第6話 補修の匂い

川端さんが来る日は、朝から雨だった。
強く降っているわけではない。軒先から落ちる雫が、一定の間隔で石のたたきを叩いている。細い音が途切れず続くせいで、家の中まで水の底に沈んでいるようだった。
母さんは朝から洗濯物を部屋干しにしていた。居間に渡した物干し竿へ、靴下やタオルを一枚ずつ並べていく。窓は少し開いているのに風が入らず、濡れた布の匂いと、畳にこもったぬくみが混ざっていた。
「今日は、押し入れのところを見てもらうからね」
母さんはタオルの端を揃えながら言った。
僕は返事をしなかった。
「湊にも言っておくけど、作業中は近づきすぎないこと。川端さんは悪い人じゃないけど、脚立を使うから危ないし、天井裏には埃もあるでしょう」
「分かってる」
「分かってる人は、黙って押し入れを見続けたりしないの」
僕は顔を上げた。母さんは、物干し竿に掛けたタオルの皺を伸ばしていた。僕がずっと押し入れの方を見ていたことに、気づいていたらしい。
「見てない」
「見てるよ」
「……川端さん、何か見つけるかな」
母さんの手が止まった。
止まったのはほんの一瞬だった。けれど、母さんがその一瞬を隠すために、次のタオルを少し早く掛けたことまで僕には分かった。
「見つけるって、何を?」
「分からないから、見るんでしょう」
「湊。家の点検は、宝探しじゃないの。壊れているところや、危ないところがないか確認するの」
「でも、押し入れの上だけ板が違う」
「それは川端さんも言ってたね」
「じゃあ、何かある」
「板が違うからといって、何かあるとは限らないでしょう。前の人が修理しただけかもしれない。雨漏りしたとか、断熱材を入れ替えたとか」
「それなら、どうしてあんなに温かいの」
母さんは答えなかった。
台所から、換気扇が低く唸りはじめた。母さんは振り返り、スイッチを確認した。止めたはずなのに、羽根の奥で機械が回っているような音が残っている。
「お母さんも、触ったでしょう」
僕が言った。
「何を?」
「天井板。引っ越した日に」
「触ってない」
「押し入れの枠」
母さんは、洗濯物を畳んでいた手を下ろした。
「湊」
「触ったあと、手を止めた」
「よく見てるね」
「見てるから」
「見ていることが、全部分かっていることにはならないよ」
母さんの声は強くなかった。強くないから、かえって逃げ道がなかった。
「お母さんは、分からないものを怖がらないようにしてるの。怖がりはじめると、家事も仕事も止まるから。生活って、止めたらそのまま崩れるでしょう。洗濯物は濡れたままになるし、ご飯は炊けないし、学校の書類も出せない。そういうものを先に片づけていけば、怖いことを考えなくても一日くらいは終わる」
「一日終わっても、次の日が来る」
「そうね」
「だったら、ずっと考えないといけない」
「ずっと考える必要はないよ。考えるべきときに考えればいい」
「そのときって、いつ?」
母さんは少しだけ目を伏せた。
「今日かもしれないね」
その言葉を聞いたとき、玄関のチャイムが鳴った。
古い家の中で、電子音だけが妙に新しく響いた。母さんはエプロンの裾を整え、玄関へ向かった。僕も後ろからついていく。
川端さんは濡れた作業着の肩を軽く払っていた。髪には細かい雨粒がつき、腰の工具袋からは濡れた革と金属の匂いがしている。挨拶は短かった。
「お邪魔します」
靴を脱ぐ前に、川端さんは玄関の床を見た。次に、上がり框を指先で撫で、指についた埃を親指でこすった。
「雨の日は、音がよく分かる」
父さんが後ろから来た。今日は仕事へ行く時間を遅らせたらしく、シャツの袖を肘までまくっている。片手には、いつものメジャーがあった。
「音ですか」
「湿気で木が膨らむ。隙間の具合が変わるからな」
川端さんは廊下へ上がり、歩き出した。床板の沈む場所を避けることもなく、玄関から三歩目で一度止まる。片足に体重をかけ、靴下越しに床を確かめた。
