第8話 図書室に集まる沈黙

呼び出しに応じた赤城隆一は、眼鏡を外してから布で拭いた。何かの汚れを落とすというより、レンズの向こうにあるものを見ないための仕草に見えた。
風間透は卒業文集の束を抱えたまま、少し遅れて入ってきた。風が吹き込むはずのない図書室で、彼の前髪だけがわずかに揺れている。走ってきたのかもしれない。あるいは、階段の踊り場で一度、立ち止まっていたのかもしれなかった。
最後に島田義男が現れた。工具箱を脇に置き、扉の立てつけを一度だけ確かめてから、いつものように短く頷いた。
私は三人を見た。
赤城は机の上の書類を左から右へ揃え、風間は文集の角を指で撫で、島田は工具箱の取っ手を握っている。誰も、すぐには椅子へ座らなかった。椅子の脚が床をこする音だけが、湿った図書室に小さく響く。
窓の外では、雨が校舎の庇を叩いていた。図書室へ届くころには、音は薄い膜をかぶっている。けれど、紙の擦れる音や、人が息を飲む気配は、雨よりも近くに残った。
「見ていただきたいものがあります」
私が言うと、赤城は一拍置いた。
「……無理に急がなくてもいいでしょうか」
「急ぐ必要があるのは、そちらではなく本のほうです」
赤城の眼鏡を拭う手が止まった。
風間が息を呑んだのが分かった。島田は何も言わず、扉の向こうへ耳を澄ませている。人の声を聞いているのではない。階段を上がる足音や、廊下の床板が沈む音を確かめているのだろう。
私は机の上に、峰ノ原文集の控えと、古い記録簿、細い定規を並べた。
「この本は、貸出記録がありません。蔵書印はある。登録番号もある。けれど、誰かが借りた形跡はない。その一冊の中に、何かが挟まっていました」
「何か、というのは」
赤城が訊いた。
「まだ、名前をつけていません」
「名前をつけないまま、私たちを呼んだのですか」
「名前をつける前に、見ていただきたいと思いました。私ひとりの判断にしないためです」
風間が文集を抱え直した。
「僕たちに見せることで、逆に判断を迫ることになるかもしれません」
「それでも、誰にも見せずに私が決めれば、記録は私の都合で狭くなります」
「記録は、広ければいいものではありません」
風間の声には、いつもの熱がなかった。言葉を選びすぎて、すでに何度か傷ついている声だった。
「広げることで、書かれた人がもう一度、人前へ引き出されることがあります。本人が望んでいないのに、周りが正義や保存という名前をつけて、過去を持ち上げる。記録を残すことが、その人を救うとは限らない」
「では、残さないことが救いになるのですか」
「なる場合もあります」
「それを決めるのは誰ですか」
風間は答えなかった。
赤城が眼鏡をかけ直す。
「お二人とも、少し先へ進みすぎています。まだ、本の中身を確認していない」
「だから、確認します」
私は文集の控えへ手を伸ばした。
本を開く前に、背表紙を指で押した。中の紙片が、わずかに浮く。押し花を挟んだときに出る硬さに似ていたが、それだけではない。紙が重なっているというより、一度抜き取られ、別のものを入れ直したような抵抗だった。
風間が低く言った。
「何か入っているね」
言ってから、自分の声が室内に残ったことに気づいたように、口を閉じた。
赤城は「開ける前に」と小さく言いかけた。しかし、その続きはなかった。島田は扉から視線を戻し、工具箱の取っ手を強く握った。
私は文集の綴じ糸を傷めないよう、紙を一枚ずつ持ち上げた。
最初に出てきたのは、薄い灰色の紙片だった。赤い線が一本、端から端まで引かれている。次に、黒い糊の跡が残った細長い紙。最後に、古い貸出カードの一部が現れた。
その裏に、鉛筆で書かれた文字があった。
――返却不要。
風間の指が、文集の背から離れた。
「その言葉は……」
「記録する前に、まだ確認します」
私は貸出カードの断片を定規の横へ置いた。紙の繊維が毛羽立ち、切断面は古いのに、切り口だけが妙に新しく見える。
赤城が低い声で言った。
「返却不要と書かれているなら、貸出対象外の資料だった可能性があります」
「そうでしょうか」
