第5話 数え直す理由

翌朝、雨は上がっていた。

雲はまだ山の稜線に低く垂れこめていたが、校庭の水たまりには薄い光が差している。濡れた銀杏の葉が地面に貼りつき、踏まれるたびに、靴底の下で柔らかな音を立てた。

私はいつもより早く図書室へ入った。

窓を開けると、湿った木の匂いに混じって、土と鉄の匂いが流れ込んできた。昨日、倉庫前で見つけた擦れ跡が頭に残っている。台車の車輪らしい線。通用口へ向かって折れた動き。棚板の下に残る、同じ幅の黒ずみ。

本が、図書室から倉庫へまっすぐ運ばれたのではない。

そう考えると、消えた一冊の所在だけでなく、消える本の選ばれ方にも別の意味が生まれるようだった。

私は司書台に座り、木製カードケースの引き出しを開けた。

まず、消えた郷土誌の記録を確認する。登録番号、受入日、寄贈者、蔵書印の位置。次に、その前後に並んでいた本を一冊ずつ棚から抜いた。背表紙の高さ、奥付の紙質、分類番号の書き方。古い本は、同じ棚にあっても同じ時間を生きてはいない。

棚順を書き写す。

郷土史。 戦前の文庫本。 地域寄贈の文集。 教師の推薦図書。 卒業記念文集の控え。

そのどれにも、貸出記録のない本が混じっていた。

私はカードケースの中から、該当するカードを探した。貸出カードがある本には、年月日と名前が残っている。筆跡を見れば、同じ生徒が何度も借りた本も分かる。返却期限票の端が擦れているものは、長く手元に置かれていた証拠になる。

けれど、今回抜けた本には、それがなかった。

貸出カードそのものが作られていない。

「郷土誌だからでしょうか」

背後から声がした。

振り向くと、水野紗季が扉のところに立っていた。図書委員の腕章をつけ、両手で小さなクリップボードを抱えている。昨日のことを気にしているのか、袖口を引く指がいつもよりゆっくり動いていた。

「可能性はあります」

私はカードを机に並べた。

「寄贈された資料は、登録だけして貸出対象にしないことがあります。けれど、対象外なら、そのことを示す印があるはずです。貸出禁止の赤い線や、参考資料の表示です」

「この本には、ありませんでした」

「そうです。だから確認しています」

紗季は机の横へ来て、カードの端を覗き込んだ。

「他の本にも、記録がないものがありますね」

「ええ」

「でも、なくなっているのは、そういう本だけ」

「今のところは」

私は残った本の題名を縦に並べた。戦前に出た薄い文庫本、地域の祭礼を記録した冊子、教師が推薦した詩集の初版本。どれも、貸出カードがない。図書室の棚に長く置かれ、誰かが必要になったときだけ開かれるような本だった。

「貸出記録がない本は、誰にも借りられなかった本とは限りません」

私は言った。

「図書室の中で読まれた本や、先生が授業で使った本は、記録に残らないことがあります。返す必要がなければ、カードも動かない。けれど、本が読まれた時間まで消えるわけではない」

紗季は、空白の棚を見た。

「記録がないから、誰にも探されない」

「そういうことです」

「なくなっても、整理の途中だと思われる」

「ええ」

私は消えた本の登録番号を、紙の中央へ書いた。

「だから、もう一度数えます」

「何をですか」

「本の数だけではありません。貸出カードのある本、ない本。蔵書印のある本、押されていない本。寄贈経路が同じ本。受入年が近い本。空白の位置。移動した跡。それぞれを分けて、最後に重ねます」

紗季は、私の横に置いた古い図書室配置図を見た。

「重ねると、何か分かるんですか」

「分からないかもしれません」

「それでも?」

「分からないままにしておくと、分からなかった理由も消えます」

紗季はしばらく黙っていた。それからクリップボードを開き、私の書いた題名を写し始めた。角の丸い鉛筆を使い、題名と題名の間に十分な空白を取っている。後から何かを書き足すためだろう。

