第5話 三行の下書き

進路指導室は、職員室より少し静かだった。

職員室のように電話が鳴ることも、誰かが椅子を引く音が重なることもない。古い冷房が、壁の内側で低く息をしている。冷たい風は机の上まで届いていたが、湿気を追い出すほど強くはなく、頬に触れたあと、紙の匂いを運んで消えた。

僕は、霧島先生の机の前に座っていた。

手元には、昨日から何度も書き直した原稿用紙がある。題名の欄には「志望理由」と書いてある。その下に、三行どころか十行近い文章が並んでいた。

――幅広い教養を身につけ、社会に貢献できる人材になるため、充実した教育環境を有する貴学で学びたい。

書いたのは僕だ。けれど、その一文を読み返すたび、誰かの口から借りてきたような感じがした。学校案内の後ろのほうに載っていた例文と、模試の解説欄と、先生が授業中に言ったことを、読みやすい順番に並べただけだった。

霧島先生は、僕から原稿用紙を受け取ると、題名を見なかった。

最初に書き出しを読み、次に二行目へ目を移した。薄い朱色のペンを右手に持っている。赤ではない。赤よりも淡く、夕方の光が紙に残ったような色だった。

「これは、倉持くんが書いた文章ですか」

「はい」

「質問の答えになっていますか」

僕は原稿用紙の上に視線を落とした。

「志望理由を書く課題なので、志望理由を書いたつもりです」

「それは、課題の名前を答えているだけです」

先生は僕を責める口調ではなかった。むしろ、間違いを見つけたというより、机の下に落ちた消しゴムを拾うような声だった。

「ここに書かれていることは、たぶん全部正しいです。教養を身につけることも、社会に貢献することも、教育環境が充実していることも。けれど、正しい文章は、正しい人のものとは限りません」

「正しい人のもの」

「あなたが書いた言葉として、残るかどうかです」

僕は机の縁を指でなぞった。木の表面には細かな傷があり、指先がその一つに引っかかった。

「残らなくても、受かるならいいんじゃないですか」

口にしてから、喉の奥に乾いたものが残った。

霧島先生はすぐには返事をしなかった。ペン先で机を一度だけ軽く叩く。窓の外で、運動部の掛け声が遠く弾み、蝉の声がその上から覆いかぶさっている。

「受かることだけが目的なら、それでもいいかもしれません」

「だったら」

「ただ、受かったあとに、その文章を自分のものだと思えますか」

「入学したあとに、志望理由を読み返すことなんてないでしょう」

「読み返さなくても、借りた理由で選んだ場所に、毎日通うことになります」

先生は原稿用紙の一行目を、ペン先で指した。

「そのとき、授業が合わなかったら。思っていたより興味が持てなかったら。周囲の人が自分よりずっと熱心だったら。あなたは、何を支えにして残りますか」

僕は答えられなかった。

大学名なら、いくつか言える。偏差値も、合格可能性も、学費も、通学時間も調べてある。けれど、そこへ行ったあと、どんな講義を受け、どんな人の考えに触れ、何を見つけたいのかと聞かれると、言葉が急に薄くなる。

