第1話 ぬくみ家の初夜

引っ越しのトラックが角を曲がって見えなくなったあとも、玄関には段ボールの湿った匂いが残っていた。
雨は降っていなかったけれど、朝から空気が重かった。運び込まれた荷物の底や、古い家の床板に、外の湿気がそのまま染み込んでいるようだった。玄関を開け放しているのに風は通らず、代わりに、知らない家の匂いだけが少しずつ濃くなっていった。
僕は六畳間まで布団を運んだ。布団袋の紐が肩に食い込み、足の裏には畳の目がざらざらと伝わってくる。畳は新しく見えたけれど、歩く場所によって沈み方が違った。部屋の中央は硬く、窓際は少しだけ柔らかい。押し入れの前だけ、足を置いたときに音が低く響いた。
襖を開けると、木の枠がかすかに鳴った。
きい、と短い音だった。
閉めると、今度は、こ、と鈍い音がした。
僕はそれを二度繰り返した。開ける。きい。閉める。こ。
家には、そういう音がいくつもあった。台所の引き出しを閉じる音、廊下の板が沈む音、縁側のどこかで木が縮む音。どれも大きくはない。でも、初めて聞く音なのに、ずっと前からこの家の中で鳴っていたような古さがあった。
「湊、その布団、そこに置いちゃっていいよ」
台所から母さんの声がした。
「あとで敷く」
「あとで、って言うと寝る前になるからね。今日、まだカーテンもつけてないんだから」
母さんは流し台の前に立ち、紙皿や使い捨ての箸を洗っていた。新しい家に来た初日なのに、洗い物の順番まで決めている。先にコップ、次に箸、そのあと皿。手を動かしていないと、片づいていないものが目に入ってくるからだと思う。
父さんは玄関脇で工具箱を開けていた。赤い取っ手のドライバーを一本取り出し、布で拭いてから、元の場所へ戻す。工具箱の中には、前の家から使っていた傷だらけのメジャーも入っていた。
「お父さん、それ、今日使うの?」
「使うかもしれない」
「使わないかもしれないものは、まだ出さなくていいでしょう」
「出しておいた方が早い」
母さんが振り返った。
「何が?」
「必要になったとき」
「必要になるかどうか分からないのに?」
「必要になってから探す方が面倒だろ」
父さんはそう言って、メジャーの横に小さな水平器を並べた。母さんは一度だけため息をつき、それ以上は言わなかった。二人とも、新しい家をどう扱えばいいのか決められずにいるようだった。母さんは家を片づけることで、父さんは家を測ったり直したりすることで、ここを自分たちの場所にしようとしている。
僕は押し入れの前に戻った。
布団を敷く前に、いつもの癖で床板へ手のひらをつける。畳より少し乾いている。引っ越しの日の冷たい空気が、板の中まで入り込んでいる感じがした。
その上の天井板に触れたとき、指先が止まった。
冷たくなかった。
家の中にはまだ暖房が入っていない。窓も開いている。僕の手は荷物を運んだせいで汗ばんでいたけれど、それを差し引いても、板の温度はおかしかった。
人の額に触れたときくらいの温度だった。
熱いわけではない。ただ、冷たくない。
僕は手を離し、指の腹を見た。何もついていない。もう一度触れた。今度は手のひら全体で押し当ててみる。
ぬくい。
板の表面から熱が移ってくるというより、木の内部に残っていたものが、僕の手に気づいてゆっくり滲み出してくるようだった。長いあいだ誰かが手を置いていた場所。何度も布団を上げ下げし、何度も同じ姿勢で寄りかかっていた場所。そんな想像が、板の木目の向こうから浮かんだ。
「どうしたの」
背中から声がして、僕は手を引っこめた。
母さんが段ボールの隙間から顔を出している。片手には濡れた台ふきがあった。
「別に」
「そこで何してるの?」
「押し入れ、見てた」
「何か入ってた?」
「まだ何も」
母さんは部屋の中を見回した。積み上げられた段ボール、畳の上に置かれた布団、壁際に寄せたランドセル。視線が最後に押し入れの天井板へ移った。
「暑いなら、窓を少し開けようか」
「暑くない」
「じゃあ、寒い?」
「そうじゃない」
言いかけて、僕は黙った。
温かい、と言えばよかったのかもしれない。でも、それを言ったら、母さんは板に触れて、すぐに「木だからじゃない」と言うだろう。湿気がこもっているとか、日中に日が当たったとか、そういう理由を探すはずだった。