「ここ、前より沈む」
父さんがすぐにメモを取った。
「前より、というのは?」
「前回より。数字にするなら、ほんの少しだ」
「補修が必要ですか」
「急ぎじゃない。ただ、雨が続くなら見ておいた方がいい」
父さんは頷き、スマートフォンで床板を撮影した。川端さんはその横を通り過ぎ、柱、梁、襖の立て付けを順番に見ていった。何かを探しているようには見えなかった。ただ、家の方から先に、見てほしい場所を教えているようだった。
六畳間の前で、川端さんの足が止まった。
押し入れの襖は閉じていた。
川端さんはすぐには開けなかった。枠の上端に掌を当て、指を横へ滑らせる。木目に沿って何度か撫で、今度は枠の下端に指を置いた。
「ここ、いじってるな」
父さんが眉を寄せた。
「押し入れですか」
「枠だけじゃない。上の荷重が変わってる」
「断熱材の手直しでは?」
川端さんは答えず、襖を少し開けた。布団袋や段ボールを一つずつ確認し、天井板を見上げる。
僕は部屋の入口に立っていた。近づくなと言われていたのに、足が勝手に前へ出そうになる。川端さんの視線は、僕が何度も見てきた板の継ぎ目に向いている。
「湊」
父さんが呼んだ。
「そこにいろ」
「分かってる」
「本当に分かってるなら、線より後ろに下がれ」
川端さんが鉛筆で畳に線を引いた。押し入れから一歩半ほど離れた位置だった。僕はその線の手前に立った。線は細く、雨の日の薄暗い部屋では、畳の目に紛れそうだった。
川端さんは車から持ってきた脚立を開いた。金具がかみ合う音がする。父さんが脚立の脚を押さえ、川端さんが天井板へ手を伸ばした。
その前に、川端さんは一度だけ、板を指の背で叩いた。
こん。
隣の板を叩く。
こん、こん。
音の高さが違った。
押し入れの天井板の方は、内側に何か柔らかいものが詰まっているような、短くこもった音だった。川端さんはもう一度、同じ場所を叩いた。今度は指先で、音の返りを待つようにゆっくりと。
「空洞がある」
父さんが顔を上げた。
「屋根裏の空洞ですか」
「普通の空間じゃない。梁の間に、あとから仕切りを入れてる」
「何のために?」
「まだ分からない」
川端さんは、ようやく僕の方を見た。
「分からないものを、分かったふりで埋めるな。家の中では、それが一番危ない」
父さんは少し黙ってから、低い声で聞いた。
「開けて確認できますか」
「できる。ただ、今すぐ壊す必要はない」
「中に何かある可能性は?」
「ある」
「危険なものですか」
「それも、まだ分からない」
「では、確認した方がいいのでは?」
父さんの声が、少しずつ硬くなっていた。修繕の話になると、父さんは感情を隠すために理屈を増やす。家を買ったことが間違いではなかったと証明するように、問題を一つずつ数字へ置き換えようとする。
川端さんは脚立から降りた。手に白い粉がついていた。指先で粉を潰し、匂いを確かめる。
「古い木くずだ。新しい板の裏に、古い梁を削った跡がある」
「削った?」
「板を入れるために、梁の一部を落としてる。普通の補修なら、そこまでしない」
「構造を変えたということですか」
「小さく変えた。見た目には出ないように」
父さんはメジャーを取り出し、押し入れの幅を測った。川端さんはその横で、壁の位置と梁の間隔を指で数えている。
「幅は、昔から同じですか」
「内法は変わってない。けど、天井裏の中身が違う。ここの板だけ新しくて、釘も違う。あとから一度開けて、もう一度閉じてる」
「二回、手が入っている?」
「一度目に空間を作った。二度目に塞いだ。たぶん」
「たぶん、ですか」
「釘の錆び方と木の乾き方が違う。別の時期に触ってる。断定するには、板を外すしかない」
父さんはメジャーを巻き取った。
「費用は」
川端さんは、父さんの顔ではなく、押し入れの板を見た。
