第9話 霧島の問いと、名前のない理由

進路指導室には、白い蛍光灯の光が均一に落ちていた。

窓は閉まっている。けれど、古いサッシの隙間から入り込んだ蝉の声が、壁の白さに薄く染みついていた。冷房は効いているというより、部屋の隅でかろうじて息をしているだけだった。低い唸りが天井近くに溜まり、机の上の原稿用紙の端を、ときどきわずかに震わせている。

僕は霧島先生の机の前に座っていた。

手元には、何度も書き直した志望理由書がある。最初の一行には、「幅広い教養を身につけ、社会に貢献できる人材になるため」と書かれていた。二行目には、「充実した教育環境のもとで学びたい」とある。三行目には、「将来の可能性を広げるため」と書いた。

どれも、間違ってはいない。

間違ってはいないからこそ、僕の言葉ではないように見えた。

霧島先生は、原稿用紙を受け取ると、題名を見なかった。いつものように、最初に書き出しへ目を落とす。薄い朱色のペンを右手に持ち、しばらく何も言わずに紙の上を読んでいた。

ペン先が、一度だけ机を叩いた。

「これは、誰の文章ですか」

「僕が書きました」

「そうですね。字は倉持くんのものです」

「だったら、僕の文章じゃないですか」

「字の話はしていません」

霧島先生は一行目を指でなぞった。

「この言葉を、あなたは普段使いますか」

「普段は……使いません」

「では、なぜここで使ったのでしょう」

「志望理由書だからです。こういう言葉を書いたほうが、それらしくなると思って」

「それらしくする必要があるのですか」

「必要でしょう。学校に出すものですから。読む人に、ちゃんと考えていると思ってもらわないと」

「誰にどう見せるかを先に考えると、自分が何を考えていたのかが、あとから見えなくなることがあります」

「でも、進路の書類って、結局はそういうものじゃないですか。先生や大学の人に、悪く見られないように書く。何を学びたいかより、どう書けば通るかを考える」

「それで、倉持くんはどこへ行くのですか」

僕は返事をしなかった。

霧島先生は、僕の沈黙を埋めようとしなかった。原稿用紙の余白に視線を置いたまま、薄い朱色のペンを机へ戻す。

「大学名は、どこに書きましたか」

僕はファイルの下に挟んでいた志望希望調査票を取り出した。第一志望の欄には、薄い鉛筆の跡が残っている。大学名の最初の一文字を書き、消した跡だった。紙の表面は何度も消しゴムをかけたせいで毛羽立ち、角度を変えると、消した文字の形だけが浮いて見える。

霧島先生は、その跡を見た。

「何度、消しましたか」

「覚えていません」

「書いた回数は?」

「それも」

「覚えていないほど、書こうとした」

「……はい」

「それでも、書けない」

僕は机の縁へ指を置いた。木の表面に細かな傷があり、爪の先がひとつの溝に引っかかる。

「書けないんじゃないです」

霧島先生は顔を上げた。

「書きたくないのかもしれません」

言葉にした瞬間、胸の奥で張りつめていたものが、ほんの少し形を変えた。僕はずっと、書けない自分を責めていた。考えが足りない。覚悟がない。決めるのが遅い。そう思っていた。

けれど、書けないのではなく、書きたくない。

そのほうが、ずっと正確だった。

「書きたくない理由は?」

「書いたら、見られるからです」

「誰に」

「先生に。母さんに。親戚に。早瀬にも。誰にでも」

「見られることが嫌なのですか」

「見られるだけなら、たぶん違います」

喉が乾いていた。冷房の風が首筋に触れているのに、シャツの袖の内側には熱が残っている。

「名前を書いた瞬間に、その学校に受かる人として見られるのが嫌なんです。成績がいいからそこを目指すんだって思われて、模試の判定が下がれば心配されて、上がればもっとできるって言われる。僕が何を学びたいかじゃなくて、受かるかどうかだけが残る」

霧島先生は黙っていた。

「中学のとき、志望校を聞かれました。先生が黒板にいくつか候補を書いて、その中から一番偏差値が高いところを選びました。家で言ったら、母さんが喜んで、親戚にも伝わって。みんな、すごいねとか、頑張れば行けるねとか言いました。最初は、期待されるのが嬉しかったんです。自分がちゃんとした人間になったみたいで」

僕は調査票の消し跡を見た。

「でも、模試で判定が落ちたとき、急に僕が怠けたみたいになった。点数が上がると、やっぱりそこを目指せると言われた。勉強をしているだけなのに、いつの間にか、その学校のために勉強して、その学校のために眠って、その学校のために機嫌よくしているみたいになった。自分で選んだはずなのに、名前を言った日から、その名前のほうが僕より大きくなったんです」

