第7話 控え本の厚み

雨の午後、図書室はいつものように湿った木の匂いを吸っていた。
廊下の窓には細い雨筋がいくつも並び、旧棟のきしみはその水音に紛れて、ほとんど息のようにしか聞こえない。私は窓を閉めたまま、司書台の前に立っていた。外気を入れなくても、紙は湿気を覚えている。記録簿の端はわずかに波打ち、木製カードケースの引き出しも、朝より重くなっていた。
私は残った無貸出本を、一冊ずつ指でなぞった。
郷土資料は二冊。 教師の推薦図書が一冊。 卒業記念文集の控えが一冊。
そのほかの棚には、空白がいくつもある。空白は、見慣れるものではなかった。見慣れたと思った瞬間、そこにあった本がどんな背をしていたか、どんな擦れを持っていたかを思い出せなくなる。忘れたことに気づかないまま、忘れてしまう。
私は空白の数を、声に出さずに数えた。
一、二、三。
途中で目を戻す。
一、二、三。
それから、最後に残った峰ノ原文集の保管用控えへ手を伸ばした。
背表紙は灰色に褪せ、題字の金箔はほとんど消えている。発行年は三十年近く前だった。卒業生に配られた本のほかに、学校へ一冊だけ残された保管用の控えである。貸出カードはない。蔵書印はある。誰にも借りられず、誰かの手元へ持ち出されることもなく、長いあいだ棚の奥に立っていた。
背を押した指に、ほかと違う弾力が返ってきた。
私は手を止めた。
ページ数のせいではない。綴じ糸の硬さとも違う。中に、何か薄いものが挟まっている。
本を開く前に、窓の外を見た。雨は一定の速さで降っている。校庭に生徒の姿はない。職員室の明かりはついているが、こちらへ向かう気配はなかった。
濡れた紙は、触ればすぐに波打つ。だから、むやみに開かない。
私は背表紙の角を親指で確かめ、綴じの具合を測った。紙の束は一箇所だけ、わずかに膨らんでいる。押し花を挟んだときにできる厚みとは違う。もっと平たく、硬い。何枚かの紙が重なっているようだった。
「……紗季さん」
棚の端で、返却カードをそろえていた水野紗季が顔を上げた。呼ばれてから返事をするまでの一拍が、いつもより長い。
「はい」
「ここへ来てください」
紗季は袖口をひと引きしてから、私のところへ歩いてきた。足音はほとんどしなかった。濡れた廊下を歩いてきたはずなのに、靴底の水音が途中で消えている。
「中に、何かありますか」
「たぶん」
「また、たぶんですか」
「まだ開いていませんから」
紗季は本の背を見つめた。指先を伸ばしかけ、触れる前に引っ込める。
「開かないんですか」
「開きます。ただし、順番があります」
私は机の上に厚手の紙を敷き、細いピンセットと記録用の封筒を用意した。紗季は黙ってそれを見ている。図書委員として何度も本の修繕を手伝ってきた彼女は、物を急いで扱うと、あとから元に戻せないことを知っている。
「本の中にあるものは、たいてい本より脆いです」
私は言った。
「紙片でも、花でも、誰かの書きかけでも。挟まれた場所に長くいたものは、本の一部になったように見えますが、引き抜いた瞬間から別の時間へ戻される」
「別の時間へ?」
「そこに挟まれる前の時間です。いつ、誰が、何のために置いたのか。分からないまま動かすと、残っていた順番まで壊してしまう」
紗季は本から目を離さなかった。
「順番が、そんなに大事ですか」
「大事です。紙片の内容より、どの頁に、どの向きで、どれくらい深く挟まっていたかが、意味を持つことがあります」
「栞の向きにも?」
「栞は、とくに」
紗季は袖口を引いた。
「沢田先輩の栞も、向きが決まっていたんでしょうか」
その名前が出ると、図書室の空気がわずかに冷えた。
私はすぐには答えなかった。風間から見せられた、切り取られた文集の頁。そこに挟まれていた薄紫の押し花。紙の断面に残った黒い糊。紗季が覚えていた、先輩たちの沈黙。
それらはまだ、ひとつの事実へまとまっていない。
