第7話 脚立の朝

慎一が夜勤明けで眠り込んだ朝、ぬくみ家はいつもより静かだった。

階段を上がる麻衣の足音だけが、板の薄い響きに乗って二階へ伸びてくる。一段ごとに体重のかけ方を変えているのか、軋みの高さが微妙に違う。僕はそれを布団の中で聞きながら、昨夜からずっと掌の裏に残っている押し入れ天井板のぬくみを思い返していた。眠っていたはずなのに、手のひらだけがずっと起きていたような気がする。指を開くと、そこにまだ、人の体温に似た何かが染みついているような錯覚があった。

窓の外は、梅雨の晴れ間特有の、妙に白っぽい光だった。庭の紫陽花の葉が、昨日の雨をまだ珠のように抱えている。父さんの寝室の襖は閉まっていて、その奥からは規則正しい寝息が、壁越しにかすかに聞こえていた。仕事と家のことで疲れ切った人の眠りだ。起こしてはいけない。そう思うと、家の中を歩く僕の足はいつもより慎重になった。

川端真治が置いていった脚立は、押し入れの脇に畳まれたまま立てかけられていた。灰色のアルミの脚に、工務店の作業で付いた白い擦れ跡がある。先週、あの人が天井板の裏を覗き込んだときに使ったものだ。僕はそれを見上げ、触れてはいけない道具を前にしたときのように、一度だけ息を止めた。

母さんとの約束を思い出す。「湊が一人で脚立に上るのは駄目。そこは約束して」。あのとき僕は「うん、本当に」と答えた。嘘をつくつもりはなかった。けれど今、台所からは水の跳ねる音と、フライパンを置く乾いた音が重なって聞こえてくる。麻衣が洗濯機を回し始めたのだ。脱水の振動が、廊下の床をわずかに揺らしている。その生活の音に押されるように、僕は気づけば脚立を引きずって押し入れの前へ運んでいた。

段ボールの湿った匂いは、もうずいぶん薄くなっていた。それでも押し入れを開けたときの空気には、畳にこもった古いぬくみと、木材の乾いた匂いが混じっていた。天井板の裏に触れると、指先がきゅっと縮むように反応する。熱いというほどではない。けれど、外気と同じはずの板が、掌の肉にだけ人肌の気配を返してくる。この感触を、僕はもう何十回と確かめてきた。それでも慣れることはなかった。

爪先で脚立の段を一度確かめる。ぐらつかない。両手を天井板の端に当て、ゆっくりと押し上げる。板は思ったより軽く、少しだけ、戻りたがるような弾みを持っていた。まるで、これまで誰にも動かされたことがないことを、板自身が不思議がっているみたいだった。

外れた瞬間、埃がふわりと舞い落ちた。鼻の奥に、湿った木と古い布のにおいが刺さる。僕は布団を敷いた部屋の明るさを背にしながら、暗い天井裏をのぞき込んだ。

そこは、ただの空洞ではなかった。

古い風呂敷に包まれた小さな家財、押し入れの奥行きにぴったり合わせて作られたような木箱、折りたたまれた手帳の束。それらは息を潜めるように、きちんと並べられていた。乱雑に放り込まれたのではない。誰かが、何度も位置を直しながら、丁寧にそこへ収めたもののように見えた。

しばらく、僕は動けなかった。怖いのに、目を逸らすと何かを見落としてしまう気がした。だから、まず手帳を一冊だけ引き寄せた。表紙は擦れて文字が半分消えかけ、角は黒ずんでいる。ページをめくると、日付、天気、台所の火の通り具合、子どもの咳、雨の匂い、畳を拭いた回数が、箇条書きのように短く残されていた。文章は淡々としていたが、読んでいるうちに、誰かの手がそこで何度も立ち止まり、また動き出したのがわかった。

