第2話 昼の換気扇、夜の擦過音

学校から帰ると、家の中は昼の光で白っぽく乾いていた。

玄関を開けた瞬間に感じるのは、まだ慣れない家特有の匂いだった。新しい畳の青い匂いと、古い木の匂いが、どちらが上というわけでもなく混ざり合っている。僕はランドセルを下ろしながら、靴を脱ぐ場所がまだ定まっていないことに気づいた。前の家では、玄関の左端が僕の場所だった。この家では、まだどこが誰の場所かも決まっていない。

転校二日目だった。

教室では、担任の先生が僕の名前を黒板の隅に書き足し、それから出席を取るときに一度だけ呼んだ。「佐伯くん」。その呼び方に、クラスの誰かがちらりとこちらを見て、またすぐに興味を失ったように前を向いた。休み時間、誰かが話しかけてくれるかと思ったけれど、結局誰も来なかった。僕は机の木目を指でなぞりながら、前の持ち主が削った鉛筆の跡を見つけて、少しだけ落ち着いた。他人の机にはいつも、僕の知らない誰かの癖が残っている。それを見つけると、なぜか自分がそこにいてもいい気がしてくる。

家の中でも、同じことが起きていた。

台所のシンクには、母さんが使ったあとの水滴がいつも同じ数だけ残っていた。三つ、あるいは四つ。蛇口の根元から、排水口の方へ向かって、点々と。廊下を歩くと、玄関から三歩目のところで板がわずかに沈む。四歩目では沈まない。縁側の近くでは、誰も座っていないのに木が乾いた音を立てて縮む。

そういうものを数えていると、家族がまだこの家に馴染んでいないことまで、はっきり見えてしまう。

母さんは洗剤のキャップを閉めるとき、いつもより少し強く押し込む。きゅ、と小さな音がする。前の家の洗剤は違う形だったから、手の力加減がまだ合っていないのだと思う。父さんは帰ってくると、まず玄関の鍵を二度確かめる。一度回して、もう一度、指先で確認するように。古い家の鍵は、新しい家の鍵より重く、回したという感覚が指に伝わりにくいからだろう。

誰もそれを口にしない。でも、そういう小さなずれが積み重なって、家の中に薄い膜のようなものを作っている気がした。

昼過ぎ、台所でおやつを食べていると、庭先で急に機械音が鳴った。ぶるり、と喉の奥で何かが震えるような音。浴室の方から、湯気の匂いがわずかに漂ってくる。

「誰か、お風呂使った?」

母さんが手を止めて廊下の方を見た。僕は首を振った。誰も使っていない。父さんは仕事で、家には僕と母さんしかいない。

母さんは濡れた手をエプロンで拭きながら浴室へ向かった。給湯器のパネルを確かめ、スイッチを見て、それから首をかしげた。

「変ね。切れてるのに」

「動いてたの?」

「一瞬だけ、作動したみたい。空気が入ったのかな」

そう言って、母さんはすぐに台所へ戻っていった。鍋の火加減を見て、まな板の上の野菜を片づけて、次の用事へ移っていく。立ち止まる時間は、いつも数秒しかない。

僕はその横顔を見ていた。説明してもらったはずなのに、安心したわけではなかった。空気が入っただけで、誰もいない風呂場に湯気の匂いがするものだろうか。空気のせいなら、押し入れの天井板の温かさも、空気のせいで片づくのだろうか。

「湊、何か言いたいことある?」

母さんが鍋をかき混ぜながら、僕の視線に気づいて聞いた。

「ううん」

「顔に書いてあるよ、何か気になるって」

僕は少し迷ってから、答えた。

「お風呂、誰もいないのに動くのって、普通?」

母さんは菜箸を一度止めて、それから小さく笑った。

「古い家にはね、古い家なりの癖があるのよ。配管が長かったり、温度センサーがちょっと敏感だったり。人間だって、年を取ると急に咳が出たり、関節が鳴ったりするでしょう。家もきっと同じ」

「じゃあ、押し入れの天井板も」

「それも、同じじゃない?」

母さんはそう言って、また鍋に視線を戻した。でも、さっきよりほんの少しだけ、声の終わりが乾いていた気がした。理由を並べることと、理由が分かることは、違う。母さんはそれを知っていて、それでも並べることを選んでいる。そんな気がした。

夕方、僕は六畳間の押し入れの前に膝をついた。襖を少しだけ開ける。隙間から、湿った木の匂いが流れ出てくる。奥にしまってある灰色の布団袋の角が、窓から差し込む昼の光を吸って、いつもより濃い灰色に見えた。

