第9話 通用口の向こう側

紗季が見たという「鍵の一瞬のためらい」は、私の頭の中でずっと引っかかっていた。
その夕方、雨脚が強まるころ、私は紗季と図書室を出た。階段を下りると、旧棟の廊下は湿気を吸って、靴底の下でわずかに柔らかく沈んだ。窓の外では植え込みの葉が雨粒を受け、黒い光を返している。
「倉庫裏へ行きます」
そう告げると、紗季は袖口をひと引きした。
「島田さんがいるかもしれません」
「いるなら、聞きます」
「聞いても、答えないかもしれない」
「答えないことも、記録できます」
紗季は返事をしなかった。ただ、私より半歩前を歩いた。廊下の中央を避け、壁際の板を選んでいる。靴音が戻らない場所を、彼女は身体で知っていた。
屋根の切れ目を抜けると、雨の音が急に近くなった。倉庫裏の通路には薄い霧のような水気が漂い、土と濡れた木、古い鉄の匂いが混じっている。
通用口の前で、紗季が立ち止まった。
「ここ、前はもっと固かった気がします」
扉は閉じていた。だが、上の角がわずかに浮いている。鍵はかかっているのに、扉そのものが枠へ収まりきっていない。
私は鍵穴へ顔を近づけた。古い金属の縁に、最近触れた指の脂が薄く残っている。鍵を回したあと、誰かが一度だけ扉を押し戻したような跡だった。
「閉まっているのに、閉じていません」
「島田さんなら、分かるでしょうか」
「分かると思います」
背後から、足音がした。
振り返ると、島田義男が立っていた。作業着の膝には土がつき、片手には布がある。彼は私たちを見てから、通用口の扉へ視線を移した。返事をする前に、布で指先を拭う。
「……外れとる」
「蝶番が?」
「上が下がった」
島田は扉の前にしゃがみ、ノブを下から支えた。金属が小さく鳴る。指先に迷いはない。扉を持ち上げながら、彼は床へ目を落とした。
そこには、細い擦れ跡があった。
倉庫の壁際から通用口へ伸び、途中で一度だけ角度を変えている。台車の車輪にしては浅く、けれど人が本を抱えて歩いただけにしては幅が揃いすぎていた。
「ここを通ったんですね」
紗季が言った。
島田は答えなかった。代わりに、倉庫側の床板を一枚、軽く踏んだ。
空洞じみた音が返ってきた。
私はその響きを聞き、校舎の奥に、まだ見えていない空間があることを知った。通路というほど広くはない。配線や暖房管を通すための、壁と床のあいだの余白。人目につかず、音も戻りにくい、記録に載らない動線。
「ここから図書室へ?」
「……昔はな」
「昔は、ということは、今も通れるのですね」
島田は扉の下へ指を差し入れた。
「薄いものならな」
「本も?」
「一冊ずつなら」
紗季が息を吸った。
私は通用口の框に膝をつき、床の擦れを目で測った。始点は壁から二十三センチ。終点は扉から十一センチ。途中で右へ七度。四角い水染みが一つ。紙の束か、本を包んだものを一度置いた跡に見える。
「この擦れは、台車ではありません」
島田が言った。
「そう思った理由を聞いても?」
「台車なら、車輪が二本とも同じ深さで残る。これは片側だけが強い。持ち上げた荷物を壁へ寄せ、扉を開けるために向きを変えた跡だ」
「本を運んだ跡ですか」
「本とは言っとらん」
「では、何を運んだのですか」
島田は答えず、床の水染みを布で拭った。濡れた紙を不用意に触らないようにする私とは違い、彼は濡れ方そのものを確かめている。
「乾いたものだ。紙か、木か。少なくとも、濡れた段ボールじゃない」
紗季が通用口の蝶番へ目を向けた。
「前より、閉まる音が小さくなっています。先週は、鍵を回したあとに金属が一度鳴りました。でも昨日は、音がしなかった」
「壊れたから直した」
「いつですか」
「必要になったときだ」
「必要になったのは?」
島田は、扉を持ち上げたまま黙った。
私は彼の手元を見た。油のついた指、爪の際に入り込んだ黒い汚れ。扉を直した人の手だった。
「修繕台帳には、通用口の蝶番交換が記録されています」
「台帳が全部だと思うな」