私はその手つきを見ていた。

紗季は、私がかつて教えた棚の並び方を覚えている。最初に分類番号を見るのではなく、本の置かれた位置と周囲の空気を見る。きれいな配列の中にある、きれいすぎる空白を疑う。

「この文庫本も、貸出記録がありません」

紗季が指したのは、戦前の小説だった。背表紙は茶色く褪せ、題名の金文字がほとんど消えている。

「奥付を見せてください」

私は本を受け取り、表紙を開いた。紙の匂いは乾いているのに、底のほうに土のような湿り気があった。奥付の印刷所は、峰ノ原から遠く離れた町にある。裏表紙の内側には、薄い鉛筆の線が一本だけ残っていた。

本の頁を四枚ごとに区切るような線だった。

「これは、貸出記録がないというより、最初から貸出対象になっていなかった本です」

「どうして分かるんですか」

「カードを作る位置が違います。普通なら本の題名と分類番号を写してから、登録印を押す。でも、この本は蔵書印だけが後から押されている。図書室へ正式に入ったのは、受入時期よりずっと後です」

「つまり、別の場所にあった?」

「かもしれません」

私は答えながら、鉛筆の線を見た。

四頁ごとの印。読んだ人がつけた目印なのか、別の何かを探した跡なのかは分からない。線は薄く、指で触れれば消えそうだった。

「本は、棚に戻されるまでにいくつもの場所を通ります。寄贈者の家、職員室、仮置き棚、図書室。記録はその全部を追いません。だから、最初の場所が分からなくなる」

「本の住所が消えるみたいです」

紗季が言った。

「住所が消えても、本はそこにいた時間を覚えています」

私は本を閉じ、棚へ戻した。

「紙の焼け方、印の位置、背の擦れ。そういうものが、あとから手掛かりになる」

そのとき、職員室のほうから風間透の声が聞こえた。誰かに指示を出しているらしい。声は明るかったが、言葉の区切りが早い。私は記録簿を閉じ、紗季へ目を向けた。

「職員室へ行きます」

「私も?」

「本の題名を書き写すなら、現物を見たほうがいいでしょう」

紗季は頷き、クリップボードを抱え直した。

図書室を出ると、廊下の窓から朝の光が斜めに差していた。床板の一部だけが乾き、そこを踏むと靴音が硬く返る。昨日、紗季が言っていた。音が一つ少ない人影は、壁際を選んで歩くのだと。

私は無意識に、廊下の中央を避けていた。

職員室では、風間が机を二つ使って卒業文集を整理していた。文集の束は年代ごとに分けられ、表紙の色が薄い順に並べられている。その横には、赤い表紙の国語便覧と、何冊かの古い貸出カードが置かれていた。

