第9話 喫茶店の煙

叔父に呼び出されたのは、駅前の古い喫茶店だった。

電話では、「少し話したい」としか言わなかった。いつものように用件を先に言わず、こちらが尋ねても「会えば分かる」と笑った。その笑い声が、受話器の向こうで一度だけ途切れたことを、私は覚えていた。

店は駅前の再開発から取り残された一角にあった。分厚いガラスの扉を押すと、鈴が低く鳴った。外は雨の名残で歩道が黒く濡れている。濡れたアスファルトに信号の赤が細長く映り、通り過ぎる車のタイヤがその色を何度も踏み潰していた。

店内には、豆を挽く音が響いていた。壁際の古いスピーカーから、誰のものか分からない低い音楽が流れている。禁煙になって久しいはずなのに、煙草の匂いが壁紙と椅子の布地に染みつき、湿気と混ざって鼻の奥に残った。

叔父は窓際の席にいた。

私に気づくと、いつものように先に笑った。笑ってから、テーブルの上のコーヒーをひと口飲む。カップを置くまでの動作が妙にゆっくりしていた。

「まあ、気にしすぎるなよ」

「何を」

「何をって、葉書のことだろう。あれからずっと、家の中で紙ばかり見てるそうじゃないか」

「誰から聞いた」

「母さんからじゃない。あの人は、そんな話を外でするほど口が軽くない」

「じゃあ、誰からだ」

「近所ってのは、見てないようで見てるんだよ。お前が平屋へ行ったことも、商店街を歩いていたことも、誰かの目には入る」

「叔父さんも見ていたのか」

叔父はまた笑った。今度の笑いは、喉の奥で乾いて消えた。

「見ていたんじゃない。聞いただけだ」

「同じことだろう」

「違うさ。見たことは責任になるが、聞いたことはまだ噂で済む」

「便利な線引きだな」

「長く生きていると、線を引かないと暮らせないんだよ」

店員が水を置いた。叔父は礼を言い、グラスの位置をテーブルの縁と平行に直した。祖母の家に入ったときも、叔父は最初に靴を揃え、仏壇の額縁を直した。物の位置を整えることで、そこにあるものの意味まで薄めようとしているように見えた。

「祖母の若い頃の話をしてくれ」

私は水を飲まずに言った。

「いきなりだな」

「いつもそうやって、別の話をするからだ。町内会の回覧板とか、昔の商店街とか、祖母がどれだけ几帳面だったかとか。どれも本当なんだろう。でも、それだけではないはずだ」

叔父は窓の外へ目を向けた。雨だれがガラスを斜めに流れている。通りの向こうでは、閉店した薬局のシャッターを店員が拭いていた。何度拭いても、濡れた布の跡が黒く残っている。

「祖母さんは、昔から手紙を書く人だったよ」

「知っている」

「知っているのか?」

「葉書を何枚も見つけた。三つの住所へ向けたものだ」

その言葉を出したとき、叔父の口元がほんの少しだけ止まった。

次の瞬間には、笑いに変わっていた。

「そのへんはな、昔は郵便も今ほど便利じゃなかった。今みたいにポストへ入れりゃ翌日に届く、なんて時代じゃない。宛先が少し違えば戻ってくるし、戻ってきても理由が書いてないことがある。届かない手紙なんて、珍しくなかったんだ」

「郵便の話をしているんじゃない」

「手紙の話だろう」

「誰に向けた手紙だったのかを聞いている」

叔父は返事の代わりに、ポケットから煙草の箱を取り出した。一本抜きかけ、火をつけずに指の間で回す。店内は禁煙だ。吸うつもりがないことは、叔父自身も分かっている。それでも箱を持て余している。

「三つの住所は、誰の家だった」

「人の家だよ」

「名前を言え」

「名前は、忘れた」

「叔父さんが?」

「人の名前なんて、歳を取れば忘れるさ」

「地名は覚えているのに?」

「地名は地図に残る。人は引っ越す、死ぬ、名前が変わる。住所だけ残って、住んでいた人間がいなくなることだってある」

「祖母は、その三つへ何度も行っていた」

「そうかもしれん」

「商店街の文具店では、毎月三枚の葉書を買っていたと言われた」

叔父の指が止まった。

今度は笑わなかった。煙草の箱をテーブルに置き、蓋の端を親指で二度叩く。私はその回数を数えていた。二度。間を置いて、もう一度。三度目は、箱の底を軽く擦るだけだった。

