第8話 扇風機の前で、止まった言葉

面談の時間まで、まだ四十分ほどあった。

教室へ戻る気にはなれず、僕は東棟三階へ向かった。階段の踊り場に差し込む夕方の光は、窓枠の形のまま床に落ちていた。そこを踏むたび、靴底に薄い熱が伝わってくる。下の階からは、面談を終えた親子の声が聞こえた。母親が何かを尋ね、息子が短く返す。その声も、三階まで届くころには意味を失い、古い校舎の隙間に溶けていた。

東棟三階の第2会議室は、廊下より先に熱を溜めている。

扉を押すと、チョークの粉を含んだ空気が顔にまとわりついた。黒板の端には、いつの授業か分からない線が薄く残っている。窓際の扇風機は、首を振るたびに軸の奥で金属を擦り合わせた。

ぎい、ぎい、と、風より先に音が届く。

窓は少し開いていた。カーテンが膨らんでは戻り、そのたびに白い粉が机の上でわずかに舞った。

遙斗は、いつもの窓際の席にいた。

机の上には、地域の美術館のパンフレットが数枚並んでいる。表紙の青は日に焼けて薄くなり、紙の端には何度も親指で押さえた跡がついていた。遙斗は僕が入ってきたことに気づいているはずなのに、顔を上げなかった。

パンフレットの写真を指でなぞっている。

「ここ、使っていいの?」

僕が言うと、遙斗はページをめくった。

「誰も使ってない」

「そうじゃなくて。先生に見つかったら」

「鍵が開いてた」

「鍵の話じゃないよ」

「じゃあ、出る?」

「いや。出ない」

遙斗はそれ以上何も言わなかった。僕は二つ離れた机に鞄を置いた。持ち手を離すと、鞄の中のファイルが机にぶつかり、紙の重なった乾いた音がした。

調査票が入っている。

第一志望の欄には何も書かれていない。正確には、大学名の最初の一文字を書いて、消した跡だけが残っている。光の当たり方によって、その文字は薄い傷のように浮かんだ。

遙斗はパンフレットを一枚、僕のほうへ向けた。

「この前の展示、行った?」

「市立美術館の?」

「他にないだろ」

「行った。たぶん」

「たぶんって何だよ」

「行ったと思う。入口に大きい写真があった」

「それは入口だから、ある」

遙斗の口元がわずかに動いた。笑ったのか、呆れたのかは分からなかった。

パンフレットには、古い商店街の写真と、使い込まれた道具の写真が載っていた。展示室の平面図も小さく印刷されている。作品番号の横に、細い矢印が何本も引かれていた。

「この展示、入口の写真を正面に置いたのは失敗だ」

「いきなり厳しいな」

「入ってすぐ目立つから、みんなそこで止まる。後ろから来た人が詰まるし、次の部屋へ行く流れも切れる。本当は、最初に小さい道具を置いたほうがいい」

「どうして?」

「近くで見られるから。古い木の傷とか、金具の錆びとか。そういう細かいものを見てから大きい写真へ行けば、写真の中の町も、ただの景色には見えなくなる」

「僕には、全部同じに見えた」

「だから、何も考えずに歩いてたんだろ」

「展示室でまで考えたくないよ」

「考えない人がいるから、置く側が考える」

扇風機が首を振り、こちらを向いた。ぬるい風が一度だけ届き、汗で額に貼りついた前髪を持ち上げた。すぐに首が反対へ向き、風も途切れる。

遙斗はパンフレットの端を親指で押さえた。紙の角が少し曲がる。

「作品を置くだけなら、誰でもできるだろ」

彼は写真を見たまま言った。

「見せる順番を決めるほうが、たぶんむずかしい」

僕は返事をしなかった。

模試の偏差値表なら、数字の並びを見ればいい。高いか低いか、判定がどうか、合格可能性がどれくらいか。数字には順番がある。上から並べれば、どこを目指すべきかも、それらしく見えてくる。

けれど、展示の順番には数字がない。

どこで人が立ち止まるか。何を見たあとなら、別のものに気づけるか。照明が強すぎれば、古い紙の色が死ぬ。説明文が長ければ、作品を見る前に読むことへ疲れてしまう。遙斗は、そういう目に見えないものを、指で触れるように話していた。

