第5話 空き家の郵便受け

最初の宛先へ向かう電車の中で、私は何度も手帳を開いた。

海沿いの町でもないのに、住所録にはそう書かれていた。駅から徒歩二十五分。古い郵便番号。番地の後ろに、祖母が鉛筆で薄く「平屋」と書き足している。

その二文字を、私は何度も指でなぞった。

窓の外を流れる景色は、マンションの並ぶ沿線から、低い工場や畑へ変わっていった。冬の空は薄く曇り、遠くの送電塔が、灰色の雲の中へ脚を伸ばしている。線路脇の枯れ草は風に押されて同じ方向へ倒れ、電車が通り過ぎるたび、遅れて揺れた。

私は住所録を閉じ、カードケースの中の葉書に触れた。

白い無地の葉書。

「あと三枚」と書かれた文字は、家を出る前に見たときより濃くなっているように思えた。もちろん、インクが濃くなったわけではない。そう分かっていても、紙を傾け、窓から差す鈍い光に透かしてしまう。紙の繊維の間には、何も隠れていなかった。

何もないことが、いちばん気になった。

駅を出ると、風が思ったより冷たかった。駅前にはコンビニと歯科医院が一軒ずつあり、その先はすぐに住宅街へ入った。道幅は次第に狭くなり、車が一台通るたび、私は塀際へ身を寄せた。車体が通り過ぎると、排気ガスの熱と、濡れた土の匂いが一緒に残った。

古い住所録の地図は、今の道と少しだけ違っていた。交差点の角にあったはずの商店は駐車場になり、用水路には新しい蓋がかけられている。私はスマートフォンの地図と帳面を交互に見ながら歩いた。

「海沿いの町」という記憶だけが、妙に現実味を持っていた。

ここに海はない。風にも潮の匂いはない。けれど、祖母がこの道を歩いたことがあるのだと考えると、住宅街の角や、錆びた看板の文字まで、遠い場所から運ばれてきたもののように見えた。

目的地に近づくにつれ、家はまばらになった。道路の両側に低い塀が続き、その向こうで、手入れをされなくなった庭木が枝を伸ばしている。電柱に貼られた不動産会社の紙は、雨に濡れて文字が滲んでいた。

最後の角を曲がったところに、平屋があった。

住所録に書かれた番地と照合する。合っている。

門はなかった。道路と敷地の境目に、背の低いブロック塀が続いている。庭は草に覆われ、枯れた蔓が縁側の柱へ絡みついていた。窓ガラスの一枚には、内側から新聞受け止めの輪ゴムが巻かれたままになっている。輪ゴムは白く粉を吹き、今にも切れそうだった。

人の気配はなかった。

それなのに、玄関脇の郵便受けだけが新しかった。

銀色の蓋に傷はほとんどなく、縁だけが鈍く白く擦れている。取り付けられた木の板は古く黒ずんでいるのに、郵便受けそのものだけが、最近交換されたもののように浮いていた。

私は塀の前で足を止めた。

祖母の住所録には、ここが「平屋」とだけ記されている。いつ書かれたのか、誰が住んでいたのか、なぜ祖母がこの住所を残したのかは分からない。

玄関の郵便受けを見つめていると、蓋の内側から、紙の擦れる音が聞こえた気がした。

私は息を止めた。

風が塀の隙間を抜けたのだと思った。そう考えながら、一歩近づく。郵便受けの口には、暗い空洞がある。中身が見えない角度だった。

「誰か、いるのかね」

背後から声がした。

振り返ると、隣の家の勝手口が開いていた。灰色のカーディガンを羽織った老婆が、半分だけ顔を出している。髪は白く、きつく後ろへ束ねられていた。片手には濡れた雑巾があり、指の間から水が落ちている。

「すみません。こちらの家について、少し伺いたいことがあって」

私がそう言うと、老婆は私の顔を見た。それから、平屋と私の手帳を交互に見た。

「もう誰も住んでないよ」

「はい。その確認に来ました」

「確認して、どうするんだい」

「昔、祖母がここへ葉書を出そうとしていた記録がありまして」

祖母のことを口にした瞬間、老婆の手にあった雑巾から、水が一滴、地面へ落ちた。

「名前は?」

私は祖母の名前を告げた。

老婆はすぐに返事をしなかった。勝手口の脇に積まれた植木鉢へ視線を落とし、枯れた土を見つめる。質問の直前に笑う叔父とは違う。老婆は、答えを探す前に、答えを口にしてよいか考えているようだった。

「その人、何度か来てたよ」

「いつ頃ですか」

「ずいぶん前だねえ。私がまだ足腰の丈夫だった頃だから、十五年か、二十年か。もっと前かもしれない」

「この家に住んでいた人とは、どんな関係でしたか」

「関係ねえ」

老婆はそこで初めて私を見た。

「そういう聞き方をする人は、たいてい関係を知らない人だよ。関係がある人間は、もっと別のことを聞く。あの人は元気だったか、まだここにいるか、あのときのことを覚えているか。そういうふうにね」