「何を聞いた」

「祖母が毎月来ていたこと。無地の葉書を三枚ずつ買っていたこと。店の女は、誰に出していたかは言わなかった」

「それで十分だろう」

「十分じゃない」

「何が知りたいんだ」

「全部だ」

叔父はコーヒーを飲んだ。もう冷めているはずなのに、口をつけてからしばらくカップを離さなかった。

「全部なんてものはない。お前は今、祖母さんの過去を一冊の帳面みたいに考えている。最初のページがあって、途中に空白があって、最後に答えが書いてある。だが人間の過去は、そんなふうに綴じられていない。破れた紙も、書き損じも、別の人間が持っていったページもある。残った家族が、それを勝手に並べて読むだけだ」

「なら、叔父さんが知っていることを話せ」

「知っていることを話したら、それが本当の形になるのか?」

「少なくとも、何も知らないよりはましだ」

「そう思うのは、お前がまだ何も知らないからだ」

その声には、苛立ちより疲れがあった。私はそこで初めて、叔父の目の下に濃い影があることに気づいた。葬儀のあとからずっと、叔父は人前で笑い続けていた。親戚に茶を出し、靴を揃え、管理人へ挨拶をし、誰かが泣けば背中を叩いた。そのすべてが、悲しみを感じないための手順だったのかもしれない。

「叔父さんは、葉書を見たことがあるのか」

「何の葉書だ」

「祖母が書いた、出していない葉書」

叔父はすぐには答えなかった。

窓の外で、バスが停まり、乗客が一人降りた。傘を開くまでの短い間、その人は雨の中に立ち尽くした。傘を開けば歩き出せる。開かなければ、濡れ続ける。私はその選択を見ながら、叔父の返事を待った。

「ある」

やがて叔父は言った。

「昔、一度だけ見た」

「いつ」

「お前が小さい頃だ」

「どこで」

「祖母さんの家で。仏壇の下の引き出しじゃない。机の、右側の一番下だ。あの人は、そこだけ何度も鍵をかけていた」

「今は鍵がない」

「鍵なんて、なくても開く。古い引き出しは、閉めた人間がいなくなれば、誰でも開けられる」

「葉書には何が書いてあった」

叔父は目を伏せた。

「読んだのか」

「全部じゃない」

「何が見えた」

「住所と日付。それから、短い言葉がいくつか。書いたものを全部出すのが、正しいとは限らんよ」

「それはさっきも聞いた」

「聞いたなら分かるだろう」

「分からないから聞いている」

「残すつもりなら、出さないほうがいい手紙もある」

「誰が残すつもりだった」

叔父は答えなかった。

その沈黙は、母のものとは違った。母の沈黙は、手を動かしながら過去を奥へ押し戻す。叔父の沈黙は、言葉を口の中で選び、選んだ言葉をさらに捨てている。知っている人間の沈黙だった。

「祖母は、誰かを待っていたのか」

「人はみんな、誰かを待っている」

「答えになっていない」

「答えにしようとするから、苦しくなるんだ」

「俺は、祖母が何をしていたかを知りたい」

「知って、どうする」

「それを決めるのは俺だ」

「お前は、知ったことを家族へ返せるのか?」

「返す?」

「そうだ。知識は、手紙と同じだ。受け取ったら、持っているだけでは済まない。誰かに返すか、返さないかを決めなきゃならない。返せば相手を傷つけることもある。返さなければ、自分の中に溜まって腐ることもある。それでも、受け取った人間には選ぶ責任がある」

「祖母は、返さなかった」

「返せなかったのかもしれん」

「違いは?」

「返せなかった人間は、最後まで返す方法を探す。返さなかった人間は、返さない理由を探す。祖母さんがどちらだったか、俺には分からない」

「分からないはずがない」

「分からないんだよ」

叔父は初めて、私から目を逸らさなかった。

「俺だって、あの人の全部を知っているわけじゃない。知っているのは、見てしまったことだけだ。見たことと、分かることは違う。お前は今、俺が見たものを聞き出して、自分の中で意味をつけようとしている。だが、俺が見た場面は、俺の記憶でしかない。祖母さんの顔も、母さんの顔も、お前が知らない誰かの顔も、俺の都合で並んでいる」

