第7話 裏板の封筒

翌朝、私は仏壇の掃除を始めた。

掃除といっても、線香立ての灰を捨て、花瓶の水を替え、濡らして固く絞った布で木の表面を拭く程度だった。母はまだ来ていなかった。叔父からも連絡はない。昨日、喫茶店を出たあと、私は祖母の家へ戻らず、自分の部屋で手帳を何度も開いた。

商店街の女は、祖母が葉書を三枚ずつ買っていたと言った。

一枚目の横には、空き家。

二枚目の横には、商店街。

残る三つ目は、川のある集落。

私はその三行を、朝までに四度書き写していた。書き写すたび、文字の形が少しずつ変わった。祖母の住所録から写したはずなのに、私の字が祖母の字へ寄っていく。最後の一画を深く押し込む癖まで、いつの間にか真似ていた。

仏壇の木目に沿って布を動かすと、乾いた埃が薄く伸びた。木は冷たく、指先に油と古い線香の匂いが移る。昨日まで気にならなかった小さな傷が、今日は妙に目についた。右の扉の下に、爪先ほどの白い擦れがある。祖母が何度もそこへ手をかけた跡なのか、単なる経年の傷なのかは分からない。

私は引き出しを抜いた。

中には、年賀状の束と、封筒に入れたままの葉書と、私が戻しておいた薄い封筒がある。表面の中央には、祖母の字で「三」と書かれている。昨日は開けなかった。開ければ何かが動き出す気がして、封筒の角を木の縁に合わせたまま、見ないふりをした。

だが今朝、引き出しの底がわずかに浮いていることに気づいた。

指の腹で押すと、板がほんの少し沈んだ。戻るとき、木の内側で小さな音がした。ぱき、と乾いた音だった。引き出しの裏板と底板の合わせ目に、古い膠が残っている。表から見れば分からない。けれど、指先でなぞると、ざらついた線が一本、端から端まで続いていた。

祖母は、引き出しを何度も開け閉めしていたはずだ。ここを知らなかったとは思えない。知らなかったのではなく、知っていて、見えないようにしていた。

私は机から古い定規を持ってきた。

子どもの頃、祖母に「住所は最後まで書くのよ」と言われたとき、宛名の下へ線を引くために使っていた定規だった。透明な樹脂に細かな傷があり、目盛りの三センチと四センチの間だけ、赤いインクが染みている。

定規の先を合わせ目へ差し込む。

板はすぐには動かなかった。力を入れれば壊れる。壊せば、祖母が残した形を私の手で消すことになる。そう考えて指を緩めた。すると、押す力を失った定規の先が、板の隙間へ吸い込まれるように沈んだ。

木の内側から、湿った紙を剥がす音がした。

私は定規を抜き、息を止めた。

裏板が紙一枚ぶんだけ浮いている。

その隙間に、薄い封筒が張りついていた。昨日戻したものと同じ大きさだったが、こちらには「三」の字がない。封筒の角は湿気を吸って波打ち、木屑が表面に貼りついている。宛名も差出人もない。古い紙の匂いが、仏壇の中からではなく、もっと深い場所から立ち上がった。

私は封筒を引き出した。

紙が木から離れるとき、背後で台所の蛇口が鳴った。

母が来たのかと思い、振り返る。

誰もいない。

水音は一度だけで、すぐに止まった。私はしばらく台所を見つめていた。流し台には、昨日母が拭いた茶碗が三つ、伏せてある。白い縁が朝の光を受けている。そのうち一つだけ、わずかに位置がずれていた。

私は立ち上がり、茶碗を元の場所へ戻そうとした。

手を伸ばしたところでやめた。

物を元の位置へ戻すのは、祖母の癖だった。何かを見つけるたび、私は無意識にその癖を引き継いでいる。ずれを直せば、何も起きていないことにできる。そう思っているのかもしれない。

私は仏壇の前へ戻り、封筒を膝に置いた。

母も叔父もいない。見られてはいない。止める声もない。

封筒の折り目は、何度も開け閉めされた形をしていた。封は糊で閉じられていたが、年月のせいで端が浮いている。私は爪を差し入れ、紙を破らないようにゆっくりと開いた。

中には、小さな紙片が三枚、重ねて入っていた。

紙片は葉書を切り分けたものらしい。表面には、祖母の字で住所と日付が書かれている。三枚とも、同じ黒いインクだった。だが書かれた時期は違う。インクの沈み方、紙の黄ばみ、筆圧の深さがそれぞれ異なっていた。

一枚目。

海沿いの町の住所。その横に、短く書かれている。

まだ届かない。

二枚目。

県境の商店街の住所。

返す顔がない。

三枚目。

川のある集落の住所。

この子には見せない。

私は三枚を机の上へ並べた。

文字はどれも祖母のものだった。けれど、同じ人が書いたとは思えないほど、三枚目だけ筆圧が違っていた。最後の「い」が紙へ沈み込み、裏面にまでわずかな膨らみができている。祖母が書くとき、迷っているほど強く押す。その癖を私は知っている。

