第8話 フミの回覧板

洗濯機の脱水が終わる音を合図に、母さんが物干し竿へ向かうのが、台所の窓越しに見えた。

背中が、白いガラスの向こうで小さく揺れている。洗濯かごを抱え、勝手口を開け、庭へ出る。母さんは外へ出るとき、いつも一度だけ空を見上げる。雨が降るかどうかを確かめるためだ。今日は晴れていたけれど、雲の底が低く、遠くの空が濡れた灰色をしていた。

僕は母さんの姿が物干し竿の向こうへ隠れるのを待ってから、回覧板を手に取った。

「ついでがあったら、西尾さんのところへお願いね」

朝、母さんはそう言っていた。回覧板は玄関脇の靴箱の上に置かれていた。透明なビニール袋の中に、自治会のお知らせや夏祭りの案内が何枚も綴じられている。紙の角は少し丸まり、雨の湿気を吸って柔らかくなっていた。

僕は玄関ではなく、勝手口から外へ出た。

ぬくみ家は表から見ると、どこにでもある中古住宅だった。新しい表札、生け垣、薄い色の外壁。けれど裏へ回ると、家の形が急に頼りなくなる。勝手口の先には、人ひとりがようやく通れる細い通路があり、片側は隣家のブロック塀、もう片側はぬくみ家の外壁だった。壁と壁のあいだに湿った空気が溜まり、足元には昨日の雨で黒くなった落ち葉が貼りついている。

通路を進むと、肩が何度か壁に触れた。ざらついた外壁の感触が、押し入れの天井板の表面と重なった。新しいように見せて、触れると古い。きれいに直されていても、手を入れた場所と、手を入れなかった場所の差は残っている。

路地へ出ると、空気が少し乾いた。

西尾フミさんの家は、ぬくみ家の裏手に長く張り出した縁側のある家だった。軒先には古い手提げ袋が掛けられている。回覧板を入れるための袋らしいが、布地は日に焼け、持ち手の縫い目が何度も補修されていた。

僕が手を伸ばす前に、戸が開いた。

「あら、佐伯さんちの坊や。回覧板ね」

フミさんは、白髪を後ろで束ね、薄い上着を羽織っていた。夏前なのに、首元には細い手拭いを巻いている。僕の顔を見るより先に、靴と手と肩の向きを見た。

「はい。母さんに頼まれて」

「そう。お母さん、もう外へ出たの」

「洗濯物を干してる」

「そうでしょうねえ。あの人は、洗濯物を濡れたままにしておけない顔をしてるもの」

フミさんは回覧板を受け取った。受け取るだけなのに、綴じ紐のあたりを確かめ、紙の束を一度揃えてから、袋へ戻す。その指先が、僕の手に残った白い跡で止まった。

「手、乾いてるね」

「そうですか」

「押し入れの板を触る手だ」

僕は息を止めた。

フミさんは僕の顔を見て、すぐに笑った。

「冗談だよ。新しい家に越してきた子は、みんな手が乾くの。知らないところを触って回るからね。柱、襖、蛇口、床板。手で家を覚えるんだ」

「僕は、そんなに触ってません」

「触ったかどうかじゃないよ。触ったあと、手がどうなってるかの話」

フミさんは敷居の内側へ入ろうとしたが、そこで足を止めた。靴先で木の縁を軽くなぞる。まるで敷居の高さを確かめるような仕草だった。

「中へ入るかい」

そう言われたのに、僕は返事ができなかった。フミさんは僕を招き入れたまま、急かさなかった。けれど、視線は僕ではなく、背後の路地と、さらにその向こうにあるぬくみ家の屋根へ向いていた。