「それでも話せ」

「話せば、お前は俺を責めるだろう」

「なぜ」

「見ていたのに、何もしなかったからだ」

店員が隣の席の皿を下げた。陶器が重なり、乾いた音を立てる。叔父はその音に合わせるように、煙草の箱を閉じた。

「昔、祖母さんが駅へ行く日があった」

「どの駅」

「ここから二つ先の、古い駅だ。今は駅ビルが建っているが、当時は木のベンチがあって、売店の横に郵便ポストがあった」

「そこで何をした」

「葉書を持っていた。三枚。封筒ではなく、無地の葉書だ。何か書いてあったかは見ていない。ただ、祖母さんはポストの前に立って、何度も葉書を数えた」

「三枚を?」

「一枚、二枚、三枚。それから、また一枚に戻った。声には出していない。指で角を確かめていた」

私の手が、膝の上で動いた。

「投函したのか」

「しなかった」

「見たのか」

「見た」

「なぜ止めなかった」

叔父は黙った。

「なぜ、祖母に声をかけなかった」

「声をかけたら、あの人は投函したかもしれない。あるいは、俺に葉書を渡したかもしれない。そうなれば、俺は何かを知らなければならなかった。俺は、知らないふりをした」

「それで何を守った」

「分からん」

「守ったものがないなら、ただ逃げただけだ」

叔父の顔が歪んだ。怒りではなかった。笑おうとして、笑えなかった顔だった。

「そうかもしれん。だがな、逃げた人間にも、逃げたなりの生活がある。朝になれば仕事へ行く。飯を食う。子どもの入学式へ出る。親戚に頭を下げる。そうして何十年も経つと、逃げたことまで家族を守ったことのように見えてくる。見えてくるだけで、本当に守ったかどうかは分からない」

「母さんも同じか」

「母さんは、俺よりずっと深く巻き込まれていた」

「何に」

叔父はまた笑った。今度は、笑いではなく息が漏れただけだった。

「その質問は、俺から聞くな」

「なぜ」

「母さんから聞け。あの人は、何も知らないふりをしているが、知らないわけじゃない。お前が聞いたら、たぶん何かを言う。言ってしまえば、もう戻れないと思っているだけだ」

「母さんは、俺に話すつもりがあるのか」

「話すつもりがある人間は、話す前に台所へ逃げる。あの人がそうしているなら、まだ言葉が残っている」

「叔父さんは?」

「俺はもう、残っていない」

その言葉の直後、店の奥で豆を挽く音が止まった。

急に静かになった店内で、雨だれがガラスを叩く音だけが大きく聞こえた。叔父はカップの底を見つめている。底に残った黒い液体が、窓の外の空を小さく映していた。

私は手帳を開き、三つの住所を並べた。

海沿いの町。

県境の商店街。

川のある集落。

「三つ目の住所を知っているか」

「知っている」

叔父は即答した。

今までで初めて、間がなかった。

「どこだ」

「川の近くの古い家だ。今は人が住んでいない」

「空き家か」

「そう聞いている」

「誰の家だった」

叔父は私の手帳を見た。地名の下に引いた線を、指先でなぞることはしなかった。ただ、そこに書かれた文字を、長い間見ていた。

「行くなとは言わない」

「なら、場所を教えてくれ」

「行けば、何かを見つけるかもしれん。だが、見つけたものが答えだとは限らない。空き家には、住んでいた人間が置いていったものだけでなく、見なかった人間が置いていったものもある。近所の連中の噂、家族の言い訳、誰も引き取らなかった家具。そういうものが積もって、家の形をしている」

「住所を」

「お前は、もう持っている」

叔父はそう言って、ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。

古い地図だった。駅から川沿いへ伸びる道に、鉛筆で細い線が引かれている。三つの角に、小さな丸印がついていた。その丸印の一つは、私の手帳に書いた三つ目の住所と一致している。

「これをどこで?」

「祖母さんの家から持ってきた」

「勝手に?」

「勝手に、という言い方はよくないな。預かったんだ」

「誰に」

叔父は答えなかった。

「祖母に頼まれたのか」

「頼まれたわけじゃない。あの人が、机の上に置いていた。持っていけとも、置いておけとも言わなかった。だから、俺が持った」

「それは預かったとは言わない」

「そうだな」

叔父は素直に認めた。

「持ち逃げだ。何十年も返せなかった」

私は地図を受け取った。紙は古く、折り目の部分が白く毛羽立っている。開くと、湿った紙の匂いがした。祖母の部屋の匂いに似ている。樟脳ではない。長い時間、誰かの手の中で折られ、開かれ、また折られた紙の匂いだった。