「見つかった栞については、向きが揃っていました」
「誰かが同じように挟んだ?」
「その可能性はあります」
「沢田先輩が、全部?」
「それは分かりません」
私は峰ノ原文集を机の中央へ置いた。
「分からないことを、分からないまま扱うのも記録の仕事です」
紗季は小さく頷いた。
私は本を開いた。表紙の裏、発行年月日、編集後記。頁を一枚ずつ送り、膨らみのある場所へ近づいていく。紙は乾いていたが、古紙の匂いに、かすかな甘さが混じっていた。押し花の栞を挟んだ本に特有の、乾いた草の匂いだった。
二百頁を過ぎたところで、指先に抵抗があった。
そこだけ、紙が沈まない。
「ここです」
紗季が囁いた。
私は返事をせず、該当頁を両手で支えた。挟まっているものの端が、頁の下から少しだけ見えている。薄い灰色の紙。文字はない。紙の端に、赤い線が一本引かれている。
通用口で拾った紙片の赤い線と同じだった。
私は呼吸を浅くした。ピンセットの先を紙の端へ差し込む。紙片を直接つままず、まず周囲の頁をわずかに浮かせる。何枚かの紙が擦れ、乾いた音を立てた。
その音は、雨より小さいのに、耳の奥へ残った。
紙片を引き出す。
一枚ではなかった。薄い紙を折ったものの内側に、さらに二枚、細長い紙片が重なっていた。どれも文字は見えない。表面が内側へ折られ、赤い線だけが外へ向いている。
私は取り出した順番を崩さないよう、机の上へ並べた。
紗季は身をかがめ、紙片の端を見た。
「これは、配布資料の切れ端ですか」
「一枚目は、そのように見えます」
「二枚目は?」
「紙質が違います。こちらは文集の用紙に近い」
三枚目は、もっと薄かった。古い貸出カードの裏面を切り取ったような紙だった。端に、鉛筆の跡が残っている。文字はほとんど消えていたが、線の一部だけが読めた。
――返却不要。
私はその四文字を見た。
貸出記録のない本に、返却不要と書かれた紙片。
普通なら、貸出対象外の参考資料を示す言葉だろう。だが、この紙片は本の中へ隠されるように挟まっていた。しかも、表面ではなく、折り目の内側に書かれている。
「返却不要って、借りた人に向けた言葉でしょうか」
紗季が尋ねた。
「そうとは限りません」
「では、誰に?」
「借りたことにしてはいけない人へ、かもしれません」
紗季は黙った。
私は紙片を裏返した。黒い糊の跡がある。糊は紙の繊維に薄く染み込み、端の一部を硬くしていた。切り取られた紙を別の台紙へ貼りつけ、あとで剥がした跡のように見える。
机の脇に、私はこれまで拾った紙片を並べた。
倉庫裏で拾ったもの。 通用口の床で拾ったもの。 記録簿の下から見つかったもの。 いま、文集の控えから出てきたもの。
赤い線の位置を揃えてみる。
線は、どれも途中で切れていた。紙片同士を並べると、一本の罫線になる。文字ではない。文書の外側に引かれた、区切りの線だった。
私は机の引き出しから、古い配架図を出した。棚番号と分類記号が手書きで記されている。紙の角は丸く、表面には何度も指を置いた跡があった。
赤い線の紙片を、その上へ重ねる。
一本の線が、図書室の見取り図に引かれた境界と重なった。
郷土資料の棚。 卒業文集の棚。 旧資料室の位置。 倉庫裏の通用口。
線は、図書室の壁から倉庫の裏手へ向かって伸びていた。
「動線ですか」
紗季が言った。
「地図の上では、そう見えます」
「誰かが、本を運んだ道?」
「それだけではありません」
私は赤い線の切れ目を見つめた。線は、かつての資料室の位置で一度途切れている。そこから先は、紙片が足りなかった。
「足りない」
「何がですか」
「紙片です。線をつなぐには、もう一枚必要です」
紗季は空白の棚を見た。
「消えた本の中に?」
「その可能性があります」
私は峰ノ原文集の控えへ視線を戻した。本の中から出てきた紙片は、切り取られた記録の端だった。頁そのものではない。何かを貼り合わせるために使われた台紙か、分類のための印かもしれない。