「全部だとは思っていません。だから、台帳と現場を照合しています」
「照合して、合わなかったらどうする」
「合わなかった事実を残します」
島田は、しばらく雨の向こうを見ていた。
「それで、何が戻る。抜かれた紙が戻るのか。黙っていた人間が、昔のことを話すのか」
「戻るとは言っていません」
私は擦れ跡へ目を戻した。
「なくなったものが、最初からなかったことにならないようにするだけです」
「同じことだ」
「違います。戻らなくても、そこにあったことは記録できます。人が話さなくても、床の傷や蝶番の交換時期は残る。記憶は変わりますが、物の傷は変わる前に見ておける」
「傷も消える」
島田は靴底で擦れ跡の一部を覆った。
「雨で薄くなる。掃除すれば消える。棚を動かせば隠れる。そうして、見えなくなる」
「だから、今見ています」
「今見たことを、何年後まで信じられる」
「一人で信じる必要はありません」
私は鞄から保護紙と定規を取り出した。
「違う目で見たものを、あとで重ねられるようにします」
島田は私の手元を見た。
「違う目?」
「私には擦れ跡が見える。紗季さんには、人の動きが見える。島田さんには、床板と蝶番の癖が分かる。それぞれを同じに揃える必要はありません」
私は紙の上に、擦れの始点と終点を書き写した。
「違うまま残して、あとで重ねる。そのための記録です」
島田はしばらく黙っていた。やがて懐から古い鍵束を出した。中に、錆びかけた細い合鍵が混じっている。
「この先は倉庫じゃない」
「旧資料室ですか」
島田の目が、初めて私の顔へ向いた。
「知っとったか」
「校内図に記載があります。図書室の裏に、改修前の資料室があった」
「部屋は塞がれた。だが、床下の隙間は残っとる」
「本も通せますか」
「一冊ずつならな」
紗季が通用口の枠へ近づいた。
「なら、消えた本はここを通ったんですか」
島田は鍵を握ったまま、すぐには答えなかった。
「本を動かしたのは、俺じゃない」
明確な否定だった。
「では、誰が?」
「知らん」
「見たことは?」
「顔までは見ていない」
「足元や服装は」
島田は鍵束を握り直した。
「聞いてどうする」
「見たことと、見ていないことを分けて記録します」
「記録は、現場を知らん」
「だから、現場を見ています」
島田は私を見た。濡れた眉の下に、疲れが沈んでいる。
「お前は、物に答えを求めすぎる」
「人が答えないからです」
「人が答えないのには理由がある」
「理由があれば、記録を消してよいのですか」
「消してよいとは言っとらん」
「見えなくしておくのは?」
島田は雨に濡れた紙片を見下ろした。
「見えんほうが、生きられる人間もおる」
その言葉に、紗季が顔を上げた。
「でも、見えない場所に置いたら、残っていても、ないのと同じです」
島田は彼女を見た。
「お前は、卒業したらどうする」
「分かりません」
「新しい学校へ行く。別の図書室を使う。別の棚を覚える。ここの音は忘れる」
「忘れるかもしれません」
紗季は袖口を引いた。
「だから、今書いています。覚えているうちに。誰かが覚えているうちに」
島田の視線が、紗季のノートへ落ちた。
「書けば、守れると思うのか」
「守れるとは思いません」
「なら、なぜ書く」
「消えたことを、消さないためです」
紗季の声は小さかったが、雨に負けなかった。
「誰かを責めるためではありません。ここにあったものを、最初からなかったことにしないためです。学校がなくなったあと、私が間違えていたとしても、誰かが見直せるようにしたい。見たものが違っていたら、違っていたと直せばいい。でも、何も残さなかったら、直す場所もありません」
島田は答えなかった。
彼は古い合鍵を鍵穴へ差し込んだ。回さない。鍵の先がどこまで入るかを確かめるように、ゆっくり押し込んでいく。
「この先には、昔の記録がある」
「何の記録ですか」
島田は鍵を抜いた。
「聞くな」
「見せてもらえますか」
「見せたら、書くのか」