「新しい家は、どう」

「まだ、よく分かりません」

「分からない方がいいこともあるよ。家はね、最初から全部分かろうとすると、こちらの方が疲れてしまうから」

「西尾さんは、分かるんですか」

「何が?」

「あの家のこと」

フミさんは、少しだけ目を細めた。縁側の向こうで、紫陽花の葉に残った雨粒が落ちた。ぽとり、と土の上で音がした。

「ぬくみ家はね、昔から住み手が長く続かないのよ」

その言葉は、噂にしては静かだった。大げさに怖がらせる声ではない。ただ、何度も表札が外され、また別の名前が掛けられてきたことを、数え終えた人の声だった。

「どのくらいですか」

「私が覚えてるだけでも、三回か四回。もっと前にもあったと思うけど、そこまで遡ると、家の名前が変わるからね」

「家の名前?」

「表札の名前じゃないよ。土地の呼び方。昔は、あの家を別の呼び名で呼んでいた人もいた。家は同じでも、人が見ているものは少しずつ違うのさ」

「何度も持ち主が変わるのは、住みにくいからですか」

「さあねえ。駅から遠いし、雨の日は廊下が鳴るし、台所の換気扇は気まぐれだし。理由をつけようと思えば、いくらでもつけられるよ」

「でも、それだけじゃないんでしょう」

フミさんは答えず、軒下へ目を向けた。

「夜が静かすぎる家って、あるでしょう」

僕の指が、回覧板の角を押さえた。

「音がしないんじゃないの。音の種類が違うのよ。普通の家は、人が暮らしている音がする。箸が器に当たる音、戸棚を閉める音、誰かが廊下を歩く音。そういう音が重なって、家の中に厚みができる。でも、あの家は昔から、人の音の下に、もうひとつ別の音があるみたいなの」

「別の音って?」

「古い音だよ」

「古い音は、どんな音ですか」

「聞いた者にしか分からない。紙かもしれないし、板かもしれない。水道管が冷える音かもしれない。大事なのは、音そのものじゃなくて、その音が今の暮らしより前から続いているように聞こえることだね」

押し入れの奥で聞いた擦過音が、耳の内側へ戻ってきた。紙の端が木に触れたような音。布が少しずれたような音。僕はあれを、誰かがいる音ではなく、誰かがいたあとに残された音だと思っていた。

「西尾さんも、聞いたことがあるんですか」

「聞いたよ」

「押し入れから?」

フミさんの目が、初めて僕の顔を正面から捉えた。

「坊やは、もう押し入れの話をしてるんだね」

僕は回覧板を持つ手に力を入れた。紙の束が、かさりと鳴った。

「聞いたことがあるだけです。夜に、音がする。温かい板があって、触ると……」

そこまで言って、僕は口を閉じた。温かいと言うのが怖かった。言葉にした瞬間、それが僕だけの感覚ではなくなってしまう気がした。

フミさんは、僕の続きを待った。けれど僕が黙ると、無理に聞き出そうとはしなかった。

「家はね、触った人にだけ分かることがあるのよ」

「触った人にだけ?」

「見ただけでは分からない。写真に撮っても、図面に書いても分からない。掌を置いて、冷たいか、乾いているか、少し湿っているか、前に誰かが同じ場所へ触れたことがあるか。それは、手で確かめた人間にしか分からない」

「そんなの、気のせいかもしれない」

「そうだね」

あまりにあっさり肯定されて、僕は言葉を失った。

「気のせいかもしれないし、気のせいではないかもしれない。けれど、気のせいだから無かったことにしていい、という話ではないでしょう。身体が何かを感じたなら、まず感じたことだけは残しておく。理由は後から変わることがあるけど、感じた事実は変わらないからね」

その言葉は、僕がずっと思っていたことに近かった。

母さんは、気のせいだとは言わない。古い家の癖、湿気、配管、疲れ。理由を並べて、今日を終わらせようとする。父さんは、板や釘や費用に置き換えて、直せるものにしようとする。どちらも間違ってはいない。でも、理由へ運ばれる前の感覚を、僕は手放したくなかった。