それはたぶん、間違ってはいない。
間違ってはいないけれど、僕が触れたものとは少し違う。
母さんは台ふきを畳み直した。何度も角を合わせて、布の端をきちんと揃える。
「今日は疲れてるからね。引っ越しのあとって、変なところに気がつくのよ。前の家でも、最初の頃は床が傾いてるとか、夜になると音が違うとか、いろいろ言ってたでしょう」
「言ってた?」
「言ってた。覚えてない?」
覚えていなかった。前の家のことを考えると、家具の位置や窓から見えた電柱は思い出せるのに、部屋の温度までは戻ってこない。
「この家は、まだ誰も慣れてないから」
母さんはそう言って、台ふきを持ったまま立ち上がった。
「慣れれば、気にならなくなるよ」
その言葉が、なぜか嫌だった。
気にならなくなるというのは、なくなることとは違う。そこにあるものを見ないようにして、見なかったことにするだけかもしれない。
「お母さん、これ、前の人のもの?」
僕は押し入れの隅を指した。奥には、灰色の布団袋のようなものがあった。荷物を運び込む前にはなかった気がする。近くへ寄ってみると、布の表面に細かな埃がつき、端が畳の目に押し込まれていた。
母さんは一歩近づき、しゃがんでそれを見た。
「管理会社の人が置いていったのかな。捨てるものなら、明日まとめる」
「触らないの?」
「今は無理。夕飯を作らないと」
母さんは立ち上がると、僕の肩を軽く叩いた。
「湊も、今日はもう休みなさい。転校初日から疲れたでしょう」
転校初日という言い方をされると、胸の奥に薄い紙を押し込まれたような気がした。学校では、みんなが僕の名前だけを覚えようとしていた。席、教科書、給食当番。前の学校で自然に決まっていたものが、全部いったん他人の手に戻っていた。
僕は返事をせず、もう一度だけ天井板を見た。
「お父さん、そっちの壁、叩かなくていいから」
廊下から母さんの声が聞こえた。
「空洞があるかもしれない」
父さんは壁を指先で軽く叩いていた。こん、こん、と音が返る。
「古い家なんだから、多少はあるでしょう」
「押し入れの上は、音が違う」
「押し入れの上?」
父さんが黙った。
僕は襖の陰から二人を見た。父さんは顎を少し引き、壁の上の方を見ている。母さんは台所へ戻る途中で、何気なく押し入れの枠に手を触れた。
ほんの一瞬だった。
母さんの指が止まった。
けれど、母さんは何も言わずに手を離した。台所へ戻り、流しの周りを拭き始める。蛇口の根元、コンロの脇、まだ何もこぼしていない場所まで、布を滑らせていく。
僕は、母さんも触ったのだと思った。

そして、触ったあとで、何も言わないことにしたのだ。
夜、家の中の明かりが一つずつ消えた。
新しいカーテンがない窓から、隣の家の灯りが細長く差し込んでいた。庭の植木の影が障子に映り、風がないのに葉だけが揺れているように見えた。
布団に入っても、なかなか眠れなかった。
台所の換気扇が低く唸っている。止まっているはずなのに、羽根の奥でまだ機械が回っているような音がする。しばらくして、縁側の板が鳴った。
誰も歩いていない。
きし、と一度。
間を置いて、もう一度。
家が寝返りを打っているようだった。
僕は目を閉じたまま、音を数えた。遠くで給湯器が短く唸り、庭の方から低い振動が伝わってくる。水道管の中を冷たい水が戻っていくような音。古い金属が縮む音。湿った畳の匂い。その奥に、古い布団を日に干さずに畳んだときの、埃っぽく甘い匂いが混じっている。
僕は寝返りを打って、押し入れを見た。
襖は閉まっていた。
暗い部屋の中で、そこだけが輪郭を持っている。何かが見えるわけではない。ただ、押し入れの向こうには、部屋の暗さとは違う暗さがあった。
僕は布団の端をつまんだ。
開けてみようかと思った。
でも、開けたところで何を探せばいいのか分からない。もし何もなかったら、僕の感じた温度まで消えてしまいそうだった。逆に、何かがあったら、明日からこの家で眠れなくなる。
そのとき、襖の向こうで小さな音がした。
擦れるような音だった。
紙の端が木に触れたような、布の角がゆっくり動いたような音。ぎし、という大きな家鳴りではない。誰かが歩いた音でもない。