知っていると思っていた。

「この子には見せない」

私は声に出さず、唇だけで読んだ。

写真の中の赤ん坊が浮かんだ。川べりで、祖母に抱かれている。写真の端には母の若い顔があり、こちらを見ているようで、見ていない。私はその写真を、何度も見たことがある。けれど、祖母の腕の中にいる赤ん坊が誰なのか、今まで考えたことがなかった。

自分だと思っていた。

そう思う理由は、写真を見せられたときに母が「小さい頃のあなた」と言ったからだ。ただ、それだけだった。写真の裏には日付も名前もなかった。

私は立ち上がり、押し入れの上段から写真帳を取り出した。表紙の布は湿気を吸って柔らかくなり、角に白い粉が浮いている。ページをめくるたび、写真の間から古紙と糊の匂いがした。

川べりの写真は、すぐに見つかった。

祖母が赤ん坊を抱いている。川面は白く、背後に低い土手がある。祖母の顔は笑っていない。穏やかでもない。目だけが、写真の外側にいる誰かを見ている。

私は写真を裏返した。

何も書かれていない。

次のページに、似た構図の写真があった。今度は母が赤ん坊を抱いている。祖母は少し離れたところに立ち、手に葉書の束を持っていた。三枚の白い角が、母の肩越しに見えている。

私は写真帳を膝から落としそうになった。

写真の下には、薄い紙が挟まっていた。取り出すと、祖母の字で日付が書かれている。写真の日付ではない。葉書を書いた日付だった。

三つの紙片に書かれた日付と、写真の日付は、同じ冬に重なっていた。

「この子は、まだ何も知らない」

紙片の裏に、もう一行あった。

私はその言葉を見つめたまま、呼吸を忘れた。

まだ何も知らない。

それは、赤ん坊だった自分に向けられた言葉なのか。母に向けた言葉なのか。それとも、祖母自身が、誰かに対してついた嘘なのか。

台所から、食器の触れ合う音がした。

今度は一度ではなかった。三回、乾いた音が続いた。

私は写真を伏せ、紙片を重ねた。順番が分からなくなり、最初の一枚を左に置き、二枚目を中央に、三枚目を右に置く。何度か並べ直したあと、三枚目だけを手元へ寄せた。

その瞬間、玄関の鍵が回った。

母だった。

「いるの?」

声がして、足音が近づく。私はとっさに紙片を封筒へ戻そうとした。だが三枚目だけが指に貼りついて離れなかった。湿気を吸った紙が、皮膚の汗に吸いついている。

母が祖母の部屋の入口に立った。

私の手元を見た。

「何を見つけたの」

「仏壇の裏板に、これがあった」

私は三枚の紙片を見せた。

母は一枚目と二枚目を見た。そこまでは、いつもの平らな顔だった。だが三枚目に視線を移したところで、右手がエプロンの端を握った。

「それは、戻して」

「なぜ」

「戻して。そこにあったものなら、そこへ戻すのが一番いいの」

「母さんは、これを知っていたのか」

「知らない」

「知っている顔をしている」

「顔で決めつけないで」

「じゃあ、言葉で答えてくれ」

母は仏壇の脇に立った。逃げるように台所へ向かうことはしなかった。それだけで、昨日までとは違う覚悟があるように見えた。

「その三つの場所を、祖母が行き来していたことは知っていた?」

「知らない」

「本当に?」

「何度聞いても、知らないものは知らないの」

「なら、これは何だ」

「書いたものよ」

「誰に向けて?」

母は三枚目の紙片から目を離さなかった。

「あなたは、書いたものに答えを求めすぎる。言葉は、書いた時点で終わることもあるの。届かなくても、読まれなくても、その人の中では終わっていることがある」

「祖母は終わっていなかった」

「どうして分かるの」

「葉書を三枚ずつ買っていた。何度も書き直していた。住所を捨てずに残していた。終わった人間は、こんなふうに同じ場所へ戻らない」

母はしばらく黙っていた。

「戻っていたのは、母だけじゃないのかもしれないわ」

「どういう意味だ」

「あなたも戻っているでしょう。写真も、住所録も、葉書も、何度も見ている。おばあちゃんが戻った場所へ、あなたも戻っている。そうやって人は、知らないうちに同じところを歩くのよ」

「俺は祖母じゃない」

「そうね。でも、あなたはおばあちゃんに似ている。物の数を数えるところも、書いたものの端を揃えるところも、見つけた違和感を放っておけないところも。あなたはそれを理屈だと思っているけれど、たぶん違う。見落とすことが怖いのよ」

