第4話 裏手の回覧板

洗濯機の脱水が終わる音を合図に、麻衣が物干し竿へ向かうのが見えた。台所の窓越しに、母さんの背中が小さく映っている。僕はそれを確かめてから、玄関ではなく勝手口の方へ回った。

ぬくみ家は、表から見ると角のきちんとした、どこにでもありそうな中古住宅だった。生け垣は刈り込まれ、ポストには新しい表札が光っている。けれど裏へ回ると、その印象はすぐに崩れた。勝手口の戸を抜けた先には、人がひとりようやく通れるくらいの細い通路が伸びていて、隣家のブロック塀との距離が、息が詰まるほど近い。頭の上では、物干し竿がどこかの家のものと交差していて、どちらの敷地のものか、境目がよく分からなかった。

僕はその通路を抜けて、裏手の路地に出た。湿った土の匂いと、誰かの家の生ごみの匂いが混じっている。少し先に、西尾フミさんの家があった。玄関先の軒に、古びた手提げ袋がぶら下がっていて、その中に自治会の回覧板が挟まったままになっていた。母さんから「ついでがあったら届けておいて」と頼まれていたのを思い出し、僕はその袋に歩み寄った。

「佐伯さんちの子ね」

声がしたのは、僕がまだ手を伸ばす前だった。驚いて顔を上げると、戸口の内側からフミさんが顔を出していた。白髪を後ろで束ね、夏前だというのにまだ薄い上着を羽織っている。小柄な体のわりに、目だけがよく動く人だった。その目は、僕の顔よりも先に、僕の靴の汚れ方と、肩の傾き具合を見ているような気がした。

「引っ越し、落ち着かないでしょう」

挨拶なのか、それとも何かを確かめる質問なのか、僕には判断がつかなかった。

「あ、これ、回覧板です」

僕が手提げ袋を差し出すと、フミさんはそれを受け取るふりをしながら、僕の指先に視線を落とした。僕はとっさに手を引っ込めそうになった。指先には、押し入れの天井板を何度も触った跡が、白く乾いた線になって残っている。フミさんの目は、それを見抜いたように、ほんの一瞬だけ止まった。

「暑いのに、手が乾いてるね。水仕事でもしてるのかい」

「いえ……別に」

「ふうん」

それだけ言って、フミさんは回覧板を懐に抱え直した。僕はその場を立ち去るべきか迷ったが、足が動かなかった。フミさんの方も、僕を帰そうとはしなかった。しばらくの沈黙のあと、彼女の方から口を開いた。

「あんたの家ね、昔から、住み手が長く続かないのよ」

その言葉は、世間話にしては重すぎた。僕は思わず聞き返した。

「続かないって、どのくらい」

「さあね。私が覚えてるだけでも、三回か、四回か」

フミさんは庭の方へ目をやった。紫陽花の葉が、まだ青いまま茂っている。

「夜がね、妙に静かな家ってあるのよ。音がしないんじゃなくて、音の種類が違うの。普通の家は、人が暮らしてる音がするでしょう。でもあの家はね、昔から、人の音の下に、もうひとつ別の音が重なってるみたいな、そんな感じがする」

僕は背筋がひやりとするのを感じた。夜中に聞いた擦過音のことが、頭の中に蘇る。紙が木に触れるような、布の端が何かを探るような、あの音。フミさんにそれを話してしまいたい衝動が、喉の奥まで迫り上がってきた。でも、言葉にする前に、フミさんの方が先に話をずらした。

「それより、坊やんとこ、まだスーパーの場所、分かってるの。駅前のとこより、裏通りの八百屋の方が、卵が安いのよ。今の時期は特にね」

「……卵、ですか」

「安いだけじゃなくて、黄身の色が濃いの。昔の商店街にあった豆腐屋も、そうだった。あそこの豆腐はね、今みたいにパックに入ってなくて、水に浮かべたまま量り売りしてたのよ。桶の中の豆腐を、木べらですくって」

フミさんは懐かしそうに目を細めた。けれど、その話はどこにも着地しないまま、また別の話題へと滑っていった。梅雨入り前の風の湿り具合、隣の家の庭木が伸びすぎていること、自治会費の集金が遅れていること。僕はその一つひとつを聞きながら、妙な感覚に囚われていた。

