第1話 配られた白

夏期講習の最後の数学が終わったあとも、教室には問題集の紙の匂いが残っていた。
黒板には二次関数の頂点を求める式が途中まで残り、窓の外では蝉が、誰かに急かされているように鳴き続けている。黒板の上に取りつけられた扇風機は、首を振るたびに古い軸を軋ませた。風は教室の中央まで届かず、前から三列目に座る僕のところには、ぬるい空気がわずかに流れてくるだけだった。
担任の高瀬先生が、出席簿の下から紙の束を取り出した。
「はい、これ。夏休み明けに回収するから、家の人とも相談しておくように」
紙が前から順に渡されてくる。誰かの机に置かれるたび、乾いた音がした。
僕の机に届いた一枚は、思っていたより薄かった。白い紙の上部に、県立椎名台高校の校章と、「志望希望調査票」という文字が印刷されている。第一志望、第二志望、現時点での志望学部。いくつかの欄が並び、そのどれもが僕の手を待っていた。
前の席で、三浦が振り返った。
「倉持、もう決めた?」
「何を?」
「何をって、志望校。倉持なら上から二番目くらいのとこ、余裕で書けるじゃん」
「上から二番目って、ずいぶん雑だな」
僕が笑うと、三浦も笑った。笑い声は教室のあちこちで重なっていた。
「俺はもう、県外の国立で出す。親がそこにしろって」
「早いな」
「だって、夏の模試で決めないと遅いらしいし。倉持は?」
「僕は……まだ」
そう答えると、三浦は一度だけ僕の顔を見た。目の端がわずかに下がった。疑うほどではない。けれど、納得した顔でもなかった。
「まあ、倉持ならどこでも受かるでしょ」
彼はそれだけ言って、前を向いた。
その言葉が、紙の白さに薄い影を落とした。
どこでも受かる。
中学の頃にも、似たようなことを言われた。成績表を見た親戚が、僕の肩を軽く叩きながら、冗談のように笑った。
「この子なら、いいところに行くわね」
そのときの僕は、褒められたのだと思っていた。だから、聞かれるままに志望校の名前を答えた。学校の先生が黒板に書いた候補の中から、いちばん偏差値の高いところを選び、家で母に伝え、親戚の前でも同じ名前を繰り返した。
すると、僕の成績はそれまでと少し違う見られ方をするようになった。
模試の判定が一つ下がれば、「大丈夫なのか」と聞かれた。点数が伸びれば、「やっぱりそこを狙える」と言われた。勉強をしているだけなのに、いつの間にか、僕自身ではなく、名前を口にした学校のために努力しているような扱いになった。
誰かが悪かったわけではない。期待されるのは、たぶん、嬉しいことだった。
だから余計に、逃げにくかった。
僕は調査票の第一志望欄に鉛筆を立てた。芯の先が紙に触れる直前で止まる。書こうと思えば書ける。大学の名前も、学部も、その理由らしいものも、いくつか頭に浮かんでいる。
ただ、文字にした瞬間、それが僕のものではなくなる気がした。
「倉持、書かないの?」
横から声がして、僕は顔を上げた。
早瀬透子が、机の横に立っていた。いつの間に近づいたのか分からない。彼女は自分の調査票を二つ折りにして、胸の前でぱたぱた扇いでいる。窓際の席にいるのに、額には汗で前髪が貼りついていた。
「暑いから、字が書けない」
僕はそう言った。
「それ、暑さのせいにしていいやつ?」
「紙が汗を吸ってる」
「紙に責任を押しつけるなあ」
透子は笑った。場を軽くするときの笑い方だった。声は明るいのに、僕の手元へ落ちた視線だけは笑っていなかった。
「でもさ、こういう紙って嫌だよね。いきなり将来を書けって言ってくるじゃん。しかも、家の人に見せろって」
「そうだね」
「名前を書いたら、もう逃げられない感じするし」
透子はそこまで言って、僕の返事を待った。
彼女は、冗談を言うときでも相手の顔をよく見ている。いつもの僕なら、そういう視線に気づかないふりをして、別の話を出す。
けれど、その日は紙の白さが目の前にありすぎた。
「早瀬は、決めてるの?」