「見たものは記録します」
「記録したら、誰かに渡る」
「渡る可能性はあります」
島田はしばらく私を見た。
「だから、見せられん」
拒絶は明確だった。だが、完全な拒絶ではなかった。島田は古い合鍵を自分から見せ、壁裏の空間を認めた。何かを隠している人の手つきというより、長いあいだ閉じた扉を守ってきた人の手つきだった。
私は記録用紙に書いた。
島田義男、旧資料室裏の空間を認識。 古い合鍵を所持。 通用口内側からの移動経路を知る。 壁裏の現状は未確認。
「何を書いとる」
「今おっしゃったことです」
「俺が言ったことだけか」
「見たことも含めています」
島田は短く息を吐いた。
「なら、ひとつだけ書き足せ」
「何を」
「俺は、本を動かしていない」
「はい」
「ただし、通った場所は知っとる」
私は筆を止めた。
知っているが、名前を出さない。 あるいは、名前を出せない。
そのとき、通用口の内側で、何かが床に触れた。
紙ではない。薄い木が、硬い床板へ当たる音だった。
島田が顔を上げた。紗季も音の方向を振り返る。
「今のは?」
「風だ」
「扉は閉まっています」
紗季が言った。
島田は答えず、通用口の下へ目を落とした。扉の隙間から、黒い紙の端がわずかに覗いている。私はしゃがみ込み、ピンセットを取り出した。
「触るな」
島田が言った。
「濡れた紙です」
「紙じゃない。糊が残っとる」
私は手を止めた。
「赤い線がありますか」
島田は答えなかった。
紙片の裏に、細い赤色が見えた。罫線のようにも、蔵書印の朱のようにも見える。私はそれを薄紙に挟み、封筒へ入れた。
「これが、文集から出てきた紙片と同じなら?」
島田は通用口を見た。
「同じなら、同じだ」
「意味は?」
「意味は、紙が決める」
「紙は話しません」
「だから、勝手に話させるな」
島田はそう言って、古い合鍵を鍵穴へ差し込んだ。今度はゆっくり回した。
かちり、と音がした。
扉は開かなかった。鍵が外れたのではなく、内側にもう一つ錠があるらしい。島田は扉を下から持ち上げ、框の横にある小さな木片を指で押した。
木が沈んだ。
壁際の床板が、ほんの数ミリだけ下がる。
紗季が息を呑んだ。
床板の隙間から、古い紙の匂いが立ち上がった。黴の匂いではない。乾いたインクと、長く閉じられた帳面の匂い。私はその匂いを知っていた。図書室の最下段にしまわれた、誰にも開かれなくなった記録簿と同じ匂いだった。
島田は木片から手を離した。
「ここから先は、俺ひとりでは決められん」
「誰が決めるのですか」
「赤城だ」
「校長に聞けば、教えてくれるでしょうか」
「教えるかどうかを決めるのは、あいつだ」
「島田さんは、何を知っているのですか」
「四時十七分」
私は息を止めた。
島田は、ひびの入った懐中時計を取り出した。針は四時十七分を指している。
「この時計が止まった時刻ですか」
「昔の夜、通用口から荷物を出した。雨が強くて、床が滑った。誰かが転んで、時計が落ちた」
「誰が?」
島田は時計を閉じた。
「それ以上は、俺の口からは言えん」
「沢田あかりさんが関わっていましたか」
島田の顔から、わずかに血の気が引いた。
「名前を知っとるのか」
「文集に、切り取られた頁があります。押し花の栞がありました。消えた本の中にも、彼女のものと思われる痕跡が残っている」
「思われる、だけか」
「まだ断定はできません」
島田は目を伏せた。
「なら、まだ名前を使うな」
「名前を使わずに、何を残せばいいのですか」
「その子が見たものを」
「何を見たのですか」
島田は長いあいだ黙っていた。
雨が扉を叩いている。通用口の向こうで、隠された紙が湿気を吸い、ゆっくりと重くなっていく気配がした。
「用水路の改修記録だ」
島田は言った。
「学校の裏の水路が崩れた。工事の業者が、許可された資材を使わず、地域の古い土留めを勝手に外した。大雨の夜に崩れて、下の家へ水が流れた。人は死なんかったが、沢田の家の畑が潰れた。学校の土地も少し削られた」