私は手帳を開いた。

「祖母は、ここへ何度も来ていたんですね」

「来ていた。月に一度くらいの時もあった。間が空くこともあったけれど、来るときは決まって朝早くだった」

「誰に会いに?」

老婆は口を閉じた。

遠くで、トラックが走る音がした。道路の向こうの電線が低く震え、塀の上に積もった枯れ葉が一枚だけ動く。

「それを聞いて、あんたは何をするんだい」

「分かりません」

「分からないのに聞くのかい」

「分からないから聞いています」

老婆は、私の手帳へ目を落とした。祖母の住所を写したページには、三つの地名が並んでいる。その一つに、私は今日の日付を書き込んでいた。

「記録するのかい」

「忘れないために」

「忘れないことが、いつもいいことだとは限らないよ」

「忘れた方がいいことなら、なぜ祖母は住所を残したんでしょう」

老婆の表情がわずかに変わった。驚きではない。諦めに近いものだった。

「残したんじゃない。消せなかったんだよ」

「どう違うんですか」

「残した人は、誰かに見つけてほしいと思っている。消せなかった人は、自分でも見ないようにしている。それでも捨てられずに、同じ場所へ戻してしまう。あの人は、そういう置き方をしていた」

老婆は雑巾を絞った。水が地面へ細く流れ、靴先の近くで黒い染みになった。

「おばあさんは、この家の郵便受けを何度も見ていたよ。開けることはなかった。手をかけて、しばらく立って、それから帰る。誰かが来るのを待っていたのかもしれないし、来なかったことを確かめていたのかもしれない」

「この家には、誰が住んでいたんですか」

「昔のことだよ」

「祖母が、誰に葉書を出そうとしていたのか知りたいんです」

「葉書?」

老婆の声が一段低くなった。

「葉書を持ってきていたのかい」

「はい。出さずに残っていました」

「そうかい」

老婆は平屋を見た。草に覆われた庭の奥で、縁側のガラスが曇っている。誰も住んでいない家のガラスが、なぜ曇っているのか、私はすぐには理解できなかった。内側の湿気が抜けないだけかもしれない。そう思うのに、あの家がまだ誰かの呼吸をためているように見えた。

「ここに住んでいた人は、もう亡くなったんですか」

「知らないよ」

「知らない?」

「知らないことにしたんだよ」

老婆は淡々と言った。

「昔はね、近所の人間が誰と会おうが、どこへ行こうが、いちいち聞かなかった。聞けば、聞いた方が責任を持たなくちゃならないからね。あの人が来て、家の前に立って、郵便受けを見て、帰っていく。それを見ても、私は何も言わなかった。何も言わなければ、何も起きなかったことになると思っていた」

「実際には、何か起きていたんでしょう」

「起きていたよ。起きていたけれど、ここにいる人間が見ないふりをしていただけだ」

老婆の言葉は、母や叔父の沈黙と似ていた。誰も同じことを言っていないのに、同じ場所へ戻ってくる。家族の内側で繰り返されてきた水音のように、話が核心へ近づくたび、別の生活音が上から重なる。

私は郵便受けへ目を向けた。

「この郵便受けは、最近取り替えられたものですか」

老婆は振り返り、初めてはっきりと郵便受けを見た。

「そうだねえ。前のは古くなって、蓋が閉まらなくなったから」

「誰が取り替えたんですか」

「家主だろうね」

「家主は、今も来るんですか」

「たまに来るよ」

「最近も?」

老婆は答えなかった。

私は郵便受けの下にしゃがみ込んだ。敷地には入れないので、道路側から見える範囲しか確認できない。蓋の下には、薄い埃が溜まっている。だが中央だけ、指一本ぶんの幅で埃が途切れていた。

誰かが最近、蓋を開けた。

そう思った瞬間、私の息が浅くなった。

「触らない方がいいよ」

老婆が言った。

「触っていません」

「触ろうとしている顔をしている」

「中を見るだけです」

「中に何もなかったら、帰るのかい」

「分かりません」

「何かあったら?」

私は答えられなかった。

郵便受けの口に顔を近づける。内部は暗く、細い蜘蛛の糸が一本、奥から垂れている。その糸は風に揺れていなかった。蓋の隙間から差す光が、内部の底をかすかに照らしている。

空だった。

封筒も、葉書も、砂もない。

それなのに、内側の金属には新しい擦り傷があり、誰かが指を差し入れた跡のように見えた。

私は立ち上がった。

「この家の人は、祖母に返事をしなかったんですか」

老婆は、長い間平屋を見ていた。

「返事が来なかったのかもしれないね」

「祖母は、返事を待っていた」

「待っていた人は、返事が来ない理由をいくつも考える。届かなかった。読まれなかった。怒っている。忘れられた。もういない。その中で一番、自分が耐えられる理由を選ぶんだよ」