尋ねると、透子は一度だけ笑った。返事の前に入る、いつもの短い笑いだった。ただ、その笑いはすぐ消えた。
「私? 私はほら、まだ人生の第一志望が未定だから」
「大学じゃなくて、人生の話になってる」
「だって、大学だけ決めても、その先で寝坊して全部終わるかもしれないし」
「それは早瀬だけだと思う」
「ひど。倉持って、たまに急に本当のこと言うよね」
透子はそう言いながら、僕の机の端を指で軽く整えた。置きっぱなしになっていた消しゴムを、定規と平行に並べ直す。
「……まあ、私もまだ書いてないけど」
彼女は自分の調査票を開いた。第一志望欄には、途中まで書かれた鉛筆の跡がある。学校名の最初の一文字だけが薄く残り、その先は消しゴムで擦られていた。
僕はそれを見て、何も言わなかった。
透子も、僕の欄を見ようとはしなかった。
教室の後ろでは、推薦入試の話が始まっていた。誰がどの先生に頼むか、評定が足りるか、部活をいつ引退するか。まだ二年生なのに、みんなの会話には締め切りの匂いが混じっている。
高瀬先生が教卓を片づけながら、こちらを見た。
「倉持。調査票、分からないところがあったら進路指導室に持っていけよ。空欄のままでも出せるけど、考えていないのと、まだ決めていないのは違うからな」
その言葉に、教室の何人かがこちらを振り返った。
僕は反射的に背筋を伸ばした。
「はい」
返事だけは、すぐに出た。
高瀬先生はそれ以上何も言わなかった。けれど、「考えていないのと、まだ決めていないのは違う」という言葉が、机の上に残った。僕は自分がどちらなのか分からなかった。
考えている。ずっと考えている。
模試の判定表を見て、大学案内をめくって、学部ごとのカリキュラムを比べた。通学時間も、授業料も、住む場所も調べた。自分なりに考えてきたつもりだった。
それなのに、名前だけが書けない。
書けないのではなく、書きたくない。
その考えが浮かんだとき、胸の奥で何かが小さく擦れた。
僕は、第一志望欄の上に鉛筆を置いた。黒い芯が紙に小さな点をつくる。そこから線を伸ばせば、学校名になる。たった数文字でいい。
けれど、書いた後のことを想像すると、指が動かなかった。
母がその紙を見る。先生が模試の成績と並べて見る。透子が何気なく聞く。親戚が「そこを目指すなら」と言う。僕の選んだ名前に、誰かが意味を足していく。そのたびに、最初に僕が考えた理由は薄くなり、最後には「成績がいいから」「将来のためだから」という、誰のものでもない言葉だけが残る。
僕は鉛筆を持ち上げた。
そして、置いた。
透子が何か言いかけた。けれど、僕の顔を見て、口を閉じた。代わりに自分の調査票を折りたたみ、僕の机の上に散っていた数学のプリントを一枚ずつ揃えた。
「帰る?」
「うん」
「その紙、持って帰るの忘れないでね。白いままだと、家の人に怒られるかもしれないし」
「分かってる」
「怒られるのが嫌なら、私が代わりに書こうか。倉持大学、学部は倉持学部」
「偏差値は?」
「たぶん、私の寝起きくらい」
「低いな」
「失礼だなあ」
透子は笑った。今度の笑いは、少しだけ本物に近かった。
僕は調査票をファイルに挟んだ。紙の角が指に触れ、ざらりと擦れた。立ち上がると、シャツの背中にこもった熱が一気に意識された。窓から入る風は、外の蝉の声ばかりを運んでくる。
廊下へ出ると、教室の中より少し涼しかった。
透子は僕の隣を歩いた。階段へ向かう途中、彼女の鞄が僕の鞄に何度か当たった。いつもなら彼女のほうが半歩先に行くのに、その日は歩幅が揃わなかった。
校内放送が、下校時刻を告げる途中で途切れた。残った沈黙の奥で、蝉だけが鳴いている。
僕の鞄の中には、何も書かれていない紙が一枚入っていた。
白い欄は、空白のままでも僕を責めない。
それなのに、誰かに見られている気がした。
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