第9話 紙の下にあるもの

川端さんが来る日は、朝から雨だった。
強く降っているわけではない。軒先から落ちる雫が、一定の間隔で石のたたきを叩いている。細い音が途切れず続くせいで、家全体が水の底に沈んでいるようだった。
母さんは居間に物干し竿を渡し、靴下やタオルを一枚ずつ掛けていた。湿った布の匂いが、畳にこもった古いぬくみと混じっている。窓を少し開けても風は入らず、かわりに雨の冷たさだけが、床の低いところへ溜まっていた。
「今日は押し入れのところを見てもらうからね」
母さんはタオルの端を揃えながら言った。
僕は返事をしなかった。
「湊にも言っておくけど、作業中は近づきすぎないこと。川端さんは脚立を使うし、天井裏には埃があるでしょう」
「分かってる」
「分かってる人は、そんなに押し入れを見続けないの」
僕は顔を上げた。母さんはタオルの皺を伸ばしている。僕が部屋の隅から押し入れを見ていたことに、ずっと気づいていたらしい。
「見てない」
「見てるよ」
母さんの手が止まった。ほんの一瞬だったが、次のタオルを掛ける動きは少し早かった。
「川端さん、何か見つけるかな」
「見つけるって、何を?」
「分からないから、見るんでしょう」
「湊。家の点検は宝探しじゃないの。危ないところがないか確認するだけ」
「でも、押し入れの上だけ板が違う」
「前の人が直しただけかもしれないでしょう。雨漏りしたとか、断熱材を替えたとか」
「それなら、どうして温かいの」
母さんは答えなかった。
止めたはずの換気扇が、台所の奥で低く唸っていた。羽根が回っている音ではない。回転を終えた機械が、まだ自分の中で何かを続けているような振動だった。
「お母さんも触ったでしょう」
僕が言うと、母さんはタオルから手を離した。
「何を?」
「天井板。引っ越した日に」
「触ってない」
「押し入れの枠」
母さんは、こちらを見た。
「湊」
「触ったあと、手を止めた」
「よく見てるね」
「見てるから」
「見ていることが、全部分かっていることにはならないよ」
母さんの声は強くなかった。だからこそ、そこには逃げるための言葉がなかった。
「お母さんは、分からないものを怖がらないようにしてるの。怖がりはじめると、家事も仕事も止まるから。洗濯物は濡れたまま、ご飯は炊けない、学校の書類は出せない。そういうことを先に片づければ、少なくとも一日は終わるでしょう」
「一日終わっても、次の日が来る」
「そうね」
「だったら、ずっと考えないといけない」
「ずっとじゃない。考えるべきときに考えればいいの」
「そのときって、いつ?」
母さんは目を伏せた。
「今日かもしれないね」
玄関のチャイムが鳴った。
古い家の中で、電子音だけが妙に新しく響いた。母さんはエプロンの裾を整え、玄関へ向かった。僕も後ろからついていく。
川端さんは濡れた作業着の肩を軽く払っていた。髪には細かな雨粒がつき、腰の工具袋からは濡れた革と金属の匂いがした。
「お邪魔します」
短い挨拶のあと、川端さんは靴を揃えるより先に玄関の床を見た。上がり框を指先で撫で、付いた埃を親指でこする。それから廊下へ上がり、柱、梁、建具の隙間を順番に確かめていった。
父さんも玄関へ出てきた。仕事へ行く時間を遅らせたらしく、シャツの袖を肘までまくっている。片手には、いつもの古いメジャーがあった。
「雨の日は、音がよく分かる」
川端さんが言った。
「湿気で木が膨らむからですか」
「隙間が変わる。普段は聞こえない音が出る」
父さんはスマートフォンを取り出し、廊下の床を撮影した。
「ここ、前より沈んでいる」
「補修が必要ですか」
「急ぎじゃない。ただ、見ておいた方がいい」
川端さんは床を指で二度叩いた。低い音が返った。父さんはすぐにメモを取った。川端さんが押し入れへ進むと、父さんもその後ろについた。
六畳間の前で、川端さんの足が止まった。
襖は閉じていた。
川端さんはすぐに開けず、枠の上端へ掌を当てた。指を横へ滑らせ、次に下端を撫でる。何度か同じ場所を触ってから、低く呟いた。
「ここ、いじってるな」
父さんが眉を寄せた。
「押し入れですか」
「枠だけじゃない。上の荷重が違う」
「断熱材の手直しでは?」
川端さんは答えず、襖を開けた。布団袋を一つずつ確認し、天井板を見上げる。
僕は部屋の入口に立っていた。近づくなと言われたことは覚えていたが、足は押し入れの方へ向かっていた。
「湊」
父さんが呼んだ。
「そこにいろ」
「分かってる」
「本当に分かってるなら、畳の線より後ろへ」
川端さんが鉛筆で細い線を引いた。僕はその手前に立った。畳の目に紛れそうな、頼りない線だった。
脚立が開かれる。金具が噛み合う音。父さんが脚を押さえ、川端さんが天井板へ手を伸ばした。
その前に、川端さんは板を指の背で叩いた。
こん。
隣の板を叩く。
こん、こん。
音の高さが違った。
押し入れの天井板は、内側に何か柔らかいものを詰め込んだように、短くこもっていた。
