第3話 学校と食卓の沈黙

脚立の上で木箱を抱えたまま動けずにいた時間が、どれくらい続いたのか分からなかった。階下で牛乳のことを呼ぶ麻衣の声に「うん」と答えたあと、僕は結局、木箱と手帳の束を抱えて降りることができず、天井裏の縁に座り込んだまま、昼が過ぎていくのを感じていた。
埃の匂いが鼻の奥にこびりついている。湿った木と古い布、そのさらに底に、うっすら焦げたような匂いが混じっていた。焦げたお札の匂いだ、と僕は思った。川端さんが見つけた不自然な補修、フミさんが言いかけてやめた「何かをしてた時期」、手帳に書かれた「ここは開けるな」という一行。それらが、今ここで、同じ場所に集まっている。
もう一冊、別の手帳を開いた。
最初の数ページは、やはり天候と買い物と、子どもの体調の記録だった。だが途中から、文字の筆圧が変わっていた。急いで書いたような、それでいて一字一字を押し込むような強さがあった。
「この子は、人のものに触るとよく眠る」
「押し入れの上、置いた。熱、出てる間は大丈夫」
「誰かが来ても、ここだけは見せない」
僕は手帳を閉じかけて、もう一度開いた。「人のものに触るとよく眠る」という一文が、喉の奥に小さな石のように引っかかっていた。それは、僕のことを言っているような気がした。他人の机や椅子に触れると落ち着く、あの感覚。僕だけの癖だと思っていたものが、何十年も前にも、同じようにここで誰かに起きていたのかもしれない。
階段を上る足音がした。重く、ゆっくりとした上り方。父さんが起きたのだと分かった。僕は慌てて木箱を押し入れの縁に戻し、手帳だけを抱えて脚立を降りた。間に合わなかった。襖を開けたところで、父さんと目が合った。
「それ、どこから出した」
父さんの声は低かったが、怒っているふうではなかった。むしろ、自分が見るべきものを見落としていたことに気づいた人間の声だった。
「天井裏。川端さんが印つけてたところ」
「……開けたのか」
「うん」
父さんはしばらく黙って、僕の手の中の手帳を見ていた。それから、押し入れの奥、外した天井板の穴の方へ視線を移した。
「怒らないの」
僕は思わず聞いた。父さんは少し顎を引いて、何かを考えるような間を置いてから言った。
「怒ってどうなる。お前が一人で、ずっと何か抱えてたのは分かってた。踏み込めなかったのは、俺の方だ」
その言葉は短かったけれど、僕の胸の奥に、ゆっくりと染み込んでいった。父さんはいつも、言葉より先に手を動かす人だった。工具箱を並べ直し、壁を叩いて音を確かめ、見積もりの数字を睨む。その手の動きの速さの裏に、何か別のものが隠れていたのかもしれないと、初めて思った。
階下で玄関の鍵が回る音がした。母さんが牛乳を買いに出て、戻ってきたのだ。ビニール袋の擦れる音、靴を脱ぐ音、それから台所へ向かう足音。いつも通りの生活の音だった。でも、その生活の音が、今は少し違って聞こえた。
「母さんにも、見せた方がいいと思う」
僕が言うと、父さんは少し驚いたような顔をした。普段、僕が何かを提案することは少ない。
「お前が決めるのか」
「分からない。でも、母さんも、押し入れの板を触ったこと、知ってる。何も言わなかったけど、触ったあと、ちょっとだけ手を止めてた」
父さんは何も言わず、ただ一度だけ頷いた。それから、押し入れの奥の穴を見上げ、低い声で言った。
「川端さんに、もう一度見てもらう。ちゃんとした形で、全部出してもらおう」
台所から、母さんの声がした。
「湊、牛乳、冷蔵庫に入れといたよ。――何、二人でそんなところに突っ立って」
振り返った母さんの目が、僕の手の中の手帳に止まった。何かを察したように、彼女はエプロンで手を拭きながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「それ」