けれど、赤い線が示す方向は明確だった。
本は、図書室から倉庫へ運ばれたのではない。 図書室の棚、旧資料室の壁裏、通用口。誰かはその順番を知っていた。
「この本を、誰が最後に整理したか調べます」
紗季が言った。
「記録に名前があるでしょうか」
「あるかもしれません」
私は古い受入台帳を引き出した。峰ノ原文集の控えが登録された年度は、風間が見せた切り取られた頁と同じ頃だった。受入欄の筆跡は、現在のものとは違う。几帳面で細く、数字の一部が右へ傾いている。
その横に、整理担当者の欄があった。
名前は記されていない。
代わりに、赤い線のような小さな印が押されていた。
蔵書印ではない。学校の印でもない。三本の短い線が、ひとつの角を作っている。私はそれを見た瞬間、古書店で見かけた蔵書票の印を思い出した。
久我原静子。
彼女の店の帳場で、古い紙片を整理していたとき、同じ形の印が帳面の端にいくつも記されていた。名前の代わりに押す、私的な整理印だと聞いたことがある。誰の資料かではなく、どの束へ戻すかを示す印。
ただし、まだ断定はできない。
私は受入台帳の該当頁を写真に撮り、印の形を記録用紙へ写した。
「久我原さんの印ですか」
紗季が尋ねた。
「似ています」
「聞きに行きますか」
「行く前に、もう少し確かめます」
「まだ足りない?」
「印が似ているだけでは、人の名前を置けません」
紗季は、しばらく紙片を見ていた。
「倉沢さんは、いつも名前を最後にしますね」
「名前は、いちばん重い記録です」
「どうしてですか」
「名前が書かれると、物の話だったものが、人の話に変わるからです。人の話になれば、責任も、罪も、守るべき事情も生まれる。だから、物の位置と時間を先に並べる」
「でも、最後まで名前を書かなかったら、誰が何をしたか分からなくなります」
「その通りです」
私は赤い線の紙片を封筒へ入れた。
「だから、必要になったら書きます。書くことから逃げるために、慎重になっているのではありません。書いた名前を、もう一度消すことのほうが難しいと知っているからです」
紗季は、少しだけ考えた。
「私、前に見たものを書かなかったことがあります」
「壁の中の音ですか」
「それも。ほかにも、先輩たちが文集の話をすると黙ること。図書室の棚から本が一冊ずつ移っていたこと。気づいていたのに、学校がなくなる前だから、みんな忙しいからって」
彼女は袖口を引いた。
「書けばよかったと思います。そうしたら、今になって自分の記憶を疑わずに済んだ」
「記憶は、書いていても変わります」
「それでも、書かないよりはましですか」
「はい」
私は記録簿を開いた。
「書いたものは、あとから間違いを直せます。書かなかったものは、間違いを直す場所もありません」
紗季は自分のノートを出し、今日の出来事を書き始めた。
峰ノ原文集控えの中から、三枚の紙片。 赤い線、黒い糊、鉛筆による「返却不要」。 受入台帳に、三本線の整理印。 整理担当者の名前はなし。
私はその横で、別の記録を作った。紗季の文章とは違い、推測と確認を分ける。彼女のノートに書かれた「返却不要」は、私の記録では「判読可能な文字」とした。
「そこまで分けるんですね」
「文字は、読めると思った瞬間に読み手の意味を帯びます。だから、まず形を残します」
「読めないままでも?」
「読めないまま残すことが、後で誰かの読める形を守ることもあります」
紗季は鉛筆を止めた。
「沢田先輩も、読めないものを残したんでしょうか」
「そうかもしれません」
「それを、誰かが探している?」
「その可能性があります」
「では、消えた本は、誰かが盗んだのではなくて……」
紗季はそこで言葉を止めた。
私は彼女の顔を見た。問いを急かす代わりに、紙片を封筒へしまった。封筒の表に、日付、場所、出てきた本、紙片の枚数を書く。
「盗んだかどうかは、まだ言えません」
