第3話 霧島の三行

進路指導室は、教室よりも少しだけ涼しかった。

冷房は効いているというより、壁の内側で古い機械が息をしているだけだった。低い唸りが天井近くに溜まり、机の上の紙をわずかに震わせている。窓は閉まっていたが、隙間から入り込んだ蝉の声が、白い壁に薄く染みついていた。

僕は、霧島先生の机の前に座っていた。

膝の上には、折り目のついた志望希望調査票がある。家に持ち帰ってから、何度かファイルから出した。第一志望の欄に鉛筆を置き、大学名の最初の一文字だけを書いた。すぐに消した。消しゴムをかけたところは、紙の表面が少し毛羽立っている。

その紙を、霧島先生は何も言わずに受け取った。

彼女は題名を見なかった。調査票の右上にある僕の名前も、志望校の欄も、まずは飛ばした。代わりに、隣に置かれた原稿用紙の束から一枚を抜き取り、紙の端を指先で揃えた。

「三行でいいです」

薄い朱色のペンが、机の上で一度だけ転がった。

「大学名は、まだ要りません。学部名も、いったん置いておきましょう」

僕は原稿用紙を見た。

中央に、「志望理由」とだけ印刷されている。その下には、罫線が何本も並んでいた。僕のために引かれた線なのに、何も書かれていないせいで、かえって逃げ場が狭く感じられた。

「何を学びたいのか。どんな場所で学びたいのか。その場所で、何を見たいのか。三行で書いてみてください」

「三行なら、大学名を書いたほうが早いんじゃないですか」

「早いでしょうね」

霧島先生はそう言って、僕の顔ではなく原稿用紙を見た。

「けれど、早いことと、近道であることは同じではありません」

「近道じゃなくても、結局は大学名を書くことになりますよね」

「そうですね。最終的には書くことになるでしょう」

「だったら、先に書いても同じじゃないですか」

言ってから、机の縁を指でなぞった。木の表面に細かな傷がいくつもあり、指先に引っかかる。言葉を重ねるほど、僕の声だけが部屋の中で浮いている気がした。

霧島先生は、すぐには返さなかった。

彼女は返却棚に並んだファイルの背表紙を一度見て、それから窓のほうへ目を向けた。閉じた窓の向こうで、運動部の掛け声が遠く跳ねている。蝉の声はそれを覆うように大きく、校舎全体がひとつの機械になったみたいだった。

「同じだと思うなら、先に名前を書いても構いません」

「……いいんですか」

「止める理由はありません」

「でも、三行を書けって」

「課題として出しただけです。命令ではありません」

先生はそこで、薄い朱色のペンを持ち上げた。

「ただ、名前を書いたあとで理由を探す人は、だいたい理由らしいものを借りてきます。学びたい、社会に貢献したい、将来に役立つ知識を身につけたい。どれも間違いではありません。でも、間違いではない言葉は、誰のものでもないことがある」

僕は原稿用紙の上端に視線を落とした。

「借りた言葉でも、受かることはありますよね」

「あるでしょうね」

「じゃあ、それでいいんじゃないですか。受かるための文章なら」

「受かるためだけの文章なら」

霧島先生の声は、さっきより少しかすれていた。それでも、語尾は乱れなかった。

「あなたがその文章を、入学したあとも自分のものだと言えるなら」

その言葉に、胸の奥が狭くなった。

僕はこれまで、文章ならいくらでも整えられた。模試の記述問題も、先生に提出する感想文も、相手が読みやすい順番に並べ替えることができる。最初に結論を書き、理由を二つ続け、最後に前向きな言葉で閉じる。そうすれば、たいていの文章はそれらしく見える。

けれど、志望理由だけは、整えるほど中身が薄くなった。

「僕、書けないんじゃないです」

口にした瞬間、自分の声が思っていたより近くに聞こえた。

霧島先生はペンを置いた。

「はい」

「書きたくないんだと思います」

言葉にしてしまうと、思ったより単純だった。もっと複雑な事情が絡んでいると思っていた。けれど実際には、名前を書くのが怖い。書いたあとで、それを自分の手から取り上げられるのが怖い。ただ、それだけだった。

「書いたら、見られるから」

霧島先生は黙っていた。

「先生にも、母さんにも、親戚にも。どこを受けるのか分かったら、次は、そこに受かる人として見られる。模試の判定が下がったら心配されるし、上がったら、もっとできるって言われる。僕が何を学びたいかより、受かるかどうかのほうが先になる。そうなるのが嫌なんです」