「参考資料には、そうした印をつけることがあります」
「では、なぜ貸出カードの裏へ書くのですか。しかも、本の中へ隠すように」
赤城は答えなかった。
私は彼の机上の書類を思い出していた。廃校後の備品移管一覧。整然と並んだ項目。そこには本の名前があっても、本の中に何が挟まっていたかまでは書かれない。
「返却不要という言葉は、本に向けられたものではありません」
風間が言った。
「借りた人に向けた言葉でもない。借りたことにしてはいけない人へ向けた言葉かもしれない」
「どういう意味ですか」
赤城が訊いた。
風間は文集を見つめたまま、話し始めた。
「僕は、言葉を正確に扱いたいと思っています。でも、学校の記録では、正確さが人を救わないこともある。沢田あかりの文集の頁が切り取られていたことは、以前お話ししました。あの頁には、雨のあとに水路を流れる水のことが書かれていた。水は見えない場所を通り、別の場所で音になる。そこまでしか残っていません」
風間は一度息を吸った。
「その続きを、僕は何度も考えました。けれど、考えた続きを彼女の文章として扱うことはできない。書いたのは彼女で、読んでいるのは僕だからです。僕が意味を補えば、彼女の沈黙を僕の言葉で埋めることになる」
「それでも、頁は切り取られている」
「ええ。切り取った人は、彼女の文章を消したかったのかもしれない。あるいは、誰かに読ませたくなかった。僕はその違いさえ、まだ判断できていません」
「切り取られた頁と、今回の紙片は同じものだと思いますか」
風間はすぐに答えなかった。
「紙質は違います。けれど、切り方は似ている。定規を当てて、紙の端を揃えたような切り口です。乱暴に破った跡ではありません。だから、切った人は、消したかったのではなく、消したあとに残る形まで整えたのだと思います」
「形を整えれば、消したことが見えなくなる」
紗季が言った。
彼女は私の後ろで、袖口を引いていた。いつの間にか、赤城たちの沈黙を聞く側から、言葉を置く側へ移っている。
「空白の棚も同じです。周りの本を揃えて、抜けた幅を整えていました。乱暴に持ち出したなら、棚はもっと崩れる。でも、誰かは空白まで整えた」
島田が紗季を見る。
「見たのか」
「見ました」
「いつ」
「最初の本がなくなった翌日です。棚板の下に、車輪の跡がありました。倉庫前の擦れ跡と幅が近かった。通用口の床にも、紙片が落ちていました」
「紙片なら、風で飛ぶ」
「風は、棚の下から通用口へ向かって吹きません」
島田の目が細くなった。
紗季は声を荒らげなかった。けれど、もう引き下がらない。
「私は、島田さんを犯人だと言っているわけではありません。見たことを、見たままに言っています。大人の人は、名前が出ると、見たものまでその名前に合わせてしまうから」
島田は答えなかった。工具箱の留め金を指先で押さえ、ひとつ、ふたつと確かめている。
赤城が静かに口を開いた。
「水野さん。記録は、見たものをすべて並べればよいというものではありません。見る人が増えれば、同じものでも違う意味を持ちます。床の傷が、搬出の跡に見える人もいれば、単なる修繕の跡に見える人もいる。そこへ誰かの名前を添えれば、傷は証拠になり、証拠は責任になります」
「だから、何も書かないんですか」
紗季の声は小さかった。
「何も書かないことも、ひとつの決め方です。でも、その決め方をした人の名前は残らない。あとで誰かが見つけたとき、最初から何もなかったと思う」
赤城は眼鏡を外し、布でレンズを拭いた。
「あなたは、学校がなくなることを怖れているのですね」
「怖いです」
紗季は一拍置いた。
「でも、建物がなくなることだけではありません。新しい学校へ行けば、授業も友達も続くかもしれない。でも、ここで誰がどの棚を使っていたか、雨の日にどの廊下が一番早く濡れるか、誰が本を戻すときに必ず背を三回撫でたか。そういうことは、名前をつけて残さないと消えます。消えても困らないものから先に消える。そのことが嫌です」
赤城は返事をしなかった。
