第4話 窓際の席

夕方の第2会議室は、廊下よりも先に熱を溜めていた。
東棟三階まで上がる階段の踊り場で、僕は汗ばんだシャツの袖を一度だけ引いた。窓の外から入り込む蝉の声が、階段の壁にぶつかって、どこから鳴っているのか分からない音になっている。校内放送は下校時刻を告げていたが、最後の校名だけが途中で切れた。残った無音が、蝉の声をかえって近くした。
扉を開けると、チョークの粉を含んだ白い空気が喉の奥にざらついて入ってきた。
黒板には、いつの授業のものか分からない線が薄く残っている。窓際には壊れかけた扇風機が置かれ、羽根が回るたび、軸の奥で金属が小さく擦れた。風は僕のところまで届かない。窓際のカーテンだけが、外へ逃げたいみたいに膨らんでは戻っていた。
遙斗は窓の近く、いつもの席にいた。
机の上には、地域の美術館のパンフレットが何枚か並んでいる。表紙の青い色は何度も指で擦られたように薄くなり、角には親指で押さえた跡がついていた。遙斗は僕が入ってきたことに気づいても、すぐには顔を上げなかった。
「ここ、使っていいの?」
僕が言うと、遙斗はパンフレットのページをめくった。
「誰も使ってない」
「先生に見つかったら?」
「鍵、開いてた」
「そういう問題じゃないと思うけど」
「じゃあ、出る?」
「いや。出ない」
僕は遙斗から二つ離れた席に鞄を置いた。机の表面には細かな傷があり、指を滑らせると粉っぽいざらつきが残った。持ってきた模試のファイルを開く気にはなれず、僕は窓の外を見た。
校庭では、野球部が片づけをしていた。白いユニフォームが夕方の光の中を動いている。掛け声は遠く、金属バットを用具庫へ戻す音だけが、時々こちらまで届いた。
遙斗はパンフレットの見開きを僕のほうへ少し向けた。
「この前の展示、行った?」
青い表紙には、市立美術館で開催された企画展の案内が載っていた。古い町の写真と、保存修復された道具の写真。僕は模試の帰りに一度だけ立ち寄ったことがある。展示室を歩いた記憶はあるが、何がどこに置かれていたかまでは覚えていなかった。
「行った。たぶん」
「たぶんって何だよ」
「いや、行ったと思う。入口に大きな写真があった」
「それは入口だからな」
遙斗の口元が少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。彼はパンフレットの写真を指で叩いた。
「この展示、入口の写真を正面に置いたのは、たぶん失敗だった」
「失敗?」
「入ってすぐ目立つから、みんなそこで止まる。後ろから来た人が詰まるし、次の部屋へ行く流れも切れる。本当は最初に小さい道具を置いて、近くで見てもらってから、最後に大きな写真へ行かせたほうがいい」
僕はパンフレットの写真を見た。
展示室の平面図が小さく載っている。作品番号と矢印が並んでいた。僕にはただの案内図にしか見えない。
「そんなの、見て分かるもの?」
「分かる。人がどこで立ち止まるか、見ればだいたい」
「僕は何も考えずに歩いてた」
「だから止まったんだろ」
「どういう意味?」
「考えずに歩く人が、いちばん展示の流れを壊す」
言い方はぶっきらぼうだったが、遙斗は責めていなかった。むしろ、本当に気にしているのは人ではなく、物の置かれ方のほうらしい。パンフレットの紙の厚みを確かめるように、彼は端を親指で押した。
扇風機が一度、がくりと首を振った。羽根の回転が弱まり、室内の熱が皮膚にまとわりつく。僕の前髪は汗で額に貼りつき、シャツの袖の内側には、まだ昼間の熱が残っていた。
「遙斗って、そういうの好きなんだな」
「そういうのって?」
「展示とか。美術館とか」
「好きというか、見てるだけ」
「見てるだけで、そこまで考える?」
遙斗はすぐには答えなかった。
彼はパンフレットの角を押さえたまま、窓の外へ目を向けた。校庭の向こうにある市街地は、夕方の光で輪郭がぼやけている。商店街の屋根、市役所の白い壁、そのさらに向こうの山。見慣れた景色なのに、窓ガラスを一枚挟むと、どこか別の場所のように見えた。
「作品を置くだけなら、誰でもできるだろ」
遙斗はそう言ってから、ようやく僕を見た。
「見せる順番を決めるほうが、たぶんむずかしい」
僕は返事を探したが、すぐには言葉が出なかった。
模試の偏差値表なら慣れている。数字は順位に変わる。順位は判定に変わり、判定は受験校の候補になる。けれど、遙斗の言う順番には、数字にならないものが混じっていた。誰がどこで立ち止まるか。何を見たあとに、次の何を見るのか。人の視線や足の向きまで、展示する側が引き受けるらしい。
「それって、仕事にしたいの?」
僕が尋ねると、遙斗はパンフレットを閉じた。
紙と紙が重なる音が、白い室内に乾いて響いた。
「……したい」
それだけ言ったあと、彼は窓の外へ顔を向けた。言い切ったことを、もう一度自分の中で確かめているように見えた。