「空洞がある」
父さんが顔を上げた。
「屋根裏の空間ですか」
「普通の空間じゃない。梁の間に、あとから仕切りを入れてる」
「何のために?」
「まだ分からない」
「開けて確認できますか」
「できる。ただ、今すぐ壊す必要はない」
「中に何かある可能性は?」
「ある」
「危険なものですか」
「それも、まだ分からない」
父さんの声が硬くなった。原因を数字にしようとしている声だった。配線、断熱材、板の厚さ、修繕費。分からないものを、分かる形へ運ぼうとしている。
川端さんは脚立から降りた。掌には白い木粉が付いていた。指先で潰し、匂いを確かめる。
「古い木くずだ。新しい板の裏に、古い梁を削った跡がある」
「梁を削ったんですか」
「板を入れるために、一部を落としている。普通の補修なら、そこまでしない」
「構造を変えたということですか」
「小さくな。外から見えないように」
父さんは押し入れの幅を測った。メジャーの金具が、板の縁でかすかに鳴る。
「あとから一度開けて、もう一度塞いだ形ですか」
「釘の錆び方と木の乾き方が違う。別の時期に触っている」
「費用は」
川端さんは父さんではなく、板を見た。
「壊して戻すだけなら安い。だが、何を残すか決めずに開けると、戻し方が変わる」
「見つかったものを捨てるか、残すかで?」
「そういうことだ」
父さんは黙った。
母さんが熱い茶を三つ載せた盆を持って入ってきた。
「話が難しくなると、お父さんはすぐに値段を聞くんだから」
「値段が分からないと、決められない」
「値段で決めていいことかどうか、まだ分からないでしょう」
父さんは返事をしなかった。母さんは僕と川端さんに湯呑みを渡し、最後に父さんの前へ置いた。
「川端さん、見える範囲でいいので教えてください。何があるんですか」
川端さんは茶を一口飲んだ。熱かったのか、目を少し細めた。
「押し入れの上だけ、後から空間を作っている。人が入るためじゃない。板を二重にして、間に断熱材を厚く詰めた跡がある」
「それで、湊が温かく感じた?」
「可能性はある。だが、熱の出どころはまだ分からない。配管はない。今の配線もない」
「誰かが、わざと作った空間なんですね」
「そう見える」
母さんは押し入れを見上げた。
「どうして、そんなことをするんでしょう」
川端さんはすぐには答えなかった。湯呑みの側面を、木粉の付いた指でゆっくり撫でている。

「家には、直す場所と、残す場所がある」
「それは答えになっていません」
「理由は、作った人に聞かないと分からない」
「でも、その人はもういない」
「いなくなった人の理由を、家が代わりに話すことはある」
母さんの表情が固くなった。
「怖がらせたいわけじゃない」
川端さんは少し視線を逸らした。
「板や釘には、手を入れた人間の癖が残る。急いで塞いだのか、何度も確かめながら塞いだのか。ここは後者だ。釘の間隔が揃いすぎている。隠しただけじゃない。守るつもりで閉じた手つきだ」
「守る?」
僕が聞くと、川端さんは僕を見た。
「そう見える。だが、まだ見えていないものがある。だから決めつけるな」
「何を見ればいいんですか」
「板の裏、梁の削り方、釘の向き、匂い。家の中のものは、触った人間の都合まで残す」
僕は手帳の一行を思い出していた。
雨。押し入れ上、ぬくい。
その記録を書いた人も、同じ板に触れたのだろうか。
川端さんは再び脚立へ上がり、天井板の端へ細い工具を差し込んだ。金属が木に触れる音がした。
紙が擦れる音に似ていた。
僕の肩が強張る。
川端さんが手を止めた。
「どうした」
「その音」
「音?」
「夜にも、同じ音がします。押し入れの中で。紙か布が擦れるみたいな音」
父さんが振り返った。
「夜に?」
僕は黙った。言わないことで守れるものがあると思っていた。けれど、川端さんは音のした場所を見ている。父さんも、もう僕の沈黙を見逃さない。
「何度も聞いたのか」
父さんの声が低くなった。
「三回。雨の日が二回。雨じゃない日に一回」
「どうして言わなかった」
「言っても、古い家の音だって言われると思った」
「俺は、そんなことは」
「父さんは、何でも直せるものにするから」
言ってしまうと、胸の奥が冷えた。父さんは怒ると思った。だが怒鳴らず、メジャーを握ったまま床へ視線を落とした。
「そうしないと、どうしていいか分からないんだ」
雨の音が、父さんの声の隙間へ入り込んだ。
「原因があれば、手を入れられる。配管なら交換できる。板なら張り替えられる。費用が出るなら、どこを削るか決められる。俺は、そうやって家族が暮らせる場所を作るつもりで、この家を買った。無理をしてでも、ここを借り物じゃない場所にしたかった」
「でも、原因が分からないものもある」
「分かってる」
「分かってないように見える」
父さんは僕を見た。疲れた目だった。けれど、いつもの距離より近かった。
