第2話 帰り道の歩幅

放課後の校舎は、授業中より広く感じられた。

教室から人が減ると、机と椅子の並びだけが取り残される。窓際に置かれた植木鉢の葉が、開け放した窓から入る風に一度だけ揺れた。風は涼しくなかった。シャツの袖に残った熱を撫でて、そのまま廊下の奥へ抜けていく。

僕は鞄に数学のプリントをしまい、最後に調査票の挟まったファイルを入れた。紙の角がファイルの内側に触れ、乾いた音がした。

その音を聞いたとき、校門の向こうに立つ透子の姿が見えた。

白いシャツの袖を肘までまくり、片手に炭酸飲料の缶を持っている。缶の表面には細かな水滴が浮かび、彼女の指先を濡らしていた。小さなキーホルダーがついた定期入れを、もう片方の手で鞄の持ち手に絡ませている。

僕に気づくと、透子は一度だけ笑った。

返事の前にいつも入る、短い笑いだった。

「遅い」

「片づけてた」

「数学のプリントを一枚ずつ畳んでたとか?」

「そんなに丁寧じゃないよ」

「じゃあ、調査票を額に入れてた?」

「それはもっとしない」

「なあんだ」

透子は缶を口元に運び、炭酸をひと口飲んだ。喉が動く。飲み終えると、缶を頬に当てた。冷たさを確かめるような仕草だった。

僕は校門を出た。透子が半歩遅れて隣に来る。

「で、倉持はどこ受けるの」

声は軽かった。教室の中で言った冗談の続きみたいだった。

僕は一度、透子の顔を見た。目の端が少しだけ上がっている。笑っているように見える。けれど、本当に気楽なときの彼女なら、視線はもっと速く別のものへ移る。今日は僕の返事を待っている。

「どこって、まだ決めてないよ」

「それ、さっきも聞いた」

「じゃあ、まだ決めてないってことで」

「同じじゃん」

「同じだね」

僕が笑うと、透子も笑った。

ただ、僕の笑いは一拍遅れた。

自分で分かるくらいだった。口元だけが先に動き、声があとからついてきた。透子は缶を持ったまま、ほんの少しだけ眉を下げた。

「……今の、便利だよね」

「何が?」

「まだ決めてない、って言葉。決めてないって言えば、何も聞かれないし、誰も怒らないし。未来も、とりあえず自分のもののままでいられる」

「そうかな」

「違う?」

「いや。早瀬らしいと思って」

「私の話にすり替えた?」

「すり替えてない。ちゃんと答えた」

「倉持は、答えたふりがうまいよね」

透子は笑いながら言った。けれど、その言葉は僕の胸の内側に引っかかった。

校門から駅へ向かう道は、ゆるい下り坂になっている。夏の午後、歩道の端には乾いた蝉がいくつも落ちていた。踏まないように避けて歩くと、自然に足元ばかりを見ることになる。アスファルトの隙間から伸びた雑草が、陽射しの中で濃い緑をしていた。

透子はいつもなら僕より少し前を歩く。角を曲がるときも、信号が変わりそうなときも、振り返って僕を急かす。けれど今日は、僕と同じ速さになったり、少し離れたりを繰り返していた。

鞄同士が一度、ぶつかった。

「ごめん」

「今のは私のせいじゃないでしょ」

「そうだね」

「そこは、違うって言ってよ」

「じゃあ、違う」

「遅いなあ」

透子はそう言いながら、僕の鞄の持ち手を見た。右肩にかけた鞄がいつもより重そうに見えたのかもしれない。僕は反射的に持ち替えようとしたが、その前に彼女が手を伸ばした。

「持とうか」

「大丈夫」

「それ、今日何回目?」

「何が?」

「大丈夫」

「そんなに言ってる?」

「言ってる。大丈夫、分からない、まだ決めてない。倉持の進路三点セット」

「語呂が悪い」

「語呂の問題じゃないでしょ」

透子の指が、鞄の持ち手の近くで止まった。僕が断れば引くつもりだったのだろう。そういうところだけ、彼女は急かさない。

「本当に重いなら、半分持つけど」

「参考書しか入ってないよ」

「参考書が重いんだよ。知識って重いから」

「急にそれっぽいこと言うね」

「私、いつもそれっぽいことしか言ってないよ」

彼女は缶を持ち替えた。濡れた指先が陽射しに光る。

商店街に入ると、魚屋の前から水の匂いがした。シャッターを半分下ろした店の奥で、ラジオが高校野球の結果を読み上げている。八百屋の店先には、冷房の室外機から吐き出された熱風が溜まり、僕たちの足元をぬるく撫でていった。