紗季の言葉が図書室の空気に沈んでいく。私は、彼女が初めてこの場所を自分の言葉で語ったのだと思った。これまでは、見たことを積み上げていた。今は、その積み上げが何のためかを話している。
風間が文集の表紙を撫でた。
「水野さんの言うことは、分かります。でも、残すことが誰かの痛みを長引かせる場合もある。沢田の頁を見れば、彼女が何かを見ていたことは分かる。けれど、見た内容を外へ出せば、彼女はまた、自分の知らないところで語られることになる」
「では、沢田さん自身に聞けばいいのではありませんか」
私が言うと、風間は視線を落とした。
「連絡先は?」
「町外です。今も、学校の話をすると話題を変えるそうですね」
「ええ」
「それでも、聞く必要はあります」
「聞けば答えるとは限りません」
「答えないことも、答えのひとつです」
風間は苦く笑った。
「倉沢さんは、沈黙を記録できると思っている」
「沈黙そのものは記録できません。沈黙した場面と、その前後なら記録できます」
「それで十分ですか」
「十分だとは思いません。ただ、何もないよりは、次に考える場所が残ります」
「次に考える人が、沢田を知らない人でも?」
「知らない人だからこそ、名前の重さを決めつけずに読める場合があります」
風間は文集を開いた。紙の擦れる音がした。彼は切り取られた頁の位置を指で押さえた。
「僕は、ここに書かれていないことを守りたいと思っていました。でも、守るという言葉を使うたび、誰かの代わりに決めていたのかもしれない。彼女が語らないことを、語らないままにしておくのが、彼女のためなのか、自分が怖いだけなのか、分からなくなる」
「その違いを、確かめるために記録があります」
「記録は冷たい」
「紙は冷たいです。でも、冷たいからこそ、触れた手の熱を残します」
風間は黙った。
赤城が机上の記録簿へ目を向けた。
「倉沢さん。あなたは、この紙片をどうするつもりですか」
「まず、状態を記録します。どの本の、どの頁に、どの向きで挟まっていたか。誰が見たか。どこから来たか」
「その先は?」
「その先は、まだ決めません」
「決めないままでは、廃校の手続きに間に合わない」
「間に合わせるために、急いで意味を決めれば、記録のほうが本を追い越します」
赤城は椅子の背に深く座り直した。声がさらに静かになる。
「学校を残すことができない以上、せめて騒がずに終わらせたいと考えています。廃校の理由は、少子化と財政上の問題です。それ以上のことを掘り返せば、地域の人間関係が崩れます。卒業生の家族、元職員、今いる生徒。誰か一人に責任を押しつける話ではない。だから、私はできるだけ波を立てずに、学校を次へ渡したい」
「波を立てないことと、水が流れた場所を隠すことは違います」
「分かっています」
「分かっていて、隠したのですか」
赤城の指が、記録簿の端で止まった。
「隠した、と言われれば、否定はできません。私が校長になる前のことです。それでも、引き継いだ記録の中に空白があれば、埋めるより先に、空白のまま扱うしかなかった。下手に調べれば、名前だけが残り、事情を知らない人間が判断する。私は、それを恐れました」
「恐れた結果、空白が残った」
「はい」
「空白は、誰かを守りましたか」
赤城は長く黙った。
「守った人もいます。傷ついた人もいます」
「では、守ったことだけを理由に、空白を正当化できない」
「その通りです」

赤城の声には、初めて疲れが混じった。
島田が工具箱を開けた。中から小さな鍵束を取り出し、机の端へ置く。古い合鍵が一本、黒ずんだ金属の間に混じっていた。
「通用口の鍵だ」
赤城が島田を見る。
「島田さん」
「今さら、隠しても仕方ない」
島田は鍵を指で押さえた。
「本を動かしたのは俺じゃない。ただ、通った場所は知っとる。図書室の裏に、昔の資料室があった。壁で塞がれたが、床下の隙間は残っている。一冊ずつなら、薄い荷物を通せる」
「なぜ、今まで黙っていたのですか」
私が訊くと、島田は床へ視線を落とした。
「黙っていたというより、言う相手がおらんかった」
「私はいました」
「お前は、見つけたものを記録する」
「はい」
「なら、言えん」