「それが、廃校の理由に?」
「それだけなら、事故だ。だが、工事を急がせたのは、学校と集落の一部の人間だった。記録を直し、責任の所在を散らし、学校の管理不備にした。あとで補助金の話が出て、地域は黙った」
「沢田さんは、何を見たのですか」
「図書委員の仕事で、古い資料を整理しとった。水路の図面と、寄贈された郷土誌を見つけた。そこに、工事前の記録が残っとった」
「だから、頁が切られた」
島田は頷かなかった。
「だから、切られた頁がある」
それは、島田なりの否定だった。
「久我原さんが回収しているのですか」
島田の手が、通用口の木片へ伸びた。
「久我原は、昔から記録を戻していた。誰かが持ち出したものを、元の場所へ戻すと言ってな。だが、元の場所がどこかは、あの人しか知らん」
「本を集めているのではなく、記録を集めている」
「記録を集めて、見えんところへ置く」

「沢田さんを守るために?」
島田は目を閉じた。
「守ったつもりだったんだろう。だが、守るために消したものは、消された側からすれば、もう一度失われる」
私は、久我原の言葉を思い出した。
守るべきもののためなら、ひとつふたつの記録を欠かすことは許される。
その信念が、空白の棚を作った。
けれど、彼女だけではない。赤城は知りながら沈黙し、風間は頁を抱えたまま黙り、島田は通路を知りながら扉を閉じた。学校全体が、誰かを守るために、別の誰かの記憶を薄くしてきた。
「島田さん」
「なんだ」
「この床下に、消えた本はありますか」
「ある」
「見せてください」
島田は首を横に振った。
「まだだ」
「なぜですか」
「お前が見ると、書く。書けば、沢田の名前がまた動く」
「もう動いています」
私は通用口の向こうを見た。
「名前が消されても、消された場所が残っている。頁が切られても、断面が残る。本がなくなっても、棚の幅と朱の粉が残る。名前を動かさないために隠したものが、今は別の形で名前を呼んでいます」
「呼ばれたくない人間もおる」
「呼ばれたくない人を、呼び戻すつもりはありません」
私は封筒を握った。
「ただ、誰かが呼ばれないようにするために、他の人の記憶まで消すことはできない」
島田は黙った。
やがて、扉の向こうから、もう一つの足音が聞こえた。
雨の中を歩いてくる、柔らかな靴音だった。
紗季がすぐに振り返る。
通用口の外、倉庫の角に、黒い傘が見えた。
久我原静子だった。
彼女は傘を閉じ、濡れた外套の水を払った。私たちを見ても驚かなかった。まるで、ここへ来ることを最初から知っていたように、紙袋を抱え直す。
「島田さん」
久我原が静かに呼んだ。
島田は返事をしなかった。
「もう、見せたのですね」
「まだ見せとらん」
「同じことです」
久我原は私へ目を向けた。
「倉沢さん。最後まで、棚を数えるおつもりですか」
「数え終わるまで」
「本が戻らなくても?」
「戻らなくても、空白の数は残します」
久我原は、通用口の床板へ視線を落とした。
「この下に、あなたが探しているものがあります」
「消えた本が?」
「本と、紙片と、誰にも返されなかった記録です」
「あなたが回収したのですね」
「はい」
「なぜ、貸出記録のない本だけを?」
久我原は一拍置いた。雨水が、外套の袖から地面へ落ちている。
「借りられた本には、持ち出した人の名前が残ります。誰かが返さなければ、誰かが探す。けれど、貸出記録のない本は、誰の手にも渡っていないように見える。そこに挟まれた紙片だけを抜いても、本が消えた理由としては、整理の途中で済ませられる」
「最初から、誰にも気づかれない本を選んでいた」
「気づかれない本ではありません。気づかれにくい本です」
「同じでは?」
「違います。気づかれにくいものには、気づく人が必要です」
久我原の声は穏やかだった。
「私は、長いあいだ、そういうものを拾ってきました。切り取られた頁、書き直された日付、受入冊数と題名のずれ。どれも単独では小さな異常です。けれど、小さいからといって、なかったことにはならない」
