第2話 校長室の沈黙

翌朝も雨だった。

峰ノ原中学校へ向かう坂道は、濡れた杉の葉で黒く縁取られていた。昨夜から降り続いた雨が側溝を細い川に変え、校門脇の古い校章にも水滴が溜まっている。私は傘を少し傾け、足元を見ながら歩いた。

正門をくぐると、校舎の壁に貼られた統合案内の紙が目に入った。紙の下端が浮き、風が吹くたびに、ぺたり、ぺたりと壁へ戻っている。そこに印刷された新しい学校名は、まだこの場所のどこにも馴染んでいなかった。

昇降口で傘を閉じる。水を払う音が、広い玄関に一度だけ響いた。

図書室へ上がる前に、校長室へ寄ることにしていた。昨日見つけた空白について、赤城校長に確認しておきたかった。見つからない本を見つからないままにしておくのは、整理の手順としても、私自身の気持ちとしても難しい。

廊下を歩くと、床板が靴の重みを返した。旧棟の木は、乾いているときより濡れているときのほうが、よく音を覚えている。誰がどこを歩いたか、どの扉を急いで閉めたか。足音の違いが、床の奥から遅れて戻ってくる。

校長室の前で立ち止まり、二度ノックした。

「どうぞ」

赤城の声は、扉一枚を隔てても静かだった。

室内には、薄い茶の匂いがあった。ストーブはまだ点いていない。窓際の空気は冷たく、濡れた銀杏の枝がガラスの向こうで重く揺れていた。

赤城は机の前に座り、廃校準備の書類を並べていた。書類の綴じ代はすべて同じ向きに揃えられている。左端に予定表、中央に備品の移管一覧、右端に教育委員会からの通知。机の上に置かれたものは、どれも目立たない順番で整えられていた。

「朝からすみません」

「いえ。お座りください」

私は勧められた椅子に腰を下ろした。座面が少し沈み、古い布から乾いた埃の匂いが上がる。

赤城は湯呑みをひとつ、私の側へ滑らせた。茶の表面に、窓の外の灰色が映っていた。

「昨日、図書室で一冊、所在の分からない本がありました」

「郷土資料の棚の本ですね」

赤城は即答した。

私は湯呑みに手を伸ばさず、彼の顔を見た。

「ご存じでしたか」

「昨日、図書室へ伺ったときに、棚の空白を見ました。倉沢さんが気づかれる前か後かは、覚えていませんが」

「本の題名はご存じですか」

赤城は眼鏡を押し上げた。答える前に、机の書類の角を揃え直す。

「水利についての郷土誌だったと思います」

「正確には、峰ノ原水利保存会が三十年以上前にまとめた記録です。目録には登録番号があります。蔵書印も押されています。ただし、貸出カードがありません」

「寄贈本でしょう」

「はい。受入記録では十八冊とありますが、題名が確認できるのは十七冊です」

赤城は湯呑みの縁に指を添えた。飲むためではなく、置き場所を確かめるような指の動きだった。

「古い記録です。受け入れた時点で、記載に漏れがあった可能性もあります」

「それなら、本がなくなったこととは別の問題になります」

「そうですね」

「ですが、空白ができた棚には、蔵書印の朱が残っていました。棚板の傷も新しい。昨日の時点で、誰かが抜き取った可能性があります」

「抜き取った、という言葉は強いですね。整理の途中で動かしただけかもしれません」

「どこへ動かしたのか、記録はありますか」

「まだ確認していません」

「移管用の箱、廃棄予定の箱、職員室の仮置き棚。昨日、私が見た範囲にはありませんでした」

赤城は私の言葉を最後まで聞いた。それから椅子の背に深く体を預け、窓の外へ視線を移した。雨が銀杏の葉を叩いている。葉の一枚が枝から離れ、ガラスに貼りついてからゆっくり落ちた。

「倉沢さんは、昔から変わりませんね」

「何がですか」

「一冊の本を、所在の確認だけで終わらせないところです」

「所在を確認しなければ、整理は始まりません」

「ええ。ですが、学校のものは、すべてが帳面どおりには動きません。教師が授業のために持ち出す。生徒が返却を忘れる。寄贈者が後から冊子を追加する。そういう小さなずれが、長い年月の中で積み重なっている」

「だから、廃校前に確かめる必要があります」

私の声は大きくなっていなかった。それでも、赤城の指が湯呑みから離れた。

「廃校前だからこそ、急がないほうがいいものもあります」

「記録を残すことが、急ぐべきでない理由になりますか」

「記録は、残せば終わりではありません。読まれ、並べられ、説明される。そのたびに、誰かの名前や立場が動きます。教室の中で起きたことが、文書の上では別の意味を持つこともある」

「別の意味に変えられているのではなく、最初から変えられている可能性は?」

赤城は答えなかった。

私は机の端へ視線を落とした。古い朱肉が置かれている。蓋の縁には乾いた朱が固まり、何度も使われた跡がある。その隣に、鉛筆が一本あった。芯の先は鋭く削られているが、削り屑はどこにもない。

