第10話 第10話「歩幅のずれた帰り道」

進路指導室を出たあと、僕は教室へ戻らなかった。
廊下の窓から差し込む光は、さっきよりも低くなっていた。床に落ちた窓枠の影が、階段の途中で途切れている。下の階から、椅子を引く音や、誰かの笑い声が上がってきた。面談を終えた生徒たちが、緊張から解放されたように声を大きくしている。
僕はファイルを胸に抱えたまま、階段を下りた。
一階の昇降口には、早瀬透子がいた。
自動販売機の横の壁にもたれ、細いストローの刺さった紙パックを持っている。いつもなら僕を見つけると、片方の眉を上げて、「遅い」とか「先生に説教された?」とか言う。けれど今日は、僕が階段を下りてくるのを見ても、すぐには口を開かなかった。
紙パックの中身が、ストローの先で小さく揺れている。
「待った?」
僕が言うと、透子は一度だけ笑った。
「ううん。自主的に待ってた」
「それは待ったってことじゃないの」
「細かいことを気にする男は、夏に嫌われるよ」
「もう十分暑いから、これ以上嫌われたくない」
いつもの調子に戻ろうとしたのだと思う。けれど、笑い声は途中で薄くなった。
透子は壁から背を離した。
「帰る?」
「うん」
昇降口を出ると、熱を含んだ風が顔に当たった。校門へ向かう道には、部活を終えた生徒が何人か歩いている。誰もが疲れていて、誰もが夏休みの終わりを意識しているように見えた。
透子は、僕の左側を歩いた。
普段なら、僕が少し前へ出ると歩幅を合わせる。今日は、最初から半歩後ろにいた。
「何か飲む?」
透子が自動販売機を指した。
「さっき飲んでなかった?」
「これは飲み物じゃなくて、気持ちを持ち歩いてるだけ」
「紙パックに?」
「紙パックだから持ち歩ける気持ちもあるの」
意味は分からなかったが、僕は笑った。
透子も笑った。
ただ、二人とも、笑い終わるのが早かった。
校門を出てしばらく歩くと、蝉の声が校舎の中にいたときより濃くなった。交差点の信号が赤に変わり、僕たちは並んで立ち止まる。車道を走るトラックの風が、透子の髪を一度だけ揺らした。
「今日、何の話してたの」
透子が言った。
「先生と?」
「うん」
「志望理由書」
「書けた?」
「一行だけ」
「一行って、すごいのか少ないのか分からないね」
「僕も分からない」
透子は前を向いたまま、紙パックの角を指で押した。
「どんな一行?」
「言わない」
「出た。倉持の秘密主義」
「秘密主義じゃなくて、まだ人に見せるほどじゃないだけ」
「それ、秘密主義の人がよく使う言い方だよ」
信号が青になった。
僕たちは歩き出した。けれど透子は、いつもより少し速かった。僕が追いつくと、また少しだけ速度を落とす。その繰り返しで、二人の間に細い距離ができたり消えたりした。
「ねえ」
透子が言った。
「何?」
「私には、言いたくない?」
声は軽かった。けれど、語尾だけが妙に静かだった。
僕は返事をする前に、彼女の顔を見た。
透子は前を向いていた。横顔には笑いの跡が残っていない。使い込んだペンケースが、鞄の中で歩くたびに小さく鳴っている。
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、どういうわけ?」
「言ったら、今までと同じではいられない気がする」
「今までと同じって?」
「帰り道に、こうやって話せなくなるとか」
透子は少し黙った。
「進路を言ったくらいで?」
「言ったくらい、って思えないんだよ」
「うん」
意外にあっさり返されて、僕は透子を見た。
彼女は歩みを緩めなかった。
「私も、言ったら変わると思ってるから」
「透子も?」
「私が何も考えてないように見える?」
「そうは言ってない」
「でも、いつも冗談で流してるから。どこ受けるのって聞かれても、宇宙大学とか言うし」
「それは聞いた人が悪いよ」
「何が?」
「真面目に聞いたら、宇宙大学なんて言わないでしょ」
「真面目に聞かれるのが嫌なの」
透子はそこで初めて、僕のほうを見た。
「言ったら、急にその人になるじゃん。成績とか、家のこととか、向いてる向いてないとか、全部つけられて。私はただ、考えてる途中なのに」
彼女の声は、怒っているようでも泣きそうでもなかった。ただ、いつもの軽さを一枚ずつ外していくようだった。
「だから、颯真にも聞かなかった」
「聞いてたよ」
「聞いてたけど、ちゃんとは聞いてない。冗談で聞いて、颯真が笑ったら、それで終わりにしてた」
「それでよかったんじゃないの」
「よくなかったから、今こうしてる」
信号のない横断歩道の前で、透子が立ち止まった。
車の音が途切れるまで、彼女は渡らなかった。僕も隣で待った。夕方の道路に、アスファルトの熱がまだ残っている。靴底から上がった熱が、足首のあたりへじわじわ伝わってきた。
「颯真が言わないから、私も聞かないほうがいいと思った」
透子は道路の向こうを見たまま言った。
「聞いたら、颯真が困る。困った顔をしたら、私も困る。だから、いつも通りにしてれば大丈夫だと思ってた」
「僕も、透子が気にしてないと思ってた」
「気にしてるよ」
短い言葉だった。
そのあと、透子はすぐに付け足した。
「でも、気にしてるって言うの、ちょっと恥ずかしい。友だちの進路を気にしてます、って言ったら、重いじゃん」
「重くないと思う」
「颯真はそう言うけど、実際に毎日聞かれたら嫌でしょ」
「それは……」
僕が言葉を濁すと、透子は小さく笑った。