「壊して戻すだけなら、安い。けど、何を残すか決めずに開けると、戻し方が変わる」
「戻し方?」
「見つかったものを捨てるのか、残すのか。それで使う材料も手順も違う」
父さんは黙った。
僕には、その沈黙が長く感じられた。母さんがいつも食卓で献立を考えているときの沈黙とは違う。父さんは今、修理費ではなく、この家をどう扱うかを考えている。
「中に何があるか分からないのに、残すか捨てるかを決めろということですか」
「決めるのは俺じゃない」
「家族に決めろと?」
「住む人が決める」
「私たちは、まだ越してきたばかりです。この家のことを何も知らない」
「だから、いきなり壊さない方がいい」
川端さんはそう言って、工具袋から小型の懐中電灯を取り出した。先端の傷が多く、長く使われてきたものらしい。電池を確かめてから、脚立へ戻る。
「見るだけならできる。板を外さず、隙間から確認する」
「確認できるんですか」
「光が入る隙間はある」
川端さんは押し入れの天井板の端に薄い工具を差し込んだ。金属が木に触れ、かすかな擦れる音がした。その音に、僕の肩が強張った。夜中に聞いた擦過音と、よく似ていた。
川端さんは気づいたのか、手を止めた。
「どうした」
「その音」
「音?」
「夜にも、押し入れの中で同じ音がします」
父さんが振り返った。
「夜に?」
僕は答えようとして、迷った。言わないことで守れるものがあると思っていた。けれど、川端さんは音のした場所を見ている。父さんも、もう僕の沈黙を見逃さない。
「紙か、布が擦れるみたいな音。大きくないけど、何度か聞いた」
父さんの顔から血の気が引いたように見えた。
「それを、今まで言わなかったのか」
「言っても、古い家の音だって言われると思った」

「俺は、そんなことは」
「父さんは、何でも直せるものにするから」
言ってしまってから、胸の奥が冷たくなった。父さんは怒ると思った。だが、怒鳴らなかった。メジャーを握ったまま、視線を床へ落とした。
「そうしないと、どうしていいか分からないんだ」
父さんの声は、いつもより低かった。
「原因があれば、手を入れられる。配管なら交換できる。板なら張り替えられる。費用が出るなら、どこを削るか決められる。俺は、そうやって家族が暮らせる場所を作るつもりで、この家を買った。無理をしてでも、ここを借り物じゃない場所にしたかった」
「でも、原因が分からないものもある」
「分かってる」
「分かってないように見える」
父さんは僕を見た。疲れた目だった。仕事帰りの夜に見る目より、ずっと近く、ずっと弱く見えた。
「分かってるから、川端さんを呼んだ。俺一人で判断しないために」
川端さんは脚立の上で、工具を持ったまま黙っていた。父さんと僕の間に、雨の音が入り込んでいる。屋根を叩く雨、軒先から落ちる雨、遠くの道路を走る車の水音。その全部が家の中へ集まり、床下で一つの低い振動になっていた。
母さんが部屋へ入ってきた。手には熱い茶を三つ載せた盆がある。
「喧嘩なら、せめてお茶を置いてからにして」
父さんが口を閉じた。
母さんは僕に湯呑みを渡し、それから川端さんへ差し出した。川端さんは脚立から降り、湯呑みを受け取った。木粉の残った指が、白い陶器の縁に触れる。
「ありがとうございます」
「川端さん、どこまで分かりました?」
母さんは、父さんではなく川端さんに尋ねた。
川端さんは茶を一口飲んだ。熱かったのか、少しだけ目を細める。
「押し入れの上だけ、後から空間を作っている。人が入るためではない。板を二重にして、間に断熱材を厚く詰めている。普通の押し入れより、熱が逃げにくい」
「それで、湊が温かく感じたんですか」
「可能性はある」
「可能性だけ?」
「熱の出どころまでは、まだ見ていない。配線や給湯管が通っているなら、別の原因もある。だが、図面を見る限り、この上に配管はない」