「倉沢さん」

風間は顔を上げ、少しだけ笑った。

「ちょうどよかった。文集の控えと本目録を照らし合わせていたところです」

「本目録を?」

「廃校後に、地域資料として残すものを選ぶ必要があるので。とはいっても、選ぶという言い方がもう、少し嫌なんですが」

「残すものを選ばなければ、すべてが散らばります」

「分かっています。ただ、選ばれなかったものが不要だったことになるわけじゃない」

風間はそう言い、机の端を指で叩いた。一定の間隔だったが、三度目だけ音が弱くなった。

私は文集の束へ近づいた。

「風間先生は、貸出記録のない本を調べていますか」

「何冊かは。授業で使った記録が残っていない本もありますから」

「消えた郷土誌については?」

風間の目線が、ほんの一瞬だけ移動した。窓ではなく、文集の束へ。

「僕は持ち出していません」

「持ち出したかどうかを尋ねただけです」

「すみません。先回りしました」

風間は眼鏡を押し上げる前に、指先を一度止めた。

「ただ、昨日から、誰かが僕を疑っているような気がして」

「疑ってはいません。確認しています」

「その違いは、確認される側には分かりにくいことがあります」

「では、分かるように答えてください」

風間は苦笑した。すぐに消える笑いだった。

「倉沢さんは、相手に逃げ道を残さない話し方をしますね」

「逃げ道を作るのは、記録の仕事ではありません」

「でも、人には逃げ道が必要です。言い間違えたときに戻れる場所とか、話すのをやめても責められない余白とか」

「余白が長すぎれば、記録は欠落になります」

「欠落したほうが、誰かを守れることもあるんです」

風間の声が低くなった。職員室の奥では、別の教師が書類をめくっている。ストーブの中で、金属が一度鳴った。

「言葉は、人を残すために使える。でも、残し方を間違えると、誰かをその言葉の中に閉じ込める。生徒の作文を直していて、それを思い知ったことがあります。本人が書いた、不格好で大事な一文を、正しい文章に直した。文法も整ったし、読みやすくなった。でも、その子は次から何も書かなくなった」

風間は文集の表紙を撫でた。

「記録も同じです。整えれば整えるほど、そこにいた人の息が抜ける。だから、僕は文集の余白を残したい。書かれていないものを、無理に説明したくない」

「説明しないことと、隠すことは違います」

「ええ」

「あなたは、どちらですか」

風間はすぐに答えなかった。

「……自分でも、分けきれていません」

その返事は、これまでの風間のどの言葉より正直に聞こえた。

彼は文集の一冊を開いた。古い紙が擦れ、乾いた音を立てる。数頁めくったところで、風間の指が止まった。

「沢田あかり」

紗季が小さく息を吸った。

文集の頁には、生徒の作文と、教師の短い講評が並んでいた。沢田あかりの文章は短い。題名は「水の音を聞く」。内容は、雨のあとに校舎の裏を流れる細い水路について書かれている。水はどこから来て、どこへ行くのか。見えないところを通って、別の場所で音になる。そのような文章だった。

途中に、空白がある。

文章が途切れたのではない。頁の下半分が、切り取られていた。

紙の断面は古く変色しているが、切り口は不自然にまっすぐだった。風間はそこへ押し花の栞を挟んでいた。薄紫の花弁が、切り取られた頁の縁に触れている。

「これは、いつから?」

私が尋ねると、風間は栞を押さえた。

「僕が見つけたのは、去年です」

「誰が切り取ったか、知っていますか」

「知りません」

「切り取られた頁の内容は?」

風間は視線を落としたまま答えた。

「読めません。残っている部分だけでは、文章の続きが分からない」

「文集の原稿は?」

「職員室の書庫にあるはずでした。でも、該当年度の原稿だけ、見当たりません」

「原稿がないことを、校長には?」

「言っていません」

「なぜですか」

風間は押し花の茎を指先でなぞった。乾いた茎が、紙の上でかすかに軋む。

「沢田が卒業してから、何度か連絡を取ろうとしました。けれど、彼女は学校のことを聞くと話を変えた。文集の頁が切られていることを伝えたら、たぶん、戻ってこられなくなると思ったんです」

「戻ってきてほしかったのですか」

風間は顔を上げた。

「分かりません。ただ、彼女が自分の書いたものを、自分で確かめられないままになっているのが嫌でした。でも、呼び戻すことが正しいとも思えなかった。あの人は、目立つことを避けていた。誰かが正義のつもりで話を掘り返せば、また彼女の名前だけが先に走る」

「名前が走る?」

「出来事より先に、名前だけが人の間を回るんです。あの子が見た、あの子が言った、あの子が関わった。そうなったら、本人が何を感じていたかは、もう誰も聞かなくなる」

風間の声は、熱を帯びながらも大きくならなかった。

「だから僕は、文集を残したいと思った。少なくとも、彼女が書いた文章の周りにあった余白まで含めて。でも、残すことが守ることなのか、傷を固定することなのか、今も分からない」