進路資料のページをめくっているときは、分かっているつもりだった。学部の説明を読み、授業科目を比べ、施設の写真を眺めた。自分が選んでいると思っていた。

ただ、選んだ理由を文章にしようとすると、紙の上には「将来に役立つ」「幅広い知識」「社会に貢献」という、どこにでも置ける言葉しか残らなかった。

「三行でいいです」

霧島先生が言った。

「大学名は、まだ要りません。学部名も置いておきましょう。何を学びたいのか。どんな場所で学びたいのか。そこで何を見たいのか。その三つを、三行にしてください」

「三行なら、大学名を書いたほうが早いです」

「早いでしょうね」

「結局、最後には名前を書くんですよね」

「そうですね」

「だったら、先に書いても同じじゃないですか」

僕の声が少し強くなった。

霧島先生は僕の顔を見た。表情はほとんど変わらない。けれど、視線だけが、僕の手元から顔へゆっくり移った。

「同じだと思うなら、先に名前を書いても構いません」

その言葉を聞いて、胸の奥がかえってざわついた。

「先生は、僕に名前を書かせたいんじゃないんですか」

「書かせたいわけではありません」

「じゃあ、何をさせたいんですか」

「自分が何を避けているのか、見つけてほしいだけです」

冷房の音が一段低くなった。紙の端が風でわずかに揺れた。

僕は、原稿用紙の下に隠していた志望希望調査票を見た。第一志望の欄には、鉛筆で薄く引いた線が残っている。大学名の最初の一文字を書いて、消した跡だった。

「書けないんじゃないです」

先生は黙っている。

「……書きたくないのかもしれません」

言葉にした途端、考えていたよりも単純な形で、僕の中から出てきた。

霧島先生は否定しなかった。ただ、原稿用紙の白い余白を指先で示した。

「その違いは、大きいですね」

「書きたくないって言ったら、逃げてるみたいじゃないですか」

「逃げている可能性はあります」

淡々と返されて、僕は顔を上げた。

「そういうところ、先生は普通に言うんですね」

「普通に言うべきことを、遠回しにするほうが失礼な場合もあります」

「でも、僕は、誰かに期待されたくないだけで」

「期待されたくないのですか。それとも、期待されたあとで、あなたの理由まで他人のものにされるのが嫌なのですか」

僕は返事を止めた。

霧島先生は、こういうふうに一つの言葉を分けてくる。僕がまとめて隠していたものを、薄い朱色のペン先で、境目に沿って切り分ける。

「中学の頃、志望校を言ったんです」

誰に聞かれたわけでもないのに、僕は話し始めた。

「先生が出した候補の中で、いちばん偏差値が高いところを選びました。家で言ったら、母さんが喜んで、親戚にも伝わって。みんな、すごいねとか、そこを目指すなら頑張らないとねとか言いました」

「嬉しかったですか」

「最初は」

僕はシャープペンシルの軸を握った。使い古した表面の傷が、指の腹に細かく当たる。

「期待されるのは、嫌じゃなかったんです。むしろ、期待に応えられる人間になった気がした。でも、模試の判定が落ちたら、急に心配されるようになった。点数が上がると、もっとできるって言われた。勉強しているだけなのに、僕自身じゃなくて、その学校に受かる人として見られるようになったんです」

先生は口を挟まなかった。

「僕が疲れているとか、別のものに興味があるとか、そういうことは関係なくなって。学校の名前を一度言っただけで、成績も、時間も、機嫌も、全部その学校のためにあるみたいになった。だから今度は、言わないことにしたんです」

「言わなければ、誰にも取られない」

霧島先生の言葉に、僕はうなずいた。

「……はい」

「けれど、誰にも触れられない」

胸の奥に、細い針が入ったようだった。

「触れられなくても、いいです」

「本当に?」

僕は窓の外を見た。

運動場の端で、誰かがホースを引きずっている。水の匂いが、閉じた窓の向こうから届くはずもないのに、なぜか分かった。蝉の声が一瞬だけ遠のき、代わりに冷房の振動が耳の近くで大きくなった。

「本当は、触れられたくないんじゃなくて」

言葉を探すため、僕は一度息を止めた。

「触れられたときに、僕のものじゃなくなるのが嫌なんだと思います」

先生は薄い朱色のペンを机に置いた。

「それなら、触れられても、あなたのものだと言えるようにすればいい」

「そんなこと、できますか」

「完全には無理です。書いたものは読まれますから。人に読まれるものは、読んだ人の中で別の意味を持つ」

先生は原稿用紙を僕のほうへ押した。

「でも、理由のすべてを渡す必要はありません。学校名を説明するために、あなたの中身を全部差し出す必要もない。自分の選択を支える一部分だけは、自分の言葉で残してください」

「一部分だけで」

「三行ですから」

そのとき、先生の口元がわずかに緩んだ。

笑ったというより、紙の端を折らずに戻すような表情だった。僕の喉に溜まっていたものが、ほんの少し下へ落ちた。

「立派な理由を書かなくてもいいんですか」

「立派さは、誰が測るのでしょう」

「学校の資料には、社会に貢献するとか、将来の目標とか」

「それらしい言葉を使うと、文章は整って見えます。でも、整って見えることと、あなたがそこにいることは別です」

「じゃあ、何を書けば」

「恐れの反対側にあるものを」

「反対側?」

「言いたくないほど、手放したくないものです。期待されたくない。決めつけられたくない。そう思うなら、その奥には、誰かに決められる前に、自分で見たいものがあるはずです」