母さんは押し入れを見上げた。
「配線も?」
「今の配線はない。古い配線が抜かれている可能性はある」
「つまり、誰かがわざと作った空間かもしれない」
「そう見える」
母さんは湯呑みを畳へ置いた。置き方が少し強く、底が低い音を立てた。
「どうして、そんなことをするんでしょう」
川端さんはすぐには答えなかった。木粉のついた指で、湯呑みの側面を一度撫でる。
「家には、直す場所と、残す場所がある」
「質問の答えになっていません」
「理由は、家を作った人間に聞かないと分からない」
「でも、誰もいない」
「いなくなった人間の理由を、家が代わりに話すことはある」
母さんの顔がこわばった。
川端さんは、言いすぎたと思ったのか、少し視線を逸らした。
「怖がらせたいわけじゃない。俺が言っているのは、板や釘に残る手の癖のことだ。急いで塞いだのか、何度も確かめながら塞いだのか。ここは後者だ。釘の間隔が揃いすぎている。隠しただけじゃない。守るつもりで閉じた手つきだ」
「守る?」
僕が聞くと、川端さんは僕を見た。
「そう見える。だが、まだ見えていないものがある。だから決めつけるな」
「じゃあ、何を見ればいいんですか」
「板の裏。梁の削り方。釘の向き。匂い。残った木くずの古さ。家の中にあるものは、触った人間の都合まで残す」
僕は川端さんの言葉を聞きながら、手帳のページを思い出していた。
雨。押し入れ上、ぬくい。
あの記録を書いた人も、板の裏に触れたのだろうか。押し入れの上に空間を作った人と、そこへ何かを残した人は同じなのか。手帳に書かれた「子がよく眠る」という一文が、今も頭の奥から離れなかった。
川端さんが、もう一度脚立へ上がった。
今度は細いライトを隙間へ差し込む。白い光が、天井裏の奥で揺れた。埃が舞い、光の中でゆっくり落ちていく。川端さんはしばらく何も言わなかった。
「何かありますか」
父さんが聞いた。
「物は見えない。奥が狭い」
「入れないんですか」
「俺の肩がつかえる。無理に入れば梁を傷める」
川端さんはライトを少し右へ動かした。
「ただ、内側に布の繊維が付いている」
僕の喉が乾いた。
「布?」
「古い。木に擦れて、糸だけ残ってる。あと、焦げたような匂いがする」
母さんが顔を上げた。
焦げたお札のことを、僕は話していなかった。手帳や住宅地図のことも、まだ母さんと僕の間だけにある。
「焦げた匂いなら、古い木が湿っているだけかもしれません」
父さんが言った。
「そうかもしれない」
川端さんは否定しなかった。
「だから、今はそれ以上言わない」
彼は天井板を元の位置へ戻した。板が枠に収まると、わずかな隙間が消えた。押し入れの天井は、最初から何もなかったような顔をしている。
川端さんは板の接ぎ目に鉛筆で小さな印をつけた。点ではなく、短い線だった。見る角度によっては木目の傷にも見える。
「ここを開けるなら、家族全員がいるときにしろ」
父さんが聞いた。
「なぜですか」
「見たものを、一人で抱えないためだ」
川端さんはそう言って、工具を片づけはじめた。父さんが「開けるなという意味ですか」と尋ねると、川端さんは腰袋の金具を留めながら答えた。
「違う。開けるなら、開けたあとまで考えろという意味だ」
「見つかったものが、家にとって必要なものだったら?」
「残せばいい」
「不要なものだったら?」
「片づければいい」
「その判断ができなかったら?」
川端さんは父さんを見なかった。
「判断できないものを、急いで捨てるな。家は、捨てたものの跡まで覚える」
その言葉だけが、部屋の中に長く残った。
夕方、川端さんが帰ったあとも、押し入れの前の鉛筆の印は消えなかった。母さんは夕飯の支度をしながら、何度も包丁を置き、手を洗い、また押し入れの方を見た。父さんは撮った写真を確認し、工務店から受け取った見積もりの裏へ、板の寸法を書き込んでいた。