天井板に手を伸ばす。

やっぱり、温かい。

初めて触れたときと同じ、人の額ほどの温度。でも今日は、その温度の中に、もう一つ違う感触が混じっていることに気づいた。指先で軽くこすってみると、表面にかすかなざらつきがある。新しい板にはない、使い込まれた木の肌理だった。よく見ると、板の継ぎ目のあたりが、周りよりわずかに色が違う。古い木の上に、別の木を重ねたような、そんな手の入り方だった。

これは、誰かが直した跡だ。

直感的にそう思った。でも、何のために、いつ、誰が。考えても答えは出てこない。板は何も語らない。ただ、温度とざらつきだけを、僕の指先に残していく。

その晩、僕は布団に入って、なかなか寝付けなかった。

台所の換気扇が止まっているはずなのに、低く唸る音がまだ続いているように聞こえる。遠くで給湯器が短く作動して、すぐに静かになった。雨戸の隙間から入る夜気が、畳の匂いをいっそう濃くしていた。

うとうとしかけたとき、押し入れの奥から音がした。

ぎし、というほど大きくない。

紙の端が木をこすったような、あるいは布の縁が何かに触れたような、小さな擦過音だった。

僕は息を止めた。

もう一度、音がした。

さっきより小さい。でも確かに、音だった。

心臓が、いつもより一拍遅れて鳴っているみたいだった。耳の奥で血が流れる音さえ聞こえる気がした。誰かが歩いている音ではない。誰かが喋っている声でもない。もっと静かで、もっと長く、そこに留まっているものの音だった。

怖かった。

怖かったのに、僕は布団の中で丸くなったまま、襖の方から目を離せなかった。

もしあの音が、人の立てる音なら、僕はきっと逃げ出したくなっただろう。誰かが忍び込んでいるなら、大声で母さんを呼べばいい。でも、今聞こえている音は、そういう種類のものではなかった。

それは、何年も畳まれたまま置かれていた布が、わずかに形を変える音に似ていた。開かれたまま忘れられた手帳のページが、湿気を吸って反り返る音に似ていた。戸棚の隅に置き忘れられた薬瓶が、誰にも触れられないまま、少しずつ位置をずらしていく音に似ていた。

誰かが、いるのではない。

誰かが確かにいた、という事実だけが、まだこの家のどこかで息をしている。

僕はそう思った。そう思うと、不思議なことに、恐怖の輪郭が少しだけ柔らかくなった。代わりに、もっと説明しにくい感覚が胸の奥に広がっていった。

知らない部屋を、一つ見つけたような気持ちだった。

誰かの部屋に、許しも得ずに足を踏み入れてしまったときのような、後ろめたさと、それでも覗いてみたいという気持ちが、同じ場所で絡み合っていた。この感覚を、僕は前にも知っていた気がする。転校前の学校で、誰かの机の中を覗いたときでも、使われなくなった椅子に座ったときでもない。もっと昔、もっと遠い記憶の底に、似たようなものがあった気がした。

布団の中で、僕は何度も唾を飲み込んだ。喉の奥が乾いて、苦い味がした。

母さんは隣の部屋で、父さんの帰りを待ちながら、今日買った食材の残りを計算しているかもしれない。父さんは、まだ会社のデスクで、明日の段取りを考えているかもしれない。この家で今、押し入れの奥の小さな音に気づいているのは、たぶん僕だけだった。

それを誰かに話すことは、できなかった。

母さんに話せば、きっとまた「古い家の癖」という言葉で片づけられてしまう。片づけられることが怖いのではなく、片づけられたときに、僕の中に残ったこの感覚そのものが、なかったことにされてしまう気がして、それが嫌だった。

僕は布団の端を強くつまんだ。指先に力を入れると、少しだけ、音のことを忘れられる気がした。

遠くで、もう一度だけ、擦れるような音がした。

それきり、家は静かになった。

換気扇の唸りも、給湯器の振動も、すべてが引いていき、あとには僕の呼吸の音だけが残った。僕は目を閉じて、押し入れの天井板の温度を思い出そうとした。熱いわけではない。ただ、冷たくない。その温度だけが、この家の中でいちばん確かなもののように思えた。

眠りに落ちる直前、僕はぼんやりと考えていた。

この家には、見えない部屋がもう一つ、重なっているのかもしれない。

僕たちが暮らしているこの六畳間や台所や廊下の上に、薄い紙を重ねるみたいに、誰かが暮らしていた時間がそのまま残っている。僕らはその紙の上を歩き、その紙の下から伝わってくる温度に、ときどき気づいてしまう。

それは怖いことのはずなのに、僕の中では、怖さだけでは終わらなかった。

知りたい、と思った。

その部屋の形を、その部屋に住んでいた誰かの癖を、できることなら、ちゃんと知りたいと思った。

← 横にスクロールして読み進められます