僕は息を止めた。
音は一度で終わらず、もう一度、かすかに鳴った。
何かがいる。
そう思ったあとで、すぐに違うと思った。
そこにいるのは、誰かではない。誰かがいたあとに残されたものだ。何度も使われた布団。開かれたまま置かれた本。飲み終わった薬の瓶。誰かが暮らしていた場所には、本人がいなくなっても、動き方だけが残ることがある。
僕はそのことを、前にも知っていた気がした。
他人が使った机に触れたとき、椅子の背もたれに残る手の置き方を見たとき、知らない部屋なのに、前からそこにいたような気持ちになることがあった。転校してからは、その感覚を誰にも話さなかった。変だと言われるのが嫌だった。
でも、この家の押し入れに触れたとき、その感覚はこれまでより強かった。
怖いのに、離れたくない。
知らないのに、なつかしい。
僕は布団から出て、押し入れの前まで歩いた。畳は冷たく、足の裏から膝へ冷気が上がってくる。襖に手をかける。木の表面はひんやりしていた。
少しだけ開けると、古い布の匂いがした。
奥の天井板に手を伸ばす。
やはり、そこだけが温かかった。
その温度を掌に受けたまま、僕はしばらく動かなかった。板の向こうから、誰かの呼吸が聞こえたわけではない。ただ、長い時間がそこで折り畳まれ、まだ完全には冷えきっていないように感じられた。
「湊?」
廊下から父さんの声がした。
僕は手を離した。
「起きてるのか」
「うん」
「水、飲むか」
「いらない」
父さんは襖の前まで来なかった。暗い廊下に立ったまま、少し黙っていた。
「明日、学校だろ」
「分かってる」
「眠れないなら、電気つけておけ」
父さんの声はいつも通り低かった。でも、いつもより少しだけ近くにいるように聞こえた。
「父さん」
「何だ」
「この家、古いね」
しばらく返事がなかった。
「古い家を買ったからな」
「前に住んでた人のもの、残ってるかな」
「残ってたら、片づける」
「全部?」
「使わないものはな」
「使うかどうか、分からないものは?」
父さんはすぐには答えなかった。
「それは、見てから決める」
それだけ言って、父さんは廊下を戻っていった。足音が遠ざかり、階段の前で一度止まり、それから消えた。
僕は押し入れを閉めた。
閉じたあとも、掌には温度が残っていた。人肌に近い、わずかなぬくみ。熱源を探せば見つかるようなものではなく、触れたことそのものが記憶になる温度だった。
翌朝、目を覚ますと、窓の外は薄い灰色だった。
布団を出る前に、僕は押し入れを開けた。天井板に触れる。夜のあいだ冷えたはずなのに、温度は変わっていなかった。
台所では母さんが洗濯物を仕分けていた。靴下を片方ずつ揃え、タオルを同じ幅に畳んでいる。
「また触ってるの?」
僕が振り向くと、母さんは洗濯物を抱えたままこちらを見ていた。
「うん」
「そんなに気になる?」
僕は答えを考えた。気になる。怖い。確かめたい。でも、それだけではない。
「温かいから」
母さんは黙った。
やがて洗濯物を床へ置き、僕の横まで歩いてきた。押し入れの天井板に、指先をそっと当てる。
母さんの表情は変わらなかった。
けれど、指を離すまでの時間が、僕より長かった。
「……古い家は、こういうこともあるのよ」
母さんはそう言った。声はいつものように落ち着いていたが、最後のところだけ、少し乾いていた。
「湿気がこもってるのかもしれないし、板の中に前の熱が残ってるのかもしれない。理由はそのうち分かる。分からなくても、今日の洗濯はしないといけないし、湊は学校へ行かないといけない。だから、今はそれでいいの」
「それでいいの?」
「今日を過ごすにはね」
母さんはそう言って、洗濯物を抱え直した。
僕はまた板に触れた。
温かさは、昨日と同じだった。
ただの季節のせいではない。少なくとも、ただの季節のせいではない。
僕はそのことを誰にも言わず、指先に残るぬくみを覚えておくことにした。忘れないように、ではない。いつかこの家の中で、何かと何かがつながったとき、その温度を手がかりにできるように。
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