地図の裏面に、祖母の字で日付が三つ書かれている。

同じ冬の日付だった。

そのうち一つに、細い線が引かれている。消そうとして消しきれなかった線だ。日付の横には、言葉が一つだけ残っていた。

返す。

「これは、祖母が書いたのか」

叔父は地図を見なかった。

「そうだろうな」

「何を返すつもりだった」

「知らない」

「叔父さん」

「本当に知らない。だが、返す相手は決まっていたと思う」

「三つの住所の誰かか」

「三つともかもしれない」

「葉書を三枚、三つの住所へ出そうとしていた」

「そういうことだろう」

「それなのに出さなかった」

「出せなかったのかもしれない」

「なぜ」

叔父は煙草の箱を握った。紙箱が指の中でわずかに潰れる。

「お前が生まれたからだ」

雨の音が、一度だけ強くなった。

私は地図から顔を上げた。

「俺が?」

「お前が生まれたあと、祖母さんは葉書を出さなくなった。少なくとも、俺が見た範囲ではな」

「俺が生まれたことと、葉書を出さないことに何の関係がある」

「それは、母さんに聞け」

「また母さんか」

「俺が言えるのはここまでだ」

「いや、言え」

「何を」

「俺が生まれる前、何があった」

叔父は目を合わせたまま、答えなかった。

私はその沈黙を待った。店員がカウンターのグラスを拭く音。冷蔵庫のモーターが入る音。誰かが入り口の傘立てから傘を抜く音。生活の音がいくつも間に入り、それでも叔父は口を開かなかった。

やがて、彼は地図を私の方へ押し戻した。

「三つの住所へ行って、最後まで見てこい」

「叔父さんは、行くなと言っているのか、行けと言っているのか」

「どちらでもない。お前が行くと決めたなら、行った先で自分の目を使えと言っている」

「見たものを信じろと?」

「見たものだけを信じるな。見えなかったものが、そこに残っていることもある」

私は地図を折り畳んだ。折り目を元に戻すように、角を揃える。叔父はその動きを見ていた。

「祖母に似てきたな」

「嫌な言い方だ」

「そうか?」

「祖母に似ていると言われると、何かを引き継がされた気がする」

「引き継ぐのは、悪いことばかりじゃない」

「何を引き継いだ」

「数える癖だよ」

叔父はカップを持ち上げた。もう中身はほとんど残っていない。

「祖母さんは、何かを失うたびに数えた。葉書の枚数、住所の数、帰ってくるまでの日数。数えている間だけ、自分がまだ何かを持っていると思えたんだろう。お前も同じだ。紙を数えて、日付を数えて、沈黙の長さまで数える。数えれば、見落とさずに済むと思っている」

「違う」

「何が違う」

「俺は、事実を確認している」

「それを、祖母さんも同じように言っていたよ」

その言葉だけが、いつまでもテーブルの上に残った。

店を出ると、雨はほとんど止んでいた。歩道の水たまりに、夕方の光が薄く溜まっている。私は駅へ向かって歩きながら、叔父から受け取った地図を手帳の間へ挟んだ。

三つの日付。

三つの住所。

三枚の葉書。

数字はきれいに並んでいる。けれど、並べるほど、その間にある空白の方が重くなる。

駅の階段を下りる途中、ポケットの中の携帯電話が震えた。母からだった。

『帰るなら、住所録は元の場所に戻して』

短い文面だった。続けて、もう一通届く。

『叔父さんから何か聞いても、すぐには信じないで』

私は立ち止まった。

階段を上る人と下りる人が、左右に分かれて私を避けていく。濡れた傘の先から水が落ち、靴音が何度も同じ場所で弾んだ。

母は、叔父が何を話したか知らないはずだった。

それなのに、私は返信画面を開けなかった。

手帳の間から、古い地図の角が少しだけ覗いている。その紙の端に、祖母の筆圧で書かれた「返す」という文字がある。

駅の構内放送が流れた。列車の到着を告げる声は、雑音に混じって平らに消えた。

私は階段を下りた。

地下のホームへ向かうにつれて、空気が冷たく湿っていく。線路の奥から風が吹き上がり、古い紙の匂いを手帳の隙間から引き出していった。

その匂いは、祖母の部屋で嗅いだものと同じだった。

私は地図を一度開き、三つ目の住所を確かめた。

川沿いの、誰も住んでいない家。

そこへ行けば、返されなかったものが何か分かるかもしれない。

けれど、ホームへ列車が滑り込んできたとき、車内の暗い窓に映った私の顔は、祖母の写真の中の顔よりも、母が何も言わずに閉じた引き出しの奥に近く見えた。

私はその顔から目を逸らし、列車に乗った。

手帳の中で、三つの住所が、紙の擦れる音を立てていた。

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喫茶店の煙 - 消えた三通 - 誰でも作家life