「なら、なぜ隠すのですか」
久我原は紙袋の口を押さえた。
「沢田さんが、まだ生きているからです」
紗季が顔を上げた。
「生きているなら、なおさら、自分の記録を知る権利があるんじゃないですか」
「権利という言葉は、傷ついた人をさらに呼び出すことがあります。あなたは、自分の見たものをすぐに大勢の前で話したいと思いますか」
紗季は黙った。
久我原は続けた。
「沢田さんは、自分が見た記録を公にしたくなかった。けれど、完全に捨てることもできなかった。だから、栞を預けた。どの本に挟むかを、私にだけ伝えた。私はそれを回収した」
「回収して、何をするつもりだったのですか」
「保管します。いつか、彼女自身が取りに来られる日まで」
「その日が来なければ?」
「来ないかもしれません」
「では、あなたが決めたままになる」
久我原は目を伏せた。
「はい」
その答えは、初めて聞く彼女の弱さだった。
私は通用口の床へ目を落とした。木片の脇に、赤い線の紙片が挟まっている。線は、図書室の配架図から旧資料室を経て、ここへ続いていた。
「久我原さん。回収した本を、ここへ運んだのはあなたですか」
「はい」
「島田さんの鍵を使って?」
「鍵を借りました」
島田が低く言った。
「貸した」
「島田さんは、知っていたのですね」
「知っていた。だが、運んではいない」
久我原は私を見た。
「本を運んだのは私です。けれど、すべてを持ち出したわけではありません。書かれたものを読み、傷つける部分だけを抜き、別の場所へ戻した。そうしなければ、廃校の整理で、誰かが見つけてしまうと思ったからです」
「それは、隠蔽です」
「ええ」
久我原は否定しなかった。
「隠蔽であり、保管でもあります。私は、その二つを切り分けられないまま、何十年も帳面を閉じてきました」
「廃校の理由も?」
「廃校は少子化だけではありません。過去の記録が残っていれば、統合後の学校と地域の関係が崩れる。補助金の不正、工事責任の改ざん、当時の管理者たちの名前。そこには、沢田さんの家族も、赤城さんの先輩も、島田さん自身も関わっている」
私は赤城の沈黙を思い出した。風間の切り取られた頁。島田の止まった時計。久我原の押し花。
「沢田さんは、何を守ろうとしたのですか」
「自分の父親です」
久我原は答えた。
「水路工事の責任を押しつけられた人でした。実際には、現場の設計変更を知らされていなかった。それでも、地域の中では、彼が許可を出したことになった。沢田さんが記録を見つけたとき、父親はすでに病気で、外へ説明しに行ける状態ではなかった」
「だから、彼女は黙った」
「黙ったのではありません。黙らされたあとで、沈黙を自分のものにしたのです」
久我原の指先が固くなった。
「彼女は、記録を出せば父親の名誉が戻ると思った。でも、同時に、工事を急がせた人たちの名前も出る。地域の老人たち、学校の職員、当時の役場の人間。誰かひとりを悪者にすれば済む話ではなかった。彼女は、父親を守りたいと言った。私は、守ることを手伝うと言った」
「その結果、記録を抜いた」
「はい」
「文集の頁も?」
久我原は目を閉じた。
「沢田さん自身が、切り取ってほしいと言いました。けれど、私は切り取った頁を捨てられなかった。だから、別の本に挟んだ。残したまま隠したのです」
「それは、彼女の選択を守ったのですか。それとも、あなたが手放せなかっただけですか」
久我原は長く答えなかった。
雨の音が、通用口の屋根を細かく叩いている。私はその音を聞きながら、彼女の沈黙が崩れるのを待った。
「分かりません」
久我原は言った。
「分からないまま、守るという言葉を使い続けました。彼女がもう一度見たいと言うまで、記録を閉じておく。それが約束でした。でも、彼女は戻ってこなかった。私は待つことに慣れ、待つことを正しさだと思い始めた」
「そして、廃校が決まった」
