第4話 空白の手触り

雨が降った翌朝も、旧棟の廊下には湿った木の匂いが残っていた。
窓を閉めているのに、床板の隙間から水気が上がってくる。歩くたび、靴底の下で木が低く鳴った。乾いた日の廊下なら、音はまっすぐ階段へ流れていく。雨の翌日は違う。音が床の中へ沈み、少し遅れて、別の場所から戻ってくる。
私は図書室の扉を開け、明かりを点けた。
蛍光灯が一度だけ明滅し、棚の背を白く照らした。窓は曇り、外の山は輪郭を失っている。机の上に置いた記録簿の端が、湿気を吸ってわずかに波打っていた。
私は鞄から細い定規を取り出し、司書台の上へ置いた。次に、木製カードケースを手前へ引き寄せる。引き出しの取っ手は、昔よりさらに丸くなっていた。退職してから何年も経つのに、指は迷わず一番下の段を探り当てる。
郷土資料。
分類番号と題名が、古い筆跡で並んでいる。保存会の名、寄贈者の名、受入日。紙の上には、誰かが本を学校へ迎え入れた手順が残っている。けれど、空白になった棚にあった本の貸出カードは見つからなかった。
カードが作られなかったのか。 作られたあと、抜き取られたのか。
私は同じ問いを、記録簿の余白へ二度書いた。書いてから、二度とも線を引いて消した。推測を記録に混ぜると、あとで事実の顔をしてしまう。
消えた本の題名は、集落の水利についてまとめた薄い郷土誌だった。三十年以上前、峰ノ原水利保存会が発行したものだ。表紙には川と用水路の略図が載っていたはずだが、私は内容を詳しく覚えていない。貸出された形跡がない本は、棚の奥で背を見せたまま、読まれない時間を積み重ねていた。
読まれなかったのではない。 読む必要がある人に、読む場所が与えられなかっただけかもしれない。
私は棚の前へ移動した。
空白は昨日と同じ幅を保っている。左右の本は、誰かが整えたように背の位置が揃っていた。私は一冊ずつ抜き、棚板の上に残る跡を確かめた。朱肉の粉は、昨日より薄く見える。触れずに済ませたかったが、紙を敷き、指先でほんの少しだけ集めた。
乾いた朱は、古い油と木の匂いがした。
本を抜いたとき、背表紙の蔵書印が棚板に触れた。 その本は、乱暴には引き出されていない。
誰かが周囲の本をいったん外へ寄せ、空いた幅を整え、そこから静かに抜いた。図書室を知っている者の手つきだった。
「おはようございます」
扉のほうから声がした。
水野紗季が立っていた。小柄な体を少しだけ縮めるようにして、制服の袖口を指で引いている。手には図書委員の腕章と、昨日とは別の小さなノートがあった。
「おはようございます。早いですね」
「倉庫の前を通ったので」
紗季はそう言い、扉を閉めた。閉め方が静かだった。蝶番が鳴らない角度を知っているらしい。
私は空白の棚へ目を戻した。
「昨日のことを、もう一度聞かせてもらえますか」
紗季はすぐには答えなかった。ノートの角を親指で撫で、廊下のほうへ視線をやる。誰かの足音が一階へ降りていく。紗季はその音が消えるまで待った。
「昨日の夕方、倉庫へ向かう人を見ました」
「人影だけですね」
「はい。顔は見ていません」
「何を持っていましたか」
「本のように見えました。でも、よく考えると、本を抱えている感じではなかったです」
「どこが違いましたか」
紗季は棚の前へ近づき、空白の両側にある本を見た。
「本を何冊か持つと、普通は胸の前へ寄せます。落ちないように、両腕で支えるから。でも、その人は片腕だけでした。もう片方の手が空いていた」
「鍵を使うために?」
「たぶんです」
「倉庫の前で、鍵の音を聞いた?」
「はい。金属が一度だけ鳴りました。束を出して、すぐに止まった音です。島田さんの鍵束だと思いました」
「思いました、というのは」
「顔を見ていないからです。足元は作業靴でした。でも、島田さんの靴とは違うかもしれません」
「違いが分かるのですか」
「島田さんは、歩くと踵が少し鳴ります。古い靴なので。昨日の人は、音を消して歩いていました」
私は記録簿を閉じた。
紗季は、人を疑いたいのではない。ただ、自分の見たものを、見なかったことにしたくないのだ。言葉の少なさはためらいからではなく、見たことと考えたことを混ぜないための慎重さだった。
「なぜ、昨日のうちに話さなかったのですか」
「見間違いかもしれなかったからです」
「島田さんを疑うことになるから?」
紗季は首を横に振った。
「疑うことが嫌だったわけではありません。見ていないところまで見たことにするのが嫌でした。大人の人は、誰かの名前が出ると、その名前に合わせて、見たことまで形を変えることがあるので」
その言葉は静かだったが、芯があった。
私は棚板に手を置いた。木は冷たく、湿っていた。
「あなたは、名前より先に場所を見るのですね」
「場所は、逃げないから」
紗季はそう言ったあと、袖口を引いた。