「なぜですか」
島田は古い鍵を持ち上げた。金属が乾いた音を立てる。
「通った場所を言えば、誰が通したかを聞かれる。誰が通したかを言えば、次に、なぜ通したかを聞かれる。理由を話せば、黙っていた人間の名前まで出る。学校の裏側には、鍵を持った人間より、鍵を持たずに動かされた人間のほうが多い。俺は、どこまでが仕事で、どこからが隠すことだったのか、今も分からん」
「それでも、通用口を直した」
「壊れたから直した」
「本が通ったあとに?」
島田は答えなかった。
私は机の上の紙片を見た。赤い線、黒い糊、返却不要という文字。押し花の栞。切り取られた頁。すべてが別々のものとして残っているのに、同じ手順の中で触れられている。
赤城は言った。
「その本に何が挟まっていたのですか」
「押し花の栞です」
風間の顔が強張った。
「沢田のものですか」
「まだ、断定できません。ただ、彼女が使っていたものと似ています」
「見せてください」
私は栞を記録簿の上から持ち上げ、風間へ差し出した。彼は両手で受け取った。花弁を指で押さえず、茎の部分だけを持っている。扱い方を知っている手だった。
風間は栞を見つめたまま、長く黙っていた。
「沢田は、栞を挟む向きを決めていました」
「どちら向きですか」
「花の茎を、必ず頁の奥へ向ける。花弁が上に来るように。理由を尋ねたら、花が落ちる方向を決めておくと、なくしたときに探しやすいから、と言っていました」
「この栞は?」
風間は裏返した。
「同じです」
その一言のあと、彼は目を閉じた。
「でも、それだけでは彼女のものだとは言えません。沢田は、栞を何人かに渡していた。図書委員の後輩にも、先生にも。誰かが同じ向きで挟んだ可能性は残ります」
「あなたも?」
「僕は、もらっていません」
風間の声が揺れた。
「もらえなかったのか、もらわなかったのかは、今となっては分かりません。彼女が卒業する前、僕は一度、話しかけようとした。文集の頁のことを知っていたから。でも、彼女がこちらを見る前に、別の生徒が来た。僕はそのまま、何も言わなかった」
「なぜですか」
「怖かったからです。僕が聞けば、彼女は答えなければならないと思うかもしれない。答えたくないのに、教師へ礼儀を返そうとするかもしれない。だから、黙った」
「黙ることで、彼女を守った?」
「そう思いたかった」
風間は栞を記録簿の上へ戻した。
「でも、沈黙は相手のためだけにあるわけではない。自分が傷つきたくないときにも、人は黙る。僕は、沢田を守ったのか、自分が見たものから逃げただけなのか、分かりません」
赤城が低く言った。
「風間先生」
「校長先生も、同じではないですか」
風間は顔を上げた。
「学校を守る。生徒を守る。地域を守る。そう言いながら、実際には、学校が壊れるところを見たくないだけではありませんか。僕もそうです。沢田の頁を見て、彼女の痛みを守りたいと思った。でも、彼女が何を望んでいたかを確かめる勇気がなかった」
赤城は反論しなかった。
島田が工具箱の蓋を閉じた。
「守るという言葉は、便利だ」
「島田さんも使いますか」
「使わん。ただ、見えんようにする仕事をしたことはある」
「誰のために?」
島田はしばらく床を見ていた。
「見えんほうが、生きられる人間がおった」
「その人は、今も生きていますか」
「知らん」
「知っているのに?」
「生きているかどうかを、俺が確かめに行く資格はない」
図書室の時計が、一度だけ音を立てた。
私は押し花の栞を記録簿の上へ戻した。花弁は乾いて薄く、少し強く触れれば砕けてしまいそうだった。けれど、その薄さの中に、誰かが何年も手放さなかった時間が入っている。
「この栞を、すぐに誰かのものとは書きません」
私は言った。
「けれど、沢田さんの記憶と結びつく可能性は記録します。赤い線も、紙片も、通用口の動線も、誰かの証言も、別々に残します。最後に、それらが同じ方向を指すなら、そのとき名前を書く」
赤城が訊いた。
「名前を書いたあと、何をなさるのですか」