「自分の選択が、自分から離れていった」

「はい」

「だから、今度は言わない」

「言わなければ、誰にも取られないと思っていました」

霧島先生は、原稿用紙の白い余白へ目を落とした。

「誰にも取られない代わりに、誰にも触れられない」

その言葉は穏やかだった。けれど、紙の上に置かれた細い刃物のように、僕の中へまっすぐ入ってきた。

「触れられなくてもいいです」

「本当に?」

僕は窓を見た。

閉じた窓の向こうで、運動部の掛け声が遠く響いている。校内放送が下校時刻を告げ始め、最後の言葉へ届く前に途切れた。無音が一瞬、部屋全体を覆う。その隙間から、蝉の声が流れ込んできた。

「本当は、触れられたくないんじゃなくて」

僕は言葉を探した。

「触れられたときに、僕のものじゃなくなるのが嫌なんだと思います」

霧島先生は、すぐには返事をしなかった。ペン先で机を一度だけ叩く。彼女は大事な言葉ほど、少し長く沈黙の中へ置く。

「それなら、触れられても、あなたのものだと言えるように書けばいい」

「そんなこと、できますか」

「完全にはできません。書いたものは読まれます。読まれた言葉は、読む人の中で別の意味になる。そこまで支配することはできません」

先生は原稿用紙を僕のほうへ押した。

「けれど、理由のすべてを渡す必要はありません。学校名を説明するために、あなたの中身を全部差し出さなくてもいい。あなたの選択を支える一部分だけは、自分の言葉で残せばいい」

「一部分だけでいいんですか」

「三行ですから」

先生の口元が、ごくわずかに緩んだ。

僕は短く息を吐いた。笑いにはならなかったが、喉の奥に詰まっていたものが、少し下へ落ちた。

「正しそうな言葉なら、いくらでも書けます」

「知っています」

「模試の記述も、感想文も、相手が読みやすいように整えられる。最初に結論を書いて、理由を二つつけて、最後に前向きな言葉で終わらせる。そうすれば、それらしく見える」

「ええ」

「でも、志望理由だけは、整えるほど中身がなくなる」

「なぜでしょう」

「分かりません」

「分からないのではなく、まだ言葉になっていないのかもしれません」

霧島先生は、原稿用紙の一行目を指した。

「恐れの反対側にあるものを考えてください」

「反対側?」

「期待されたくない。決めつけられたくない。そう思うのは、誰かに決められる前に、自分で見たいものがあるからではありませんか」

僕はシャープペンシルを立てたまま止めた。

頭の中に、調べた大学の写真が浮かんだ。古い建物を改修した講義棟。大きな図書館。知らない街の駅。授業科目の一覧。どれも説明することはできる。けれど、なぜそこへ行きたいのかと聞かれると、言葉が急に薄くなる。

「知らない場所へ行きたい、って書いたら、逃げたいだけに見えませんか」

「逃げたいことと、見たいものがあることは、両立します」

「でも、逃げるのは悪いことみたいに思われる」

「誰に?」

「母さんに。先生に。自分に」

霧島先生は、わずかに視線を下げた。

「逃げることが、いつも悪いわけではありません。危ない場所から離れるための逃げもある。ただ、同じ場所から動かないために、逃げていることを隠れ蓑にする場合もあります」

僕は調査票を見た。

白い欄に、消した文字の跡がある。僕はここに何も書かないことで、自分の未来を守っているつもりだった。けれど実際には、何も名乗らないまま、誰かが用意した言葉の中へ隠れていたのかもしれない。

「自分がどちらなのか、分かりません」

「分からないままでも、考えることはできます」

「先生は、決めないんですか。僕が逃げてるのかどうか」

「決めません」

霧島先生は、僕を見た。

「あなたの進路を、私が決めるわけにはいかないでしょう。あなたが誰かに決められることを嫌がっているのに、私が別の正しさを押しつけたら、同じことになります」

その言葉に、僕は初めて先生の顔をまっすぐ見た。

白い蛍光灯の下で、霧島先生の表情はほとんど動かなかった。ただ、夕方のせいか、声が少しかすれている。机の端には、使い込まれた薄い朱色のペンと、折れたページのある国語辞典が置かれていた。

先生は、僕の視線に気づいたように辞典を閉じた。

「私も、進路を選ぶとき、周囲が納得する言葉を使いました」

突然の言葉だった。

僕は何も言わずに先生を見た。

「本当は別の道に惹かれていたのに、安定しているとか、向いているとか、将来性があるとか、そういう言葉を並べて話しました。周りは安心しましたし、私も、その場では安心した。自分で選んだように見えたからです」

霧島先生は、ペンの軸を指先で転がした。

「けれど、あとになって、その言葉を自分が書いたことが苦しくなった。間違っていたわけではありません。誰かに強制されたわけでもない。ただ、私が本当に迷っていた場所を、きれいな言葉で埋めてしまった」

「先生も、言えなかったんですか」

「言えませんでした。言わなかった、と言い換えることもできます。言わなかったほうが周りは困らなかったし、私も困らせずに済んだ。でも、困らせないことと、傷つけないことは同じではありません」