「そういう仕事がしたいの?」

僕が尋ねると、遙斗はパンフレットを閉じた。

紙と紙が重なる音が、室内に乾いて響いた。

「……したい」

短い言葉だった。

けれど、その声は普段の遙斗と違っていた。教室で教師に当てられたときの、必要なだけの返事ではない。途中で引き返すことを考えた人間が、それでも最後まで言い切った声だった。

「美術館で働きたい。作品を作る側じゃなくて、企画する側。展示の順番を決めて、照明を考えて、説明文を書いて、来た人がどこで足を止めるかを見る」

「学芸員みたいな?」

「学芸員だけじゃない。展示をつくる仕事はいろいろある。保存を考える人もいるし、教育普及の企画をする人もいる。子ども向けのワークショップを考えたり、地域の人から話を聞いて、何を残すか決めたりする」

遙斗は、そこで初めて僕の顔を見た。

「美術館は、きれいなものを置いておく場所じゃない。誰かが忘れそうなものを、別の誰かが見られる形にする場所だと思う」

「そんなふうに考えたことなかった」

「考えなくても入れるように、展示をつくるのが仕事だから」

「遙斗は、入った瞬間からそんなこと考えてるの?」

「考えてる」

「疲れない?」

「疲れる。でも、見てしまう」

遙斗は窓の外へ視線を逃がした。校庭では、野球部が用具を片づけている。夕方の光が白いユニフォームを薄く染め、金属バットをしまう音が一度だけ響いた。

「好きなんだな」

僕が言うと、遙斗の口元が固くなった。

「好きって言うと、軽くなる」

「どういう意味?」

「好きだからやりたい、で終わると、趣味みたいに聞こえる。僕は、それで食べていきたい。仕事にしたい。だから、好きだけじゃ足りない」

「でも、好きじゃなかったら、そこまで考えないだろ」

遙斗はすぐに答えなかった。

指先でパンフレットの角を押さえ、それからゆっくり手を離す。

「……そうかもしれない」

「家の人には言ったの?」

その瞬間、扇風機の音が一段低くなった。

遙斗はパンフレットを見下ろした。表紙の青い印刷が、白い粉の浮いた机の上で妙に鮮やかに見える。

「言った」

「言えたんだ」

「言えたわけじゃない。言うしかなくなった」

「どういうこと?」

「父親の知り合いが来たとき、進路の話になった。店を継ぐなら、大学へ行くより先に仕入れのことを覚えたほうがいいって言われた。親戚も、そうだなって頷いた。誰も僕に聞いてなかった。僕が継ぐことになっていて、その先の話だけが進んでいた」

遙斗は視線を下げたまま続けた。

「だから、違うと言った。美術館で働きたいって」

「それで?」

「何をするんだ、と聞かれた。僕は展示の企画とか、保存とか、地域の資料を扱う仕事だと答えた。そうしたら、父親は店の帳簿の話を始めた。店をどうするか、仕入れ先はどうするか、誰に任せるか。聞かれたようで、何も聞かれてなかった」

遙斗の声には、怒鳴るような熱はなかった。熱を出す場所を失って、奥へ固まったような声だった。

「おまえの話は、店の話に戻すための道具だったんだ」

僕が言うと、遙斗は一度だけ頷いた。

「だから、もう家では話してない」

「諦めたの?」

「諦めたふりはしてる」

「ふり?」

「店を継ぐつもりだって言えば、みんな安心する。親戚も、父親も、店の従業員も。僕も、その場では楽になる」

遙斗は窓の外を見たまま言った。

「でも、何度もふりをしていると、本当にそう思っていたのか分からなくなる。最初は、家を継ぐのは違うと思っていた。次に、違うけど仕方ないと思った。その次には、仕方ないなら、それでいいと思おうとした。そうやっているうちに、自分が何を好きだったのかまで、曖昧になった」

