第1話 雨の匂いと木製カードケース

雨が降ると、峰ノ原中学校の旧棟は、まず廊下から湿りはじめる。

屋根や壁より先に、床板が水気を吸う。靴底を置くたび、木の内部で小さく軋む音がした。誰かの足音というより、校舎そのものがゆっくり息をしているように聞こえる。

私は傘をたたみ、昇降口の隅に立てかけた。濡れた布から、冷えた土と杉の葉の匂いが立ち上がる。玄関脇の掲示板には、統合後の新しい学校の案内が貼られていた。白い紙の端が少し浮き、画鋲の周囲だけ壁紙の色が古い。

「来年度より、通学区域が変更されます」

そこまで読んで、視線を外した。

来年度。その言葉は、何度見ても具体的な日付にならなかった。廃校になる、と聞いたときから、学校の時間はどこかで止まり、手続きだけが先に進んでいるようだった。生徒数、維持費、通学距離、統合効果。書類の上では整った数字が並ぶ。だが数字からは、雨の日に廊下がどれほど長く感じられるかも、図書室の窓際だけ午後に少し暖かくなることも読み取れない。

私は旧棟の階段を上った。

二階の奥にある図書室は、廊下の湿った匂いが届くのに少し時間がかかる。扉を開けると、紙と木と、長いあいだ閉じられていた部屋の匂いが混じっていた。外では部活動を終えた生徒たちが階段を駆け下りている。笑い声が一度だけ天井近くまで上がり、それから遠ざかった。職員室のほうでは椅子を引く音がする。

図書室には、ページをめくる音だけが残った。

私は窓を少し開けた。雨粒が庇を叩き、細い水の筋が軒先から落ちている。風は冷たかったが、湿気を逃がすにはそのほうがよい。廃校準備が始まってから、図書室の整理を任されている。正式には蔵書の確認と移管先の選別、それから廃棄本のリスト作成だ。

廃棄という言葉は、何度書いても手になじまない。

司書だった頃、私は本を棚から外すとき、必ず一度だけ背表紙を指でなぞった。必要か不要かを決める前に、その本がどれだけ長くそこにいたかを確かめるためだった。いまも同じことをしている。装丁の布地、背のひび、角の丸まり。触れれば、棚の中での年月がわずかに返ってくる。

司書台の前に座り、木製カードケースを引き寄せた。

このカードケースは、私が退職するときにも残っていた。木の色は濃く、引き出しの取っ手は何度も拭かれて丸くなっている。中には、電子化される前の貸出カードと、古い記録簿が混在していた。年度ごとに筆跡が違う。几帳面な人の字は紙の中央に収まり、忙しい人の記録は右端へ寄る。ある年の夏だけ、インクが妙に薄い。雨が多かった年なのか、使っていたペンの具合が悪かったのか、私はまだ確かめていない。

カードを一枚ずつ繰った。

図書室の蔵書は、すでに電子目録へ移されている。けれど古い記録を捨てる気にはなれなかった。貸出記録には、本の名前だけでなく、手に取った人の時間が残っている。誰がいつ借り、いつ返したか。その単純な往復が、本を学校の内側へつなぎ止めている。

私は端末の一覧と記録簿を照合しながら、棚を見た。

郷土資料の列。戦前の文庫本。教師たちの推薦図書。卒業記念文集。地域から寄贈された薄い冊子。分類番号だけでは整理しきれない本が多い。誰かが善意で持ち込み、誰かが棚の端へ置き、別の誰かがそのままにした。図書室は、そういう判断の積み重ねで形を保っていた。

そこで、私は手を止めた。

郷土資料の棚に、空白があった。

本が一冊抜けている。そう考えるまでに、時間はかからなかった。だが私は、すぐには立ち上がらなかった。空白を見つけると、まず数える癖がある。棚の左端から順に、背表紙の数を目で追った。

一、二、三。

途中で目を戻す。

一、二、三。

数え直しても、空白は消えなかった。

私は細い定規を取り出し、棚の奥行きと空白の幅を測った。およそ三センチ半。隣の本の背には、同じ高さに擦れがある。抜かれた本の両側を何度も押し広げた跡ではない。むしろ、周囲の本を一度ずつ外へ寄せ、空白を形よく整えたように見えた。

棚板には、朱色の粉が薄く残っていた。

蔵書印の朱肉が擦れたものだ。背表紙の下部に押していた印が、抜き取られるときに棚板へ触れたらしい。私は腰を屈め、指先でその粉に触れた。乾いている。新しい傷ではないが、古くもない。

空白の幅は正確だった。

正確すぎるものは、たいてい偶然ではない。

私は木製カードケースへ戻り、郷土資料の貸出カードを探した。分類番号を確認し、該当する本の題名を拾う。集落の水利についてまとめた薄い郷土誌だった。発行元は、三十年以上前の地域保存会。登録番号は残っている。蔵書印もある。ところが貸出カードが見つからなかった。

カードが抜かれた形跡もない。

それが妙だった。

貸出記録がない本は珍しくない。寄贈本や教師用資料には、カードそのものが作られていないものもある。だから、記録がないことだけでは異常とは言えない。だが、この本には、登録番号があり、蔵書印があり、目録にも載っている。図書室の正式な蔵書として迎え入れられたのに、誰にも借りられた記録がない。

その本だけが、棚から抜けていた。

私は記録簿を開いた。紙は乾いているのに、指先にわずかなざらつきが残る。該当する年度のページには、寄贈本の受入記録が並んでいた。日付、冊数、寄贈者名。そこまでは揃っている。