「でも、戻すつもりの人の動きではない気がします」
「なぜですか」
「戻す人なら、見つかる場所へ運ぶと思います。これは逆です。人から見えない場所へ寄せて、音の返らない道を選んで、記録に残らない本だけを抜いている」
紗季は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続けた。
「本ではなくて、本の中にあるものを探しているなら、見つけたあと、その本を戻さない理由も分かります。中身だけ抜いて、外側は邪魔になるから」
私は返事をしなかった。
それは、私がまだ口にしていない推測だった。紗季は私の観察を真似ているのではない。彼女自身の視界から、同じ場所へ辿り着いている。
「今の考えは、記録していいですか」
紗季が訊いた。
「推測としてなら」
「推測と書けばいい?」
「はい。断定しないことは、弱さではありません」
紗季は小さく頷いた。
そのとき、階下から扉の閉まる音がした。
続いて、濡れた靴底が床を踏む音。ひとつ、ふたつ。足音は旧棟の階段へ向かい、途中で消えた。
紗季が顔を上げる。
「誰か来ます」
私は机の上の紙片を封筒へしまい、峰ノ原文集を閉じた。ページの厚みは、紙片を取り出す前より軽くなっていた。
図書室の扉の前で、足音が止まる。
ノックはなかった。
私は本を木製カードケースの脇へ置き、扉を見つめた。紗季は腕章をポケットへしまい、無意識に袖口を引いた。私は彼女の前へ半歩出た。
扉の向こうで、誰かが息を整えている。
やがて、低く柔らかな声がした。
「倉沢さん。まだ、いらっしゃいますか」
聞き覚えのある声だった。
集落の古書店主、久我原静子。
私は扉へ手を伸ばした。
開ける前に、峰ノ原文集の控えを見た。空になった頁の厚みが、指先に残っている。そこには、確かに何かがあった。けれど、何があったかは、まだ本そのものが語っていない。
私は扉を開けた。
久我原静子は、濡れた傘を畳んで立っていた。七十代の小柄な体を黒い外套に包み、片手には古い紙袋を提げている。髪はきちんと撫でつけられ、眼鏡の奥の目は穏やかだった。
「お邪魔してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
久我原は一拍置き、図書室へ入った。濡れた傘から、雨と土の匂いがした。彼女は机の上の本を見て、視線を少しだけ止めた。
「文集の控えを、開かれたのですね」
「ご存じでしたか」
「いえ。ただ、その本は長く棚の奥にありましたから。人が動かすと、紙の音が変わります」
久我原は紙袋を机の端へ置いた。袋の中から、古い帳面の角が覗いている。
「本は、読む前に音を聞くものです」
彼女は言った。
「頁をめくる音、背の沈む音、紙が戻ろうとする音。その本がどれほど長く閉じられていたかは、目で見るより先に分かります」
私は彼女の手元を見た。指先は整えられ、爪の間に紙粉ひとつない。
「文集の控えから、紙片が出ました」
「そうですか」
「三枚です。赤い線と黒い糊が残っていました。受入台帳には、あなたの店で使われているものと似た整理印があります」
久我原はすぐには答えなかった。代わりに、眼鏡を外して布で拭いた。柔らかな布が、レンズの上をゆっくり往復する。
「似ているだけなら、よくあることです。赤い線も、帳面の罫線も、誰かが引けば同じになります」

「では、見覚えはありませんか」
「見覚えがあるかどうかは、紙片を拝見しなければ何とも」
「見せる前に、ひとつ確認させてください。峰ノ原中学校の本を、最近持ち出しましたか」
久我原は布を折りたたんだ。音を立てずに。
「本を持ち出す、という言い方は正確ではありませんね」
「では、何と呼ぶべきでしょう」
「戻す、と」
その言葉は静かだった。
「本は、置かれる場所を間違えることがあります。学校へ寄贈されたものが、学校に置いてよい状態でない場合もある。持ち主が手放したつもりでも、そこに置かれた経緯まで手放したとは限りません」
