第3話 紗季の見た廊下

翌日の放課後、雨は細くなっていた。
止んだわけではない。校舎の屋根に溜まった水が、軒先から一定の間隔で落ちている。校庭の隅にできた水たまりには、灰色の空と、傾いた鉄棒の影が揺れていた。
私は図書室の窓を閉め、司書台の上に広げていた記録簿を重ねた。紙の端が湿気を吸い、いつもより柔らかい。閉じる前に、消えた本の登録番号をもう一度確かめる。受入記録には十八冊。題名が書かれているのは十七冊。空白になった棚には、蔵書印の朱が残っている。
数字は変わらない。
変わらないものを何度も見るのは、安心するためではない。変わらないはずのものが、どこかで変わっていないかを確かめるためだ。
そのとき、廊下の向こうで足音が止まった。
扉が開く。
水野紗季が立っていた。図書委員の腕章を外したあとらしく、左手に小さく折りたたんで持っている。制服の袖口を右手の指で引き、室内を見回した。
「まだ、いらっしゃいますか」
「もう帰るところです」
そう答えたが、紗季は動かなかった。図書室の中に誰かがいるかどうかを確かめるように、机の下、窓際、奥の棚へ順に目を移している。
「何かありましたか」
「……少し」
彼女は一拍置いた。
「言っておいたほうがいいと思って」
私は椅子を引いた。紗季は座らず、机の端に腕章を置いた。布の裏側に、細い糸くずが付いている。彼女はそれを取ろうとして、途中で手を止めた。
「昨日のことです」
「本を抱えた人影のことですか」
紗季は頷いた。
「見たときは、本だと思っただけでした。倉庫へ向かう人は、たまに教材や段ボールを持っていますから。でも、今日になって考えると、少し違いました」
「どこが違いましたか」
「抱え方です」
紗季は、机の上に置かれた文庫本を見た。
「本を何冊か重ねて持つときは、普通、胸の前で支えます。落とさないように腕を曲げて、表紙が見えないようにする。でも昨日の人は、片腕で抱えていました。もう片方の手を空けて、鍵を使えるようにしていたみたいです」
私は記録簿の上へ置いた指を引いた。
「通用口を使うために?」
「たぶん。倉庫の手前で、いったん立ち止まりました。そこで鍵束を出した音がしました。金属がひとつ鳴って、すぐに止まりました」
「鍵束を見たのは、島田さんですか」
「島田さんだと思います」
「顔を見たのですか」
「いいえ」
紗季は首を横に振った。
「足元だけです。作業靴でした。けれど、島田さんの靴とは違うかもしれません」
「違うかもしれない?」
「島田さんの靴は、歩くときに踵が少し鳴ります。昨日の人は鳴りませんでした」
私は紗季の顔を見た。彼女は目を伏せ、袖口をまた引いている。自分の記憶に確信が持てないというより、確信を言葉にすることをためらっているようだった。
「それでも、島田さんが鍵を使った可能性はあります」
「はい」
「なら、なぜ今まで話さなかったのですか」
紗季の指が袖口をつまんだまま止まった。
「昨日は、見間違いかもしれないと思ったからです。島田さんを疑うことになるのが嫌だったわけではありません。ただ、見ていないところまで見たことにしたくなかった」
「それは大事なことです」
「倉沢さんも、そう思いますか」
「思います。記録は、見たことと考えたことを分けなければいけません。考えたことを見たことのように書くと、あとで誰かの記憶を押しつぶします」
紗季はしばらく黙った。
外で、屋根から落ちた水が金属の手すりを叩いた。ひとつ、ふたつ、三つ。音の間隔が不規則に伸びていく。
「廊下を見に行きますか」
私が言うと、紗季は顔を上げた。
「今からですか」
「人の流れが途切れているうちに。昨日の跡が残っているかもしれません」
「消えているかもしれません」
「だから見ます」
