第5話 紙の中の家

午後、母さんが台所で米を計っているあいだに、僕は押し入れの奥の段ボールを一つずつ開けた。
雨が降った翌日の家は、どこも少し湿っていた。畳は足の裏に柔らかく、廊下の板は歩くたびに、乾いた音ではなく、腹の底に響くような低い音を返した。窓は開いているのに風が通らない。台所から流れてくる米びつの蓋の音や、計量カップに米が落ちる音だけが、家の中で妙に鮮明だった。
「一合、二合……」
母さんは声に出して数えていた。数を間違えないためというより、別のことを考えないために、口を動かしているように聞こえた。
僕は押し入れの手前に積まれた段ボールを横へずらした。箱の側面には、母さんの字で「台所・雑貨」と書かれている。新居に運び込んだ荷物なのか、もともと家にあったものなのか、はっきりしない箱だった。引っ越し業者が運び込むとき、前の住人が残したものと僕たちの荷物が、いくつか一緒になっていた。母さんは「あとで仕分ける」と言っていたけれど、あとではまだ来ていない。
段ボールの底には、古い布巾、欠けた湯呑み、錆びた缶切り、何本かの蝋燭が入っていた。どれも使い道がないわけではない。ただ、今の僕たちが使っていたものとは、匂いも重さも違っていた。布巾には洗剤では消えない油のような匂いが染みていて、湯呑みの縁には、誰かの唇が何度も触れた場所だけ、釉薬の艶が薄くなっている。
その下から、茶色い手帳が出てきた。
表紙は擦れて、角の糸が毛羽立っていた。手に取ると、乾いた紙の感触の奥に、湿気を吸った布のような重さがあった。表紙には名前が書かれていない。最初のページにも、住所や電話番号はなかった。
僕は手帳を膝に置き、押し入れの前に座った。
「湊、お米、そこに置いたら邪魔になるよ」
台所から母さんの声が飛んできた。
「分かってる」
「分かってる人は、通り道の真ん中に座らないの」
「端にいる」
「端でも、押し入れの前は通るでしょう」
僕は手帳を持ち上げて、箱の陰へ少し移動した。
母さんが米びつの蓋を閉める音がした。続いて、鍋を出す音、水道の水が流れる音。家の中で母さんが動くと、物の位置が少しずつ正されていく。曲がっていた椅子が戻され、出しっぱなしの袋が畳まれ、台所の布巾がきちんと折られる。その手つきには、家を自分たちの側へ引き寄せようとする焦りがあった。
僕は手帳の表紙を親指で撫でた。
開いてしまえば、誰かの生活に入り込むことになる。
そう思ったのに、指は表紙から離れなかった。
最初のページには、日付と天気が書かれていた。文字は小さく、行の幅も一定ではない。晴れの日は短く、雨の日は少し長い。買い物の内容、台所の不具合、子どもの体調。記録というより、忘れないために紙へ置いていった断片のようだった。
「卵三つ。味噌、残り少ない」
「西側の戸、朝から重い」
「子ども、昼寝。咳は二回」
僕はページをめくった。
日付は、何年も前のものだった。数字の形が古く、曜日の書き方も今とは少し違う。けれど、書かれていることは驚くほど近かった。朝に何を食べたか。どこが壊れたか。子どもが眠ったか。雨が降ったか。
知らない人の生活なのに、読んでいるうちに、家の中の音が紙の上から聞こえてくるようだった。
換気扇の羽根が止まる音。夜中に水道管が鳴る音。押し入れの襖を閉める音。
ページの端に、鉛筆で小さく書かれた一文があった。
「雨。押し入れ上、ぬくい」
僕の指が止まった。
何度も触れた天井板の場所が、紙の中にもあった。
僕は手帳を畳の上に置き、押し入れを開けた。布団袋の奥へ手を差し入れ、天井板に触れる。今日も温かい。湿った空気のせいなのかもしれない。木材の中に熱が残ることもあるのかもしれない。
けれど、手帳に同じことが書かれていると、それだけでは済ませられなかった。
紙の中の誰かも、僕と同じように、ここへ触れたのだ。
そう考えると、板の温度が少しだけ変わった気がした。僕が今感じているものではなく、何年も前に誰かが感じた温度が、紙を通ってこちらへ戻ってきたようだった。
「湊」
背後で母さんが言った。
振り返ると、母さんは廊下に立っていた。片手には鍋の蓋、もう片方には箸がある。いつもならすぐに何かを片づけるはずなのに、今日は動かなかった。
「それ、何?」
「手帳」
「誰の?」
「分からない」
母さんは押し入れの前まで来て、僕の横にしゃがんだ。手帳を受け取る前に、表紙の擦れた部分を見つめる。触れるかどうか迷っているように見えた。
「前の人のものかもしれないね」
「うん」
「勝手に読んでいいのかな」
僕は答えられなかった。
母さんは、鍋の蓋を畳の隅へ置いた。金属が畳を押す、低い音がした。
「私たちが買った家だから、置いてあるものをどうするかは、こっちで決めていいことになってる。たぶんね。でも、決めていいことと、好きにしていいことは、同じじゃないでしょう」