そこまで話すと、喉が乾いた。冷房の風が首筋に触れているのに、シャツの袖の中には熱が残っていた。

霧島先生は、原稿用紙の余白に指を置いた。

「倉持くんは、期待されたくないんですか」

「……分かりません」

「期待されること自体が嫌なのか。期待に合わせて、自分の理由が別のものに置き換えられるのが嫌なのか」

僕は答えられなかった。

先生は、返事を急かさなかった。彼女の沈黙は、僕が教室で経験してきた沈黙とは違っていた。クラスメートがこちらを見ている沈黙でも、先生が答えを待っている沈黙でもない。ただ、言葉が出てくるまでの空間を、空間のまま残している。

そのことが、かえって苦しかった。

「中学のとき、志望校を言ったんです」

僕は、机の上の原稿用紙を見たまま続けた。

「最初は、自分で決めたつもりでした。でも、先生が出した候補の中から選んだだけで、そこに行って何をしたいかなんて考えてなかった。家で言ったら、母さんが喜んで、親戚も褒めてくれて。だから、これでいいんだと思いました」

紙の端が、指の汗で少し柔らかくなっていた。

「それから、成績がその学校のための数字になったんです。判定が落ちれば、僕が怠けたみたいに見られる。上がれば、もっと上を目指せると言われる。勉強は前からしていたのに、学校の名前を言った日から、全部の意味が変わった」

「自分で選んだ名前なのに、自分のものではなくなった」

霧島先生が言った。

僕は顔を上げた。

先生の表情はほとんど変わっていなかった。ただ、口元のあたりに、ごく薄い影が落ちているように見えた。

「……そうです」

「だから、今度は名前を言わない」

「言わなければ、誰にも取られないから」

「誰にも取られない代わりに、誰にも触れられません」

その言葉は静かだった。けれど、紙を切る刃物みたいに、まっすぐ入ってきた。

「触れられなくてもいいです」

「本当に?」

僕は答えようとして、窓を見た。

窓ガラスには、閉じたブラインドの隙間から細い光が差している。廊下を誰かが走り、すぐに足音が遠ざかった。階段の下で、夕方の校内放送が始まる。下校時刻を告げる声は、途中で一度途切れ、機械的な無音だけが残った。

その切れ目に、蝉の声が流れ込んできた。

「……本当は、触れられたくないんじゃなくて」

僕はゆっくり言葉を探した。

「触れられたときに、僕のものじゃなくなるのが嫌なんだと思います」

霧島先生は、薄い朱色のペンを指のあいだで回した。

「それなら、触れられても、あなたのものだと言えるように書けばいい」

「そんなこと、できますか」

「書いた時点で、完全にあなたのものではなくなります。読まれるために書くなら、なおさらです」

先生は原稿用紙を僕のほうへ少し押した。

「それでも、書いた理由まで他人に渡す必要はありません。学校名を説明するために、あなたの中身を全部差し出すことはない。選んだ理由の一部を、自分の言葉で残せばいい」

「一部だけでいいんですか」

「三行ですから」

そこで初めて、霧島先生の口元がわずかに緩んだ。

笑ったというほどではない。けれど、紙の上に三本だけ線を引くような、控えめな柔らかさだった。

「正しそうな言葉は、あとでいくらでも揃えられます。願書を書くときも、面接を受けるときも、必要になれば誰かが教えてくれるでしょう。けれど、最初の一行まで借りると、その先もずっと借り物になります」

僕はシャープペンシルを取り出した。

使い古した軸には、指の位置に合わせた細かな傷がある。何度も問題集の余白に線を引いてきた。意味のない線なら、いくらでも書ける。考えているふりをするための線も、紙を埋めるための線も。