「ねえ」

透子が言った。

「何」

「私、聞き方が悪かった?」

「聞き方?」

「どこ受けるの、って聞いたこと」

「別に」

「その『別に』も、倉持の三点セットに入れようか」

「増えたね」

「増えるよ。倉持が答えないから」

僕は歩きながら、道の先を見た。商店街の屋根が途切れたところに、駅前の信号が見える。赤信号で止まっている車の屋根が、夕方の光を反射していた。

「早瀬は、僕がどこを受けるか知りたいの?」

透子はすぐには答えなかった。

缶のプルタブを指でなぞり、残っている炭酸を揺らす。中身が小さく鳴った。

「知りたいっていうか」

彼女は一度笑った。けれど今度の笑いは、いつもより浅かった。

「知りたいだけなら、もっと雑に聞くよ。『ねえねえ、倉持ってどこの大学?』って、教室で大声で言う。みんなに聞こえるように」

「それは困る」

「でしょ。だから、ここで聞いてる」

「ここなら答えなくてもいい?」

「うん。答えなくてもいい」

信号は赤のままだった。通りの向こうで、蝉が一斉に鳴いた。商店街の屋根に音が反響し、声の出どころが分からなくなる。

「じゃあ、なんで聞くの」

透子は前を向いたまま、少しだけ肩をすくめた。

「倉持が、誰にも言わないまま決めたことにしてしまいそうだから」

「決めてないよ」

「そういうところ」

「何が?」

「決めてないって言いながら、たぶん、ずっと考えてるところ。参考書も大学案内も、他の人より読んでる。模試の結果を見てるときも、判定だけじゃなくて、その学校の授業とか、通学とか、細かいところまで見てるじゃん」

僕は透子の顔を見た。

彼女は僕を見ていなかった。信号の向こうを見ている。けれど、声だけはまっすぐだった。

「だから、決めてないんじゃなくて、言えないんだと思った」

「……分かったように言うね」

「分かったとは言ってない」

「でも、そう思ってる」

「思ってるよ」

透子はようやく僕を見た。

「倉持が何を受けるか、私に言いたくないなら、それはそれでいい。でも、言えない理由まで、私が勝手に決めたくないんだよね。怖いのか、面倒なのか、誰かに期待されたくないのか、それとも、言ったら私が何か変なことを言うと思ってるのか。そこを勝手に想像して、分かった顔をするのは嫌」

言葉が途切れた。

透子は、気まずさを笑いで埋めなかった。いつもなら、ここで「まあ、私が変なことを言うのは確定だけど」と付け足すところだ。けれど今日は何も言わない。

僕は駅前の信号機を見た。赤い光が、濡れてもいない路面に薄く滲んでいる。

「言ったら、期待されるから」

口にしたあと、声が思っていたより小さかった。

透子は黙っていた。

「中学のとき、志望校を聞かれて、成績のいい人が行くようなところを答えたんだ。先生が出してきた候補の中から選んだだけだったけど、家で言ったら、母さんが喜んだ。親戚にも話した。みんな、すごいねとか、頑張れば行けるねとか言った。最初は悪くなかったんだ。褒められてると思ったし、期待されるのは嫌じゃなかった」

僕はそこで一度、息を吸った。熱い空気が喉に貼りついた。

「でも、模試で判定が落ちたら、すぐに大丈夫かって聞かれた。少し上がったら、やっぱりそこを目指せるって言われた。勉強してるだけなのに、いつの間にか、その学校に受かるための人間になってた。僕が疲れてるとか、他に見たいものがあるとか、そういうことは関係なくなって。学校の名前を言った瞬間に、僕の成績も、時間も、機嫌も、全部その名前のためにあるみたいに扱われた」

透子は缶を両手で包んだ。指先についた水滴が、缶の底へゆっくり落ちていく。

「だから、今度は言わないことにした」

「言わなければ、誰にも取られないと思った?」

その言い方に、責める響きはなかった。

僕は返事をしようとして、やめた。

代わりに、鞄の中のファイルの角を思い出した。紙はそこにある。白い欄も、折り目も、消しゴムの跡も。まだ誰にも見せていない。見せていないから、まだ自分のものだと思っていた。