「貸出記録のない本を、戻しているのですか」
「貸出記録のない本だからこそ、戻せるのです。誰も借りていない。誰も探していない。棚にあることだけが、そこに置かれた理由になっている。理由が消えた場所から、本を引き取ることは、盗むこととは違います」
「引き取った本は、どこへ戻すのですか」
久我原は私を見た。
「それを、倉沢さんが知る必要がありますか」
「はい。図書室から本が消えています」
「消えたのではありません。見えなくなっただけです」
「見えないものは、消えたものと同じように扱われます」
「そうでしょうか」
久我原の声は低く、柔らかかった。だが、言葉の隙間を埋めるような微笑みが、かえって硬く見えた。
「見えない場所に置くことで、守られるものもあります。誰かの名前、誰かの恥、誰かがようやく手放した沈黙。すべてを明るい場所へ並べれば正しいという考え方は、若い人には美しく見えるでしょう。でも、光に当てた紙が、必ず読めるようになるとは限りません。焼けて、文字そのものが失われることもある」
「隠すことが、守ることになる場合もある」
「ええ」
「では、隠された側の人が、自分の記録を見たいと思ったら?」
久我原の指が、紙袋の口をわずかに押さえた。
「その人が見たいと思えるまで、待つべきです」
「待っているあいだに、別の人が記録を処分したら」
「処分ではありません。保管です」
「保管場所を知っている人がいなくなれば?」
久我原は黙った。
私はその沈黙を見逃さなかった。問いを重ねる代わりに、彼女の紙袋へ視線を落とした。帳面の角に、赤い線がある。紙袋の内側から、薄紫の花弁が一枚だけ覗いていた。
押し花の栞。
紗季が息を呑んだ気配が、背後でかすかに動いた。
久我原は花弁を見られたことに気づき、紙袋を閉じた。動作は丁寧だったが、指先の動きだけが固い。
「それは、沢田あかりさんのものですか」
私が尋ねると、久我原はすぐに答えなかった。
雨音が窓を叩いている。図書室の古い時計が、秒針を一つ進めた。
「倉沢さん」
「はい」
「記録は、正しいものだけを残せばよいとお考えですか」
「いいえ」
「では、間違った記録や、傷つける記録も残すのですか」
「残っているなら、残っている状態を記録します。消すかどうかは、そのあとで判断します」
「判断する人が、傷つく側でない場合も?」
「あります」
「そのとき、正しさは誰のものになりますか」
私は文集の控えへ手を置いた。紙の内部には、さきほどまで紙片が挟まっていた空洞がある。触れなければ分からないほどの薄い欠落だった。
「だから、ひとりで決めないようにします。見つけた人、書かれた人、守ろうとした人。できる限り、それぞれの立場を残す。記録を隠すか公開するか、その二つだけが答えではありません」
「名前を伏せることも?」
「必要なら」
「書かないことも?」
「書かない理由を記録できるなら」
久我原は私を見つめた。穏やかな顔のまま、目の奥だけが深く沈んだ。
「あなたは、以前より慎重になりましたね」
「以前をご存じですか」
「長くこの集落におりますから。あなたが図書室で、貸出カードの筆跡をひとつずつ確かめていた頃も知っています。誰かの本が一日遅れて返れば、必ず理由を尋ねた。正しさに忠実な方でした」
「今も、記録には忠実です」
「ええ。けれど、人に対しては迷われる」
「迷わずに人を扱うほうが危険です」
久我原は、ほんの少し口元を緩めた。
「その通りです。だから、あなたにお願いがあります」
「何でしょう」
「最後に残った本を、これ以上開かないでください」
図書室の静けさが、急に重くなった。
紗季の袖口を引く音がした。小さく、二度。
「なぜですか」
「その本には、もう誰も傷つけないと決めたものが残っています」
「決めたのは誰ですか」