「書いた名前を、誰か一人の責任にするつもりはありません。記録を抜いた人だけでなく、抜かせた事情、黙っていた人、見ないふりをした人、そのすべてを、分けて残します」
「それでは、学校を終わらせられない」
「学校は、もう終わります」
私は空白の棚へ目を向けた。
「終わるからこそ、何を終わらせたのかを確かめる必要があります」
誰も反論しなかった。
雨が弱まり、窓の外の山が少しだけ姿を現した。濡れた木の匂いが、図書室の中へゆっくり戻ってくる。紙の匂いと混じり、古い記憶のように、どこにも定着しないまま漂っていた。
私は記録簿を開いた。
押し花の栞。 峰ノ原文集控えより出現。 貸出記録なし。 沢田あかりの使用品と形状・挟み方が一致する可能性。 確認者、赤城隆一、風間透、島田義男、水野紗季。
そこまで書いて、私は筆を止めた。
「誰かが、この記録を持ち出すかもしれません」
赤城が言った。
「持ち出されても、写しを残します」
「写しも消されるかもしれない」
「なら、複数の場所へ置きます」
「それでも消されるかもしれません」
「消されたことを、別の記録に残します」
赤城は、初めてわずかに笑った。疲れた笑いだった。
「あなたは、最後まで諦めない」
「諦める理由が、まだ記録されていません」
風間が顔を上げた。島田も、扉から離れてこちらを見た。
私は続けた。
「失われたものを戻せるとは思っていません。沢田さんの頁も、消えた本も、昔の時間も、元の形には戻らないでしょう。それでも、失われた順番を見届けることはできます。誰が何を守ろうとし、何を隠し、何を見ないふりをしたのか。そこまで残せば、過去は完全には消えない」
風間は長く息を吐いた。
「それは、赦すということですか」
「いいえ」
私は栞へ目を落とした。
「赦す前に、知るということです。知ったあとで、赦せないものが残るかもしれない。それでも、知らないまま許したことにするよりは、ましです」
島田が短く言った。
「赦されんこともある」
「あります」
「それでも残すのか」
「残します」
赤城は机の上の古い記録簿を見つめていた。
「残すことで、また誰かが傷つく」
「残さないことで、傷ついたこと自体が消える」
私は、空白の棚を数えた。
一、二、三。
数え終えたとき、空白は昨日より広くなっているように見えた。けれど、その空白の形を知っている人間は、まだここにいる。
紗季が、そっと押し花の栞へ視線を向けた。
「この栞も、誰かが持ち主を決めるまで、ここに置いておくんですか」
「はい」
「その間に、また誰かが持っていったら?」
「持っていかれないように記録簿へ挟みます」
私は栞を透明な保護紙に挟み、封筒へ入れた。封筒の表に日付を書き、封をする。紙が擦れ、乾いた音が残った。
その音を聞きながら、私は思った。
本は沈黙している。 けれど、沈黙しているからこそ、触れた順番を失わない。
赤城が立ち上がった。風間も文集を抱え直す。島田は工具箱を持ち上げる前に、床へ目を落とした。
誰も、解決したとは言わなかった。
まだ、最後の一冊が残っている。まだ、旧資料室の壁裏も、久我原静子の帳面も、沢田あかりの沈黙も、ひとつの記録へ結びついてはいない。
それでも、図書室に集まった四人のあいだには、来たときとは違う沈黙があった。
隠すための沈黙ではない。
それぞれが見たものを、他人の記憶へ預けるための沈黙だった。
私は封筒を木製カードケースの最下段へしまった。引き出しを押し戻すと、小さな音が図書室に沈んだ。
雨は、いつの間にか止んでいた。
窓の向こうで、濡れた校庭に薄い光が戻っている。廃校を告げる掲示の紙は、まだ壁の端で浮いていた。誰かが貼り直さなければ、いずれ剥がれるだろう。
私は立ち上がり、空白の棚へ向かった。
本が一冊ない。
その事実は変わらない。
けれど、消えた本に触れた手と、見送った目と、黙っていた時間は、まだ記録の中に残っている。
私は棚の空白に指を添えた。
木は湿っていた。
その冷たさの奥で、失われた頁が、まだ誰かに聴かれるのを待っているようだった。
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