「この家で、昔、何があったんですか」

僕が聞くと、フミさんはすぐに答えなかった。

庭の奥で、どこかの家の換気扇が回り始めた。低い唸りが路地へ流れ、ぬくみ家の外壁にぶつかって戻ってくる。生活の音なのに、ずいぶん遠いところから届くように聞こえた。

「何かあった、という言い方は便利だねえ」

フミさんは回覧板の表紙を指で撫でた。

「亡くなった人がいるのか。家族が揉めたのか。お金がなくなったのか。雨漏りを直せなかったのか。そういうものを全部ひとまとめにして、『何かあった』と言えるから。でも、そこで暮らしていた人にとっては、ひとまとめにはできない一日一日だったはずだよ。朝に米を研いで、子どもの咳を聞いて、夜に戸締まりをして、眠れないから押し入れの板へ手を当てる。そういう細かい時間が積み重なって、家になる」

「子どもがいたんですか」

フミさんは、答えの代わりに軒先の影を見た。

「いた時期もあったよ」

「どんな子ですか」

「さあ。子どもは、家の中ではよく見えるけれど、外へ出るとすぐに別の顔になるからね」

「西尾さんは知ってるんでしょう」

「知っていることと、話していいことは違うよ」

「どうして話してはいけないんですか。もう、その人たちはいないんでしょう」

フミさんの口元から笑みが消えた。

「いないからこそだよ。いない人のことは、残った人が好きな形にしてしまえる。かわいそうだった、怖かった、変だった、だから家を出た。そうやって簡単な形にされると、その人が暮らしていた時間まで、別のものに変わってしまう。私は、それが嫌なんだよ」

「でも、何も言わなかったら、忘れられる」

「忘れられるね」

「じゃあ、話した方がいい」

「誰に?」

「住む人に」

「住む人が、聞く準備をしているならね」

フミさんはそこでようやく僕を見た。

「湊くん。知りたい気持ちは悪くない。でも、知ることは、集めることとは違う。手帳を見つけた、地図を見つけた、温度を測った、噂を聞いた。それだけで家を分かったと思ったらいけない。人の生活は、物を並べただけでは戻ってこないからね」

僕は返事をしなかった。

フミさんの話は回りくどい。でも、その回り道の途中に、僕がまだ触れていないものがある気がした。

「それでも、知りたいです」

「どうして?」

「ここで眠るから」

自分の口から出た言葉が、自分でも意外だった。

「ここで眠って、ここで起きて、母さんがご飯を作って、父さんが修理して、僕が学校から帰ってくる。その全部の下に、知らない人の時間が重なっているなら、知らないまま住むのは、誰かの部屋で勝手に暮らすみたいで嫌です」

フミさんは、長いあいだ黙っていた。

やがて、縁側の隅に置かれた古い湯呑みを手に取った。茶は入っていない。けれど、彼女はそれを両手で包み、掌の温度を確かめるようにしていた。

「住むというのは、そういうことかもしれないね」

「どういうことですか」

「自分のものにすることじゃなくて、自分のものではないものがあると知ったまま、使わせてもらうこと。畳も柱も、前の人が使ったものだ。傷も、匂いも、音も、全部は消えない。消さないで住むのか、消したふりをして住むのか、その違いだけだよ」

