第8話 母の台所

母は台所にいた。

蛇口から流れる水が、細い白い布のようにシンクへ落ちている。洗い終えた茶碗を一枚ずつ布巾で拭き、戸棚の中へ戻していく。食器棚には、祖母が使っていた白い湯飲みが三つ並んでいた。どれも同じ形なのに、ひとつだけ縁がわずかに欠けている。私はその欠けた湯飲みを、子どもの頃から祖母のものだと思っていた。

母は私が入ってきても顔を上げなかった。

私は封筒を持ったまま、台所の入口に立った。紙の端が指の汗を吸い、皮膚に貼りついている。仏壇の裏板から見つかった三枚の紙片が、中でずれないよう、何度も封筒の角を揃えた。

「母さん」

水音に声が呑まれた。

「聞こえてる」

「これを見てほしい」

「見たくない」

「まだ見せていない」

「見せなくても分かる」

母は皿を拭き終え、戸棚の奥へ戻した。皿の底が棚板に触れ、乾いた音を立てる。蛇口は開いたままだった。

私は封筒から紙片を取り出し、食卓の上へ並べた。

海沿いの町の住所。その横に、まだ届かない。

県境の商店街の住所。返す顔がない。

川のある集落の住所。この子には見せない。

三枚の紙片を左から右へ揃える。母は見ようとしなかった。代わりに戸棚の中の皿を一枚取り出し、もう一度拭き始めた。乾いている皿を、何度も、何度も。

「祖母が、若い頃にこの三つの場所へ行っていたことは知っていたんだな」

「知らない」

「知っているかどうかを聞いている」

「だから、知らないと言ってるでしょう」

「母さんは、いつもそうやって話を終わらせる」

「終わらせないと、始まってしまう話もあるのよ」

母は皿を拭きながら言った。布巾が白い陶器の表面を擦る。きゅ、きゅ、と乾いた音がした。蛇口の水音に混じって、その音だけが妙に耳につく。

「何が始まる」

「決めなきゃいけないことが始まるの」

「何を決める」

「誰が悪いのか。誰がかわいそうなのか。誰が謝るのか。誰を許すのか。家族の中で、そういう役割を決める話よ」

「決めなくても、起きたことは起きたままだ」

「あなたはそう言うけど、起きたことを並べたら、人は勝手に意味を作るでしょう。紙に日付があれば順番をつける。住所があれば行き先を決める。誰かの名前が出れば、その人を原因にする。そうやって、人間の方を記録に合わせていく」

「祖母は何をした」

母の手が止まった。

蛇口から落ちた水が、シンクの底で跳ねている。母は皿を持ったまま、しばらく動かなかった。やがて布巾を流しへ置き、戸棚から新しい皿を取り出した。今度は拭かずに、ただ両手で持っている。

「冬になると、母は何日か家を空けた」

「どこへ?」

「さあ」

「また、知らないと言うのか」

「場所は聞かなかった。聞いても、親戚のところとか、昔の知り合いのところとか、そういうふうに言われたから。あなたが小さかった頃は、私も働いていたし、生活で精いっぱいだった。母がどこへ行くかより、何日に帰るかの方が大事だったのよ」

「帰ってきたときは?」

「いつも同じだった」

母は皿を戸棚へ戻した。

「誰とも目を合わせなかった。靴を脱いで、コートを掛けて、手を洗って、それから台所へ立った。疲れているなら休めばいいのに、まず茶碗を洗った。使っていない茶碗まで洗った。蛇口をひねって、流しの中を空にして、布巾を絞って、台の端を拭いた」

母はそこで、ようやく水を止めた。

水音が消えると、台所にあった空気の層が一枚剥がれたように感じた。冷蔵庫の唸りと、換気扇の弱い回転音だけが残る。私は紙片の一枚に指を置いた。湿気を吸った紙は柔らかく、爪の先が少し沈んだ。

「その水音の向こうで、何があった」

「何も」

「何もなかったなら、なぜ聞かなかった」

母は布巾を握った。指の関節が白くなる。

「聞けば、答えが返ってくると思ったからよ」

「それは普通だ」

「普通じゃない答えが返ってくると思ったの」

母は布巾を絞った。水がシンクへ落ち、排水口の奥へ吸い込まれていく。

「母が帰ってくる夜は、家の中が変だった。あなたは眠っていた。私は寝室の戸を少し開けて、廊下の様子を見ていた。母は台所に立って、ずっと水を流していた。茶碗を洗っているのに、手はほとんど動いていなかった。水だけが流れていた。私は何度か、母に声をかけようとした。でも、声をかけたら、母は振り向くでしょう。振り向けば、何かを話さなければならない。私は、そのときの母の顔を見たくなかった」