母さんはそれだけ言った。短い言葉だったが、僕はその中に、たくさんの意味が詰まっているのを感じた。知りたいけれど、知るのが怖い。確かめたいけれど、確かめた先に何があるか分からない。僕が押し入れの前で何度も感じてきたのと、同じ揺れだった。
「天井裏にあった。前の人が、残していったみたい」
僕は手帳を差し出した。母さんはすぐには受け取らず、しばらくそれを見つめていた。台所の方から、炊飯器の蒸気の音が小さく漏れてくる。洗濯機はまだ脱水の途中で、かすかな振動が廊下の床を伝ってくる。生活の音はいつも通り続いていたけれど、その只中で、母さんの手だけが、珍しく止まっていた。
「読んでいいの、これ」
「分からない。でも、ここに書いてある」
僕はページを開いて見せた。「ここは開けるな」という一行。母さんはそれをじっと見て、それから僕の顔を見た。
「それでも、あんたは開けたんだね」
責める声ではなかった。むしろ、どこか得心したような響きがあった。
「開けなかったら、分からないままだと思った」
「分からないままの方が、楽なこともあるよ」
「うん。でも、分からないまま、この家で眠るのは、嫌だった」
母さんは小さく息を吐いた。それから、僕の手から手帳を受け取り、膝をついて、押し入れの奥、外された天井板の穴を覗き込んだ。埃と、湿った木の匂いと、古い布の匂いが、三人のいる六畳間に静かに満ちていった。
「お父さん」
母さんが振り返った。
「川端さんに、ちゃんと頼んで。中途半端にしないで」
父さんは頷いた。
「もう頼んだ。今日の夕方に来てもらう」
その日の夕方、雨の気配が遠ざかり、代わりに乾いた風が庭先の木々を揺らしていた。僕は縁側に座って、川端さんの軽トラックが角を曲がってくるのを待っていた。待っている間、僕はずっと、手の中に残る天井板のぬくみのことを考えていた。
怖くなかったと言えば嘘になる。でも、その怖さの底に、もう一つ別のものが沈んでいるのも分かっていた。それは、誰かの暮らしの続きに、自分が触れてしまったことへの、奇妙な親しさだった。
川端さんが来たのは、夕方の光がまだ橙色を残している時間だった。軽トラックの扉が閉まる音、工具袋を担ぐ音、玄関先で靴を揃える音。どれも、前に来たときと同じ、無駄のない動きだった。
「見せてもらうぞ」
それだけ言って、川端さんは六畳間へ入り、脚立に手をかけた。父さんと母さんが並んで立ち、僕はその少し後ろに座っていた。川端さんは天井裏に上がり、懐中電灯の光を動かしながら、しばらく無言だった。
「木箱、二つ。あと、布に包んだものが、もう一つある」
声が降ってくる。父さんが「出しますか」と聞くと、川端さんは「ああ」とだけ答えた。
木箱が一つ、また一つと降ろされてくる。最後に、古い風呂敷に包まれた、細長い何かが運ばれてきた。畳の上に置かれたそれを、母さんが恐る恐る解いていく。中から出てきたのは、小さな位牌だった。文字はかすれて、ほとんど読めなくなっている。ただ、ひとつの年号だけが、かろうじて残っていた。
誰も、しばらく口を開かなかった。
「焦げたお札は」
僕が聞くと、川端さんは懐中電灯をしまいながら、短く答えた。
「位牌の近くにあった。たぶん、火で炙って清めたか、何かを祓おうとしたか。古いやり方だ。俺には、宗教的なことは分からん」
父さんが位牌を見つめたまま、低い声で言った。
「この家、前の持ち主に子どもがいたんですかね」

「噂では、何人か入れ替わってる。詳しいことは、俺の仕事じゃない」
川端さんはそう言ったあと、少し間を置いて、珍しく付け加えた。
「ただ、天井裏の空洞は、人が隠れるためのものじゃなかった。赤ん坊の寝床くらいの広さだ。断熱も、普通よりかなり厚く入れてある。押し入れの真上だけな」