久我原は紙袋を抱え直した。
「その時代に、そこにいた人たちです」
「沢田さんも?」
問いかけると、久我原の指先が止まった。
「沢田さんは、何も決められない年齢でした」
「それでも、沈黙した」
「沈黙しか選べない人もいます」
「沈黙を選ばせた人がいるのでは?」
久我原は目を伏せた。
「倉沢さん。あなたは、真実を見つけたあと、その真実を誰が持つべきかまで考える方です。だからこそ、見つけないでください。見つけたものを持てる人は、見つけた人とは限りません」
「見つけないことを選べば、私は今度こそ、記録のない空白を作ります」
「空白は、いつも悪いものではありません」
「そうですね」
私は頷いた。
「けれど、空白が誰かの手で作られたものなら、理由を確かめずに受け入れることはできません」
久我原は返事をしなかった。
私は机の上へ、受入台帳の写しを置いた。三本線の印が見えるように、紙を回す。
「この印をご存じですね」
久我原は見た。
その一瞬だけ、彼女の右手の人差し指が紙袋の端を強く押さえた。爪の脇が白くなる。
「古い整理印です」
「誰のものですか」
「持ち主を尋ねるほどのものではありません」
「赤い線の紙片は?」
「それも、ありふれたものです」
「押し花の栞は?」
久我原は目を上げた。
「それは、ありふれていません」
長い沈黙だった。
雨の音が、窓の向こうで頁をめくるように続いている。私はその沈黙を急かさなかった。問いを増やせば、彼女はさらに深く閉じる。閉じたものを開くには、力より順番が必要だった。
やがて久我原は、紙袋から薄い手帖を取り出した。表紙は擦れ、角が丸い。中に押し花の栞が挟まっている。
「これは、沢田さんから預かったものです」
紗季が息を吸った。
「いつ?」
「卒業する少し前です」
「なぜ預かったのですか」
「彼女が、自分で持っているのが怖いと言ったからです」
「何が書かれていたのですか」
「書かれてはいません」
「では、なぜ?」
「書かれていないからです」
久我原は、手帖を閉じた。
「書かれていないものは、誰かに読まれることを待っているのではありません。読まれないまま、持ち主の中で形を変え続けることがあります。沢田さんは、それを自分だけで抱えられなくなった。でも、誰かへ渡す勇気もなかった。だから、栞だけを私に預けた」
「栞が、何を示すのですか」
「本の頁です」
「どの本の?」
久我原は答えなかった。
私は文集の控えを見た。さきほど紙片が出てきた頁には、栞が挟まっていた形跡はない。花弁の粉だけが、古い貸出カードに残っていた。
「沢田さんは、その栞を本へ戻すよう頼みましたか」
「いいえ」
「では、誰が?」
久我原は窓の外へ目を向けた。雨に濡れた山は、夕方の灰色へ沈みはじめている。
「戻すのではありません。回収するのです」
その言葉を聞いた瞬間、消えた本の空白が、ひとつの形を持った。
本は盗まれたのではない。 本の中に残されたものを、誰かが回収している。
けれど、誰が、何のために。 その答えは、まだ紙の奥に折りたたまれていた。
私は立ち上がらなかった。机の上の本にも触れなかった。
「久我原さん」
「はい」
「最後に残った一冊を、あなたは知っていますね」
「知っています」
「その本に何があるのかも」
「知っています」
「それでも、開かないでほしいと?」
久我原は手帖を胸元へしまった。
「開けば、誰かの人生が、記録という名前で外へ出ます」
「開かなければ、誰かの人生は、空白のまま残ります」
「空白のほうが、まだ生きられる人もいるのです」
「生きられなかった人は?」
久我原の顔から、微笑みが消えた。
彼女は答えなかった。
私はその沈黙を、初めて拒絶ではなく、悔恨に近いものとして見た。けれど、まだ断定はできない。人の表情も、記録簿と同じように読み違えることがある。
久我原は紙袋を持ち、扉へ向かった。
「明日、また来ます」
「どこへ?」