「ええ。学校がなくなれば、資料は処分される。誰かが整理し、題名のない紙片や、記録のない本は廃棄される。だから、先に回収しました」
久我原は紙袋から、古い手帖を出した。薄紫の押し花の栞が挟まっている。
「これは、沢田さんから預かったものです。彼女は、栞を挟んだ本を教えてくれた。私はその本を回収し、ここへ戻した。けれど、最後の一冊だけは、手をつけられなかった」
「峰ノ原文集の控え」
「はい」
「なぜですか」
「それには、沢田さん自身の頁が残っているからです。切り取られた部分だけでなく、書かれた部分も、彼女が黙った時間も、全部そこにある。あの本を開けば、彼女の沈黙を私がもう一度、別の意味へ変えてしまう」
私は文集の控えを思い出した。紙片を抜いたあとの、頁の間に残る細い空洞。
「あなたは、最後の一冊を私に開かせた」
「開かないでほしいと、頼みました」
「でも、紙片を挟んだままにした」
久我原は私を見た。
「あなたなら、見つけると思っていました」
「見つけてほしかったのですか」
「見つけてほしくなかったのです」
その答えは、矛盾していた。けれど、人が守るために抱えるものは、たいていひとつの言葉では収まらない。
私は通用口の床板を見た。
「下の記録を、すべて見せてください」
久我原は迷った。島田は鍵束を見つめ、紗季はノートを閉じたまま、私の横に立っている。
「見せたら、記録します」
「はい」
「沢田さんの名前も?」
「必要なら。ただし、彼女が何を望んでいたかを、私たちだけで決めない」
久我原は押し花の栞を手帖から外した。指先で花弁を押さえず、茎だけを持つ。風間と同じ扱いだった。
「沢田さんに連絡を取ってください」
久我原が言った。
「私から?」
「あなたが、記録を見つけた人として」
「あなたが伝えるべきでは?」
「私は、長く隠しすぎました。もう、私の言葉では、何を言っても保管の続きになる」
久我原は栞を私へ渡した。
「ただし、彼女が望まなければ、記録を公開しないでください」
「公開しない理由は、記録します」
「それでも?」
「はい。隠したことも、守ろうとしたことも、誰が決めたかも、残します」
久我原は目を伏せた。
私は栞を保護紙へ挟んだ。薄紫の花弁は、雨の匂いの中でも乾いていた。長い時間を押しつぶされた花が、まだ形を失っていない。
島田が床板の木片を押した。
今度は、はっきりと板が沈んだ。
通用口の脇に、細い隙間が開く。中には古い箱がいくつも積まれていた。峰ノ原水利保存会の郷土誌。切り取られた文集の原稿。修繕台帳の写し。日付の書き換えられた配布資料。貸出カードのない本が、背を伏せて並べられている。
その一番下に、空白の棚から消えた郷土誌があった。
私は手を伸ばさなかった。
まず、箱の位置を記録した。通用口からの距離。壁裏の湿気。紙の匂い。蔵書印の向き。箱の蓋に押された三本線の印。
それから、島田に尋ねた。
「この箱を、いつから知っていましたか」
「昔からだ」
「久我原さんは?」
「先週、運び込んだ」
久我原は頷いた。
「最後の回収でした」
「それで、本が週ごとに一冊ずつ消えた」
「順番を崩すと、誰かが気づくからです。古い記録は、急に消えると目立つ。週に一冊なら、整理の途中に見える。私は、記憶を少しずつ抜けば、誰も痛みに気づかないと思った」
「でも、私は気づきました」
「あなたが戻ってきたからです」
私は図書室の空白を思い出した。
本が一冊消えた。 空白が一つできた。 その幅を測り、数え直し、記録した。
消えたものは、空白として残る。空白は、何もない場所ではない。何かがあったことを、形として示している。
「久我原さん」
「はい」
「守るために隠した記録を、これからどうしますか」
久我原は答えなかった。
私は代わりに、手元の記録用紙を見た。そこには、擦れ跡、赤い線、三本線の印、押し花の栞、通用口の動線が並んでいる。