紗季は腕章を取り上げた。鞄へしまうのではなく、制服のポケットへ折って入れた。
私たちは図書室を出た。
二階の廊下は、放課後の生徒がほとんどいなくなっていた。窓の外は薄暗く、山の稜線が雨雲に溶けている。廊下の床板は水気を含み、歩くたびに足元から低い音を返した。
紗季は私より少し前を歩いた。歩幅は小さいが、足を置く場所を選んでいる。窓際の板は避け、壁際の乾いた部分を進む。私はその後ろ姿を見ながら、彼女がこの廊下をどれほど細かく覚えているのかを考えた。
「いつも、この道を見ているのですか」
「見ているというより、音を聞いています」
「音を?」
「誰かが歩いていると、廊下の場所によって響き方が違います。二階の端は、音が一度、窓のほうへ逃げてから戻る。階段の近くは、下から上がってくる音と重なるので、人が多く感じます」
「昨日は?」
「昨日は、図書室の前を通った音がありませんでした」
紗季は立ち止まらずに言った。
「だから、図書室から倉庫へ直接向かったのではないと思います。人が本を運ぶなら、普通は廊下を通ります。でも、昨日の人影を見たのは、倉庫の近くでした。図書室の前を通る音は聞いていません」
「それなら、本はどこから倉庫へ運ばれたのでしょう」
「分かりません」
紗季はそこで初めて足を止めた。
「でも、図書室と倉庫の間には、廊下だけではない道があります」
「通用口のことですか」
「通用口は倉庫の裏です。外から入る道ですけれど、旧棟の内側からも近い」
彼女は廊下の突き当たりを指した。そこには、普段使われていない掲示板が立っている。古い校内図が、透明な板の下に挟まれていた。紙の端は黄ばんでいるが、廊下の線はまだ見える。
紗季は掲示板の前へ行き、校内図の一角を指でなぞった。
「図書室の裏に、昔の資料室があります。今は壁で塞がれていますけど、倉庫側から見ると、通用口の近くです」
「資料室は、私がいた頃には使われていませんでした」
「いつからですか」
「正確には覚えていません。図書室の改修をしたあとです」
「その改修の記録はありますか」
「修繕台帳にあるはずです」
紗季は校内図から指を離した。指先に透明板の冷たさが残ったのか、袖口を引く。
「去年、ここで掲示物を替えたとき、壁の裏から音がしました」
「音?」
「紙を重ねたような音です。人がいる音ではなくて、薄いものが何枚も擦れる音。見に行こうと思ったけれど、先生に呼ばれて……」
紗季は言葉を止めた。
私は急かさなかった。彼女は、言わなかったことを後悔しているのかもしれない。けれど、言えなかった時間まで責める必要はない。
「そのあと、確認しましたか」
「しませんでした」
「なぜですか」
「学校のどこかで音がするのは、珍しくないので。古い校舎だから、壁の中で木が鳴ることもあります。私は、そう思いました」
「そして今、別の音だったかもしれないと?」
「はい」
紗季は校内図を見つめたまま、静かに続けた。
「廃校になると聞いてから、いろいろなものが急に見えるようになりました。前は、壁の傷も、鍵の音も、棚の空白も、そこにあるだけだと思っていた。でも、なくなると決まったら、全部が最後のものに見える。最後に見たのに、覚えていなかったら、あとで自分が困ると思うんです」
「困る?」
「ここに何があったのか、分からなくなるからです」
紗季の声は小さかったが、廊下の奥まで届いた。
「学校がなくなることより、なくなったあとに、誰も覚えていないことのほうが嫌です。新しい学校に行けば、授業も友達も続くかもしれない。でも、今の図書室の窓がどこで曇るかとか、雨の日に階段の三段目だけ音が違うとか、そういうことは、誰かが覚えていないと消える。消えても困らないことなのかもしれません。でも、困らないことから先に消える気がします」
私は校内図の前に並んだ。