「校長先生は、あの本がどこへ行ったかご存じですか」

「知りません」

「本当に?」

「知りません」

今度の返事は早かった。早すぎる、と私は思った。

人は、知らないことを問われたとき、まず質問の意味を確かめる。何の本か、いつ見たか、誰が管理しているか。赤城はそれをせず、知りません、とだけ答えた。

私は眼鏡の縁を親指で押した。考えごとをするときの癖だった。

「では、別の聞き方をします。廃校準備の中で、図書室の本を移動するよう指示したことはありますか」

「あります。移管先ごとにまとめる必要がありますから」

「郷土資料も?」

「資料の価値を判断できる人に見てもらうよう、担当者へ伝えています」

「担当者というのは」

「学校の職員です」

「名前は?」

赤城は一度、眼鏡を外した。布でレンズを拭く。布は乾いていて、何度も洗われた白さを失っていた。

「風間先生が、文集や地域資料の整理を手伝っています。島田さんには倉庫の搬出と鍵の管理を頼んでいる。ほかにも、私の知らないところで本を動かした職員がいるかもしれません」

「知らないところで動かすことを、校長先生は認めているのですか」

「認めているわけではありません」

「止めるための記録はありますか」

「倉沢さん」

赤城は初めて、私の名前を少し強く呼んだ。

「学校という場所では、帳簿に載らない仕事が必要になることがあります。生徒の忘れ物を家へ届ける。壊れた机を人目につかないところで直す。誰かが泣いているとき、事情を聞かずに別の場所へ移す。そういうものまで、いちいち記録に残していたら、学校は動かなくなる」

「本も同じですか」

「本は、物です」

「物だから、動かした人の責任を消してよいとは思いません」

赤城は湯呑みを持ち上げた。茶はもう冷めているらしく、口をつけずに戻した。

「責任を消したいのではありません」

「では、何を消したいのですか」

言葉が室内に落ちた。

雨音が、急に近くなったように感じた。窓の外では、校庭の端に水が溜まり、そこへ銀杏の葉が何枚も浮かんでいる。黄色い葉は泥水に沈みかけながら、まだ輪郭を失っていなかった。

赤城は机の上の書類を左から右へ並べ直した。

「倉沢さんは、なくなった本を見つけたいのですね」

「はい」

「見つかったあと、その本に関わった人たちのことまで確認するつもりですか」

「必要なら」

「必要とは、誰が決めるのでしょう」

「私ではありません。記録と、そこに残った事実が決めます」

「事実は、黙っていませんか」

「物は黙っています。だから、こちらが勝手に喋らせないようにしなければならない」

赤城は、わずかに目を細めた。

私は続けた。

「本が誰かを傷つけるのではありません。本に書かれたものを、どう扱うかが人を傷つける。隠しても傷が消えるわけではないし、出せば正しいというものでもない。だからこそ、まず所在を確かめたいのです。どこへ動いたか分からないままなら、その本に何が書かれていたかを判断することもできません」

「判断したいのですか」

「見届けたいのです」

その言葉だけは、迷わず出た。

赤城は黙った。校長室の壁時計が、秒針を刻んでいる。古い時計で、針が進むたびに内部の金属が小さく鳴る。私はその音を聞きながら、彼の沈黙が拒否なのか、ためらいなのかを測ろうとした。

やがて赤城は、書類の束から一枚を抜いた。

「明日、仮置き場所を一緒に確認しましょう。職員室の棚、旧音楽準備室、それから倉庫の北側です」

「倉庫の北側に、図書室の本を置いているのですか」

「廃棄と移管を分ける前の仮置きです」

「記録には?」

「仮置きですから、正式な移動記録には載せていません」

「では、どの本がそこにあるかは、誰が把握していますか」

赤城は答えなかった。

その代わり、机の端にあった古い校務手帳へ手を伸ばした。薄い革表紙の角が擦れている。彼は手帳を開き、何枚か頁を繰った。そこには予定だけでなく、細かな時刻と場所が鉛筆で書き込まれていた。