「古書店へ。あなたが来るなら、見せるものがあります」
「何を?」
久我原は扉の前で振り返った。
「本が、どこへ戻されたかです」
そう言って、彼女は図書室を出ていった。
扉が閉じる音は、驚くほど小さかった。
私は机の上に残った峰ノ原文集の控えを見た。取り出した紙片の跡が、頁の間に細い空洞を作っている。その空洞へ指を置くと、紙の冷たさが掌へ移った。
紗季が、低い声で言った。
「久我原さんが犯人ですか」
私はすぐに答えなかった。
「犯人という名前を置くには、まだ早いです」
「でも、本を回収していると言いました」
「そうです」
「それなら、消した人です」
「消したのは本ではなく、見える場所からです」
「同じです」
紗季は袖口を引いた。
「見えない場所に置けば、残っていても、ないのと同じです」
私は彼女を見た。
「その通りです」
「倉沢さんは、それでも、久我原さんをすぐに犯人とは書かない」
「書けません」
「どうしてですか」
私は木製カードケースへ目を向けた。
「彼女が何を守ろうとしているのか、まだ分からないからです。守ろうとしたことが正しいとは限りません。でも、守ろうとした対象まで見ないまま裁けば、記録はまた別の形で人を消します」
紗季はしばらく黙っていた。
「守るためなら、消していいんでしょうか」
「いいえ」
「でも、守るために消す人がいる」
「います」
「では、どうすればいいんですか」
私は答えを探した。窓の外の雨が、少しずつ弱くなっている。遠くの山のどこかで、水が細い流れになって斜面を下っている気配がした。
「消した事実を、消さないことです」
紗季は私を見た。
「消した事実を?」
「何が消されたか。いつ消されたか。誰が、どんな理由で消そうとしたか。それを順番に残す。そうすれば、守るための沈黙も、逃げるための沈黙も、あとから見分けられるかもしれません」
「見分けられなかったら?」
「見分けられなかったことも、記録します」
紗季は視線を落とした。
「それは、答えになるんでしょうか」
「答えではありません。次の人が考えるための場所です」
私は取り出した紙片を封筒へしまい、峰ノ原文集の控えを閉じた。背表紙を指でなぞる。さきほどまであった厚みは失われ、今は本来の硬さに戻っている。
けれど、本は軽くなったのではない。
何かを失ったことで、失った場所がはっきりしただけだった。
私は記録用紙へ書き込んだ。
峰ノ原文集控えより紙片三枚を回収。 赤い線は、配架図上の旧資料室裏の経路と重なる。 受入台帳に三本線の整理印。 久我原静子、押し花の栞を沢田あかりより預かったと証言。 消えた本は、記録の回収に使われた可能性。
最後の一行の前で、私は筆を止めた。
「可能性」と書くことに、以前ほど怯えなくなっていた。推測は、事実を曇らせるものではない。事実と推測の境目を明示すれば、あとから誰かが見直せる。
私はその一行を書いた。
そのとき、図書室の棚の奥で、何かが小さく鳴った。
本が戻ろうとする音だった。
私は顔を上げた。
空白の棚のいちばん奥、残された一冊の隣で、背表紙がわずかに揺れている。風はない。窓も閉まっている。
紗季が近づき、棚の下へ目を落とした。
「本が、少し前へ出ています」
私は定規を持った。空白の幅を測る。昨日まで三センチ半だった隙間が、ほんの少し狭くなっていた。
誰かが触れたのか。 本が自分で動いたのか。
私は手を伸ばす前に、もう一度、数えた。
一、二、三。
空白は、まだそこにある。
けれど、空白の中に残されたものまで、消えたわけではない。
私は久我原が置いていった言葉を、記録用紙の余白へ書いた。
本は、戻される場所を知っている。
書き終えたあと、私はその一文をしばらく見ていた。
それが誰の言葉だったのか、まだ決めなかった。
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