「父さんは、直そうとしています」

「直すのは悪くない。壊れたところを直さなければ、次の人が暮らせないからね。ただ、直すことと、消すことは同じじゃない。そこを間違える人が多いのさ」

フミさんの指が、湯呑みの縁で止まった。

「昔、あの家で、押し入れの上を直した人がいた」

僕は息を詰めた。

「何を直したんですか」

「押し入れの上に、空間を作った。普通の家なら必要のない、狭い空間だよ。板を二重にして、熱が逃げないようにして、外から見えないようにした」

「何のために?」

「それは、まだ坊やが自分で見つけることだ」

「西尾さんは知っているのに?」

「知っているから、言わないんだよ」

「分かりません」

「早く答えをもらうと、答えに合わせて物を見るようになる。板の傷も、手帳の文字も、全部『あの答えの証拠』にしてしまう。それでは、家が残したものを見落とす」

フミさんは、そこで一度言葉を切った。

「ただ、ひとつだけ言っておくよ。あの家で隠されたものは、誰かを驚かせるためのものじゃない。少なくとも、私が知っている限りではね」

胸の奥で、何かが小さく鳴った。

隠されたもの。驚かせるためではない。

押し入れの天井板のぬくみが、掌の内側へ戻ってくる。怖いのに、どこか落ち着く温度。誰かがいるのではなく、誰かがいたという事実だけが残っている感覚。

「じゃあ、何のために隠したんですか」

「残すためかもしれない」

「隠すのに?」

「隠さなければ、捨てられることもあるでしょう」

その声は、いつもの世間話よりずっと低かった。

「人は、見えないものを無いものにしやすい。見えるものは片づけられる。古い布団、割れた湯呑み、使いかけの薬、子どもの鉛筆。要らないと言えば、ごみ袋に入れられる。けれど、見えないところへ置けば、少なくとも、誰かが手を伸ばすまで残る」

「誰かが手を伸ばすまで?」

「そう。忘れられるためではなく、いつか気づく人のために」

フミさんは回覧板を手提げ袋へ入れた。紙の束が袋の底へ落ち、乾いた音を立てる。

「坊やのような子は、時々いるんだよ。人の使った机や椅子に触ると安心する子。前の人の部屋を怖がるより先に、そこにあった暮らしを探す子。そういう子が、家の中に残ったものを拾う」

「僕だけじゃないんですか」

「珍しくはないよ。ただ、たいていの子は、周りに『変な子』と言われて、触らなくなる。触らなければ、分からないことも増えないからね」

僕は指先を見た。

転校してから、教室の机の木目をなぞることが増えた。誰かの鉛筆の跡、消しゴムの角が当たった傷、机の端だけ薄くなった塗装。そういうものを見ていると、輪の中へ入れない自分でも、ここにいていい気がした。

押し入れの温度も、同じなのだろうか。

僕は新しい家に居場所を探しているつもりだった。でも実際には、前の誰かが残した居場所に、先に触れていたのかもしれない。

「熱がこもる家はね」

フミさんが、僕の考えを読んだように言った。

「板より先に、空気を疑いなさい」

「空気?」

「板は後から替えられる。釘も抜ける。表札も外せる。でも、誰かが長く暮らした場所の空気は、すぐには抜けない。匂いだけじゃないよ。物の置き方、音の間、戸を閉める力加減。そういうものが重なって、家の空気になる」

「それが、温かさと関係あるんですか」

「坊やが触って、関係があると思ったなら、あるんだろうね」

「西尾さんは、答えを知ってるんでしょう」

「答えは、家の中にある。私は、昔のことを覚えているだけだよ」

その言い方に、少しだけ寂しさが混じった気がした。

「昔の人の名前を、知っていますか」

「知ってるよ」

「教えてください」

フミさんは口を開いた。

「……宮――」

そこまで言って、黙った。

言いかけた名前が、路地の湿った空気の中に引っかかった。僕は待ったが、フミさんは続きを言わなかった。

「今、何て言おうとしたんですか」

「古い名前だよ」

「誰の?」

「家に住んでいた人の」

「教えてくれないんですか」

「名前は、最後にした方がいい」

「どうして」

「名前を知ると、人はその人を分かった気になるからね。名前の前に、何を食べて、何を直して、どんな音を嫌がって、誰を眠らせようとしていたのかを見た方がいい。人は名前だけでは残らない。手の跡で残る」

フミさんは立ち上がった。立ち上がるときも、敷居へ手をつかなかった。膝に力を入れ、ゆっくりと身体を起こす。長くこの家で暮らし、何度も同じ動作を繰り返してきた人の動きだった。