「私は、まず写しを作ります。原本を持ち出しません。沢田さんへ連絡を取り、彼女の意思を確認する。学校と地域の記録については、赤城校長、風間先生、島田さん、それぞれの証言も添える。誰かひとりの罪として整えない」
「それで、廃校は止まるでしょうか」
赤城の声がした。
いつの間にか、彼が通路の入口に立っていた。濡れた眼鏡を外し、金属製の眼鏡ケースを手にしている。
「止まらないと思います」
私は答えた。
「少子化も、統合の手続きも、なかったことにはできません」
「では、何が変わるのですか」
「廃校の理由が、数字だけではなくなります」
赤城は、通用口の向こうに積まれた箱を見た。
「それを、地域が受け止められるでしょうか」
「受け止められない人もいるでしょう。けれど、受け止められないことまで記録します」
赤城は眼鏡を布で拭いた。レンズの曇りが少しずつ消えていく。
「あなたは、学校を終わらせるために戻ったのではなかった」
「終わらせることと、なくすことは違います」
赤城はその言葉を聞き、深く息を吐いた。
紗季が、床下の箱を見ている。
「本は、戻される場所を知っていたんですね」
「誰かが戻していたのです」
私が言うと、紗季は首を横に振った。
「本ではなくて、記憶が戻ろうとしていたんだと思います」
私は返事をしなかった。
その言葉を、記録用紙へ書くか迷った。紗季の比喩を、事実と同じ欄へ置くことはできない。けれど、彼女がこの学校を見てきた目から出た言葉だった。
私は別の欄へ、こう記した。
水野紗季の所感。 記憶が戻ろうとしていた。
通用口の扉を閉めると、蝶番はほとんど音を立てなかった。床の擦れ跡は雨に洗われ、すでに輪郭を失いかけている。
私は最後に、跡の位置をもう一度測った。
始点、壁から二十三センチ。 終点、通用口から十一センチ。 途中で右へ七度。 四角い水染み、幅三センチ半。
数字は、何も救わない。
けれど、数字があることで、あとから誰かが同じ場所へ戻ってこられる。
図書室へ戻る廊下で、紗季が私の隣に並んだ。雨は細くなり、窓の外の植え込みから、濡れた葉の匂いが漂ってくる。
「倉沢さん」
「はい」
「この学校がなくなったら、私は何を覚えていればいいでしょう」
私はすぐには答えなかった。階段の三段目を踏む。そこだけ、いつもより低い音がした。
「覚えていられるものからでいいと思います」
「それだけで?」
「覚えられないものは、記録へ預ければいい。記録できないものは、誰かの言葉へ預ける。言葉にできないものは、棚の位置や、鍵の音や、雨の日の匂いとして残ることがあります」
「それで、十分ですか」
「十分ではありません」
私は図書室の扉を見た。
「でも、何もないよりは、次に拾う人の手がかりになります」
紗季は袖口を引いた。
「私も、続きを書きます」
「お願いします」
図書室へ入る。
空白の棚は、そのままだった。消えた本の幅は三センチ半。隣の本の背には、抜き取られたときの擦れが残っている。棚板には朱の粉が薄く残り、雨の湿気を吸って少し暗く見えた。
私は空白を数えた。
一、二、三。
それから、木製カードケースを開いた。
封筒を最下段へしまい、引き出しを押し戻す。小さな音が、図書室の奥へ沈んでいった。
本は戻らないかもしれない。 頁も、元の形には戻らない。 沢田あかりが、いつか自分の記録を読むかどうかも分からない。
それでも、消えた本があったことは記録できる。
誰かが運んだこと。 誰かが隠したこと。 誰かが守ろうとしたこと。 そして、誰かが見つけたこと。
窓の外で、雨が止んだ。
濡れた校庭に薄い光が戻り、統合案内の紙が壁の端で揺れている。やがて、この校舎は閉じられる。棚も、通用口も、図書室の床板も、同じ場所には残らない。
私は最後に、空白の棚へ指を添えた。
木は湿っていた。
その冷たさの奥で、失われた頁が、まだ誰かに聴かれるのを待っているようだった。
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