「読むのも?」
「読むのも」
「じゃあ、捨てるのは?」
母さんはすぐには答えなかった。台所から、炊飯器が小さく蒸気を吐いた。白い湯気が廊下まで流れ、古い木の匂いに米の甘い匂いが重なる。
「捨てるのは、もっと簡単よ」
母さんは言った。
「袋に入れて、燃えるごみの日に出せばいい。片づけたことになる。見えなくなるから。でも、見えなくなったものがなくなったとは限らないでしょう。前の家でも、そういうことがあったから」
「前の家?」
「何でもない」
母さんはそう言ってから、手帳に手を伸ばした。けれど、すぐには開かなかった。
「湊は、どうしたいの」
「知りたい」
「何を?」
「この家で、何があったのか」
母さんは困ったように笑った。
「それを知って、どうするの?」
「分からない」
「分からないのに、知りたいの?」
「分からないから、知りたい」
母さんは僕の顔を見た。困っているというより、僕がどこまで行ってしまうのかを測っている目だった。
「お母さんはね、分からないことを全部調べていたら、生活が回らなくなると思ってる。家賃やローンのこと、学校の書類、明日の弁当。そういうものは、分からなくても時間が来たらやらないといけない。怖いからって、米を炊かないわけにはいかないでしょう」
「でも、怖いものをそのままにしたら、ずっとそこにあるよ」
「あるものもあるね」
母さんは手帳の表紙に指を置いた。
「だから、見ないことが正しいとは思ってない。でも、見るなら、見たあとのことまで考えないといけない。知ったものを、また誰かに渡すのか。しまうのか。捨てるのか。そこまで決める覚悟がないなら、最初から見ない方がいいこともある」
僕は手帳を見た。
母さんの言っていることは正しかった。正しいからこそ、今の僕には苦しかった。僕は知りたいだけで、知ったあとに何をすればいいのかまでは考えていなかった。
「でも、これ、僕たちの荷物じゃない」
「そうね」
「なのに、僕たちの押し入れにある」
「家が置いていったのかもしれないね」
母さんは冗談のように言ったが、笑わなかった。
僕は手帳を開いた。母さんも止めなかった。
数ページ進むと、記録の調子が変わった。買い物や掃除の記録の間に、家の音について書かれた行が増えている。
「換気扇、二度止まる」
「縁側、西から三枚目が鳴る」
「子、夜中に起きる。泣かない」
「押し入れ上、熱あり。布団を移す」
僕は息を浅くした。
「布団を移すって、何を?」
母さんはページを覗き込んだ。
「書いてないね」
「この次は?」
「次のページを見ればいいでしょう」
母さんの声が少し強くなった。僕が一人で抱え込んでいたことへの苛立ちなのか、手帳の中身への不安なのか、僕には分からなかった。

次のページには、短い線が何本も引かれていた。文字を書きかけて、消した跡だった。鉛筆の黒い粉が紙に残り、指でこすると薄く伸びた。
その中央に、かろうじて読める一文があった。
「板の音、少し減る」
「音が減るって、どういう意味だろう」
僕が呟くと、母さんは押し入れを見た。
「板が鳴らなくなったってことじゃない?」
「それだけかな」
「それ以外に、何があるの」
「分からない」
「なら、今はそれだけでいいでしょう」
母さんは手帳を閉じかけた。僕は反射的にその手を止めた。
「まだ読む」
「湊」
「ここに書いてある。僕が感じたことと同じことが」
「同じじゃないかもしれない」
「でも、押し入れの上が温かいって書いてある」
「温かいと感じる人が、昔にもいた。それだけかもしれない」
「それだけじゃないと思う」
「どうして?」
「分からない。でも、同じ場所で、同じことを感じてるなら、偶然じゃない」
母さんは手帳から手を離した。
「偶然じゃないとして、何だっていうの」
その声には、初めてはっきりとした苛立ちが混じっていた。普段の母さんなら、箸を洗い、鍋の火を弱め、別の作業へ移ってしまう。けれど今は、僕の前から退かなかった。
「この家に、前の人の時間が残ってる」
言ってから、自分でも大げさだと思った。けれど母さんは笑わなかった。
「時間は残るよ。傷も、匂いも、家具の跡も。前の家だってそうだった。壁紙を剥がしたら、そこだけ日焼けしていなかったし、床には机の脚の跡があった。そういうのは、家に残る」
「これは、もっと深い」
「深いって、どこまで?」
「この手帳を書いた人が、今もここにいるみたいに感じる」
母さんの指が、膝の上でわずかに動いた。
「湊、それは言い方を考えなさい」
「幽霊って言ってるんじゃない」
「同じように聞こえる」
「違う。人がいるんじゃなくて、その人がここでしていたことが残ってるんだと思う。何を買って、どこを直して、誰が咳をして、夜に何回起きたか。そういうのが、なくならないで、家の中に重なってる」
母さんは目を伏せた。
「お母さんは、そういうものを残したくなかった時期がある」