「……うん」

透子は少しだけ視線を落とした。

「私も、似たようなことしてる」

「早瀬も?」

「私は倉持ほど立派な理由じゃないけど」

「立派じゃなくていいよ」

「そう言われると困るな。私、もっと軽い話にしたかったのに」

透子は笑った。けれど、笑い終わったあとも目は下がったままだった。

「中学のとき、友だちが進路のことで揉めててさ。みんながそれぞれ正しいことを言って、本人だけ何も言えなくなってた。私、空気が重いのが嫌で、冗談を言ったんだよ。みんな笑った。笑ったから、終わったと思った」

「終わらなかった?」

「次の日、その子が学校を休んだ。あとで聞いたら、私の冗談がいちばん嫌だったって」

透子の声が、ほんの少し低くなった。

「別に悪口を言ったわけじゃないし、傷つけるつもりもなかった。でも、本人がやっと黙った場所に、私が笑いを押し込んだんだと思う。それから、誰かが黙ってるとき、前みたいにすぐ冗談を言えなくなった。言ってもいい沈黙なのか、言ったら駄目な沈黙なのか、分からないから」

青信号に変わった。

向かい側の人たちが歩き出す。僕たちも動いたが、透子は急がなかった。横断歩道の白い線を一つずつ踏まないように歩く。そのために歩幅が細かくなり、僕の速度と自然に揃った。

「だから、倉持に聞きたかった」

「僕が黙ってるから?」

「うん。でも、言わせたかったわけじゃない。言わないことを選んでるなら、その選び方を見たかった」

「難しいね」

「何が?」

「言わないことを選ぶって」

「難しいよ。言わないことって、何もしないみたいに見えるけど、実際はずっと相手の顔色を見てるから。何を言ったら怒るか、困るか、離れていくか。ずっと考えてる。でも、それで相手を守ってるつもりになってると、相手が何も知らないまま置いていかれる」

透子はそこで、僕の顔を見た。

「倉持、私を置いていくつもり?」

胸の奥で、何かが落ちた。

大げさな音はしなかった。ただ、これまで見ないようにしていたものが、足元に出てきたような感じがした。

僕は透子の表情を読もうとした。怒っているわけではない。泣きそうでもない。ただ、いつもの明るさを置く場所がなくなって、少し困っているように見えた。

「そんなつもりはない」

「つもりがないのに、そうなることもあるよ」

「……ごめん」

「謝ってほしいんじゃない」

「じゃあ、どうすればいいの」

透子はすぐには答えなかった。

駅前のコンビニから、甘い飲み物と揚げ物の匂いが流れてくる。店内の自動ドアが開くたび、冷房の風が歩道まで漏れていた。透子はその前で足を止め、飲みかけの缶を見下ろした。

「今すぐ全部言わなくていい」

「え」

「倉持が言いたくないことを、無理やり聞くつもりはない。でも、何も言わないまま『大丈夫』って顔をされるのは、ちょっと嫌だ。私が何も気づいてないみたいになるから」

「気づいてるの?」

「気づくよ。倉持、進路の話になると、最初に机の端を見るし。返事するまで一拍長いし。今日だって、ファイルを鞄に入れるとき、紙の角を三回も触ってた」

僕は自分の手を見た。

右手の親指に、紙のざらつきがまだ残っている気がした。

「そんなに見てる?」

「見てる。友だちだから」

透子は簡単に言った。

簡単な言葉なのに、僕には重かった。誰かに見られていることはずっと怖かった。期待の目や、評価する目や、先回りして僕の未来を決めてしまう目。けれど透子の視線は、それらとは違っていた。僕をどこかへ運ぶためではなく、今いる場所から動かないように見ている。

「じゃあ、早瀬はどうなの」

僕が尋ねると、透子は少し驚いた顔をした。

「私?」

「志望校。さっき、決めてないって言ってたけど」

透子は缶の中身を見た。残りは少ない。傾けても、泡が底でかすかに揺れるだけだった。

「私も、言いたくない」

「どうして?」

「倉持に聞かれてるのに、同じこと聞き返す?」

「駄目?」

「駄目じゃないけど、倉持に聞かれると、ちゃんと答えたくなるから困る」

透子は一度笑い、それから視線を駅のほうへ向けた。

「私は県外に行きたい。できれば、今いる場所から少し離れたところ。まだ学校名は決めてないけど、今の人間関係も、家のことも、知らない人ばかりのところで、一回くらい自分を作り直してみたい」