「もう行きな。お母さんが心配する」

「何か、他に知っていることは?」

「あるよ」

「教えてください」

「でも、今じゃない」

「僕が子どもだから?」

「子どもだからじゃない。坊やが、自分で確かめようとしているからだよ。人から聞いた話を先に置くと、自分の手で触ったものまで、誰かの話の色に染まってしまう」

フミさんは戸口へ下がった。最後まで、家の中へ僕を入れなかった。その距離が、かえって彼女の話を守っているように思えた。

「押し入れの上を見たら、見たものをすぐに捨てないこと」

「捨てません」

「怖くても?」

「怖くても」

「家族が怖がっても?」

僕は少し迷った。

「……家族と相談します」

フミさんは、初めて満足そうに頷いた。

「それでいい。拾ったものは、自分一人のものにしないこと。残すと決めるなら、残す人間を増やした方がいい」

「西尾さんは、ずっと一人で覚えていたんですか」

その問いに、フミさんはすぐには答えなかった。

「覚えていたんじゃないよ。忘れられなかっただけ」

風が路地を抜けた。紫陽花の葉が一斉に裏返り、濡れた裏面が白く光った。僕はその光の中で、フミさんの顔に刻まれた細い皺を見た。何十年も同じ場所を見てきた人の顔だった。

「忘れないことは、いいことですか」

僕が聞くと、フミさんは小さく息を吐いた。

「いいこととは限らない。重いし、邪魔になるし、新しい暮らしを始めるときには、持っていない方が楽なものもある。でも、楽だからといって、全部捨てていいわけじゃないでしょう。残すものを選ぶことも、住むことの一部なんだよ」

僕はその言葉を胸に置いた。

回覧板を届けるだけのつもりだったのに、帰り道の路地は、来たときより長く感じられた。隣家の壁、濡れた落ち葉、古い室外機の唸り。どれもただの景色ではなく、誰かが何年も見てきたものに思えた。

勝手口を開けると、台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。

母さんは鍋をかき混ぜながら振り返った。

「回覧板、届けられた?」

「うん」

「西尾さん、元気だった?」

「元気だった。卵の話とか、豆腐屋の話とか、いろいろしてくれた」

「そう。あの人、話が長いでしょう」

「長いけど」

僕は、洗面所へ向かいかけて足を止めた。

「ちゃんと、大事なことも言ってた気がする」

母さんは少し意外そうな顔をした。それから鍋の火を弱め、味噌汁の表面に浮いた泡をすくった。

「大事なことって、何?」

「家は、前の人の時間を覚えてるって」

母さんの手が止まった。

すぐに動き出したけれど、今度は泡をすくう手つきが慎重だった。

「西尾さん、そんな話をしたの」

「うん」

「怖い話?」

「怖くはない」

「湊がそう思ってるだけかもしれないよ」

「そうかもしれない」

母さんは僕を見た。僕がいつもなら、そこで話を切り上げるのを知っているのだろう。けれど今日は、僕も黙らなかった。

「でも、押し入れの板が温かいのは本当だよ」

母さんは菜箸を置いた。

「湊」

「母さんも触ったでしょう」

しばらく、水の音だけがしていた。蛇口から落ちた一滴が、流し台の底で小さく弾ける。

「触ったよ」

母さんは、とうとう認めた。

「引っ越した日に。あんたが触っているのを見たあと、私も触った。少し温かかった。でも、それが何なのかは分からない。分からないまま、あんたに『怖いね』と言えば、あんたは眠れなくなると思った」

「だから、古い家の癖って言った」

「そう。今日を過ごすために、そう言った」

「でも、母さんも気になってる」

「気になってるよ」

母さんはエプロンの端を握った。

「ただ、気になることを一つずつ追っていったら、生活が回らなくなる。あんたも分かるでしょう。朝は学校へ行く。私は仕事へ行く。お父さんは修繕費の計算をする。洗濯物は干して、夕飯は作る。そうやって毎日をつないでいくしかない」