その言葉が、僕の中で、ばらばらだった断片を一度に繋げた。手帳の「子がよく眠る」「板の音、少し減る」という記述。押し入れの天井板だけが、季節を問わず人肌の温度を保っていたこと。断熱材を厚く入れ、位牌を置き、お札で清めた場所。それは、何かを隠すためではなく、何かを――あるいは誰かを――守るための場所だったのだ。
「子どもが、この家で亡くなったのかもしれませんね」
母さんが位牌を見つめながら、静かに言った。声は震えていなかったが、いつもの段取りを考えるときの速さとは違う、ゆっくりとした話し方だった。
「それで、残された家族が、この場所だけ、あたたかくしておこうとした。眠る場所みたいに」
僕はその言葉を聞きながら、手帳に書かれていた一行を思い出していた。「夜中、起きる。押し入れの上、まだあたたかい」。あれは、眠れない夜に、誰かが確かめにきた記録だったのかもしれない。僕が毎晩、寝る前に天井板へ手を伸ばしていたのと、同じように。
「怖いと思ってた」
僕は誰に言うともなく、口にしていた。
「誰かが隠れてるんじゃないかって、ずっと思ってた。でも、違った」
母さんが僕の方を見た。父さんも、川端さんも、何も言わずに僕の次の言葉を待っていた。
「誰かが、ここに何かを、ずっと住まわせてたんだと思う。追い出すためじゃなくて、残すために」
その言葉を口にした瞬間、僕の中で、ずっと張り詰めていた何かが、少しだけ緩んだ気がした。怖さが消えたわけではない。でも、その怖さの形が、はっきりと分かった。分かってしまえば、それはもう、得体の知れない闇ではなくなる。
川端さんは、位牌と木箱を丁寧に風呂敷へ戻しながら、低く言った。
「どうするかは、あんたらが決めることだ。供養するなり、しかるべきところに預けるなり。俺の仕事は、構造を直すところまでだ」
「天井板は、どうしたらいいですか」
父さんが聞いた。川端さんは少し考えてから答えた。
「断熱材ごと、ちゃんと組み直す。ただ、同じ場所に、同じように戻すこともできる。壊すのが仕事じゃない」
父さんと母さんは顔を見合わせた。その視線のやり取りの中に、言葉にならない相談があるのが分かった。僕は、二人の間に入るように言った。
「戻してほしい」
三人の視線が、僕に集まった。
「温かいままでいいと思う。誰かが、ここで眠ってたんなら、僕たちが、それを無くす必要はないと思う」
母さんが小さく息を吸った。父さんは、しばらく黙ったあと、川端さんに向かって頭を下げた。
「そうしてもらえますか。できる範囲で、変に壊さずに」
川端さんは頷き、黙って工具袋を手に取った。
その晩、天井板は元の場所に戻された。断熱材も組み直され、位牌と木箱は、母さんが古い布で包み直して、仏壇代わりの小さな棚に置かれることになった。フミさんに相談しに行くのは、また後日ということになった。
布団を敷く前に、僕はいつもの癖で、押し入れの天井板に手のひらを当てた。
ぬくい。
変わらない温度だった。熱すぎず、冷たすぎず、人の額に触れたときのような、確かな体温に近い熱。けれど、その温度の意味は、もう前とは違っていた。それは、誰かを怖がらせるための熱ではなく、誰かが誰かを想って、ずっと灯し続けてきた熱だった。
「湊」
襖の向こうから、母さんの声がした。
「寝る前に、味噌汁だけ飲んでいきなさい。冷めないうちに」
「うん」
僕は手を離し、台所へ向かった。父さんはもう居間で新聞を広げていて、母さんは鍋の火を止めながら、僕の分の椀を用意していた。いつも通りの、何でもない夜だった。でも、その何でもなさの中に、今はもう一つ、別の時間が静かに重なっているのを、僕は知っている。