「祖母は何を選んだんでしょう」

「さあねえ」

老婆は雑巾を畳み始めた。角を揃え、二つ折りにし、さらにもう一度折る。その手つきが、祖母の葉書を整える仕草と重なった。

「でも、あの人は最後まで諦めていなかったように見えた」

「何をですか」

「自分が返事をすることをだよ」

私は手帳を閉じた。

老婆の言葉は、意味が分かるようで分からなかった。祖母が返事を待っていたのか、返事をしたかったのか。待つことと書くことが、祖母の中で同じ場所に置かれていたのかもしれない。

そのとき、平屋の中から音がした。

かすかな金属音だった。

郵便受けの蓋が、内側から一度だけ持ち上がり、落ちたような音。

私は反射的に平屋を見た。

窓は閉まっている。玄関も動いていない。庭の草だけが、風に押されて一斉に伏せた。

「今の音は?」

老婆は答えなかった。

「家の中に誰かいるんですか」

「もう誰も住んでないよ」

「音がしました」

「古い家は音がする」

「郵便受けの音でした」

老婆は私を見た。

「郵便受けは、届いたものだけで鳴るとは限らないよ」

その言葉を聞いたとき、背後で犬が一度だけ吠えた。

振り返ると、老婆の家の庭の奥に、黒い犬が立っていた。こちらを見ていたが、すぐに顔を背けた。首輪には赤い布が結ばれている。犬の足元には、濡れた新聞紙が一枚落ちていた。

私はもう一度、平屋の郵便受けを見た。

銀色の蓋に、白いものが挟まっている。

さっきまではなかった。

私は塀へ近づいた。白い紙片は、郵便受けの口からほんの数ミリだけ顔を出している。葉書の角に見えた。

手を伸ばしかけたとき、老婆が声を上げた。

「やめなさい」

その声には、初めてはっきりした怯えがあった。

私は手を止めた。

「なぜですか」

「それは、あんたのものじゃない」

「誰のものか知っているんですか」

「知っているから言ってるんじゃない。知らないから、触らない方がいいと言っている」

白い紙は、郵便受けの口から少しずつ沈んでいった。

風はなかった。

私は塀に手を置いたまま、紙が完全に消えるのを見ていた。金属の蓋は閉じたままなのに、内部で何かが引かれていく気配だけが残る。

老婆は勝手口の方へ後ずさった。

「もう帰りなさい」

「祖母は、ここで何を待っていたんですか」

「帰りなさい」

「誰が住んでいたのかだけでも――」

「帰るんだよ。あんたが来たことを、この家に覚えさせる前に」

その言葉が、妙に具体的に耳へ残った。

私は手帳を開き、地名を書いた。書き終えたあと、住所の横に「空き家」と記し、さらにその下へ「郵便受け、新しい」と書く。

そのとき、ページの端に、見覚えのない鉛筆の跡があることに気づいた。

祖母の住所録から写したページではない。私の手帳の、今日初めて開いたページだ。そこに細い線が三本、縦に並んでいた。

一、二、三。

私は指で擦った。鉛筆の粉が少しだけ伸びる。自分で書いた覚えはなかった。

けれど、昨日、三つの地名の横に空白の四角を作ったことを思い出した。その四角を、私は今朝、消したつもりだった。消しゴムをかけた跡はある。なのに、三本の線だけが残っている。

老婆が勝手口を閉めた。

扉が閉まる音は、仏壇の引き出しが閉じる音によく似ていた。

私は平屋をもう一度見た。窓の内側に、何か白いものが立っているように見えた。人影ではない。カーテンの端か、古い布かもしれない。

目を瞬き、見直す。

白いものは消えていた。

私は来た道を戻った。

帰りの道は、行きより長く感じられた。車が通るたび塀の影が揺れ、その影が足元から離れずについてくる。駅へ近づくにつれて住宅が増え、人の声や自転車のベルが聞こえ始めた。けれど、生活音が増えるほど、平屋の前で聞いた金属音が耳の奥に残った。

駅前のコンビニで、缶コーヒーを一本買った。レジの若い店員は、私の顔を見ずに「温めますか」と尋ねた。

「結構です」

自分の声が、思ったより乾いていた。

店を出て、プルタブを開ける。コーヒーの匂いが立ち上がる。口に含んでも味が分からなかった。苦いのか、甘いのか、冷たいのかさえ曖昧だった。

私はベンチに座り、手帳を開いた。

海沿いの町。

県境の商店街。

川のある集落。

その一つ目の横に、「空き家」と書かれている。さらにその下に、老婆の言葉を書き写した。

返事が来ない理由を、耐えられる形にする。

私はそこまで書いて、ペンを止めた。

手帳の下のページに、いつ書いたのか分からない文字があった。

祖母の筆跡に似ている。

三本の線の横に、小さく、こう書かれていた。

まだ一枚目。

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空き家の郵便受け - 消えた三通 - 誰でも作家life