「美術館で働きたい。作品を作る側じゃなくて、企画する側。展示の順番を考えて、照明を決めて、説明文を書いて、来た人がどこで足を止めるかを見る」
遙斗の声が、少しずつ具体的になっていく。
「作品を置いて終わりじゃない。古いものなら、どう保存するかも考える。湿度や温度で状態が変わるし、触られないようにするだけじゃなくて、触れたくなる気持ちをどう扱うかも考えないといけない。展示って、きれいに並べることじゃないんだ。誰かの記憶を、別の誰かに渡すための順番を作ることだと思う」
僕は、彼の指先を見ていた。
普段の遙斗は、授業中に指名されても必要なことしか言わない。進路の話になれば「家の手伝いでもする」と笑い、誰かが「佐伯は実家を継ぐんだろ」と言えば、否定も肯定もしないまま、話題を別の方向へ流す。
なのに今は、作品を置く位置や照明の角度まで話している。言葉の一つ一つが、頭の中にある展示室から運ばれてくるようだった。
「家は?」
僕が聞くと、遙斗の口元が固くなった。
「商売してる。知ってるだろ」
「うん」
「みんな、僕が継ぐと思ってる」
「違うの?」
遙斗はまたパンフレットを開いた。今度は角を押さえる親指に力が入っていた。
「違う」
短い言葉だった。扇風機の軸音が、その後ろに入り込んだ。
「家の仕事が嫌いなわけじゃない。店を続けることが大変なのも分かってる。小さい頃から帳場に座って、売上の計算を手伝ったり、紙袋の在庫を数えたりしてきた。家族が何を守ってきたかも、少しは分かる」
「じゃあ、どうして」
「分かるから、継ぐことが正しいみたいに言われるのが嫌なんだ」
遙斗はパンフレットから顔を上げた。
「家のことが分かる。大変さも分かる。だから継ぐ。そういう順番で話されると、僕が何を見てきたかまで、最初から決められてるみたいになる。店を継ぐことが悪いわけじゃない。でも、僕がそこにいる理由を、家の続きだけで終わらせたくない」
「家の人には言ったの?」
「言った」
意外だった。
遙斗は僕の顔を見た。僕がどんな表情をしたのか、自分でも分からない。たぶん、少し目を見開いた。
「言ったけど、聞かれなかった」
「聞かれなかった?」
「聞くふりはされた。美術館で何をするんだ、とか、そんな仕事で食べていけるのか、とか。答えると、今度は店の話をされた。店をどうするか、誰に任せるか、仕入れ先はどうするか。僕の話を聞いているようで、最初から店に戻すための質問だった」
遙斗はそこで言葉を切った。
「だから、もう話してない」
その沈黙に、僕は自分の調査票を重ねていた。
僕も、誰にも話していない。話せば、相手の反応が返ってくる。反応が返ってくれば、それに合わせて次の言葉を選ばなければならない。期待されれば、期待を裏切らない説明をしなければならない。心配されれば、心配させない根拠を示さなければならない。
黙っていれば、少なくともその手間はない。
僕は机の縁を指でなぞった。細かな傷の一つに爪が引っかかる。
「じゃあ、ここで話してるのは」
「おまえが聞いたから」
「聞いてない。遙斗が勝手に話し始めた」
「そうだな」
「それでいいの?」
「よくないから、話してる」
意味がつかめず、僕は黙った。
遙斗はパンフレットを閉じ、膝の上に置いた。
「話さないでいると、自分でも本当にそう思ってるのか分からなくなる。家を継ぐって言われて、最初は違うと思ってた。でも、何度も聞かされると、否定するほうが面倒になる。説明するのも面倒になる。じゃあ、もうそれでいいかって、少しずつ思う。諦めたんじゃなくて、諦めたふりを続けているうちに、それが自分の考えみたいになる」
窓から風が入った。熱を含んだ風が、パンフレットの端を浮かせる。遙斗は反射的に指で押さえた。
「それで、気づいたら、好きだったものを好きじゃないことにしてる」
僕の胸の奥で、何かが細く鳴った。
好きだったもの。
僕の場合、それが何なのか、まだうまく言えない。志望校の名前は頭の中にある。学びたい内容も、行きたい場所も、調べているうちに少しずつ見えてきた。けれど、それを「好き」と呼ぶのは怖かった。好きだと言えば、ますます自分のものになる。その分、失敗したときに失うものも大きくなる。
「倉持は?」
遙斗が言った。
「何が?」
「おまえは、何を隠してる」
一瞬、扇風機の音が止まった。
羽根が惰性で数回回り、やがて完全に動きを止める。窓から入る風も途切れ、部屋に熱が溜まった。チョークの粉の匂いが濃くなり、喉の奥が乾いた。
僕は調査票の入ったファイルを鞄の中に見た。
「別に、何も」
「その言い方、早瀬と同じだな」
「透子に何か言われた?」
「言われてない。おまえが進路の話になると、机の端を見るから」
僕は目を逸らした。
窓の外では、野球部の最後の一人がボールを拾っていた。白い球が夕陽を一度だけ弾き、すぐに少年の手の中へ消える。