「怖かったのか」

「母が?」

「祖母が」

母は答えなかった。

窓の外を、宅配便の車が通り過ぎた。白い車体がガラスに反射し、一瞬だけ台所の壁を明るくした。車が角を曲がると、光も消えた。

「怖かったのは、母ではないわ」

母は言った。

「母が帰ってこなくなることが怖かった。どこかで倒れているとか、事故に遭ったとか、そういう意味じゃない。家に帰ってきても、もうここにいない人になることが怖かったの。帰ってくるたび、母は少しずつ遠くなっていた。家事をして、あなたの食事を作って、私の分まで気にして、それでも、どこか別の場所にいる。私には見えない場所に」

「三つの住所が、その場所なのか」

「分からない」

「母さん」

「分からないのよ」

今度の声は平らではなかった。怒鳴ってはいないのに、壁の内側まで震えた。

「あなたは、分からないことをすぐに誰かの嘘にする。でも、本当に分からないままのこともある。母が何を見てきたのか、何を失ったのか、私は全部聞いたわけじゃない。聞かなかった。聞けなかった。私は母の娘だったけれど、母の過去を知る権利があるとは思えなかった。家族だから何でも聞いていいわけじゃないでしょう」

「俺には、何も聞かせなかった」

「あなたは子どもだった」

「だから?」

「だから、知らなくてよかったのよ」

その言葉が、紙片に書かれた「この子には見せない」と重なった。

私は三枚目の紙を持ち上げた。

「この子は、俺か」

母は目を閉じた。

「たぶん」

「たぶんじゃない」

「私は、あなたがこの紙の『この子』だと、ずっと思っていた。でも、母が誰に向かって書いたのかは知らない。あなたに見せないと決めたのか、あなたの父親に見せないと決めたのか、それとも別の誰かに見せないと決めたのか。母は、主語を残さない人だったから」

「祖母は、俺に何を見せなかった」

「母の顔よ」

「顔?」

「母が、どんな顔で帰ってきたのか。誰かに会って、何を言われて、何を言えなかったのか。母があなたを抱いたとき、何を見ていたのか。あなたは、祖母がいつも穏やかに笑っていたと思っているでしょう。でも、写真に写らない顔があったのよ」

「それを守ったつもりなのか」

「守るとか、そんなきれいなものじゃない」

母はそう言って、ようやく振り返った。

表情は硬かった。けれど怒っているのではなかった。長く握りしめていたものを、手の中で潰さないようにしている顔だった。

「言ったら壊れると思ったのよ。家が壊れるんじゃなくて、人がね」

私は何も言えなかった。

母の背後には、祖母から譲られた古いエプロンが掛かっていた。薄い花柄の布は何度も洗われ、紐の部分だけが色褪せている。祖母がこの台所で使っていたものだ。母はそれを捨てず、汚れが落ちても、擦り切れても、同じ場所へ掛け続けていた。

「誰が壊れる」

やっと、私は尋ねた。

「母さんか。祖母か。俺か」

「全員よ」

「そんなのは答えじゃない」

「答えじゃなくても、本当のことはあるの」

母は食卓へ歩いてきた。三枚の紙片を見下ろし、触れようとして、触れなかった。

「母はね、あなたが生まれる前から、何かを終わらせようとしていた。私はそう思っている。三つの場所にいる人たちに、葉書を書いた。何度も書いた。けれど、出さなかった。出せなかったのか、出さないと決めたのかは分からない。あなたが生まれてからも、母は時々その三つの住所を見ていた。あなたを抱いたまま、住所録を開いていたことがある」

「俺を抱いて?」

「ええ」

「何をしていた」

「指で数えていた」

母の視線が、三枚の紙片へ落ちた。

「葉書の枚数を数えていたのかもしれない。住所を数えていたのかもしれない。あるいは、戻れなくなった年数を数えていたのかもしれない。母は声に出して数えなかった。指を紙の上で動かして、それから必ず、あなたの背中を撫でた。あなたが泣いても、すぐには抱き上げなかった。何かを確かめているように、しばらく黙って撫でていた」

私の背中に、古い指の感触が戻った。

畳の上で眠っていた午後。誰かの手が、肩から背中へゆっくり動く。衣服の上からでも分かる、乾いた指先。私はその手を祖母のものだと思っていた。けれど、その記憶には顔がなかった。声もない。ただ、背中を撫でる手だけが残っている。

「俺は、そのとき何を見ていた」

「たぶん、何も」

「たぶんじゃない」

「あなたは眠っていたのよ」

「本当に?」

母は黙った。

その沈黙の長さを、私は知っていた。叔父が答えを避けるときの一拍とは違う。母の沈黙は、言葉を探しているのではない。言葉にすれば、自分の記憶の方が変わってしまうことを恐れている沈黙だった。

「一度だけ、あなたが起きたことがある」

母は言った。

「冬の朝だった。母が帰ってきた翌日で、台所の窓が白く曇っていた。あなたは祖母の部屋から出てきて、裸足のまま、台所の入口に立った。母は茶碗を洗っていた。水を流したまま、何かを言っていた」