「早瀬が?」

「失礼じゃない?」

「いや、そういうこと考えてると思わなかった」

「私だって考えるよ。いつもふざけてる人間が、何も考えてないとは限らないからね」

「ごめん」

「だから謝らないでってば」

透子は缶を振った。空に近い音がした。

「でも、言ったら母親が心配すると思う。たぶん反対はしないけど、『そんなに遠くじゃなくてもいいんじゃない』って言う。そう言われたら、私も『そうだね』って言っちゃう気がする。自分で決めたのに、相手が困らない言い方に直してしまう」

それは、僕にも覚えがある言葉だった。

相手が困らないように。相手が失望しないように。相手が心配しないように。

そうやって言葉の角を削っていくと、最後に残るのは、誰のものでもない丸い返事になる。

「僕たち、似てるのかもね」

「嫌だなあ」

「どうして」

「倉持と似てるってことは、考えすぎて何も言えなくなるってことでしょ」

「早瀬も考えすぎてるじゃないか」

「私は考えてるんじゃなくて、悩んでるの」

「違いある?」

「あるよ。考えてる人は前に進むけど、悩んでる人は同じところをぐるぐる回る」

その言葉に、僕は返事ができなかった。

透子は歩き出した。今度は僕より半歩前に出る。けれど、すぐに気づいたように速度を落とした。

「ねえ、倉持」

「うん」

「いつか言える?」

「何を?」

「どこに行きたいのか」

僕は駅の入口を見た。階段の上に、夕方の光が細長く落ちている。ホームへ向かう人たちの足音が、地下から響いてきた。

「分からない」

「それ、三点セット」

「でも、言えるようにはなりたい」

口から出た言葉は、自分で思っていたよりはっきりしていた。

透子は立ち止まった。

僕も足を止める。背後から自転車のベルが鳴り、反射的に歩道の端へ寄った。透子が僕の鞄の肩紐をつかみ、車道側から遠ざける。指が一瞬だけ布を押さえ、すぐに離れた。

「今の、ちゃんとした答え?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

「今は、それ以上は言えない」

「そっか」

透子はそう言った。

それ以上、問い詰めなかった。僕の隣に戻り、駅の階段を上がる。彼女の歩幅は、さっきより少しだけ自然になっていた。

階段の途中で、校内放送の残響みたいな音が、耳の奥によみがえった。下校時刻を告げる放送が途中で切れたあとに残る、どこにも届かない沈黙。蝉の声だけが、その隙間を埋めていた。

駅の改札前で、僕たちは別れる方向が違う。

「じゃあ、また明日」

透子が言った。

「うん」

「調査票、なくさないでね」

「分かってる」

「あと、白いままでもいいけど、白いままにした理由くらいは、そのうち言って」

彼女は笑った。今度は、いつもの軽い笑い方だった。

僕はうなずいた。

透子は改札へ向かいかけたが、二歩進んだところで振り返った。

「倉持」

「何?」

「私、倉持がどこを受けても、たぶん驚かないよ」

「どうして?」

「だって、倉持が決めたなら、ちゃんと考えたんだろうなって思うから」

「それでも、期待するんじゃない?」

「するかもね」

透子は少し考えてから、続けた。

「でも、期待することと、倉持の代わりに決めることは違うでしょ。私は、そこを間違えないようにしたい」

人の流れが透子の横を通り過ぎていく。彼女の髪が、駅の空調の風でわずかに揺れた。

「だから、言えるようになるまで待つ。待つけど、忘れたふりはしない」

それだけ言うと、透子は改札の向こうへ消えた。

僕はしばらくその場に立っていた。

鞄の中のファイルに手を入れ、調査票の端に触れる。紙はまだ白い。けれど朝よりも、白さの奥に何かがあるように思えた。名前ではない。大学名でもない。ただ、言わないことを選んでいる自分と、言えないまま立ち止まっている自分が、同じではないという感覚だった。

駅の外では、夕方の蝉が鳴いていた。

夏はまだ終わっていない。

けれど、終わりへ向かう道の上で、僕たちはそれぞれの歩幅を測り始めていた。

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