「ほらね」
車が一台、遠くから近づいてきた。僕たちはさらに歩道の内側へ寄った。透子の肩が僕の腕に触れそうになり、触れないまま離れる。
「僕は、言ったあとに、透子が変わるのが怖い」
口にすると、思っていたより幼い言葉に聞こえた。
「変わるって?」
「僕を見る目が」
「どう変わるの」
「分からない。でも、今までみたいに、何も知らないまま話せなくなる」
透子は紙パックを持ち替えた。中身はもうほとんど残っていないらしく、ストローが空気を吸う音がした。
「何も知らないから、今まで話せたのかな」
「そうじゃない」
「じゃあ、何を知ったら駄目なの?」
答えられなかった。
第一志望の大学名を言えば、透子はきっと何かを思う。すごいとか、遠いとか、颯真らしいとか。どんな言葉であっても、今までと同じ場所には戻れない。
けれど、何も言わないままでも、僕たちは少しずつ変わっていた。
「私、颯真が言いたくなるまで待つつもりだった」
透子が言った。
「でも、待つって、何もしないことじゃないんだね」
「どういうこと?」
「隣にいるって、意外と体力いる」
「体力?」
「歩幅を合わせるとか、話題を考えるとか、気にしてないふりをするとか」
透子はそこで笑ったが、今度の笑いは消えなかった。
「だから、今日は少し疲れた」
僕の胸のあたりに、細い痛みが残った。
透子は、僕が何も言わないことで傷ついていた。大きく責めるほどではない。泣くほどでもない。ただ、毎日の帰り道の中に、少しずつ見えない荷物を増やしていた。
「ごめん」
僕が言うと、透子はすぐに首を振った。
「謝ってほしいわけじゃない」
「でも」
「謝られると、また私が許す側みたいになるから嫌」
「じゃあ、どうすればいい?」
透子はしばらく考えた。
「名前は、まだ言わなくていい」
「え?」
「言えるなら聞く。でも、言えないのに無理やり言ったら、たぶん颯真はあとで後悔する。そういう顔してる」
「どんな顔?」
「机の端を見る顔」
僕は思わず笑った。
透子もつられて笑った。
信号が変わり、僕たちは横断歩道を渡った。今度は僕が少し先を歩いた。すると透子が、何も言わずに追いついてきた。
駅へ向かう道の途中で、透子が言った。
「でも、理由は聞きたい」
「理由?」
「どうしてそこへ行きたいのか。大学名じゃなくていいから」
僕はファイルの表紙を指で押さえた。中には、霧島先生に返された一行がある。
知らない場所で、知らない人の考え方を見たい。
「まだ、うまく言えない」
「うまくなくていいよ」
透子は前を向いたまま言った。
「私も、うまく言えないから」
駅前の時計は、午後五時を少し過ぎていた。夕方の光がビルのガラスに反射し、歩道の白線を薄く照らしている。
「明日も学校?」
透子が訊いた。
「行く。たぶん空き教室にいる」
「佐伯も?」
「分からない」
「じゃあ、私も行く」
「何しに?」
「扇風機の風を浴びに」
「風、ぬるいよ」
「知ってる。あれくらいが、今の私たちにはちょうどいいんじゃない」
透子はそう言って、紙パックを駅前のごみ箱へ入れた。
僕たちは改札の前で別れた。透子はいつものように手を上げたが、今日はすぐには背を向けなかった。
「颯真」
「何?」
「明日、いるから」
それだけ言うと、彼女は改札の向こうへ消えた。
帰宅すると、母は台所で面談用のプリントを折っていた。夕食の味噌汁から、薄い湯気が上がっている。テレビでは、音量を絞ったニュースが流れていた。
「おかえり。遅かったね」
「透子と話してた」
「そう。珍しいね」
母はプリントの角を揃えた。紙の端を何度も指で押さえる癖が出ている。
「今日、先生とは何を話したの?」
「志望理由書のこと」
「調査票、まだ出してないんだっけ」
「うん」
「無理に急がなくてもいいけど、そろそろ先生も困るでしょう」
「母さんは?」
母の手が止まった。
「何が?」
「僕がどこを受けたいか、知りたい?」
母はすぐに答えなかった。折りかけのプリントを持ったまま、台所の流しを見た。蛇口から落ちた水滴が、金属の底で小さく弾ける。
「知りたいよ」
「どうして?」
「どうしてって……あなたのことだから」
「地元の大学じゃなくても?」
母はプリントを置いた。
「遠いところ?」
「まだ分からない」
「そう」
声は穏やかだった。けれど、母の指がプリントの端を強く押さえているのが見えた。
「無理しなくていいって言ったけど、行きたい場所があるなら、無理しないことと諦めることは別だからね」
母は顔を上げた。
「それは、ちゃんと聞かせて」
僕は答えられなかった。
ただ、ファイルの中の一行を思い出した。
知らない場所で、知らない人の考え方を見たい。
その言葉を、いつか母の前で読む日が来るのかもしれない。
夕食の支度をする音が、また台所に戻ってきた。包丁がまな板に触れ、冷蔵庫のモーターが低く唸る。生活は、僕が答えを出すまで待ってくれるわけではない。
それでも、母はプリントを折る手を止めたままだった。
僕は鞄を自分の部屋へ置きに行く前に、振り返った。
「母さん」
「うん」
「明日、少し話す」
母はすぐには笑わなかった。
ただ、折り目のついた紙を、今度は折り直さずに置いた。
「分かった」
その返事の向こうで、夕方の蝉が一度だけ鳴いた。ほどなくして、声は途切れた。
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