第4話 住所録の三行

朝の台所は、線香の残り香と洗剤の匂いが薄くぶつかっていた。

窓は少し開いている。冬の空気が細く入り込み、流し台の上に置かれた布巾の端を揺らしているのに、祖母の部屋から漂う古紙の匂いだけは動かなかった。湿った木と樟脳、それから長い間閉じられていた紙の、甘く腐りかけたような匂い。鼻の奥に残るその匂いを、私は昨日から何度も確かめていた。

仏壇の前に置いた白い葉書を、一度だけ見る。

「あと三枚」

黒い文字は、朝になっても薄れていなかった。

私はそれを古いカードケースに入れ、仕事用の手帳と一緒に内ポケットへしまった。昨夜、封筒を開けることはできなかった。祖母の字で「三」と書かれた封筒は、仏壇の引き出しの中に戻してある。戻したというより、元の位置へ押し込んだ。封筒の角が木の縁と揃っていないと落ち着かず、何度も指で直した。

そのあと、住所録を探した。

最初は机の引き出しを全部抜いた。祖母は物をしまう場所を細かく分けていた。便箋は右、葉書は左、使いかけの封筒は奥。印鑑や朱肉は一つの箱にまとめ、箱の中でも大きさを揃えていた。けれど住所録だけが見当たらなかった。

母は、台所で湯を沸かしながら、私が引き出しを開け閉めする音を聞いていた。

「何を探してるの」

「住所録」

「年賀状と一緒じゃない?」

「一緒にあったものは全部見た」

「なら、もう捨てたんじゃないの」

母はそう言って、やかんの火を弱めた。祖母のものを捨てたという言葉を、まるで買い物袋を処分した話のように扱う。私は返事をせず、机の脇に積んだ箱を一つずつ開けていった。

「母さん」

「何」

「祖母が持っていた住所録を探している。仕事で使うわけじゃない。葉書の宛先を確認したいだけだ」

「確認して、どうするの」

「見に行く」

母は湯飲みを一つ取り出した。棚には同じ湯飲みが三つ並んでいたが、母は手前のものを取らず、奥の一つをわざわざ引き出してから戻した。

「どこへ?」

「住所録に書かれている場所へ」

「あなた、仕事は?」

「休む」

「昨日も休んだでしょう」

「今日も休む」

「そんなに簡単に言わないで。会社は、あなたが思っているほど都合よく待ってくれないわよ」

「会社の話をしているんじゃない」

「私はしてるの。祖母の家を片づけるために、あなたの生活まで崩す必要はないでしょう。相続の書類もまだ残ってる。電気の停止も、管理会社への連絡も、仏壇をどうするかも決まってない。葉書が一枚、封筒が一通出てきたからって、昔の住所まで追いかけていたら、いつまでも終わらない」

「一枚じゃない」

母の手が止まった。

私は昨日の夜に書き写したメモを取り出した。白い葉書、祖母の字で途中まで書かれた葉書二枚、引き出しの奥に隠されていた封筒。その横に、年賀状の裏で見つけた「来ず」「返事なし」「母には言わない」という三つの記録を書いてある。

「見つかったものだけで、これだけある」

「見つかったものだけ、ね」

母は湯飲みに湯を注いだ。急須から流れた湯気が、母の顔の前で薄くほどける。

「それが何だっていうの」

「祖母が誰かに返事をしようとしていた。それも、一度じゃない。住所録には三つの宛先がある。母さんは知っているんだろう」

「知らない」

「昨日もそう言った」

「本当に知らないことは、何度聞かれても知らないのよ」

「知らないなら、なぜそんな顔をする」

「どんな顔?」

「住所録の話をすると、必ず何かを始める。布巾を畳む。皿を洗う。書類を揃える。今だって、湯飲みを奥から出した」

母は湯飲みを食卓に置いた。底が木の天板に触れ、乾いた音を立てた。

「あなたは、人の手元ばかり見るようになったわね」

「祖母の字や紙の状態を見ているだけだ」

「同じことよ。手元を見ていれば、口に出さないことまで分かると思ってる」

「分かるとは思っていない。ただ、見なかったことにしたくない」

「それはあなたの都合でしょう」

母は湯飲みを私の前へ押した。中身は熱いのに、手を添えた器だけが冷たかった。

「おばあちゃんが亡くなって、あなたは急に責任を感じているのよ。生きている間は忙しいと言って、通院の日も、部屋の片づけも、ほとんど私に任せた。電話をかけても折り返さないことがあった。今になって紙を見つけて、全部取り戻せるような顔をしないで」