私は反論しようとした。

だが、言葉が出なかった。

母は三枚目の紙片へ手を伸ばした。取ろうとはせず、その上に指を置く。指先が「この子には見せない」の文字に触れた。

「これは、あなたのことだと思う」

「誰が?」

「母が」

「祖母が、俺を誰に見せないと言ったんだ」

母は顔を上げた。

その目に、長い時間の沈殿があった。怒りでも、悲しみでもない。どちらにも名前をつけられないまま、何十年も底に沈めてきたもの。

「母は、あなたに見せないと言った。私にではなく、自分に言い聞かせていたのかもしれない。あなたが何も知らないまま育てば、家は壊れない。そう思っていた」

「何を見せない」

「人が一人、家族の外へ出ていったこと」

「誰が」

母は答えなかった。

沈黙の中で、仏壇の木が小さく軋んだ。

私は三枚の紙片を見下ろした。「まだ届かない」「返す顔がない」「この子には見せない」。それぞれの言葉が、別々の事情ではなく、同じ人間の中で順番に生まれたものだと分かり始めていた。

届かない相手がいる。

返せない顔がある。

見せない子どもがいる。

けれど、誰が誰に何をしたのか、まだ私には分からない。

「俺は、誰の子どもだったんだ」

母の肩がわずかに揺れた。

「あなたは私の子よ」

「それは戸籍の話だ」

「戸籍以外に、何があるの」

「祖母が隠したものがある」

「隠したものが、あなたの出生を変えるわけじゃない」

「出生の話をしているんじゃない。俺が何を見せられずに育てられたのかを聞いている」

母は、紙片を見たまま答えた。

「あなたは、知らなくてよかったのよ」

「その言い方は、知らない方がよかったことを知っている人間の言い方だ」

「知っているわよ。知っているから言ってるの。あなたが小さい頃、祖母は何度も遠くへ行った。帰ってくるたびに、葉書を書いた。三枚ずつ。それを出さなかった。出せなかったのか、出さないと決めたのか、私には分からない。でも、あなたがその葉書を見るたび、何かを思い出そうとすることだけは分かる」

「俺は思い出せない」

「思い出せないことが、あなたを守ったのかもしれない」

「守ったんじゃなくて、奪ったんじゃないか」

声が強くなった。

母は目を伏せた。

「そうかもしれない」

その返事は、私が予想していたどんな言葉より重かった。

母は紙片を三枚、手のひらで揃えた。角を合わせ、順番を崩さない。祖母と同じ動作だった。けれど、その手は祖母ほど静かではなかった。指先が震え、三枚目の端がわずかにずれる。

「この紙は、あなたが持っていて」

「戻さないのか」

「戻したら、また誰かが見ないふりをするでしょう」

「母さんは、俺に知られたくなかったんじゃないのか」

「知られたくなかった。でも、あなたが見つけたものまで取り上げることはできない」

母はそこで初めて、私の顔を正面から見た。

「私はずっと、知らないままでいれば家族を守れると思っていた。あなたにも、私自身にも、そう言い聞かせてきた。でも、知らないまま守れるものは、生活だけよ。人の中に残ったものまでは守れない。あなたが今、こんな顔をしているのは、何かを知ったからじゃない。知らなかった時間に、触れてしまったからでしょう」

私は紙片を受け取った。

三枚とも、ひどく軽かった。けれど、指先に載せると、手のひらの中で沈んだ。紙の重さではない。書かれなかった返事と、言われなかった言葉が、薄い紙の繊維に染み込んでいるようだった。

母は立ち上がり、台所へ向かった。

「お茶を入れるわ」

「今?」

「今だからよ」

蛇口がひねられ、水が流れ始める。

私は三枚の紙片を封筒へ戻した。封筒の表には何も書かなかった。元の場所へ戻すこともできた。戻せば、今日見たことを一度は忘れられるかもしれない。

けれど、私は封筒を手帳の間へ挟んだ。

一枚目の横に、まだ一枚目、と書かれた文字を思い出す。あれが私の字だったのか、祖母の字だったのか、今も分からない。

ただ、数える順番は決まった。

一つ目の住所。

二つ目の住所。

三つ目の住所。

その先に何があるのかは、まだ見えない。

台所では、母が三つの湯飲みを並べていた。祖母が使っていたもの、母のもの、私のもの。三つ目だけが、ほんの少し手前へ出ている。

私はそれを見ても、直さなかった。

母が湯飲みを運んでくる足音が、廊下の上でゆっくり近づいてくる。仏壇の前には、まだ線香の灰が残っている。窓の隙間から入った朝の光が、紙片の端を白く照らしていた。

その白さの中で、三枚目の紙に押しつけられた祖母の筆圧だけが、いつまでも消えなかった。

← 横にスクロールして読み進められます

裏板の封筒 - 消えた三通 - 誰でも作家life