その言葉は、母の顔を思い出させた。

今日の面談で、僕は母の「無理しなくていいからね」に甘えて、何も言わなかった。母は困らなかった。先生も、面談を先へ進められた。けれど、僕が何を望んでいるのかを知らないまま、母は僕の肩紐を直した。

「言わないことで、守っているつもりでも」

僕はゆっくり言った。

「相手を、何も知らない場所に置いていくことになる」

霧島先生は否定しなかった。

「そういうこともあります」

「じゃあ、言うしかないんですか」

「言うかどうかを決めるのも、あなたです。ただ、言わないことを選ぶなら、その代わりに何が起きるかも、自分の選択として引き受ける必要があります」

「重いですね」

「進路ですから」

先生は淡々と言った。

その言葉の重さが、今度は嫌ではなかった。正解を示されたわけではない。ただ、白い紙の上へ、僕自身の手を戻された気がした。

僕は原稿用紙に目を戻した。

最初の行へ、ゆっくり文字を書く。

知らない場所で、知らない人の考え方を見たい。

書いたあと、消しゴムを持つ手が止まった。

大きすぎる気もした。幼い気もした。逃げたいだけに見えるかもしれない。それでも、その言葉はどこかの資料から借りてきたものではなかった。

霧島先生が、紙を覗き込まずに尋ねた。

「これは、あなたの言葉ですか」

「たぶん」

「たぶん、では困ります」

僕は書いた一行を見た。

紙の上の文字は頼りない。けれど、僕が何度も消して、残した文字だった。

「僕の言葉です」

言い直すと、喉の奥が軽くなった。

同時に、不安も残った。言えたから、すべてが解決したわけではない。大学名はまだ書けない。母に伝える言葉も、透子に答える言葉も、三行目まで続く理由も、まだ僕の中で形になっていない。

それでも、空白だけではなくなった。

霧島先生は、その一行に朱を入れなかった。代わりに、余白の端へ短く書いた。

――理由を急いで立派にしない。

「今日は、ここまででいいでしょう」

「三行なのに、一行しか書けてません」

「最初の一行が借り物でないなら、残りはあとから書けます」

「本当に?」

「文章も進路も、最初から完成している人は多くありません。完成しているように見せている人がいるだけです」

先生は原稿用紙を僕へ返した。

「それに、理由は名前より先にあるとは限りません。名前を書いたあとで、初めて理由が深くなることもある。大切なのは、どちらを先に書いたとしても、自分の言葉へ戻ってこられることです」

僕は原稿用紙をファイルへしまった。

志望希望調査票の白い欄とは違い、そこには一行だけ、僕の字が残っている。

知らない場所で、知らない人の考え方を見たい。

扉の前まで行ってから、僕は振り返った。

「先生」

「はい」

「僕がまだ志望校の名前を書かなくても、考えていないことにはならないですか」

霧島先生はすぐには答えなかった。薄い朱色のペンを指先で一度回し、机の上の紙の角を揃える。

「なりません」

胸の奥が少しだけ緩んだ。

けれど、先生は続けた。

「ただ、書かないままでいることが、考えている証拠になるわけでもありません」

僕は黙った。

「空白は、守りにもなります。けれど、隠れ場所にもなる。倉持くんがどちらにいるのかは、紙ではなく、これからの行動が決めます」

「これからの行動」

「誰かに伝えるかもしれない。もう少し調べるかもしれない。調査票に名前を書くかもしれない。書かないかもしれない。そのどれを選んでも、選んだ理由を自分で言えるようにしておくことです」

「自分で言えるように」

「はい。人に納得してもらうためではなく、あとで自分が取り消さないために」

その言葉が、胸の中へ静かに沈んだ。

僕は扉を開けた。

廊下の熱が顔に触れる。進路指導室の涼しさを出た途端、シャツの袖に残っていた熱が戻ってきた。窓から差し込む夕方の光が、床に細長い白い帯をつくっている。

僕はその帯を踏みながら、東棟三階からゆっくり階段を下りた。

踊り場まで来ると、どこか遠くで扇風機の軸が軋んだ。蝉の声が、その音を飲み込んでいく。校舎の外では、夏の終わりを知らせるように、声の数が少しずつ減っていた。

まだ、志望校の名前は言えない。

けれど、何も考えていないわけではない。

ファイルの中で、書きかけの一行が紙のざらつきを残している。名前のない理由は、名前のないままでも、もう完全な空白ではなかった。

階段を下りきる前に、僕は一度だけ足を止めた。

窓の向こうに、夕方の校庭が見える。白線は光の中で薄くほどけ、誰かが片づけ忘れたボールが、端のほうで動かずに残っていた。

僕はファイルの表紙を、指の腹で押さえた。

紙はまだ白い。

でも、白いままにしている理由を、僕はもう知り始めていた。

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