僕はシャープペンシルを立てたまま止めた。

誰かに決められる前に、自分で見たいもの。

頭の中には、調べた大学の図書館が浮かんだ。古い建物を改修した講義棟。窓の外に知らない街が広がっている写真。授業科目の一覧。そこに並ぶ、今まで聞いたことのない名前。

けれど、それを見たいと思った理由は、まだうまく説明できなかった。

「知らない場所に行きたい、って書いたら、子どもっぽいですか」

「なぜ子どもっぽいのですか」

「ただ逃げたいだけに見える」

「逃げたいことと、見たいものがあることは、両立します」

先生は原稿用紙の罫線を指で追った。

「人は、何かから離れたいときに、初めて自分が何を望んでいるか気づくこともあります。離れたいという気持ちを、きれいな言葉で隠す必要はありません」

僕は紙に目を戻した。

最初の行に、ゆっくり書く。

知らない場所で、知らない人の考え方を見たい。

書いたあと、消しゴムを持つ手が止まった。

大きすぎる気もした。幼い気もした。けれど、借り物の言葉ではなかった。

「これは、あなたの言葉ですか」

「……たぶん」

霧島先生の眉が、ほんの少し動いた。

「たぶん、では困ります」

僕は書いた一行を見た。紙の上にある文字は、思ったより頼りない。それでも、誰かの文章例から抜き出したものではない。

「僕の言葉です」

言い直すと、喉の奥が軽くなった。同時に、胸の奥に残った空洞がはっきりした。言えたから安心したわけではない。言ってしまったぶんだけ、次に続けなければならない気がした。

霧島先生は、その一行に朱を入れなかった。

「では、今日はそこまででいいでしょう」

「三行なのに、一行しか書けてません」

「最初の一行が借り物でないなら、残りはあとから書けます」

先生は原稿用紙を僕へ返した。余白の端に、短い文字が残っている。

――理由を急いで立派にしない。

僕はその文字を指先でなぞった。紙の表面は乾いているのに、そこだけまだ書かれたばかりのように感じた。

立ち上がったとき、椅子の脚が床を擦った。廊下の向こうで、夕方の校内放送が始まる。下校時刻を告げる声は途中で途切れ、残った無音に蝉の声が入り込んだ。

扉へ向かいかけて、僕は振り返った。

「先生」

霧島先生は、僕の模試の結果と原稿用紙を並べ直していた。

「まだ志望校の名前を書かなくても、考えてないことにはならないですか」

先生はすぐには答えなかった。薄い朱色のペンを指先で一度回し、紙の角を揃える。

「なりません」

「でも、書かないままだと、逃げてるだけにも見える」

「見えるでしょうね」

答えが早かった。

僕は言葉を失った。

「逃げることが、いつも悪いわけではありません。危ない場所から離れるための逃げもあります。ただ、同じ場所から動かないために、逃げていることを隠れ蓑にする場合もある」

先生は僕をまっすぐ見た。

「倉持くんがどちらなのかは、私には決められません」

「自分で決めるしかない」

「そうです。進路ですから」

その言葉は冷たくなかった。余計な励ましを足さず、僕の手元へ決定権を戻してくる言い方だった。

僕は原稿用紙をファイルにしまった。調査票の白い欄とは違い、そこには一行だけ、僕の字が残っている。

知らない場所で、知らない人の考え方を見たい。

進路指導室を出ると、廊下の熱が顔に触れた。冷房の冷たさを出た途端、シャツの袖に残っていた熱が戻ってくる。階段の窓から夕方の光が差し込み、床に細長い白い帯をつくっていた。

僕はその帯を踏みながら、東棟三階からゆっくり降りていった。

踊り場まで来たとき、どこか遠くで扇風機の軸が軋んだ。蝉の声が、その音を飲み込んでいく。

まだ、志望校の名前は言えない。

けれど、何も考えていないわけではない。

ファイルの中で、書きかけの一行が紙のざらつきを残していた。名前のない理由は、名前のないままでも、もう完全な空白ではなかった。

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