私は切り取られた頁を見た。

「この押し花は、沢田さんのものですか」

「たぶん」

「たぶん、ですか」

「彼女が図書室でよく使っていました。春先に咲く薄紫の花を押して、栞にしていた。誰かに贈ることもあったので、すべてが彼女のものとは言えません」

「この栞を、あなたが持っている理由は?」

風間は長く黙った。

「頁が切られていると知った日に、彼女の机の引き出しから見つけました。正確には、机ではなく、旧資料室の棚の隙間です。誰かが落としたのか、置いたのかは分かりません」

「旧資料室」

紗季が小さく繰り返した。

風間は彼女を見た。若い教師の顔から、いつもの親しみやすさが消えていた。

「その部屋のことを、誰から聞きましたか」

「校内図に載っていました。今は壁で塞がれているそうです」

「そうです。僕も、改修前の図面でしか見たことがない」

「そこへ入ったことは?」

風間は答えなかった。

私は、風間の手元を見た。文集の頁を押さえる指先に、薄い黒い糊の跡がついている。昨日、通用口の床で拾った紙片にも、同じような感触が残っていた。

「風間先生」

「はい」

「その栞を、なぜ文集に挟んでいるのですか」

「忘れないためです」

「誰を?」

風間の指が止まった。

「沢田を、というより……彼女が書かなかった部分を」

彼は切り取られた頁を見つめていた。

「人は、残された文章だけを読んで、その人のことを分かったつもりになります。けれど、書けなかったことや、消されたことにも同じくらい時間がかかっている。僕は、それをなかったことにしたくない」

私は頁の断面へ目を落とした。

「なかったことにしないために、栞だけを残すのですか」

「今の僕には、それしかできません」

「それは、誰かに渡すための記録ですか。それとも、自分が忘れないためのものですか」

風間は息を吸った。けれど、すぐには答えなかった。

「両方だと思います。人は、自分の中だけで覚えていることを、いつか都合よく変えてしまう。だから、物に預ける。紙や栞や、書きかけの文章に。でも、物に預けた瞬間から、それは別の人の手にも渡る。そこが怖い」

「怖いから、隠す?」

「怖いから、ためらうんです」

「ためらい続ければ、誰かが代わりに決めます」

私の言葉に、風間は目を伏せた。

「倉沢さんは、決めることを怖れないんですね」

「怖れています」

「そうは見えません」

「怖れているから、数えます」

私は机の上の文集を指した。

「一冊ある。一頁切れている。栞が挟まっている。原稿がない。そこまで確認して、初めて、何を決めるべきか考えられる」

「数字にすれば、怖くなくなる?」

「いいえ。数字にしても、怖いものは怖い。ただ、恐ろしさの形が見えるようになります」

風間は薄く笑った。今度の笑みは、疲れに近かった。

「本当に、記録の人ですね」

「あなたは、言葉の人です」

「だから、言葉を信用しすぎる」

「そうでしょうか」

「言葉は、いくらでも人の都合に合わせて形を変えられる。美しい文章にもできるし、正しい説明にもできる。でも、本の背の擦れや、頁を切った跡までは、きれいに言い換えられない」

「それなら、あなたも物を見ればいい」

「見ています。だから、なおさら話せない」

風間はそこで口を閉じた。

職員室の窓から、風に乗った雨の匂いが入り込んできた。晴れたと思った空が、また曇りはじめている。山の向こうから、細い雨がこちらへ移ってくるようだった。

私は文集の頁を閉じる前に、切り取られた断面を目に焼きつけた。繊維が途中で乱れ、薄い糊の跡が残っている。誰かが急いで破ったのではない。刃物か、よく研いだ定規の縁で切ったような線だった。

「この頁を、誰かに見せましたか」

「校長には、見せていません」

「島田さんは?」

「知っているかもしれません。改修前の資料室を片づけたのは、島田さんです」

「久我原静子さんは?」

その名前を出すと、風間の顔がわずかに強張った。

「古書店の久我原さんですか」

「はい」

「なぜ、その名前が出るんですか」

「この地域の古い資料に詳しいと聞いています」

風間は一度、窓の外を見た。

「久我原さんは、何でも知っています。知っているけれど、聞かれたこと以外は話さない。僕が学生のころ、古い文集を持って店へ行ったことがあります。頁の切り取り方を見て、誰がどんな道具を使ったかまで言い当てました」