「だから、見たことを話してくれたのですね」
「見たことを、見なかったことにしたくないだけです」
紗季の言葉に、かつての自分の記憶が重なった。
私は以前、貸出記録のずれを見つけたとき、正しさを急いだ。その結果、ひとりの教師に余計な疑いを残した。記録を守ろうとして、人のほうを傷つけた。以来、私は確かめることに慎重になった。
けれど慎重さが、沈黙と同じになることもある。
私は校内図の端を指で押さえた。
「見たことは、見たこととして残しましょう。誰かを犯人にするためではなく、あとで見直せるように」

紗季は私を見た。
「見直すために?」
「そうです。今は意味が分からないものでも、別の記録と重なれば、意味が変わることがあります。逆に、意味がないと思って捨てたものは、あとから戻せません」
「本も同じですか」
「本も、紙片も、傷も」
私はそう答えた。
「だから、あなたの記憶も、できるだけ形にしておきたいと思います」
紗季はすぐに返事をしなかった。やがてポケットから小さなノートを取り出した。表紙の角が擦れ、ページの端には細かな水分の波がある。
「私も、少し書いています」
「見せてもらっても?」
紗季はノートを開いた。日付ごとに、短い言葉が並んでいる。
図書室の窓、午後三時に曇る。 二階西側の階段、四段目だけ音が低い。 倉庫前、雨の日は土の匂いが強い。 通用口、鍵を回す前に一度だけ金属音がする。
最後の行に、昨日の日付があった。
倉庫前。本を抱えた人影。足音なし。鍵の音、一度。
私はその行を指でなぞらなかった。紙を傷めないよう、目だけで読む。
「ここへ来る途中、誰かにノートを見られませんでしたか」
「見られていません」
「どうして分かりますか」
「持つ向きを変えました。人が近づくと、表紙が見えないようにします」
紗季はそう言って、ノートを閉じた。
そのとき、廊下の奥で金属が鳴った。
小さく、乾いた音だった。
紗季がすぐに振り向く。私は一歩遅れて、音のしたほうへ目を向けた。倉庫へ続く廊下の角に、誰かの影があるように見えた。しかし次の瞬間には、窓から差した薄い明かりが壁に揺れているだけだった。
紗季は走らなかった。袖口を引き、呼吸を整えてから歩き出す。私も後に続いた。
廊下の床には、濡れた靴跡がいくつか残っていた。生徒のもの、教師のもの、用務員のもの。雨の日の校舎では、靴跡だけで人を特定することは難しい。
だが、倉庫前の床にだけ、細い白い線があった。
台車の車輪が擦った跡だった。
線は通用口のほうへ伸び、途中で途切れている。そこに、何かを一度持ち上げたような四角い水染みが残っていた。濡れた段ボールを置いた跡に似ている。けれど、段ボールより幅が狭く、奥行きが長い。
紗季がしゃがみ込んだ。
「昨日は、ここにありませんでした」
「覚えているのですか」
「はい。昨日、廊下を拭いたので」
「ひとりで?」
「図書委員の仕事です。倉庫前はいつも最後に拭きます。人が通るので、すぐ汚れるから」
彼女は水染みの端へ指を近づけたが、触れなかった。
「この跡、図書室の空白の幅と似ています」
私はしゃがみ、定規を取り出した。水染みの幅は、およそ三センチ半。空白の幅と一致するわけではない。だが、台車の車輪の間隔を測るには、ここだけでは足りなかった。
私は線の方向を確認した。倉庫の扉ではなく、その脇の通用口へ向かっている。
「本を運んだ台車なら、倉庫へ入れるはずです」
「でも、ここでは止まっています」
紗季が言った。
「止まったあと、向きを変えたように見えます」
白い線は通用口の手前で折れ、壁際へ寄っていた。そこから先には、古い掲示板と、使われていない掃除用具入れがある。大きな物を運んだなら、ぶつかっていてもおかしくない狭さだった。