食卓では、誰も最初のうちは家の話をしなかった。
味噌汁の湯気が上がり、箸が器に当たる。雨はまだ降っている。換気扇の音が時々低く揺れ、そのたびに僕は押し入れの方へ意識を引かれた。
「湊」
父さんが突然言った。
「お前、夜の音を聞いたのは、何回だ」
僕は味噌汁の中の豆腐を見た。
「三回。たぶん」
「たぶんじゃなくて?」
「三回。雨の日が二回。雨じゃない日に一回」
「音は同じか」
「似てる。でも、同じじゃない。紙が擦れるみたいな音と、指で板を叩くみたいな音」
父さんは箸を置いた。
「どうして、もっと早く言わなかった」
「言っても、古い家だからって言うと思った」
「俺が?」
「母さんも父さんも」
母さんが椀を置いた。
「言ってくれればよかったのに」
「言ったら、怖がるでしょう」
「怖がるよ」
母さんは、湯気の向こうで僕を見た。
「怖がるけど、怖がったまま一人にさせるよりはいいでしょう。お母さんがすぐに理由をつけたがるのは、怖くないからじゃない。怖いものを、湊に渡したくないから。だけど、渡したくないと思って黙っているうちに、湊が一人で持っていたなら、それは守ったことにならないね」
僕は返事ができなかった。
母さんは、冷めかけた味噌汁を一口飲んだ。
「川端さんに見てもらう。必要なら開ける。でも、湊が一人で脚立に上るのは駄目。そこは約束して」
「うん」
「本当に?」
「うん。本当に」
父さんが、見積もりの裏へ何かを書き足した。
「週末に、全員いるときに開けるか決める」
「開けるの?」
母さんが聞いた。
「このままでは、家を直したことにならない」
「開けたあと、戻せるの?」
「川端さんが戻せると言った」
「戻せるのは板でしょう。中身のことは?」
父さんは黙った。
母さんは箸を置き、両手を膝の上に揃えた。
「私は、何でも捨てたいわけじゃない。でも、家族が暮らす場所に、何があるか分からないものを残すのも嫌。昔の人の事情を尊重することと、今ここにいる人の安全を守ることは、別に考えないといけないでしょう」
「分かってる」
「本当に?」
父さんが母さんを見る。
「分かってるから、開ける前に川端さんへ確認する。俺は家を新しく見せたいんじゃない。湊が夜に音を聞いても、一人で黙らなくていい家にしたい」
父さんの言葉は不器用だった。けれど、食卓の上に置かれたその言葉は、湯気よりも長く残った。
夜、布団へ入る前に、僕は押し入れの前へ行った。
鉛筆の印が、暗い部屋の中でかすかに浮いている。僕はそこへ手を伸ばしかけて、やめた。母さんとの約束を思い出したからではない。板の向こうにあるものを、今すぐ自分だけで確かめてはいけないと思ったからだ。
それでも、手のひらを天井板へ当てる。
ぬくい。
川端さんが調べたあとも、温度は変わっていなかった。
板の中に熱源があるのか。厚い断熱材が熱を閉じ込めているのか。それとも、何年も前に誰かが残した手の温度が、木の中でまだ消えずにいるのか。
答えは、どれとも決められなかった。
そのとき、押し入れの奥で、かすかな音がした。
紙が擦れる音だった。
僕は息を止めた。今度は、母さんも父さんも、隣の部屋にいる。呼べばすぐ来る距離だ。それなのに僕は声を出さなかった。
音は、もう一度鳴った。
天井板の向こうで、何かがわずかに位置を変えたようだった。
僕は手を離し、鉛筆の印を見つめた。
川端さんの指先がつけた印は、開けるなという命令ではなかった。そこに何かがあると、忘れないための印だった。
僕は布団の端をつまみながら、週末まで待つことにした。
ただ、眠る前にもう一度だけ、印のすぐ隣へ指先を置いた。
板は、誰かの手を待っているように温かかった。
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