「でも、場所も変わります。昨日まであったものがなくなると、あとから自分が見間違えたような気がしてきます」
「だから、記録する」
「記録しても、読まれなかったら?」
「読まれるまで残ります」
紗季は私を見た。
「誰かが読むとは限りません」
「そうですね」
私は答えを急がなかった。
「それでも、読まれなかったことと、最初からなかったことは違います。記録は、読む人が現れるまで、そこにあった時間を預かるものです」
「本もですか」
「本も同じです。貸し出し記録がない本は、誰にも触れられなかったように見える。でも、本を寄贈した人がいる。題名を書き写した人がいる。蔵書印を押した人がいる。棚へ運び、背を揃えた人がいる。貸出カードに名前がないだけで、その本が無人だったことにはなりません」
紗季は空白へ視線を向けた。
「なのに、消えても気づきにくい」
「そうです」
「借りられた本なら、返ってこないと誰かが探します。でも、借りられていない本は、なくなっても、棚のほうが間違っていたと思われる」
「だから、選ばれたのかもしれません」
言ってから、私は口を閉じた。
選ばれた。 その言葉には、まだ根拠がない。ただ、空白が偶然には整いすぎていた。
紗季は私の顔を見たが、問い返さなかった。代わりに、棚の下へしゃがみ込む。小柄な体だから、私より視線が低い。彼女は棚板の端を指でなぞり、白い線の上で止めた。
「ここです」
「昨日の跡ですか」
「昨日は、ここまで見ていません。でも、前にはありませんでした」
「覚えているのですか」
「昨日、棚の下を拭きました。図書委員の仕事で。空白のところは、何度も見たので」
紗季は指先を引いた。木粉が少し付着している。
「私、見落としたんです」
「何をですか」
「先週も、図書室の本を倉庫へ運んでいる人を見ました。あのときは、先生が資料を移しているだけだと思いました。でも、今思えば、その人も図書室の前を通っていない」
私は紗季の言葉を記録用紙へ書いた。
先週。 図書室の本を抱えた人影。 図書室前の通過音なし。 倉庫付近で確認。 人物不詳。
「その人も、顔は見ていませんか」
「はい」
「何冊くらいでしたか」
「三冊か四冊。重ねていたけれど、やっぱり片腕で抱えていました」
「同じ人だと思いますか」
紗季は窓の外へ目をやった。雲の切れ間から、淡い光が校庭へ落ちている。水たまりの表面に、校舎の白い壁が揺れていた。
「分かりません。でも、歩き方は似ていました」
「歩き方?」
「足音が、いつも一つ少ないんです」
「一つ少ない?」
「廊下を歩くと、普通は靴音が床へ落ちて、少し遅れて壁から戻ってきます。でも、その人の音は、落ちたあと戻ってこない。壁際を歩いているのか、音が戻る場所を知っているのか……」
紗季はそこで言葉を止めた。
私は彼女が見ている廊下を思い浮かべた。図書室から倉庫へ向かうなら、二階の西側を通る。窓際の板は雨の日に軋み、掲示板の前では音が壁へ跳ね返る。音を消して歩くには、壁際の乾いた板を選ぶしかない。
「校舎の音を、よく覚えていますね」

「音が変わると、人がいる場所も変わるので」
「それは、図書委員の仕事で覚えたのですか」
「最初は、ここにいると落ち着いたからです」
紗季は袖口を引いた。
「教室は人が多くて、椅子や机の音が重なります。図書室は、音が一つずつ分かれる。本を戻す音、窓の音、誰かが階段を上ってくる音。ここにいると、何が起きているか分かる。分からないままにされない気がして」
最後の言葉だけ、彼女は小さく飲み込んだ。
私はそれ以上、理由を尋ねなかった。
若い人の沈黙を、年長者の都合で開かせてはいけない。口にされないものにも、そこに置かれるまでの時間がある。私は紗季のノートを見た。表紙には、雨で濃くなった指の跡がいくつか残っている。
「そのノートに、昨日のことを書いておきましょう」
「もう書きました」
紗季は開いたページを見せた。
図書室前の足音なし。 倉庫前で鍵の音一度。 本らしきものを片腕で運ぶ人影。 作業靴。ただし島田さんとは断定できない。
短い文だった。だが、見たことと見ていないことの境目がはっきりしている。
「よく書けています」
「本当に?」
「はい。断定しないことは、弱いことではありません」
紗季はノートを閉じた。
「倉沢さんは、すぐに誰かを疑わないんですね」
「疑う前に、確かめたいだけです」
「同じことではないですか」
「違います。疑いは、人の名前を先に置く。確かめるのは、物の位置や時間を先に置く。名前は、そのあとでいい」
「でも、物の位置も人が動かしたものです」
「そうですね」
私は空白の棚を見た。
「だから、物を見れば人に近づける。ただし、物を人の代わりに裁いてはいけない」
紗季はしばらく黙っていた。やがて、机の上の記録簿を指した。
「この本は、ずっと誰にも借りられていなかったんですよね」