私は掃除用具入れの下を覗いた。埃の中に、乾いた紙片が一枚落ちている。昨日、通用口で拾ったものとは違い、こちらには黒い糊の跡が残っていた。端を切り取られた紙の裏面に、赤い線が一本だけ見える。
「これ、何でしょう」
紗季が尋ねた。
「まだ分かりません」
「配布資料ではないですか」
「印刷物の端のようですが、紙が古い。最近切られたものではありません」
私は紙片を封筒へ入れた。拾った時刻と場所を書き、封を閉じる。
紗季はその作業を黙って見ていた。
「倉沢さん」
「はい」
「本がなくなったことを、誰かに言いますか」
「校長には伝えます」
「犯人がいる、と?」
私は封筒を記録簿の横へ置いた。
「まだ、そこまでは言いません」
「でも、誰かが運んだ可能性はあります」
「可能性は記録します。人の名前は、証拠が揃ってからです」
「もし、証拠が揃わなかったら?」
紗季の声には、わずかな焦りが混じった。大きくはない。けれど、彼女が普段より一歩前へ出ていることは分かった。
「そのときは、証拠が揃わなかったことを記録します」
「それだけですか」
「それだけではありません。それが、次に調べる人の出発点になります」
「次に調べる人が来るとは限りません」
「そうですね」
私は紗季のノートを見た。
「だから、残せるものは残します。あなたが見た廊下も、床の傷も、鍵の音も」
紗季は目を伏せた。
「私の見たものなんて、記録になるんでしょうか」
「なります。記録は、立派な文書だけではありません。誰が、いつ、どこで、何を見たか。それが揃えば、記憶は一人の中だけに閉じなくて済みます」
「でも、私は見間違えているかもしれません」
「誰でも間違えます。間違いを恐れて何も残さなければ、あとから確かめることもできない」
紗季はノートを両手で持った。表紙がわずかに震えたが、声は震えなかった。
「……では、書きます」
「今のうちに」
彼女はノートを開き、倉庫前の床に残った線を見ながら書き始めた。
台車のような擦れ跡。 図書室の空白と近い幅。 通用口の手前で方向が変わる。 床に古い紙片。
私はその横で、同じ内容を別の用紙へ記した。紗季の言葉をそのまま写すのではなく、見た事実と推測を分けて書く。彼女のノートには「台車のような」とあり、私の記録には「車輪状の擦れ」とした。
紙の上で、ふたつの記録が少しずれて並んだ。
そのずれを、私は消さなかった。
図書室へ戻る途中、紗季がふいに足を止めた。私も立ち止まる。
「どうしました」
「昨日より、棚が少し違います」
「図書室の?」
「はい」
扉を開ける。
室内は、出ていったときと同じように見えた。机、椅子、木製カードケース、窓際の返却本。けれど紗季は郷土資料の棚へ近づき、空白の隣にある本を一冊抜いた。
「これ、背が少し奥に入っています」
私は本を受け取り、棚板を見た。空白の隣だけ、木の表面が薄く擦れている。さきほどまで気づかなかった、ごく細い白い線だった。
紗季は本を戻さず、棚の下端へ指を伸ばした。
「ここにも、車輪の跡があります」
棚板の影に、黒ずんだ半円が残っていた。
私は定規を当てた。線の幅は、倉庫前の擦れ跡とほぼ同じだった。
図書室と倉庫の間を、何かが通った。
ただし、廊下をまっすぐ進んだのではない。人目につきにくい場所を選び、棚の下端をかすめ、通用口の手前で向きを変えている。
私は記録用紙の新しい欄に、ひとつだけ書き加えた。
「本の移動は、図書室から倉庫への直線ではない」
書き終えたとき、校舎のどこかで鍵が鳴った。
今度は一度ではなかった。
二度、間を置いて、三度。
紗季が顔を上げる。私は扉のほうを見た。
誰かが、まだ校舎の中にいる。
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