第10話 川沿いの家

列車を降りたとき、空はまだ明るかった。
駅前には、古い観光案内の看板が立っていた。川沿いの遊歩道と、季節外れの花畑。色褪せた写真の中では、川は青く、空は広かった。実際の空は低い雲に覆われ、駅前のロータリーには水たまりがいくつも残っている。
私は手帳を開いた。
三つ目の住所は、駅から歩いて三十分ほどの場所にある。叔父の地図には、駅から川へ向かう細い道が一本だけ引かれていた。途中に小さな橋があり、橋を渡った先で道が二つに分かれる。右へ行けば集落、左へ行けば川沿いの家。
線は左へ向かっていた。
歩き出すと、靴の裏に湿った砂がまとわりついた。駅前の商店街は半分ほどシャッターが下りていて、開いている店も客の気配が薄い。魚屋の前に置かれた発泡スチロールから、水と生臭さが歩道へ流れている。私はその横を通り過ぎ、何度も手帳の住所を確かめた。
住所は合っている。
番地も、地図に記された道も、間違っていない。
それなのに、歩くほど、場所そのものが記憶の中から逃げていくようだった。
橋の上で立ち止まった。
川は思っていたより狭かった。濁った水が、岸の草を押し倒しながらゆっくり流れている。上流から細い枝が一本、回転しながら近づいてきて、橋の下へ消えた。
私は手帳の間から、祖母の古い地図を取り出した。
橋の欄には、小さな丸印がある。
その丸印の脇に、祖母の字で「ここから見える」と書かれていた。
何が見えるのかは、書かれていない。
川の向こうには、低い屋根がいくつか並んでいた。その中に、地図の線が向かう家があるはずだった。私は欄干から身を乗り出し、屋根の形を数えた。一つ、二つ、三つ。四つ目の屋根だけが、草木に隠れて見えない。
橋を渡り、分かれ道を左へ進んだ。
家はすぐに見つかった。
庭を囲っていたらしい金網はところどころ倒れ、門柱には表札の跡だけが残っている。文字を外した部分だけ、周囲より白かった。庭には伸びきった草が生え、古い物干し竿が斜めに倒れている。窓ガラスは一枚割れていたが、割れた窓の内側に、白いカーテンがかかっていた。
誰も住んでいない家にしては、布だけが新しく見えた。
私は門の前で立ち止まった。
ポケットの中で、家の鍵が重かった。祖母の家の合鍵ではない。叔父から渡された、この家のものかもしれない鍵だった。喫茶店を出るとき、叔父は何も言わず、地図と一緒に小さな鍵を置いた。
古い鍵だった。
受け取った私が尋ねる前に、叔父は「使えるかどうかは知らん」と言った。
門を押すと、錆びた金具が低く鳴った。
庭へ入ると、草の間に白いものが落ちていた。近づいてみると、葉書だった。表面は泥で汚れ、宛名の部分は剥がれている。裏返すと、何も書かれていなかった。
無地の葉書。
紙の端を指でつまんだ瞬間、祖母の部屋の匂いがした。湿った古紙と、樟脳に似た甘い匂い。私は葉書を手帳に挟み、家の玄関へ向かった。
玄関脇に、郵便受けがあった。
錆びた蓋は閉まっている。表面には泥がこびりついていたが、取っ手の周囲だけが妙にきれいだった。誰かが最近、触った跡のように見えた。
私は手袋を持っていなかった。
躊躇したあと、指で蓋を持ち上げた。
中は空だった。
底に、細長い紙片が一枚だけ貼りついている。封筒の切れ端らしく、紙の一部に数字が印刷されていた。
――三。
私はそれを剥がそうとした。だが、紙は底に固着していて、爪を入れても動かなかった。力を加えると、紙の表面だけが薄く剥がれた。
その下から、別の文字が見えた。
丸い筆跡だった。
最初の一文字だけが、泥の下から現れている。
「ま」
私は郵便受けから手を離した。
家の中で、何かが倒れる音がした。
乾いた音ではなかった。布のようなものが、ゆっくり床へ落ちた音だった。
風はなかった。
割れた窓の向こうで、白いカーテンだけがわずかに揺れている。私は玄関の鍵穴に、叔父から渡された鍵を差し込んだ。
一度目は回らなかった。
二度目に、奥で小さく金属が噛み合った。
そのとき、背後の川の方から、何かが水面を叩く音がした。
一つ。
間を置いて、二つ。
さらに、三つ。
私は振り返らなかった。
鍵を回すと、玄関の中から古い空気が押し返してきた。長く閉じられた部屋の匂いではない。誰かがついさっきまでそこにいて、急にいなくなったあとの匂いだった。
扉を開ける。
玄関には、泥のついた靴が一足だけ置かれていた。
サイズは、私のものとほとんど同じだった。
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