「何と言っていましたか」

「本を傷つけた人は、頁を切ったことより、切ったあとに何を残したかを気にする、と」

風間は押し花の栞を見た。

「そのときは、古書の話だと思っていました」

「今は?」

「分かりません」

彼は栞を文集から抜き、机の上へ置いた。乾いた薄紫の花弁が、窓から入る風でわずかに震える。

「倉沢さん。もし、沢田の頁に何か残っていたとして、それを見つけたら、どうしますか」

「まず、見つけた事実を記録します」

「そのあとで、公開する?」

「公開するかどうかは、私ひとりで決めません」

「でも、記録した時点で、誰かの手に渡る可能性は生まれる」

「隠した時点で、誰かの手から永遠に遠ざかる可能性も生まれます」

風間は押し花を指先で挟んだ。強く持てば砕ける。彼もそれを知っているらしく、指の力をすぐに緩めた。

「正しさは、いつも遅いですね」

「記録も、たいてい遅れます」

「それでも残す?」

「遅れても、残します」

風間はしばらく花を見ていた。それから、文集の間へ戻した。

「なら、僕も確認します。旧資料室の図面と、文集の原稿を探します。見つけたら、隠さずに」

「お願いします」

「ただし、沢田の名前を先に広げないでください」

「名前が必要になるまでは、書きません」

「約束できますか」

「記録に必要な名前と、好奇心のための名前は違います」

風間はようやく私を見た。

「……それなら、信じます」

私は文集の題名と頁の状態を記録用紙へ書いた。切り取り。原稿所在不明。押し花の栞。確認者、風間透。推測は書かない。沢田あかりの名前は、記録の端に一度だけ置いた。

職員室を出ると、廊下には細い雨が戻っていた。

窓を閉めるため、私と紗季は二階へ向かった。階段を上る途中、紗季がふいに足を止めた。

「どうしました」

「風間先生、嘘はついていないと思います」

「そうですか」

「でも、全部は言っていません」

「人は、たいていそうです」

紗季は袖口を引いた。

「それでも、あの栞を大事にしていました」

「大事にしていることと、正しいことをしていることは別です」

「はい」

彼女は少し考えてから続けた。

「でも、雑に扱っていないことは分かります」

私は階段の手すりへ目を向けた。木の表面は何度も拭かれ、指の当たる部分だけが滑らかになっている。物を丁寧に扱う人は、必ずしも正しい人ではない。けれど、丁寧さには、その人が何を失いたくないと思っているかが出る。

図書室へ戻ると、机の上の記録簿が少しずれていた。

私は出る前に、端を揃えていたはずだった。記録簿の右端が、木製カードケースから三センチほど離れている。紗季はすぐに気づき、手を伸ばしかけた。

「触らないでください」

私は声を低くした。

記録簿の下から、薄い紙の角が出ていた。見覚えのない紙片だった。拾い上げる前に、周囲を確認する。窓は閉じられている。扉には鍵がかかっていない。誰かが短い時間だけ入ったのかもしれない。

紙片を裏返すと、黒い糊の跡があった。赤い線が一本、途中で切れている。昨日、通用口の床で拾った紙片と同じだった。

私は紙片を封筒へ入れ、時刻を書いた。

そのあとで、空白の棚を数えた。

一冊分の空白は、まだそこにある。

けれど、その空白のまわりに、別の本から切り取られた頁と、乾いた押し花と、記録のない移動の跡が集まりはじめていた。

数えることは、失われたものを増やす作業ではない。

失われ方に、順序を与える作業なのだ。

私は修繕台帳を取りに立ち上がった。校舎の補修日、通用口の蝶番交換、倉庫扉の鍵の交換。紙の上に残る日付を、消えた本の発見日と重ねてみる必要がある。

背後で、紗季が窓の外を見ていた。

雨が、山からこちらへ下りてくる。

図書室の棚は、まだ静かだった。けれどその静けさの底で、誰かが次の一冊へ手を伸ばしているように思えた。

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