ただ、冊数が合わなかった。

保存会から十八冊寄贈されたと記されているのに、受入欄に並ぶ題名は十七冊分しかない。

私はその行を、親指で何度もなぞった。

過去に一度、似たような齟齬を見つけたことがある。貸出カードの冊数と返却記録が一致しなかった。私はすぐに職員室へ行き、担当者に確認した。結果としては、転任した教師が自宅へ持ち帰った参考資料の記録漏れだった。問題は解決したが、その教師は、私が盗難を疑ったと受け取った。事実を確かめただけだと説明しても、いったん生まれた疑いは相手の中に残る。

それ以来、私は記録の齟齬を見つけても、すぐ人の名前に結びつけないようにしている。

だが、物の位置は人の言い訳より静かで、逃げない。

私は受入記録の行を写真に撮り、紙の端に小さく印をつけた。次に、棚の空白をもう一度見る。

本がなくなった。

その事実だけを、まず記録する。

司書台の引き出しを閉じようとしたとき、廊下から足音がした。ゆっくりした足取りだった。階段を上ってくるのではなく、二階の廊下をこちらへ向かってくる音。濡れた靴底が床板に触れ、少し滑る。

扉が開いた。

「まだいらしたんですね」

赤城校長だった。片手に書類の束を持ち、もう片方には折りたたみ傘を提げている。眼鏡の縁に細かな水滴が残っていた。

「もう少しだけ」

私はカードケースから手を離した。

赤城は室内を見回し、窓の開き具合を確認した。何を探しているのかはわからない。ただ、視線が棚の空白を通り過ぎるとき、ほんの少しだけ速度が落ちた。

「整理は進みましたか」

「蔵書の確認をしています。ひとつ、見当たらない本がありました」

赤城はすぐには答えなかった。眼鏡を外し、胸ポケットから布を出してレンズを拭いた。

「移管用の箱へ、先に動かしたものがあるかもしれません」

「箱はすべて確認しました」

「そうですか」

「この棚の本です。箱にはありません」

雨音が窓の向こうで厚くなった。私は赤城の手元を見た。書類の角が揃っている。束の一番上には、廃校後の備品移管一覧があった。

「貸出記録のない本でした」

そう言うと、赤城は布を折りたたんだ。

「貸出記録がないなら、誰かが整理の途中で持ち出した可能性もありますね。職員室の仮置き棚を、もう一度確認してみましょう」

「確認します。ただ、持ち出した人がいるなら、移動記録が必要です」

「移動記録ですか」

「本を一冊動かすだけでも、廃棄か移管か、扱いは変わりますから」

赤城は窓の外を見た。雨に濡れた校庭が、夕方の光を失っている。銀杏の葉が重たそうに垂れ、枝の先から水滴がひとつずつ落ちていた。

「倉沢さんは、最後まできちんとなさるんですね」

「それが仕事でしたから」

「廃校の準備は、きちんとしすぎると、かえって時間がかかります」

「時間をかけなければ、なくなったものが、最初からなかったことになります」

赤城は私を見た。穏やかな顔だったが、返事の前に置かれた沈黙が長かった。

「……記録が残っていれば、なくなったことにはならないでしょう」

「誰かが読めば、です」

私は言ってから、少し言い過ぎたと思った。赤城は責めるでもなく、書類の束を机の端へ置いた。

「読まれない記録にも、意味がありますか」

「あります。読む人がいなくても、そこにあったことを示すからです。ただし、記録は置かれた場所によって意味が変わります。棚から外されれば、見つける人が減る。見つける人が減れば、なかったことに近づく」

赤城は眼鏡をかけ直した。

「本一冊のことです」

「本一冊に、誰かが触れた時間が入っています」

私は、棚の空白へ視線を戻した。

「借りられていない本なら、なおさらです。誰にも選ばれなかったのではなく、選ばれた記録が残っていないだけかもしれない。寄贈した人、登録した人、棚へ戻した人。貸出カードに名前がなくても、何人もの手を通ってきたはずです」

赤城はしばらく黙っていた。やがて、書類の束を持ち上げた。

「明日、校内の仮置き場所を一緒に確認しましょう」

「お願いします」

赤城が扉へ向かう。手を掛ける前に、彼は一度だけ振り返った。

「倉沢さん」

「はい」

「見つからないものを、すべて見つけようとはなさらないでください」

その言葉の意味を尋ねる前に、扉が閉じた。

小さな音だった。

私は図書室にひとり残り、もう一度、空白を数えた。両隣の本を抜き、棚板に残った朱の粉を紙へ移す。粉は指先に触れた途端、古い紙と同じ匂いがした。かすかな油と、乾いた木の匂い。

帰る前に、私はカードケースから新しい記録用紙を出した。

日付。 天候。 確認時刻。 棚番号。 欠本一冊。 貸出記録なし。 蔵書印あり。 受入記録、冊数不一致。

そこまで書いて、筆を止めた。

理由の欄は空けておく。

私は本を失った理由を、まだ知らない。人のせいにも、整理のせいにも、廃校のせいにもしたくなかった。知らないものを知っているように書けば、その記録自体が別の嘘になる。

窓を閉めると、外の雨音が少し遠くなった。図書室の中には、木が水分を抱え込む低い音と、カードケースの引き出しを押し戻す音だけが残った。

その音を聞きながら、私は空白の棚を見ていた。

本が一冊消えた。

けれど、消えたことは記録できる。

それなら明日も、まず数えることから始めようと思った。

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