唐突な言葉だった。
僕は黙って母さんを見た。母さんは手帳ではなく、畳の目を見ていた。
「前の家を出るとき、全部捨てたの。古いカーテンも、使いかけの洗剤も、湊が小さい頃に描いた絵も。持っていけば荷物になるし、新しい家に余計なものを持ち込みたくなかった。新しい場所では、新しい生活を始めたかったから」
母さんの声は静かだった。
「でも、捨てたものはなくならなかった。捨てたはずのものを、どこかで思い出すの。あのカーテンの色とか、湊が何を描いていたかとか。家を空にすれば、前の時間も一緒に空になると思ってた。でも、そうじゃなかった」
僕は手帳の表紙に触れた。
「だから、これも捨てないの?」
「今すぐ捨てる理由はないでしょう」
「読んでもいい?」
「全部読んで、全部分かるとは思わないで」
「うん」
「分からないものを、分かったふりもしないで」
「うん」
母さんは立ち上がり、台所へ戻ろうとした。二歩進んだところで振り返る。
「それから、押し入れの中を調べるなら、上に乗ったり、板を外したりしないこと。お父さんか、川端さんに言いなさい。家の中のものは、壊れたら戻せないから」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
母さんは僕を見た。信じていない顔だった。でも、信じたいと思っている顔でもあった。
「夕飯までに、その紙を濡らさないで。お米を研ぐから、台所の水が跳ねる」
「分かった」
母さんは手帳の横に置かれていた焦げた紙片を指先でつまみ上げた。小さなお札のように見える。端だけが黒く焼け、中央に細い線が残っていた。裏返すと、何か文字があるようだったが、焦げて読めない。
「これも、手帳と一緒?」
「たぶん」
「たぶん、ね」
母さんは紙片をすぐに戻した。
「封筒、あとで持ってくる。ばらばらにしておくと、なくなるから」
それだけ言って、今度こそ台所へ戻っていった。
僕は手帳と紙片を畳の上に並べ直した。手帳の横に焦げた札、その上に古い住宅地図。畳の目に沿って置くと、紙の列は一枚の大きな図のようになった。家の中の記録と、家の外の記録。その間に、今の僕たちの生活が置かれている。
住宅地図は、今のものよりずっと古かった。駅へ向かう道は細く、裏手には小さな空き地がある。僕たちの家の裏を通る路地も、今より少しだけ長く描かれていた。家の位置だけが鉛筆で強く囲まれている。
その丸印は、地図の上の家を閉じ込めるためではなく、ここにあると忘れないためにつけたように見えた。
僕は手帳の日付を確かめ、地図の裏に書かれた年を見比べた。記録が書かれた頃には、裏の空き地はまだ残っていたらしい。今は隣家の物置が建っている場所だ。家の周囲が変わっても、押し入れの上の温度だけは、ずっと続いていた。
ページの最後近くに、別の記述があった。
「子がよく眠る。板の音、少し減る」
その一文を読んだ瞬間、押し入れの奥で何かが擦れた。
紙の端が木に触れたような音だった。
僕は顔を上げた。
母さんは台所で鍋に水を張っている。蛇口の水音が、細く長く続いていた。僕は手帳を開いたまま、押し入れを見た。襖は閉じている。けれど、さっきまでより暗く見えた。
音はもう一度鳴った。
母さんが振り返る。
「何?」
「今、押し入れが」
「家鳴りでしょう」
「でも、音が」
「古い家だから、いろいろ鳴るの。鳴るたびに手を止めていたら、夕飯が朝になるよ」
母さんはそう言ったが、鍋を持つ手が一瞬だけ止まった。すぐにまた動き出す。水の入った鍋がコンロに置かれ、金属の底が乾いた音を立てた。
僕は音のした押し入れを見つめた。
手帳に書かれた生活と、今ここで続いている生活が、薄い紙を重ねるように同じ場所へ置かれている。母さんが米を研ぐ。誰かが昔、米を研いだ。母さんが鍋を置く。誰かも、同じ場所で鍋を置いた。違うのは人だけで、家はその違いを区別しない。
僕は手帳のページを、最初から最後まで読み通すことにした。
それが誰のものか、何のために残されたのかは、まだ分からない。焦げた札が何を封じたのかも、地図の丸印が何を示しているのかも分からない。
けれど、分からないからこそ、紙を閉じてはいけない気がした。
「湊、ご飯できるよ」
母さんの声がした。
僕は手帳を閉じた。表紙を押さえると、掌の内側に紙のざらつきが残った。押し入れの天井板に触れたときのぬくみとは違う。それでも、どちらも長い時間を手に伝えてくるものだった。
「今行く」
返事をして、僕は手帳と焦げた札を封筒へ入れた。住宅地図だけは、もう一度広げたままにした。
鉛筆で囲まれた家の位置を、指先でなぞる。
その線の内側には、今の僕たちの家だけではなく、何年も前の誰かの家が、まだ薄く残っていた。
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