第10話 板の向こう

土曜日の朝、雨は上がっていた。
庭の隅に溜まった水が、薄い空を映している。雲はまだ低かったが、昨日までの湿った重さは少し抜けていた。母さんは洗濯物を干し、父さんは玄関先で脚立の脚を拭いていた。
川端さんが来るまで、あと一時間ある。
僕は六畳間の押し入れを開けずに、襖の前へ座っていた。閉じた板の向こうに何があるのか、何度も想像した。布。紙。古い道具。焦げたお札。手帳に書かれていた、短い言葉の続き。
けれど、想像するたびに形が変わった。
「朝ご飯、冷めるよ」
母さんの声が廊下からした。
「うん」
返事をしたのに、身体は動かなかった。
「湊」
今度の声は近かった。母さんが六畳間の入口に立っている。
「食べてからにしよう。お腹が空いていると、見たものを必要以上に怖く感じるから」
「母さんは、怖いと思ってる?」
「思ってるよ」
母さんは、昨日までなら言わなかったことを、あっさり口にした。
「でも、怖いからって、見ないままにするのも違うでしょう」
そう言いながら、母さんは押し入れの襖へ手を伸ばした。取っ手には触れず、木の枠を指先でなぞる。その動きが、いつか自分がしたものと似ていて、僕は目を逸らせなかった。
「父さんは?」
「玄関で脚立を見てる。脚立が倒れないか、何回も確認してる」
「いつも通りだね」
「いつも通りにしてないと、手が震えるからよ」
母さんは笑わなかった。
朝食のあいだ、父さんは開ける手順を話した。電気を落とす。天井裏へ入る前に、周囲の梁と板の状態を確認する。物が見つかっても、素手では触らない。写真を撮り、置かれていた向きと位置を記録する。
説明は細かかったが、僕に向けられたものではなく、自分自身へ言い聞かせているようだった。
「中に何かあったら、触っていい?」
僕が聞くと、父さんは箸を置いた。
「川端さんが安全を確認してから」
「危険な物があるかもしれないから?」
「それもある」
「それ以外は?」
父さんは少し考えた。
「持ち主が分からないものだから」
母さんが味噌汁を一口飲んだ。
「持ち主が分からないものは、勝手に触ってはいけない?」
「そういう意味じゃない。湊が悪いと言ってるんじゃない」
「でも、僕が見つけた」
「見つけたからこそ、どう扱うかを考えるんだ」
父さんの言い方は、昨日より硬くなかった。家の板や釘の話ではなく、僕のことを見て話している声だった。
食後、父さんは押し入れの前に新聞紙を敷いた。母さんは古いタオルと軍手、ビニール袋を用意した。見つかった物を捨てるためではなく、汚れや湿気から守るためだと母さんは言った。
川端さんが来たのは、約束の時間より少し早かった。
「開けるんですか」
玄関へ入るなり、川端さんは聞いた。
父さんが頷いた。
「家族で話して、決めました」
「全員、見たものを捨てないと約束できるか」
川端さんは靴を脱ぎながら言った。
母さんが先に答えた。
「捨てる必要があるものは、理由を確認してからにします」
「理由が分からなかったら?」
「分からないまま保管します」
父さんも頷いた。
僕は黙っていた。川端さんがこちらを見た。
「湊は?」
「僕も、捨てません」
「怖くても?」
「怖くても」
「家族が見ないと言っても?」
僕は母さんと父さんを見た。二人とも、押し入れの方を見ていた。
「一人で持たないようにします」
川端さんは短く頷いた。
「それならいい」
脚立が開かれた。
昨日と同じ場所に、昨日と同じ鉛筆の印がある。けれど今日は、その線がただの目印には見えなかった。板の向こうにいるものの輪郭を、細い線だけで囲っているようだった。
川端さんは天井板の周囲を指で確かめ、古い釘を一本ずつ抜いていった。釘が木から抜けるたび、小さな抵抗が手元から伝わる。急いでいないのに、板の内側がこちらへ近づいてくる感じがした。
最後の釘が抜かれた。
川端さんは板をすぐには外さず、掌を置いた。
「まだ、温かいな」
父さんが見上げた。
「分かりますか」
「分かる」
川端さんの声が、わずかに低くなった。
「昨日より温度がある」
僕の指先が冷えた。
母さんが、無意識に僕の肩へ手を置いた。手のひらの温かさが、服の上から伝わってくる。
川端さんが板を持ち上げた。
埃が落ちた。湿った木と、古い布の匂いがした。焦げた紙のような匂いも、ほんの少し混じっている。
天井裏には、人が入れるほどの空間はなかった。梁と梁の間に、薄い板で仕切られた細長い隙間がある。奥は暗く、懐中電灯の光を吸い込んでいた。
川端さんは鏡を差し入れた。
「何か見えますか」
父さんが聞く。
「布包みが一つ。木箱が一つ。紙の束」
母さんの指が、僕の肩を強く握った。
川端さんは手を伸ばさず、まず鏡を抜いた。それからスマートフォンで内部を撮影した。何枚も角度を変えて撮る。そのあいだ、隙間の奥から小さな音がした。
紙が擦れた。
母さんの呼吸が止まる。
父さんが、僕の前へ半歩出た。
「動きましたか」
「崩れただけだ」
川端さんはそう答えたが、隙間から目を離さなかった。
「板の裏に、ものが預けられている。置いた人は、簡単に取り出すつもりではなかったようだ」
「誰かが、あとで取りに来るつもりだった?」
僕が聞くと、川端さんは考えるように工具を置いた。
「取りに来るつもりなら、もっと分かりやすくする。これは、取りに来られなくても残るようにした置き方だ」
その言葉を聞いたとき、奥の暗がりにあるものが、急に遠い誰かの所有物ではなくなった。
取りに来られなかった人の時間。
僕はそれを想像してしまった。布団を畳み、戸締まりをし、最後にこの板を閉じた手。隙間へ木箱を押し込み、紙の束を整え、何かを言おうとして言わなかった口元。
川端さんが布包みを取り出した。
古い風呂敷だった。色は褪せていたが、結び目だけは固く、何度も解こうとして結び直した跡があった。
母さんが新聞紙の上へタオルを敷く。
川端さんは、その上へ包みを置いた。
誰もすぐには解かなかった。
風呂敷の中央が、わずかに膨らんでいる。中にあるものは重くないらしく、置いたときも音がしなかった。
父さんが言った。
「開けるぞ」
母さんが頷く。
僕は手を伸ばしかけて、止めた。
川端さんが結び目を解いた。布の内側から、古い木の匂いが広がった。
最初に出てきたのは、小さな湯呑みだった。縁が欠け、側面には薄い焦げ跡がある。次に、子ども用の箸。先端が丸く削れている。青い鉛筆。消しゴム。白い布に包まれた薬の空袋。
そして、折り畳まれた紙が一枚。
川端さんが紙を開いた。
そこには、家の簡単な間取りが描かれていた。線は歪んでいる。台所、縁側、六畳間。押し入れの上だけ、丸で囲まれていた。
僕は息を止めた。
絵の隅に、小さな文字があった。
「ここは、あたたかい」
子どもの字だった。
母さんが紙の端を押さえた。風もないのに、紙がわずかに震えている。
そのとき、木箱の中から、かすかな音がした。
誰も触れていないのに、蓋の内側で何かがずれた。
川端さんが顔を上げる。
僕は押し入れの奥を見た。
開いた天井板の向こう、暗い梁の間に、まだ細い空間が続いていた。そこから漏れる空気だけが、部屋のどこよりも温かかった。
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