「倉庫北側の鍵は、島田さんが管理しています」

「ほかに持っている人は?」

「予備鍵が一つ、職員室の保管箱にあります」

「昨日の夜、通用口は施錠されていましたか」

「施錠記録では、そうなっています」

「実際に確認しましたか」

赤城の指が手帳の上で止まった。

「確認したのは島田さんです」

その名前が出たとき、校長室の空気がわずかに変わった。雨の匂いの中に、古い金属のような気配が混じる。

私は立ち上がった。

「明日、仮置き場所を見せてください」

「分かりました」

「それから、修繕台帳もお願いします。通用口の蝶番や倉庫の鍵を交換した時期を確認したいので」

赤城は私を見上げた。

「修繕台帳まで調べるのですか」

「本が動いたなら、通った場所があるはずです。場所が変われば、床や扉にも何か残ります」

「人の記憶より、物の傷を信じる」

「傷は、忘れたふりをしません」

赤城は薄く笑った。笑顔というより、返す言葉を選んだあとの形だった。

「倉沢さんは、学校を終わらせるために戻ってきたのではありませんでしたか」

「そのつもりでした」

「では、どうしてそこまで」

私は校長室の窓へ目を向けた。銀杏の枝から落ちた水が、ガラスを細く伝っている。校舎の向こうにある山は、雨に隠れて輪郭がない。

「終わらせることと、なくすことは違います」

赤城は何も言わなかった。

私は扉へ向かった。背中に、彼の視線が残っているのが分かった。ノブへ手を伸ばすと、背後から声がした。

「倉沢さん」

振り返る。

赤城は机の前に座ったまま、古い校務手帳を閉じていた。

「見つからないものを、すべて見つけようとはなさらないでください」

「それは、私への忠告ですか」

「お願いです」

「誰のための?」

赤城は眼鏡を押し上げた。返事をするまでに、長い間があった。

「学校に残る人たちのためです」

「もうすぐ、残れなくなる人たちのために?」

その問いには答えず、赤城は視線を机へ落とした。

私は扉を開けた。廊下から、濡れた木の匂いが流れ込んでくる。階段の下から、生徒たちの声がかすかに聞こえた。笑い声と、誰かを呼ぶ声。いつもと変わらない午後の音だった。

けれど校長室を出てから、私はその音の中に、ひとつ足りないものがあるように感じた。

図書室へ戻る前に、職員室の前を通った。中では風間透が、卒業文集の束を抱えて立っていた。私に気づくと、すぐには声をかけなかった。文集の一番上に、薄紫の押し花が挟まっている。

「風間先生」

「はい」

「郷土資料の本を、どこかへ移しましたか」

風間は文集の角をそろえた。親指が表紙の擦れた部分をなぞる。

「僕は、文集の整理だけです」

「本を動かしていない、と?」

「動かしていない、というより……」

そこで彼は言葉を止めた。校長室で赤城が黙ったときとは違う。風間の沈黙は、言葉を探すためのものだった。

「整理の手伝いを頼まれたので、何冊か確認しました。けれど、持ち出したわけではありません」

「誰かが持ち出すところを見ましたか」

風間は視線を廊下の窓へ逃がした。

「見た、とは言えません」

「言えないのですか。見ていないのですか」

「……倉沢さんは、物事を正確に分けようとしますね」

「分けなければ、記録になりません」

「でも、人の記憶はそんなにきれいに分かれない。見たけれど、見なかったことにした。聞いたけれど、聞かなかったことにした。そういう時間もあります」

「記録に残すなら、見たか見ていないかを決めなければいけません」

「決めた瞬間に、誰かを追い詰めることもあるんです」

風間の声は、普段より低かった。彼は文集を抱え直し、表紙に挟まった押し花を指先で押さえた。

「僕は、学校の記憶を残したいと思っています。でも、残すことが正しいとは限らない。書かれた言葉が、書いた本人の手を離れたあとで、別の人間を傷つけることがある。だから、確認しないまま断定したくないんです」

「それは、記録を残さない理由になりますか」

「理由にはなりません。けれど、ためらう理由にはなります」

私は返事をしなかった。

風間は一度息を吸い、続けた。

「沢田あかりという卒業生を、知っていますか」

「名前だけは」

「彼女は、図書委員でした。目立つ子ではなかったけれど、資料の並びをよく覚えていた。誰かが本を戻す場所を間違えると、翌朝には直っていた。本人が直したとは言わない。いつも、もう整っているだけでした」

「今は町外にいると聞いています」

「ええ。文集を見れば、彼女のページだけ余白が広いんです。文章が短いからではなく、途中で書くのをやめた跡がある。消しゴムで消したのではなく、書かないまま残した余白です」

風間は文集を開きかけ、やめた。

「その余白を、僕は何度も読もうとしました。でも、読めないものを読んだふりはできない」

「では、なぜ文集を持っているのですか」

風間は押し花の栞を見た。

「忘れないためです」

その言葉のあと、彼は黙った。廊下を誰かが走り、階段の手すりが振動した。風間はその音が遠ざかるまで、文集を閉じなかった。

私は図書室へ戻った。

窓の外では、雨が少し弱くなっていた。棚の空白は、昨日と同じ幅で口を開けている。私は空白の両側に手を置き、背表紙の高さを揃えた。

本が一冊ない。

その事実は変わらない。

だが、校長の沈黙と、風間の余白と、明日確認する倉庫の鍵が、同じ場所へ向かっているように思えた。まだ線にはならない。ただ、点が三つ、雨に濡れた紙の上へ置かれている。

私は木製カードケースを開いた。

郷土資料の欄を繰り、消えた本の登録番号を書き写す。続けて、赤城が口にした仮置き場所、修繕台帳、倉庫北側という言葉を記録した。

最後に、理由の欄へ一行だけ書く。

校長、所在を否定せず。

書き終えてから、私はしばらくその文字を見つめた。人の言葉を記録するときは、物の傷より慎重でなければならない。言葉は、書かれた瞬間から別の場所へ移動してしまう。

引き出しを閉める。

その小さな音が、昨日よりも深く図書室に沈んだ。

明日は、倉庫を見る。 本が通った場所には、必ず何かが残っている。

← 横にスクロールして読み進められます

校長室の沈黙 - 空白の棚 - 誰でも作家life