第7話 廊下の熱と、言いそびれた紙

夏休み最後の三者面談の日、県立椎名台高校の廊下には、古い校舎に染みついた熱がまだ残っていた。

窓は半分ほど開いていたが、外の蝉の声は涼しさを運んでこない。むしろ、開いた窓から入り込んだ声が、廊下の壁や床にぶつかって、逃げ場をなくしているようだった。天井から垂れた扇風機は首を振りながら、ぬるい風を一定の方向へ送り続けている。風が頬に触れるたび、シャツの袖に残った汗が冷え、すぐにまた熱を持った。

教室の前のベンチに、僕は座っていた。

手の中には、何度も折り直した志望希望調査票がある。第一志望の欄は、消しゴムをかけすぎて表面が毛羽立っていた。大学名の最初の一文字だけが薄く残り、その上を白い消し跡が覆っている。光の角度によっては、書こうとした文字が浮かんで見えた。

紙は、何も言わない。

それなのに、手のひらの中でずっとこちらを見ている気がした。

隣では、早瀬透子が冷たい炭酸のペットボトルを転がしていた。コンビニの袋から出してすぐに買ったらしく、表面には細かな水滴が浮いている。彼女はそれを指先でなぞりながら、何か言いかけては口を閉じた。

いつもの透子なら、こういう場所でも冗談を言う。

「三者面談って、三人で面接するんだから、誰か一人くらい途中で寝てもいいよね」とか、「先生とお母さんが同時にしゃべったら、私は黙って窓から逃げる」とか。

けれど今日は、口元に浮かんだ笑いが、何度も途中で消えた。

「……今日、暑いね」

結局、彼女が言ったのはそれだけだった。

「うん」

僕は調査票から顔を上げずに答えた。

短い返事のあと、透子はもう一度ペットボトルを転がした。透明な容器の中で、残った炭酸が小さく揺れる。僕はその音を聞きながら、彼女の顔を見た。

目が合う前に、透子は視線を窓の外へ逃がした。

僕は人の顔色を見るのが癖になっている。声の高さ、返事までの間、笑い方の違い。相手が何を言ったかより、言わなかったことのほうが先に目につく。

透子は、僕に何か聞きたい。

けれど、聞くことで僕を追い詰めるかもしれないと思っている。

そういう迷いが、彼女の指先の動きに出ていた。

僕は、調査票を二つ折りにした。紙の角が指の腹に当たり、ざらりと擦れる。

「早瀬は、面談で何を言うの」

できるだけ自然に尋ねたつもりだった。

透子は一度だけ笑った。返事の前に入る、いつもの短い笑いだったが、今日はその音が薄かった。

「何をって?」

「志望校とか」

「まだ決めてない、で通す」

「またそれ?」

「便利なんだよ。まだ決めてないって言葉。誰も怒らないし、誰も深掘りしないし」

「でも、先生には深掘りされるだろ」

「そのときは、もっと便利な言葉を使うの。検討中、とか、家族と相談して、とか」

「それ、便利というより先延ばしじゃない?」

透子はペットボトルの水滴を親指で押しつぶした。

「倉持にだけは言われたくないなあ」

「僕は……」

そこで言葉が止まった。

言い返そうとしたのに、何を言えばいいか分からない。自分の調査票は白いままだ。僕もずっと、「まだ決めていない」という言葉の内側に隠れている。

透子は僕の沈黙を見て、すぐには笑わなかった。

「ごめん」

「何が?」

「今の、意地悪だった」

「別に」

「その別に、最近ちょっと便利すぎない?」

彼女はそう言って、ペットボトルを膝の上に置いた。

廊下の向こうで、面談を終えたらしい親子が教室から出てきた。母親は手にしたクリアファイルの角を何度も折り直しながら、息子に何か話しかけている。少年はうつむいたまま、返事をしなかった。

二人の足音が遠ざかる。

その後ろ姿を見ていると、僕の母も、今日は同じようなファイルを持っているのだろうと思った。冷蔵庫に貼られた学校からの通知を外し、面談用のプリントをきちんと折り、古いボールペンを鞄に入れてきたはずだ。

母は、書類を扱うのが速い。

角を揃え、必要な欄を確認し、締め切りを手帳に書き写す。家計簿も、買い物のメモも、学校からの手紙も、いつも同じように整えていく。

けれど、僕の気持ちだけは、どの欄に入れればいいのか分からないまま、ずっと置き去りになっていた。

「倉持」

透子の声がした。

「うん」

「その紙、今日出すの?」

「たぶん」

「たぶんも増えたね」

「何が?」

「倉持の三点セット。大丈夫、まだ決めてない、たぶん」

僕は少しだけ笑った。透子も笑ったが、すぐに口を閉じた。

教室の前には、文化祭実行委員が作った掲示が貼られていた。秋の行事予定、クラス展示の案、係分担の仮決定。まだ夏の熱が残っているのに、紙の上だけでは季節が先へ進んでいる。

その白い掲示を見ていると、面談の順番が近づいていることが分かった。

「倉持くん」

教室の中から、霧島先生の声がした。

僕は立ち上がりかけたが、足が動かなかった。

「お母さん、もう来てるよ」

先生の声は穏やかだった。急かす調子ではない。だからこそ、逃げる理由を見つけにくかった。

僕の向かいに座っていた透子が、ペットボトルを鞄へしまった。濡れた指先を制服のスカートで拭い、立ち上がる。

「じゃあ、私、先に行くね」

「うん」

「……倉持」

透子は一歩進み、それから止まった。

何かを言いかけたのが分かった。僕は反射的に顔を上げる。彼女の口元がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。