「記録の上では」
「それでも、誰かが動かした」
「そう見えます」
「どうして、貸出記録のない本だけなんでしょう」
私は答えを探すために、眼鏡の縁を親指で押した。
「目立たないから、かもしれません。なくなっても、整理の途中だと思われる。あるいは、記録がないからこそ、誰かが探しているものを挟める」
「探しているもの?」
「まだ分かりません」
私は記録簿を開いた。受入記録の頁には、十八冊という数字がある。その下に、確認できる題名が十七冊。ひとつの欠落が、最初からそこにあったように見える。
「本そのものではなく、本に挟まっていたものを探している可能性もあります」
「栞とか、メモとか」
「そうです。貸出カードには残らないものです」
紗季の指が、袖口を引いたまま止まった。
「もし、その人が本を戻さなかったら、挟まっていたものも消えます」
「だから、見つけなければいけません」
「見つけたら、どうするんですか」
問いは、本の所在ではなく、記憶の扱い方を尋ねているように聞こえた。
私は記録簿の頁を押さえた。紙は乾いているのに、どこか冷たい。
「まず、見つけたものを見つけたまま記録します。誰のものか、何を意味するかは、そのあとに考える」
「意味を考える前に、名前が分かってしまったら?」
「名前を書かないという方法もあります」
「それで、記録になるんでしょうか」
「名前だけが記録ではありません。いつ、どこにあり、どんな状態だったか。それも、その人がそこにいた証拠です」
紗季は窓の外へ目を向けた。
「沢田先輩も、そういうふうに残っているんでしょうか」
その名前が出た瞬間、図書室の空気が少し変わった。
私は答えなかった。紗季も、すぐには続けなかった。やがて彼女は、卒業文集の棚を見た。
「先輩たちは、文集の話になると黙ります。何を書いたか聞いても、覚えていないって言う。でも、覚えていない人の顔ではないんです」
「顔で分かるのですか」
「見れば」
それだけ言い、紗季は口を閉じた。
私は、文集の棚へ歩いた。廊下から遠く、誰かが椅子を引く音がした。紙の背表紙を指でなぞりながら、私は沢田あかりの名を思い浮かべた。卒業した人物の記憶は、在校生の前ではいつも少しだけ薄い。名前は文集に残っていても、その人がどんな声で話し、どんな手つきで本を戻したかは、次の世代へ伝わらない。
伝わらないものは、消える。
私は棚から古い卒業文集を一冊取り出した。表紙の角が丸く、紙の端には細かな埃が入り込んでいる。ページをめくると、湿気を含んだ古紙の匂いがした。
「紗季さん」
「はい」
「今日、倉庫を見に行きます。あなたが見た動線を、実際に確かめたい」
「島田さんに聞かれたら?」
「聞かれたら、調べるためだと答えます」
「怒られませんか」
「怒る理由があるなら、その理由も記録します」
紗季は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「倉沢さんは、静かなのに怖いです」
「そうですか」
「声を大きくしないから、逃げるところがありません」
「逃げる必要がある人には、そう感じるのかもしれません」
言ってから、私は少し間を置いた。
「でも、私は誰かを追い詰めたいわけではありません」
「知っています」
紗季は即座に返した。
「だから、余計に怖いんです。追い詰めるつもりのない人のほうが、見たものをそのまま残してしまうから」
その言葉は、図書室の中央に静かに落ちた。
私は文集を閉じた。表紙の内側に、古い貸出カードが一枚挟まっている。記入欄は空白だったが、カードの端に薄紫色の粉が付着していた。押し花の花弁が擦れたものかもしれない。私は指で触れず、文集を元の位置へ戻した。
「これは、まだ記録しません」
紗季が私を見る。
「なぜですか」
「今の段階では、意味が分からないからです。見つけたものを全部書くと、あとで大事なものが埋もれます」
「でも、書かなかったら忘れるかもしれない」
「忘れないように、別の紙へ写します」
私は記録用紙を取り出し、文集の棚番号と、空白の貸出カード、薄紫の粉を書いた。推測は書かない。沢田あかりの名もまだ記さない。
記録簿の頁をめくる音が、図書室に長く響いた。
やがて、廊下の奥で金属が鳴った。
一度だけだった。
紗季が顔を上げる。私は立ち上がり、扉へ目を向けた。
音は倉庫の方向から来たように思えた。けれど、旧棟の廊下は音を返す。実際の場所と、聞こえた場所が一致するとは限らない。
私は記録用紙の時刻欄を埋めた。
その一行を書き終えるまで、私たちは動かなかった。
誰かがいるのかもしれない。 誰もいないのかもしれない。
ただ、空白の棚だけが、昨日より少し広く見えた。
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