら、何かに手を取られていた。後者なら、誰かがそうしろと言った、あるいは自分でそうすべきだと判断した。あなたの記憶の空白も、似たような成り立ちをしているかもしれない」

その言い方は、慰めでも断定でもなかった。ただ、事実の形を並べて見せるだけの、戸田らしい話し方だった。だが、それが私には、不思議とありがたかった。誰かに「忘れたことは仕方ない」と言われるより、「空白にもできかたの違いがある」と言われるほうが、よほど自分の足場を保てる気がした。

「戸田さんは、私が何かを見た、あるいはしたと思っているんですか」

「思っているというより、消去法です」

戸田は手帳の別のページを開いた。そこには、彼自身の筆跡で、几帳面に時刻が並んでいる。

「二十一時十六分、警備会社へ通報。二十一時二十四分、消防到着。事故報告には、出火原因は特定されず、とある。けれど、閉架書庫整理記録にある出入りの最後の時刻は、二十一時十二分。通報の四分前です」

「四分では、何も片づけられません」

「片づける必要があったのは、火ではなく、紙だったとしたら」

その一言が、私の喉の奥に小さな熱を残した。

「火を消すだけなら、四分でも足りるかもしれません。でも、紙を運び、何かを隠し、そのうえで誰かを庇う言葉を用意するには、四分は短すぎる。つまり――」

戸田は言葉を切り、私の反応を待った。私は答えられなかった。答えを持っていなかったからではない。喉が渇いて、言葉がうまく形にならなかったからだ。

赤い光。低い煙。床に散った紙。誰かの袖口。鍵が落ちる金属音。

記憶の断片は、いつもこの順番で訪れる。だが今日は、そこに新しい感触が加わった。誰かの手が、私の右腕を強く掴んでいる。引き戻そうとする力だった。私はその手を振り払おうとしたのか、それとも、その手に従ったのか――そこだけが、どうしても像を結ばない。

「柊真さん」

戸田の声で、私は我に返った。

「今、何か見えましたか」

「……断片です。記録にはなりません」

「記録にならなくても、構いません。言葉にしてください。私が書き留めます。あなたの記憶も、時系列の中に置いてみれば、輪郭を持つかもしれない」

私はゆっくりと、見えたものを言葉にした。右腕を掴む手の力。離そうとした自分。離さなかった相手。鍵が落ちる音。戸田は手帳に、短く要点だけを書き取っていった。感情の形容は一切入れず、ただ出来事だけを並べる。彼の筆跡は、紙の上で淡々としていたが、書く速度だけが、わずかに速くなっていた。

「右腕を掴まれた記憶があるのに、報告書のあなたの欄には、怪我の記述も、目撃証言もありません」

「誰も見ていなかった、ということですか」

「あるいは、見た人間が、書かなかった」

戸田は書類の束を揃え、机の端に寄せた。彼の動作は咲枝に似ていた。紙を扱う手つきが、感情を押し殺すための儀式になっている点が。

「柊真さん。ひとつ、お伝えしておきたいことがあります」

戸田は珍しく、言葉を選ぶように間を置いた。

「この件は、事件にはなりません。今の時点では、誰も告発していないし、誰も損害を申告していない。だから、私にできるのは、時系列を整えることまでです。真相を決めるのは、私の役目ではない」

「では、誰の役目ですか」

「記録を読む人間の役目です」

戸田はそう言って、私を見た。

「あなたが、記録を読む人間だ」

その言葉は、戸田らしい不器用な励ましだったのかもしれない。だが私には、むしろ重みとして届いた。真相を知る権利ではなく、真相に向き合う責任を手渡されたような気がした。

窓の外では、秋雨が降り続いていた。庁舎の蛍光灯の白さの下で、紙の端だけが、やけにくっきりと浮かび上がっている。戸田はその紙端に残る折れ目を指でなぞり、十月十七日を中心に集まる不自然さを、まだ名前のない何かとして、静かに抱え込んでいた。

私は手帳に新しい一行を書き足した。

二十一時十二分、最後の出入り記録。通報まで、四分。

数字は黙ったままだった。けれど、その沈黙は、もう何も語らない沈黙ではなかった。誰かが、何かを語ろうとして、言葉の手前で踏みとどまった跡のように、私には見えた。

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