「分かってるから、川端さんを呼んだ。俺一人で判断しないために」
川端さんは脚立の上で黙っていた。やがて、板の隙間へ懐中電灯を差し込む。細い光が、埃の粒を一つずつ浮かび上がらせた。
「何かありますか」
父さんが聞いた。
「物は見えない。奥が狭い」
川端さんはライトを右へ動かした。
「ただ、内側に布の繊維が付いている」
僕の喉が乾いた。
「布?」
「古い。木に擦れて、糸だけ残ってる。あと、焦げたような匂いがする」
母さんが顔を上げた。
僕は、手帳と一緒に見つけた焦げた札のことを思い出した。端だけが黒く焼けた、小さな紙片。誰にもまだ詳しく話していない。
父さんが言った。
「古い木が湿っている匂いでは?」
「そうかもしれない」
川端さんは否定しなかった。
「だから、今はそれ以上言わない」
天井板が元の位置へ戻された。板は何事もなかったように枠へ収まり、さっきまであった隙間が消える。押し入れは、最初から何も隠していなかったような顔をしていた。
川端さんは接ぎ目に鉛筆で短い線をつけた。
「ここを開けるなら、家族全員がいるときにしろ」
「なぜですか」
父さんが聞いた。
「見たものを、一人で抱えないためだ」
「開けるなという意味ですか」
「違う。開けるなら、開けたあとまで考えろという意味だ」
父さんは川端さんを見た。
「見つかったものが、家にとって必要なものだったら?」
「残せばいい」
「不要なものだったら?」
「片づければいい」
「判断できなかったら?」
川端さんは、父さんを見なかった。
「判断できないものを、急いで捨てるな。家は、捨てたものの跡まで覚える」
その言葉が、雨の音より長く部屋に残った。
川端さんが帰ったあと、母さんは夕飯の支度を始めた。包丁がまな板へ当たる音、鍋の蓋を置く音、流し台を拭く音。父さんは点検写真を見返し、見積もりの裏へ板の寸法を書き込んでいる。
食卓では、しばらく誰も押し入れの話をしなかった。
味噌汁の湯気が上がり、雨はまだ降っていた。換気扇が時々低く唸る。そのたびに、僕の意識は押し入れの方へ引かれた。
「湊」
父さんが言った。
「今夜、音がしたら、俺を起こせ」
僕は味噌汁の中の豆腐を見た。
「父さん、起きられる?」
「起きる」
「仕事は?」
「明日は遅番だ」
「それでも?」
「それでもだ」
母さんが椀を置いた。
「私にも言って。お母さんがすぐ理由をつけるのは、怖くないからじゃない。怖いものを、湊に渡したくなかったから。でも、渡したくないと思って黙っているうちに、あんたが一人で持っていたなら、それは守ったことにならないでしょう」
僕は返事ができなかった。
母さんは続けた。
「私は、家族の生活を止めたくない。でも、生活を回すことと、見ないことは違う。洗濯物を干して、ご飯を作って、学校へ送り出して、それでも見ておくべきものはある。分からないままでも、分からないものとして一緒に置いておくことはできるから」
父さんが頷いた。
「週末、全員いるときに開けるか決める」
「開けたら、戻せるの?」
「川端さんが戻せると言った」
「戻せるのは板でしょう」
母さんの声が低くなった。
「中身は? 昔の人の事情を尊重することと、今ここで暮らす人の安全を守ることは、別に考えないといけない」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるから、急いで壊さない」
父さんはそこで言葉を切り、僕を見た。
「湊が夜に音を聞いても、一人で黙らなくていい家にする。それが先だ」
それは不器用な言い方だった。でも、湯気の上に置かれたその言葉は、いつまでも消えなかった。
夜、布団へ入る前に、僕は押し入れの前へ行った。
川端さんの鉛筆の印が、暗い部屋の中でわずかに浮いている。僕はそこへ手を伸ばしかけ、やめた。母さんとの約束を思い出したからではない。板の向こうのものを、もう自分一人の手で決めてはいけないと思ったからだ。
それでも、天井板へ掌を置く。
ぬくい。
板の中に熱源があるのか。厚い断熱材が温度を閉じ込めているのか。それとも、何年も前に誰かが残した手の温度が、木の内側でまだ消えていないのか。
答えは、どれとも決められなかった。
押し入れの奥で、かすかな音がした。
紙が擦れる音だった。
僕は息を止めた。今度は、母さんも父さんも隣の部屋にいる。呼べばすぐ来る距離だ。それなのに、声は出なかった。
音は、もう一度鳴った。
天井板の向こうで、何かがわずかに位置を変えたようだった。
僕は手を離し、鉛筆の印を見つめた。
それは「開けるな」という命令には見えなかった。そこに何かがあることを、忘れないための印に見えた。
僕は布団の端をつまみながら、週末まで待つことにした。
ただ眠る前に、印のすぐ隣へ、もう一度だけ指先を置いた。
板は、誰かの手を待っているように温かかった。
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