僕は鞄の中の調査票を思い出した。

僕も、名前を書かないことで、自分の望みを守っているつもりだった。誰にも見せなければ、誰のものにもならない。誰にも意味を足されない。そう思っていた。

けれど、言葉にしないまま守れるものは、どれくらいあるのだろう。

「だから、ここで話してるの?」

僕が訊くと、遙斗は少しだけ目を細めた。

「おまえが聞いたから」

「聞いてないよ。遙斗が勝手に話してる」

「そうだな」

「それでいいの?」

「よくないから、話してる」

意味が分からず、僕は遙斗を見た。

「話さないでいると、自分でも本当かどうか分からなくなる。ここで口にすると、少なくとも今は、自分の言葉になる」

「でも、誰かに聞かれたら、その瞬間から他人のものになるんじゃないの」

「全部はならない」

「どうして?」

「聞いた人がどう受け取るかまでは、選べない。でも、何を言うかは選べる。何も言わなければ、選ぶことすらできない」

その言葉は、僕の胸の奥に残った。

何も言わないことは、自分を守るための選択だと思っていた。けれど実際には、相手に解釈を委ねることでもある。沈黙の中身を、相手が勝手に埋める。期待でも、心配でも、諦めでも。僕が何も置かなければ、誰かの言葉がそこに置かれる。

「倉持は?」

遙斗が言った。

「何が?」

「おまえは、何を隠してる」

反射的に、僕の視線が机の端へ逃げた。

そこには細かな傷が並んでいる。爪を立てれば、白い粉が溝に溜まった。

「別に、何も」

「その言い方、早瀬と同じだな」

「透子に何か言われたの?」

「言われてない。おまえが進路の話になると、机の端を見るから」

僕は目を逸らした。

窓の外で、野球部の最後の一人がボールを拾っている。夕陽を受けた白い球が、一度だけ光り、少年の手の中へ消えた。

「第一志望は、ある」

言ったあと、喉がひどく乾いた。

「でも、言えない」

遙斗は急かさなかった。パンフレットの端を親指で押さえ、紙が曲がるぎりぎりまで力を加えている。

「言えない理由は?」

「言ったら、誰かのものになるから」

「誰の?」

「先生とか、母さんとか。親戚とか、周りの人の。成績がいいから、その学校を目指すんだって思われる。受かったら、やっぱり倉持はすごいって言われる。落ちたら、どうしてそんなところを選んだって言われる。僕が何を学びたいのかより、受かるかどうかだけが残る」

「だから、名前を書かない」

「書かなければ、まだ僕のものだと思ってる」

遙斗は僕を見た。

その目に、同意も反対もなかった。ただ、言葉の置かれた場所を測るような目だった。

「それで、何を守ってる?」

僕は答えられなかった。

「名前を書かなければ、誰にも先回りされない。誰にも意味を足されない。そう思ってる。でも、名前を書かないことで、何が残る?」

「……自由」

「自由?」

「どこへでも行ける。まだ、選び直せる」

「それは本当に自由か」

言葉が詰まった。

遙斗は、パンフレットを膝の上へ置いた。扇風機の風が届かず、彼のシャツの襟は汗で少し濃くなっている。

「展示室で、作品を置かない場所がある。何も置いてない壁だ。空白を残すこと自体に意味がある場合もある。でも、置くものが決まらなくて空いているのと、見せるために空けているのは違う」

「調査票の空欄も同じだって言いたいの?」

「分からない。でも、おまえが何のために空けてるかは、考えたほうがいい」

扇風機が一度、明らかに弱まった。

羽根が惰性で数回回る。ぎい、という軸音が長く伸び、風が途切れた。室内に熱が溜まり、チョークの粉の匂いが濃くなる。シャツの袖が肌に貼りつき、額から落ちた汗がこめかみを伝った。

遙斗は止まった扇風機を見た。

「夢は、言ったら傷つく。言わなくても消える」

「どっちがまし?」

「知らない」

「遙斗でも分からないんだ」

「分からないから、言ってる」

彼はパンフレットを閉じた。

「消えたあとで、守っていたつもりになるのは嫌だ。僕はもう、何度もそれをやってる。家を継ぐふりをして、美術館の話をしない。興味がないふりをして、パンフレットだけ集める。そうしているうちに、周りから見れば、僕は何も望んでいない人間になる」