「どうしたの」

「いや」

透子は一度笑った。

「今日、ちゃんと水飲んでね。顔、紙みたいだから」

「紙みたいって何」

「白くて、折り目が多い」

「人間に使う表現じゃないだろ」

「そう? 私はけっこう好きだけど」

透子はそれだけ言うと、階段のほうへ歩き出した。いつもなら僕より半歩先を行くのに、今日は数歩進んだところで振り返った。

僕がまだベンチの前に立ったままだと知ると、彼女は何も言わず、歩く速度を落とした。

その背中が階段の陰へ消えるまで、僕は動けなかった。

手の中の調査票が、汗を吸って柔らかくなっている。

教室へ入ると、扇風機の風が少しだけ強くなった。黒板の前に、霧島先生と母が座っている。母は膝の上にクリアファイルを置き、その角を指で整えていた。僕と目が合うと、いつものように笑おうとした。

けれど、笑い切る前に口元が止まった。

「暑かったでしょう」

母が言った。

「うん」

「麦茶、車に置いてあるから。帰りに飲む?」

「大丈夫」

母の指が、ファイルの角から離れた。

霧島先生は僕の手元を見た。視線が調査票の折り目で止まり、すぐに僕の顔へ戻る。

「そこに座ってください」

僕は母の隣に座った。

椅子の背が汗ばんだシャツに触れた。冷房の風は、教室の前方までしか届いていない。後ろの席では、誰かが残していった問題集が開いたままになっていて、紙とチョークの粉の匂いが混ざっていた。

「まず、夏の学習についてですが」

霧島先生が話し始めた。

母は頷きながら、持ってきたボールペンで何かを書き留める。成績、模試、部活、これからの予定。話題は順番どおりに進んでいく。

僕は霧島先生の声を聞きながら、手元の紙を見ていた。

第一志望。

第二志望。

現時点での志望学部。

どの欄にも、鉛筆の跡だけが残っている。

「倉持くんは、模試の結果も安定していますし、選択肢は広いと思います」

母が小さく息を吐いた。安心したときの音だった。

「そうですか。じゃあ、無理に遠くへ行かなくても、こちらのほうで十分……」

「母さん」

自分でも驚くほど早く声が出た。

母がこちらを見る。

教室の扇風機が、首を振るたびに軸を軋ませた。霧島先生は何も言わず、僕の次の言葉を待っている。

「何?」

「いや」

喉の奥まで上がった言葉が、そこで止まった。

遠くへ行きたい。

知らない場所で、知らない人の考え方を見たい。

その一行が、ファイルの中にある。何度も書き直して、やっと残した僕の言葉だ。

けれど、母の顔を見た瞬間、その言葉はまた紙の裏側へ戻っていった。

母は、僕を困らせたいわけではない。家計のことも、生活のことも、僕よりずっと考えている。僕が遠くへ行けば、費用も増える。知らない土地で暮らすことになる。そんな現実を、母が心配するのは当たり前だ。

だから、言えない。

言わないほうが、母のためだと思った。

「まだ、決めてない」

僕は言った。

母は少し安心したように頷いた。霧島先生は、僕の顔を見たまま、何も記録しなかった。

面談が終わると、母は椅子から立ち上がり、ファイルの角を整えた。

「帰りに、駅の向こうの本屋に寄る? 大学案内、もう少し見たいなら」

「いいよ」

「無理しなくていいからね」

その言葉はやさしかった。

だから、僕は余計に何も言えなかった。

教室を出ると、廊下の熱がまた身体にまとわりついた。母は僕の少し前を歩き、面談用のクリアファイルを胸に抱えている。僕はその背中を見ながら、調査票を鞄の中へしまった。

階段の踊り場で、母が足を止めた。

「颯真」

「うん」

「さっき、何か言いかけたでしょう」

母の顔には、心配の色が浮かんでいた。けれど、それをすぐに隠すように、いつもの穏やかな表情へ戻ろうとしている。

「別に」

言った瞬間、母の目がわずかに揺れた。

僕はそれを見た。

見てしまった。

「……ごめん」

「謝らなくていいよ」

母はそう言って、また歩き出した。

「無理しなくていいから。どこでも、ちゃんと考えて選べばいいし。近いところでも、遠いところでも、生活が回るようにするから」

「うん」

「ただ、急に言われると、お母さんも準備があるからね。お金のこととか、部屋のこととか。だから、決めたら早めに教えて」

「うん」

母はそれ以上、何も聞かなかった。

その代わり、階段を下りるとき、僕の鞄の肩紐がずり落ちているのに気づいて、黙って持ち上げてくれた。指先が布をつまみ、肩の位置へ戻す。すぐに離れた手が、何か言い足りないまま宙で止まり、それから母の脇へ落ちた。

校舎の外へ出ると、夕方の光が目に入った。

蝉の声はまだ大きい。けれど、その奥で、校内放送の切れた音がした。最後まで届かなかった声の残響が、古い校舎の窓に薄く残っている。

母と並んで歩きながら、僕は鞄の中の調査票に触れた。

紙の白い欄は、まだ空白のままだった。

けれど、その空白は、もう何も知らない白ではなかった。言わなかった言葉と、言いそびれた言葉が、折り目の内側に重なっている。

僕は母の歩幅を見た。

いつもより少しだけ遅い。僕に合わせているのか、それとも、何かを待っているのかは分からない。

分からないまま、僕も歩く速度を落とした。

夏の終わりは、音を立てずに近づいていた。

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廊下の熱と、言いそびれた紙 - 白い欄のままで - 誰でも作家life