数日後、学校帰りに、僕は回覧板を届けるついでに、フミさんの家に寄った。縁側には、相変わらず紫陽花の葉が茂り、葉先には昼の雨の名残がまだ光っていた。
「坊や、顔つきが変わったね」
フミさんは、戸口に立つなり、そう言った。僕は何と答えたらいいか分からず、ただ頷いた。
「天井裏、開けたんだろう」
驚いて顔を上げると、フミさんは縁側に腰かけたまま、庭の方を見ていた。
「どうして分かるの」
「分かるさ。あの家の前の持ち主、私と同じ年頃の女の人だった。子どもを、小さいうちに亡くしてね。それから、しばらくして、引っ越していった」
フミさんの声は、いつもと同じように緩やかだったが、今日は話をずらすことなく、まっすぐに続いた。
「その人がね、出ていく前に、大工さんを呼んで、押し入れの上を直させたのよ。何をしてるのかって聞いたら、『この子の寝床を作ってる』って言ってた。もう、その子はいないのに。おかしなことを言う人だと思ったけど、今になって思えば、あれは寝床じゃなくて――」
フミさんはそこで言葉を切り、湯呑みに口をつけた。僕は続きを待った。
「――あの人なりの、お別れの仕方だったんだろうね。家を出ていくとき、子どもの時間だけは、ここに置いていったんだ。自分が消すんじゃなくて、家に、住み続けてもらうみたいに」
僕は、手帳に書かれていた文字を思い出していた。「この子は、人のものに触るとよく眠る」。それは、亡くなった子どものことを書いていたのかもしれない。そして、その子が眠っていた場所の熱だけを、母親は残していった。
「怖がらせてすまなかったね」
フミさんが、ふいにそう言った。
「全部話せば、あんたが怖がって、逃げ出すかもしれないと思った。中途半端にしか言わなかったのは、私の意地悪じゃなくて……まあ、意地悪もちょっとはあったかもしれないけど」
少しだけ笑うフミさんを見て、僕も、つられて小さく笑った。
「でも、坊やは逃げなかった。ちゃんと、自分で確かめにいった。それは、たいしたもんだよ」
フミさんの言葉は、母や父から聞く褒め言葉とは、どこか違う響きを持っていた。生きるか死ぬかの土地勘を持った人間が、同じくらいの重みで物事を見てくれた言葉、という感じがした。
家に戻ると、台所から夕飯の匂いがしていた。母さんは、フミさんから聞いた話を、僕がかいつまんで伝えると、しばらく黙ったあとで、「今度、一緒にお参りに行こうか」とだけ言った。父さんは、「位牌、どこかちゃんとしたところに預けるか、このまま置いておくか、相談しような」と、いつもの現実的な口調で言った。
その夜、布団を敷く前に、僕は押し入れの前に座り、いつものように天井板に手を当てた。
変わらない温度だった。
けれど、僕の中で、その熱の意味は、もう完全に変わっていた。それは、何かを隠すための熱ではなく、誰かが誰かのために、確かに住まわせておいた時間の熱だった。家は、持ち主を変えながらも、その時間を手放さずに抱え続けていた。
僕はこの家に、前からいた気がする、という感覚の正体を、ようやく分かった気がした。それは、僕が人の机や椅子に、妙な親しみを覚える癖と同じだった。誰かが確かに使った場所には、その人の時間が残っている。僕はそれを、怖がるのではなく、受け取れる人間なのだ。
布団に入り、電気を消す。窓の外では、虫の声が低く響いていた。台所の換気扇はもう止まっていて、代わりに、どこか遠くで、誰かの家の風鈴が、小さく鳴っていた。
押し入れの向こうは、今夜も静かに温かい。
誰かの時間が、まだそこで、確かに息をしている。僕はその温度を、怖さとしてではなく、この家で生きていくための、ひとつの灯りとして、これからも覚えておくつもりだった。
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