僕は、調査票の白い欄を思い浮かべた。

そこに名前がないから、誰も僕の望みを知らない。けれど僕自身も、そこに自分の名前を置いていない。

「遙斗は、家ではまだ継ぐって言ってるの?」

「今日は、たぶんそう言う」

「また、ふりをするんだ」

「親戚が来るから」

「嫌じゃないの?」

「嫌だよ」

遙斗は窓の外を見たまま、はっきり言った。

「嫌だけど、毎回正面からぶつかるほど強くない。言えば店の人間関係が変わる。父親が黙る。母親が間に入る。親戚が余計なことを言う。そういうのが分かるから、先に黙る」

僕はその言葉を聞きながら、自分の中にも同じ仕組みがあることを知った。

母が困る。先生が心配する。親戚が期待する。透子が戸惑う。

相手の顔を先に想像して、僕は自分の言葉を引っ込める。相手を傷つけないためだと思っていた。けれど、その実、相手の反応を見るのが怖いだけなのかもしれない。

「じゃあ、遙斗も逃げてるんじゃないの」

口に出してから、少し後悔した。

遙斗は怒らなかった。パンフレットの表紙を見つめ、しばらく黙っていた。扇風機の羽根が、風のない窓辺でわずかに揺れる。

「そうかもしれない」

やがて彼は言った。

「でも、逃げてると分かったら、戻れる。分からないまま継いだことにするほうが嫌だ」

僕は顔を上げた。

遙斗の口元は固かった。怖くないわけではない。家に帰れば、店の帳場に座り、親戚の前で曖昧に笑うのだろう。それでも、ここで言ったことをなかったことにはしない。その頑固さが、彼の沈黙の形を変えていた。

廊下から足音が近づいてきた。

誰かが三階まで上がり、扉の前で立ち止まる。僕と遙斗は同時に顔を上げた。

しかし、扉は開かなかった。

足音は、しばらくしてから遠ざかった。

「そろそろ行く」

遙斗はパンフレットをまとめた。表紙の青いものを一番下に置き、折れた角を内側へ隠す。最後に、小さな栞を一枚挟んだ。その手順には、展示の導線を決めるときと同じ慎重さがあった。

「家の手伝い?」

「今日は帳場。親戚が来る」

「進路の話をされる?」

「たぶん、店の話をされる」

「何て答えるの」

遙斗は立ち上がった。

「まだ決めてないって言う」

「それ、逃げじゃないの」

「そうかもしれない」

「でも、今日は違う?」

遙斗は扉の前で足を止めた。

「今日は、おまえに話した」

それだけの言葉だった。

けれど、僕にはそれが、遙斗なりの返事に聞こえた。夢を誰かに預けたのではなく、自分の手から外へ出した。そのことで傷つく可能性も引き受けたのだ。

「作品を置く場所を決めるとき、見えるものだけで考えたら駄目なんだ」

遙斗は振り返らずに言った。

「人がどこから来て、どこで迷って、何を見落とすかまで考える。進路もたぶん同じだろ」

「同じ?」

「行きたい場所だけ見てたら、今どこで立ち止まってるか分からなくなる。止まってる理由が分からないと、次に進む方向も決められない」

扉が開いた。

廊下から白い光が差し込み、遙斗の肩と机の縁を照らした。光の中で、チョークの粉が小さな粒になって浮かんでいる。

「じゃあな」

「うん」

遙斗は出ていった。

僕は一人で空き教室に残った。

扇風機は止まったままだった。動かない羽根の形が、さっきまでそこにあった風をかえって思い出させる。僕は机の上に残った白い粉を指先で払った。粉が皮膚の溝に入り込み、紙のざらつきと同じ感触を残した。

鞄からファイルを取り出す。

志望希望調査票の第一志望欄は、空白のままだった。けれど、来たときとは違う空白に見えた。

何もないのではない。

書かれていない理由と、まだ書かれることを待っている名前が、白さの内側で重なっている。

僕は鉛筆を取り出した。

学校名を書くことは、まだできなかった。

代わりに、調査票の裏側の余白へ、霧島先生から渡された課題を書き写す。

何を学びたいのか。

鉛筆の先が止まった。

窓の外で、夕蝉の声が急に遠くなった。校内放送が下校時刻を告げ、最後の言葉へ届く前に途切れる。残った無音のなかで、扇風機の軸音だけが戻ってきた。

ぎい、ぎい、と、止まりかけた羽根が回る。

僕は紙の上に、ゆっくり書いた。

知らない場所で、知らない人の考え方を見たい。

書き終えた一行は、頼りなかった。立派でもない。誰かに見せれば、逃げたいだけだと言われるかもしれない。

それでも、借り物の言葉ではなかった。

消しゴムを持つ手は、動かなかった。

扇風機の向こうで、夏の風が窓を押している。

僕は白い欄に名前を書く前に、自分の理由を、初めて紙の上へ置いた。

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