話がずれていくたびに、何かが近づいてくる。

言い切らないことの方が、言ってしまうことより重い。

僕は、フミさんが本当に話したいことを、わざとぼかしているのだと感じた。全部を言ってしまえば、何かが壊れる。そういう慎重さが、彼女の言葉の端々に滲んでいた。

「西尾さんは、あの家に昔から住んでる人のこと、知ってるんですか」

思い切って聞いてみた。フミさんの表情は変わらなかったが、目の動きが一瞬止まった。

「知ってるも何も、裏からずっと見てきたからね。顔ぐらいは覚えてるよ」

「どんな人でした」

フミさんは少しだけ口を開きかけて、それから何かを飲み込むように、言葉を変えた。

「坊や、知りたがるのは悪いことじゃないよ。でもね、知るのは順番があるの。早く知りすぎると、怖くなるだけで、分かったことにはならない」

その言い方が、僕には少し悔しかった。もっと具体的なことを聞きたいのに、フミさんは核心の手前でいつも引き返してしまう。けれど同時に、彼女がただ意地悪をしているわけではないことも、何となく分かった。

「西尾さんも、怖かったことがあるんですか」

僕がそう聞くと、フミさんは初めて少しだけ驚いた顔をした。それから、ふっと笑った。笑ったというより、息を一つ抜いたような笑い方だった。

「あるよ。怖かったこと。でもね、それを今、あんたに全部渡すのは違う気がするんだよ。あんたの家は、あんたが住んで、あんたが確かめるものだから」

僕は、その言葉の裏に、フミさんなりの覚悟のようなものを感じた。誰かに全部を背負わせるのではなく、必要な分だけを、必要な人にだけ渡す。それは不親切なようでいて、むしろ丁寧なやり方なのかもしれなかった。

日が少し傾き、庭の紫陽花の葉に、長い影が落ちはじめていた。フミさんは懐から回覧板を取り出し、夏祭りの知らせの余白に、鉛筆で何か短く書き込んだ。僕には読めなかったけれど、それはきっと、僕のためのメモではなかった。

「もう行きな。お母さん、心配するだろう」

フミさんはそう言って、玄関の敷居に立ったまま動かなかった。靴先で、敷居の木目をなぞるように、一度だけ確かめる仕草をした。

「熱がこもる家はね」

僕が背を向けかけたとき、フミさんの声が追いかけてきた。

「板より先に、空気を疑いなさい」

振り返ると、フミさんはもう戸口の奥に半分引っ込んでいた。その言葉の意味を尋ねる前に、引き戸が静かに閉まった。

僕は路地をゆっくり歩きながら、今の言葉を何度も胸の内で転がした。板より先に、空気を疑え。それは押し入れの天井板のことを言っているのだろうか。だとしたら、板そのものではなく、その周りに何かがある、ということなのか。断熱材、空洞、補修の跡——川端さんが口にしていた言葉が、頭の中で繋がりそうで繋がらなかった。

勝手口の戸を開けると、台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。麻衣が鍋をかき混ぜながら、僕の顔を見て言った。

「回覧板、届けられた?」

「うん」

「西尾さん、元気だった?」

「元気だった。卵の話とか、豆腐屋の話とか、いろいろしてくれた」

母さんは小さく笑った。

「あの人、話が長いでしょう」

「長いけど」

僕は言葉を選びながら続けた。

「ちゃんと、大事なことも言ってる気がする」

母さんは少し意外そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。鍋の火を弱めながら、「手、洗ってきなさい」とだけ言った。

僕は洗面所で手を洗いながら、指先に残る押し入れの白い跡を、もう一度確かめた。フミさんはあの跡を見て、何かを察していた。知っているのに、言わない。言わないけれど、ヒントだけは落としていく。

その日の夜、布団を敷く前に、僕はいつものように天井板に手のひらを当てた。変わらない温度だった。板より先に、空気を疑え。その言葉の意味は、まだ分からなかった。けれど、分からないことが、以前ほど怖くはなくなっていた。

フミさんの家の軒先に揺れていた紫陽花の葉と、懐から取り出された鉛筆の先が、頭の中で何度も重なった。この家の過去は、誰か一人がすべてを知っているわけではなく、小さな断片として、いろんな場所に散らばっているのかもしれない。回覧板の余白に、手帳のページに、補修跡の木目に。

僕はそれを、一つずつ拾い集めていくしかなかった。

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