第10話 沈黙の持ち主

翌朝、図書室の窓は白く曇っていた。
雨は止んでいたが、旧棟の廊下にはまだ湿った木の匂いが残っている。窓枠に指を触れると、冷たさが皮膚へゆっくり移った。
私は机の上に、昨夜の記録を並べた。
通用口の擦れ跡。 床下の箱。 三本線の印。 押し花の栞。 そして、沢田あかりの名前。
名前を書いた紙だけが、ほかの記録より重く見えた。
私は携帯電話を手に取った。久我原から受け取った手帖の内側に、町外の住所と電話番号が記されている。数字の最後の二桁だけ、何度も書き直した跡があった。
電話をかける前に、三回、番号を見直した。
呼び出し音が四度鳴った。
『はい』
女の声だった。
若くはない。けれど、久我原や赤城ほどの年齢でもない。声の奥に、長いあいだ使われなかった部屋のような静けさがある。
「沢田あかりさんでしょうか」
短い沈黙があった。
『どちらさまですか』
「峰ノ原中学校の図書室にいた、倉沢澄江です。以前、司書をしていました」
受話器の向こうで、息を吸う音がした。
『……学校は、もう整理が始まったんですね』
「はい」
『本は、まだありますか』
その質問に、私はすぐ答えられなかった。
「あります。なくなった本もあります」
『そうですか』
声は落ち着いていた。けれど、「なくなった」という言葉を聞いたあと、呼吸が一度だけ浅くなった。
「昨日、久我原静子さんから、あなたに関係する記録を預かりました」
『久我原さんが?』
「はい」
『何を話しましたか』
「あなたが、かつて資料を見つけたこと。記録の一部を抜くよう頼んだこと。押し花の栞を本に挟んだこと」
受話器の向こうで、何かが擦れる音がした。紙かもしれない。机の上に置かれた封筒かもしれない。
『それを、全部記録するんですか』
「見たことと、聞いたことは分けて記録します。あなたが望まないことを、私たちだけで公開するつもりはありません」
『公開しないなら、なぜ記録するんですか』
「公開しないと決めたことも、記録だからです」
長い沈黙があった。
図書室の時計が、秒針をひとつ進める。窓の外では、屋根から落ちた水が、遅れて地面へ落ちている。
『倉沢さんは、記録を信じているんですね』
「信じているというより、記録がなければ、あとから確かめられないと思っています」
『確かめる必要がありますか』
「必要があるかどうかを、私が先に決めたくありません」
『でも、確かめられる側は、そう思わないかもしれない』
「はい」
『なら、見ないほうがいいこともある』
「あると思います」
私は空白の棚を見た。
「ただ、見ないことを選んだ人が、見たことまで消してしまうと、あとから選び直せなくなります」
電話の向こうで、あかりさんが小さく笑った。笑い声というより、息が一度だけ揺れたような音だった。
『倉沢さんは、昔からそうでしたか』
「昔を知っているのですか」
『図書室にいたころ、何度か見ました。本を戻す前に、必ず背表紙を触る人だと思っていました』
「覚えていたのですね」
『覚えていたというより、忘れられなかったんです。あの学校では、忘れたふりをする人が多かったから』
その言葉は、文集の切り取られた頁よりも鋭かった。
『父のことが書かれた記録は、まだありますか』
「あります」
『名前も?』
「はい」
『消されていないんですか』
「消されたものもあります。けれど、消された跡が残っています」
あかりさんは返事をしなかった。
私は机の上の保護紙を見た。薄紫の花弁は、乾いたまま形を保っている。
「お父さまが、工事の責任を負わされたことは知っています」
『久我原さんから?』
「記録と、島田さんの話から」
『島田さんは、まだ学校にいるんですね』
「はい」
『あの人は、何も言わないでしょう』
「言わないこともあります。ただ、昨日は少し話しました」
『そうですか』
声の底に、懐かしさとも恐れともつかないものが沈んだ。
『父は、最後まで自分が悪いと言っていました』
「本当は違ったのですか」
『違う、と言い切れるほど、私は全部を知りません。ただ、父が工事の変更を知らされていなかったことは見ました。役所から来た書類の写しと、学校に残っていた図面が違っていた。日付も、担当者の印も』
「それを、あのとき見つけた」
『はい。図書委員の仕事で、郷土資料を整理していました。古い本の中に、図面の写しが挟まっていた。私は、それを風間先生に見せようとしました』
「見せなかったのですね」
『先生は、私が何か言う前に、頁を閉じました』
風間の姿が浮かんだ。文集の端を撫で、言葉を選びすぎていた指。
『怒っていたわけではありません。ただ、怖がっていました。私も怖くなりました。誰かに見せれば父の名前は戻る。でも、別の人の名前も出る。そうなれば、父はまた責められると思ったんです』
「だから、頁を切った」
『はい』
「久我原さんに頼んで?」
『最初は、自分で切りました。でも、切った紙を捨てられなかった。久我原さんに渡したら、あの人は「預かる」と言いました。返すと言わなかった』
「その記録を、取り戻したいですか」
あかりさんは、すぐには答えなかった。
『分かりません』
その声は、久我原のものとよく似ていた。
『取り戻したら、父の名前が戻るかもしれない。でも、父はもういません。いまさら名前だけ戻っても、何が変わるのか分からない』
「変わらないかもしれません」
『倉沢さんは、正直ですね』
「記録を扱う者は、希望まで書き足せません」
『でも、空白は埋めたい』
「埋めるとは限りません。空白のまま、そこに何があったかを残すこともあります」
あかりさんは、しばらく黙っていた。
『その栞は、まだありますか』
「あります」
『花の茎を、頁の奥へ向けて挟んでいましたか』
「はい」
『では、私のものです』
声が初めて揺れた。
『それだけは、私が自分で挟みました。久我原さんには、どの本か伝えました。でも、持っていってほしいとは言っていません』
私は記録簿を開いた。
「持っていってほしいとは、言っていない」
声に出して確認する。
『はい。預かってほしかっただけです。いつか、自分で戻すつもりでした』
「その“いつか”は、来なかった」
『来ませんでした』
「いま、戻したいですか」
長い沈黙のあと、あかりさんは言った。
『私ひとりでは、決められません』
「では、誰と決めますか」
『父の名前を消した人たちと。消されるのを見ていた人たちと。……それから、私自身と』
私は栞を保護紙の上から見つめた。
『倉沢さん。峰ノ原へ行ってもいいでしょうか』
「はい」
『まだ、通用口の向こうに記録はありますか』
「あります。あなたが見たものも、見なかったことにされたものも」
『では、私が読んでもいいですか』
「読むために、残しました」
電話が切れたあと、図書室は前より広く感じられた。
私は記録簿に、あかりさんの言葉を書き取った。声の震えまでは書けない。けれど、電話をかけた時刻と、返された言葉と、栞の向きは残せる。
最後に、空白の棚へ目を向けた。
そこにはまだ、本がない。
その空白の前で、私は一度だけ背表紙を撫でるように、棚板へ指を添えた。冷たい木の奥から、遠くで頁をめくる音がした。
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