それなのに、最初の一文字だけが出てこない。

「何を書けばいいか、分かりません」

「今、話したことを書いてもいいですよ」

「期待されたくない、って?」

「それは理由ではなく、恐れでしょう」

先生はそう言ってから、少し間を置いた。

「恐れの反対側に、何があるかを考えてください」

「反対側」

「あなたが、なぜそこへ行きたいのか。誰かに見られたくないと思うほど、手放したくないものは何なのか」

僕は鉛筆を立てたまま止めた。

頭の中には、いくつかの場所が浮かんでいた。大学案内で見た図書館。古い建物を改修した講義棟。都市の名前。授業の一覧。どれも、数字や説明でなら語れる。

けれど、その先にあるものを考えようとすると、うまく言葉にならなかった。

「まだ、名前は書かなくていいです」

霧島先生が言った。

「今日は、理由の形だけでいい。書けなければ、話してもいい。話せなければ、ここに座っているだけでも構いません。ただし、空白を何もなかったことにはしないでください」

原稿用紙の白い罫線が、机の上でこちらを待っている。

僕は最初の行に、ゆっくり鉛筆を下ろした。

何を学びたいのか。

そこまで書いて、止まった。

「それは質問を書く欄ではありません」

先生が言った。

「分かってます」

「分かっている顔ではありませんね」

「顔に出てますか」

「少しだけ。進路の話になると、最初に机の端を見るので」

僕は反射的に机の端へ視線を逃がした。

霧島先生の口元が、今度はわずかに動いた。

「ほら」

「……見ないようにします」

「見ないようにすると、今度は窓の外を見るでしょう」

「じゃあ、どこを見ればいいんですか」

「紙を」

その言い方が妙に可笑しくて、僕は短く息を吐いた。笑いにはならなかったが、喉の奥に詰まっていたものが、少しだけ下へ落ちた。

僕は原稿用紙に目を戻した。

何を学びたいのか。

その問いの下に、まず「人の考え方を」と書いた。すぐに消した。誰の考え方なのか分からない。「社会を」と書きかけて、これも消した。言葉が大きすぎる。

霧島先生は、僕の手元を見ながらも、覗き込もうとはしなかった。

「大きな言葉を使わなくていいです」

「でも、志望理由って、そういう言葉を使うものじゃないんですか」

「誰が決めたんですか」

「学校の資料には、そういう例が載ってます」

「例は、例です。あなたの文章ではありません」

僕はまた鉛筆を動かした。

今度は、消さなかった。

「知らない場所で、知らない人の考え方を見たい」

三行には届かない一行だった。けれど、そこには大学名も、偏差値も、合格判定もなかった。書き終えた途端、胸の内側に溜まっていた空気が、ほんの少し抜けた。

霧島先生はその一行を読み、すぐには朱を入れなかった。

「これは、あなたの言葉ですか」

「たぶん」

「たぶん、では困ります」

「……僕の言葉です」

言い直すと、声にわずかな震えが混じった。

先生は頷いた。

「では、今日はそこまででいいでしょう」

「三行なのに、一行しか書けてません」

「一行目が借り物でないなら、残り二行は後から書けます」

霧島先生は原稿用紙を僕に返した。薄い朱色の印は、どこにもついていない。代わりに、余白の端へ小さく書かれていた。

――理由を急いで立派にしない。

僕はその文字を指でなぞった。インクは乾いているのに、紙の上だけがまだ新しかった。

立ち上がると、椅子の脚が床を擦った。夕方の校内放送が、また途中で途切れる。進路指導室の外には、帰り支度をする生徒たちの声が薄く響いていた。

「先生」

扉の前で振り返った。

「僕が、まだ志望校の名前を書かなくても、考えてないことにはならないですか」

霧島先生は机の上の模試結果を揃えながら、こちらを見た。

「なりません」

「でも、書かないままだと、逃げてるだけにも見える」

「見えるでしょうね」

即答だった。

僕は言葉を失った。

先生は、紙の束の角を整えたまま続けた。

「逃げることが、いつも悪いわけではありません。危ない場所から離れるための逃げもあります。ただ、同じ場所から動かないために、逃げていることを隠れ蓑にする場合もある。倉持くんがどちらなのかは、私には決められません」

「自分で決めるしかない」

「そうです。進路ですから」

その言葉は冷たくなかった。むしろ、僕の手に決定権を戻すために、余計なものを取り払っているようだった。

僕は原稿用紙をファイルにしまった。調査票の白い欄とは違い、そこには一行だけ、僕の字が残っている。

知らない場所で、知らない人の考え方を見たい。

扉を開けると、廊下の熱が顔に触れた。進路指導室の涼しさを出た途端、シャツの袖に残っていた熱が戻ってくる。階段の窓から夕方の光が差し込み、床に細長い白い帯をつくっていた。

僕はその帯を踏みながら、東棟三階からゆっくり降りていった。

踊り場まで来ると、どこか遠くで扇風機の軸が軋んだ。蝉の声が、その音を飲み込んでいく。

まだ、志望校の名前は言えない。

けれど、何も考えていないわけではない。

ファイルの中で、書きかけの一行が紙のざらつきを残していた。名前のない理由は、名前のないままでも、もう完全な空白ではなかった。

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