「毎日をつないでいくなら、前の人のことも一緒につながるんじゃないの」

母さんは僕を見た。

「どうして、そんなことを言うの」

「だって、もう残ってるから。消そうとしても、板も、音も、匂いもある。なら、知らないふりをするより、知っていた方がいい」

母さんは、しばらく黙っていた。それから、流し台の脇に置いてあった台ふきを手に取り、濡れてもいない場所を拭き始めた。

「前の家を出たとき、私は全部新しくしたかった」

「知ってる」

「何を知ってるの」

「前に、絵とか捨てたって言ってた」

母さんの手が止まった。

「聞いてたのね」

「うん」

「湊が小さい頃に描いた家の絵も捨てた。歪んだ屋根と、窓が一つしかない家。何枚もあったから、全部はいらないと思ったの。新しい家へ行くなら、新しい絵を描けばいいと思った」

「でも、捨てたあとも覚えてた」

「覚えてた。だから、捨てれば終わると思っていた自分の方が、間違っていたのかもしれないね」

母さんは台ふきを畳んだ。角を合わせようとして、いつもより一度多く折り直した。

「湊がこの家のことを調べるのを、止めるつもりはない。でも、怖いものを見つけたら、私にも言いなさい。一人で抱えて、分かったふりをしないこと。分からないものは、分からないまま、一緒に置いておけばいい」

「一緒に?」

「そう。一緒に置いておく。捨てるか、残すか、今すぐ決めなくていいものもあるでしょう」

その言葉は、フミさんの話と少し似ていた。

母さんは味噌汁の椀を二つ出した。僕の分を手前へ置き、自分の分には少しだけ具を多く入れた。

「お父さんには、回覧板のついでに何を聞いたか、あとで話すの?」

「全部は話さない」

「どうして?」

「まだ、僕が見ていないものがあるから」

母さんは、困ったように笑った。

「それなら、見たものを忘れないようにしなさい。でも、見たものに名前をつけるのは、急がない方がいいかもしれないね」

僕は味噌汁を飲んだ。出汁の味と、少し濃い味噌の塩気が舌に広がる。家の中に、食べ物の湯気がゆっくり満ちていった。

夜、布団を敷く前に、僕は押し入れの襖を開けた。

天井板は、朝と変わらず微かに温かかった。

指先を置く。湿った木の匂いがする。畳にこもったぬくみと、古い布団の埃っぽさ。その向こうに、誰かの手の動きがまだ残っている気がした。

フミさんは、家は時間を覚えていると言った。

母さんは、分からないものは一緒に置いておけばいいと言った。

僕は押し入れの板から手を離し、襖の下端を指でなぞった。木目の一本が、途中でわずかに途切れている。そこだけ、何度も指を置かれたように滑らかだった。

その傷に触れたとき、フミさんが言いかけた名前が、また喉の奥に浮かんだ。

宮――。

続きは、まだ分からない。

分からないままでも、家の中には今夜の生活がある。母さんが流し台を拭く音。父さんが工具箱を閉じる音。給湯器が短く唸り、換気扇の羽根が止まったあとも、しばらく低い振動を残す。

その音の下に、古い音が重なっている。

僕は布団へ入り、眠る前にもう一度だけ、押し入れの天井板へ手を当てた。

ぬくい。

怖さは消えなかった。けれど、その怖さを、僕だけのものにしなくてもいいのだと思えた。家の奥に残る時間は、僕を追い出そうとしているのではなく、ただ、誰かがいたことを忘れないように、静かにそこに置かれている。

回覧板の紙が風でめくれるように、家の中の時間も、いつか次の頁を開くのかもしれない。

その頁を開く手は、もう僕ひとりのものではなかった。

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フミの回覧板 - 家の温み - 誰でも作家life