「第一志望は、ある」
僕は言った。
「でも、言えない」
遙斗は何も言わなかった。責める代わりに、パンフレットの角を親指で押さえた。紙がわずかに曲がる。
「言えない理由は?」
「言ったら、誰かのものになるから」
「誰の?」
「先生とか、母さんとか。周りの人の。成績がいいからそこを目指すんだって思われる。受かったら、やっぱり倉持はすごいって言われる。落ちたら、どうしてそんなところを選んだって言われる。僕が何を学びたいのかより、受かるかどうかだけが残る」
言葉は一度出ると、止めにくかった。
「だから、言わなければ、まだ僕のものだと思ってる。名前を書かなければ、誰にも先回りされない。誰にも意味を足されない」
遙斗は僕を見た。
その目に、同意も反対もなかった。ただ、僕の言葉の置かれた場所を確かめているようだった。
「それで、僕の話を聞いてどう思った」
「どうって?」
「言わないでいる理由が、少しは分かったか」
「分かったと思う」
「なら、おまえも考えろ」
「何を」
「言わないことで、何を守って、何を失ってるのか」
止まった扇風機の羽根が、窓から入った風に押されて、ごくわずかに揺れた。
遙斗は続けた。
「夢は、言ったら傷つく。言わなくても、消える。どっちがましなのかは知らない。でも、消えたあとで、それを守っていたつもりになるのは嫌だ」
僕は返事をしなかった。
遙斗の言葉が、胸の中で白い調査票と重なっていく。誰にも見せていない紙。書かれていない欄。そこに何もないからこそ、まだ失っていないと思っていた。
けれど、紙の白さは、僕が何かを守っている証拠ではないのかもしれない。
何も名乗らないまま、どこにも進まないための薄い壁なのかもしれなかった。
廊下から足音が近づいてきた。誰かが三階まで上がり、扉の前で立ち止まる。僕と遙斗は同時に顔を上げた。
しかし、扉は開かなかった。
足音はすぐに遠ざかっていく。夕方の校舎に、使われていない教室だけが取り残された。
「そろそろ行く」
遙斗はパンフレットをまとめた。何枚かの紙を重ねる順番にも、彼なりの決まりがあるらしい。表紙の青いものを一番下に置き、折れた角を内側へ隠して、最後に小さな栞を挟んだ。
「家、手伝い?」
「今日は帳場。親戚が来る」
「進路の話は?」
遙斗は立ち上がった。
「たぶん、店の話をされる」
「何て答えるの?」
彼は窓の外を見た。山の稜線に夕暮れが薄く溜まっている。校庭の白線はもう見えにくくなり、蝉の声だけが夏の終わりを拒むように続いていた。
「まだ決めてないって言う」
「それ、逃げじゃないの」
「そうかもしれない」
遙斗はパンフレットを鞄にしまった。
「でも、今日は違う」
「何が?」
「おまえに話したから」
その一言が、思いのほか長く室内に残った。
遙斗は扉へ向かい、途中で足を止めた。振り返らないまま言う。
「作品を置く場所を決めるとき、見えるものだけで考えたら駄目なんだ。人がどこから来て、どこで迷って、何を見落とすかまで考える。進路もたぶん同じだろ」
「同じ?」
「自分がどこへ行きたいかだけじゃなくて、今どこで立ち止まってるかも見ないと、次の場所は決められない」
扉が開く。
廊下から、白い光が細く差し込んだ。遙斗の肩と机の縁を照らし、その間にチョークの粉が浮かんでいる。
「じゃあな」
「うん」
遙斗は出ていった。
僕は一人で空き教室に残った。
扇風機は止まったままだった。動かない羽根の形が、さっきまでそこにあった風をかえって思い出させる。僕は机の上に残ったパンフレットの粉を指先で払った。白い粉が皮膚の溝に入り込み、調査票の紙に触れたときと同じざらつきが残った。
鞄からファイルを取り出す。
志望希望調査票の第一志望欄は、まだ空白だった。けれど、さっきまでの空白とは違って見えた。白いから何もないのではない。書かれていない理由と、書かれるのを待っている名前が、その内側に重なっている。
僕は鉛筆を取り出した。
学校名を書くことは、まだできなかった。
代わりに、調査票の裏側の余白へ、霧島先生から出された三行の課題を写した。
何を学びたいのか。
鉛筆の先は、そこで止まった。
窓の外で、夕蝉の声が急に遠くなった。校内放送がまた途中で切れ、空き教室には扇風機の軸音のない静けさだけが残る。
僕は紙の上に、ゆっくり次の言葉を書いた。
知らない場所で、知らない人の考え方を見たい。
書き終えた一行は、思っていたより頼りなかった。けれど、誰かの資料から借りてきた言葉ではなかった。消しゴムを持つ手は、もう動かなかった。
扇風機の向こうで、夏の風が窓を押している。
僕はその音を聞きながら、白い欄に名前を書く前の、自分の理由を初めて紙の上に置いた。
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