「買い物。卵三つ。味噌少々。湯気が出た」

「雨。西側の板、また鳴る」

「夜中、起きる。押し入れの上、まだあたたかい」

僕は、その最後の一行で指先を止めた。押し入れの上。自分が今、両手で確かめている場所と同じだ。偶然のはずなのに、紙の上の文字が、そのまま僕の掌に触れてきたような気がした。背筋のあたりが、冷たいのではなく、どこか懐かしい感触でぞくりとした。

手帳を膝の上に置き、もう一冊を開く。今度はもっと短い。切れ端のようなページが綴じられていて、そこにはたった一行だけが書かれていた。

「ここは開けるな」

字は強くも乱れてもいなかった。むしろ、書く人がわざわざ手を整えたような、慎重な線だった。急いで走り書きした字ではない。何かを決めたあとの、落ち着いた字だ。僕は息を吸ったまま、次のページへ進めなかった。

川端さんの声が、耳の奥で蘇る。「判断できないものを、急いで捨てるな。家は、捨てたものの跡まで覚える」。あの言葉を聞いたときは、ただの忠告だと思っていた。でも今、この一行を前にすると、あの人がどうしてあんな言い方をしたのか、少しだけわかる気がした。

下の階で洗濯機が止まり、代わりに麻衣が脱水後の衣類をかごへ落とす音がした。ばさり、ばさり、と続くその音だけが、現実のほうへ戻るための細い綱のように聞こえた。

だが僕は、手帳を閉じなかった。閉じてしまえば、見つけたことごと、この押し入れの暗さに押し戻されてしまう気がしたからだ。木箱の蓋に指をかけ、そっと持ち上げる。中には、古い布で包まれた小さな湯呑みと、割れたまま保管された小皿、学校で使うような鉛筆の短い端が入っていた。生活の道具だ。値段のつくものではない。けれど、値段がつかないからこそ、どうして残されたのか、わからなかった。

捨てればただのごみになるもの。それを誰かは、わざわざ天井裏の、見えない場所に収めた。燃えるごみの日に出せば消えてしまうものを、消したくなかった誰かが、ここにいたのだ。

「湊、昼前に牛乳買ってきてくれる?」

階下から麻衣の声が上がった。僕は返事をしようとして、喉が一度だけ詰まった。木箱を抱えたまま、天井裏の暗がりの中に座り込んでいる自分と、台所で洗濯物をたたんでいるはずの母さんとの距離が、急に遠く感じられたからだ。だが結局、いつも通りの声で「うん」と返した。その声が、自分でも驚くほど平静だったことに、少しほっとした。

脚立の上で、木箱を抱えたまま、僕は初めてこの家に対して、自分だけの秘密を持った気がした。母さんとの約束を破ってしまったという後ろめたさと、それでも見つけてしまったという確かな実感が、同じ場所でぶつかっていた。

昼すぎ、僕は学校の宿題のプリントを広げながらも、手帳の一行だけを何度も思い返していた。

ここは開けるな。

誰が、何を、どうして。問いは増えるのに、答えは板の向こうにしかなかった。フミさんの「板より先に、空気を疑いなさい」という言葉が、今になってようやく輪郭を持ちはじめる。板そのものではなく、その周りに満ちていた何か――厚く入れられた断熱材、守るように塞がれた隙間、長い時間そこに留め置かれた温度。それら全部をひっくるめて、フミさんは「空気」と呼んだのかもしれない。

天井裏の風は、怖さだけを運んでくるものではなかった。妙に落ち着く冷たさも、確かにそこにはあった。何かが隠されているのではない。何かが、まだここに居座っている。その感覚だけが、鉛筆を握る僕の指の先で、静かに形を持ちはじめていた。

午後の光が畳の上を少しずつ移動していくあいだ、僕は何度も押し入れのほうへ目をやった。閉じた天井板は、何事もなかったような顔をして元の場所に収まっている。けれど、もうそこは、ただの空洞ではない。誰かが生きていた時間の続きが、板一枚を隔てたすぐ上で、今も静かに息をしていた。

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脚立の朝 - 家の温み - 誰でも作家life