「何を?」

「分からない」

「聞いたんだろう」

「聞いた。でも、聞かなかったことにした」

「何と言っていた」

母は視線を逸らした。

「『あと三枚』」

蛇口は閉じている。

それなのに、私は水が流れているように感じた。白い音が、耳の奥から押し寄せてくる。シンクの底に落ちる水。濡れた茶碗。祖母の背中。曇った窓。そこに立つ幼い自分。

あと三枚。

「祖母が言ったのか」

「分からない」

「母さんは聞いたんだろう」

「聞いたわ。でも、誰が言ったのかは分からなかった。母かもしれない。あなたかもしれない。寝言だったかもしれない。水の音に混じった、私の聞き違いだったかもしれない」

「俺がそんなことを言ったのか」

「あなたは子どもだった。意味を知って言ったわけじゃないでしょう」

「じゃあ、なぜ今、葉書が届いた」

母は紙片の三枚目を見た。

「届いたのではなく、届かされたのかもしれない」

「誰に?」

「それを知りたいのは、あなたでしょう」

母の声には、初めて私を止める力がなかった。

「私はもう、止められない。止める資格もない。母が何を残したのか、あなたが何を見つけるのか、私には分からない。でも、これだけは言っておく。祖母は、あなたを捨てたわけじゃない。あなたを遠ざけたわけでもない。あなたに見せないことで、あなたをこちら側に置こうとしたのよ」

「こちら側?」

「何も知らない側。何も失っていない側。母は、あなたがそのまま大人になれるようにしたかった。自分たちの事情を、あなたの人生にまで持ち込みたくなかった」

「でも、持ち込まれている」

「ええ」

母は頷いた。

「持ち込まれているわね。紙三枚で、こんなふうに。だから、あの人のやり方は間違っていたのかもしれない。守るつもりで隠したものは、隠した場所ごと残る。仏壇の裏板にも、住所録にも、台所の水音にも」

母は布巾を食卓の端へ置いた。今度は何かを拭かなかった。

「あなたが知りたいなら、知ればいい。でも、知ったあとで、祖母を一つの言葉にしないで。悪い人だった、かわいそうな人だった、家族を守った人だった。どれか一つに決めたら、また同じことになる。母は、いくつもの顔を持ったまま生きていた。私たちが見なかっただけよ」

私は三枚の紙片を封筒へ戻した。

紙が擦れる音は、葉の触れ合う音に似ていた。封筒の中で三枚が重なる。まだ届かない。返す顔がない。この子には見せない。その順番に意味があるのか、私は分からない。

「母さんは、祖母に何を言いたかった」

「今さら?」

「今さらだから」

母は食器棚へ目を向けた。白い湯飲みが三つ並んでいる。欠けたもの、母のもの、私のもの。母は三つ目の湯飲みを手に取り、茶を注いだ。

「言いたかったことは、いろいろあったわ。でも、言えるときには言わなかった。言おうと思ったときには、母がもう別の部屋へ行っていた。台所へ立って、水を流していた。私もその水音を聞いて、話を終わらせた」

「後悔しているか」

母は茶を私の前へ置いた。

「後悔は、きれいに一つにはならないのよ。言わなかったことを後悔している。でも、言わなかったから守れたものもあると思っている。守れたものが本当にあったのかは、もう確かめようがない。それでも、そう思わないと、私はこの家でずっと母の娘でいられない」

私は湯飲みを持った。茶はぬるかった。口に含むと、薄い苦みが舌に残った。

母は向かいに座らず、流し台の前に立ったままだった。話が終わったあとも、手を休めていられない人だった。何かを洗い、拭き、並べていなければ、足元から過去が崩れてくるのだろう。

私は封筒を手帳の間へ挟んだ。

「これ、俺が持っていく」

「どこへ?」

「三つ目の住所へ」

母は止めなかった。

「帰ってきたら、住所録を元の場所に戻して」

「なぜ」

「次に探す人がいるかもしれないから」

「誰が探す」

母は、食器棚の三つの湯飲みを見た。

「あなたかもしれないし、私かもしれない。あるいは、もう誰も探さないかもしれない。でも、場所を変えたら、本当に何もなかったことになるでしょう」

私は答えず、手帳の端を爪でなぞった。

台所には、茶の湯気と、古い木の匂いが残っていた。蛇口は閉じている。水はもう流れていない。それでも耳の奥では、どこか遠い冬の朝から、同じ水音が続いていた。

母が拭き終えた皿を戸棚へ戻す。

一枚。

二枚。

三枚。

三枚目を置いたとき、食器棚の奥で、見えない何かが小さく触れ合った。

私は振り返らなかった。

母も、振り返らなかった。

← 横にスクロールして読み進められます