「取り戻すつもりはない」

「なら、何のために行くの」

私は答えを探した。仕事のように、目的と手順に分けて考えようとした。住所を確認する。現地を見る。誰かが知っているか聞く。葉書を出さなかった理由を確かめる。

けれど、それらを並べても、母の問いには届かなかった。

「祖母を、穏やかな人のまま終わらせたくない」

母は私を見た。

「どういう意味?」

「穏やかだった。几帳面で、家族の面倒を見て、何も困らせなかった。でも、それだけじゃない。祖母には、私たちが知らない時間があった。書きかけの葉書も、日付も、誰かを待っていた記録も残っている。なのに、死んだから全部、穏やかな思い出に戻される。そういうのが嫌なんだ」

「死んだ人を悪者にしたいの?」

「違う」

「かわいそうな人にしたいの?」

「それも違う」

「じゃあ何なの」

「分からない。だから見に行く」

母は長い間、何も言わなかった。

冷蔵庫のモーターが低く唸っている。隣の部屋では、誰かが掃除機を動かし始めた。壁を通して、機械の振動がかすかに伝わってくる。生活は隣室にも、その隣にも続いている。祖母の死だけが、家の中で時間を止めているようだった。

やがて母は、食卓の脇に置かれた古い買い物袋へ手を伸ばした。袋の底には、祖母が使っていた裁縫箱と、細い革の手帳が入っていた。

「これ、昨日の夜に見つけた」

「なぜ言わなかった」

「言う必要があると思わなかったから」

私は手帳を受け取った。表紙は黒ずみ、角が擦れて白くなっている。開くと、最初の数ページには近所の店や病院の電話番号が並んでいた。祖母の字は小さく、行間に余白がほとんどない。

「これが住所録?」

「たぶん。昔は何冊も使っていたから、どれがどれだか分からない」

「たぶん、で渡すのか」

「あなたが自分で見つけたがっているんでしょう」

母の声には、わずかな苛立ちが混じっていた。けれど手帳を渡す指は乱暴ではなかった。革の表紙が折れないよう、両手で支えている。

ページをめくる。

電話番号の下に、買い物の内容や薬の名前が書かれている。病院の診察日、管理会社の担当者、近所の人の名字。どのページも祖母の暮らしの細部で埋まっている。けれど、途中から急に空白が増えていた。

空白のページを何枚かめくったところで、紙の厚みが変わった。

住所録の後ろに、もう一冊、薄い帳面が挟まっている。

私はそれを抜き出した。表紙の内側に、祖母の字で「移転前」と書かれていた。何が移転したのかは書かれていない。家なのか、店なのか、人なのか。

帳面を開く。

最初の数ページは、古い住所と名前が混在していた。数字の書き方から、かなり前のものだと分かる。いくつかの名前には二重線が引かれ、その横に小さく新しい住所が書き直されている。けれど、三つの行だけは、線も訂正もなかった。

海沿いの町。

県境の商店街。

川のある内陸の集落。

地名は三つ、ほとんど同じ太さで並んでいた。

私はその行を手帳に写した。海沿いの町の住所には、古い郵便番号が付いている。商店街の住所には、店の名前らしい文字があった。川のある集落には、人名だけが残されている。住所の一部が消えかけていて、最後の番地は鉛筆でなぞり直されていた。

最後の一文字だけ、深く沈み込んでいる。

祖母が書くとき、迷いがあるほど筆圧が強くなることを私は知っていた。文字が濃くなるのではなく、紙そのものがへこむ。まるで、そこに書いた言葉を逃がさないように押さえつけるように。

「その三つ、知ってるか」

私は帳面を開いたまま尋ねた。

母はすぐには答えなかった。布巾を一度畳み、もう一度、同じ折り目をなぞった。

「昔のことよ」

「それは答えになっていない」

「答えを求めているの?」

「そうだ」

「答えがあれば、あなたは帰ってくるの?」

「帰ってくる?」

「その三つの場所を見て、誰かに話を聞いて、祖母が何をしていたか知って、それで今のあなたの生活に戻れるの。会社へ行って、食事をして、眠って、次の週末にまた片づけをする。知ったことは、そう簡単に元の場所へ戻らないわよ」

「戻らなくていい」

「あなたはそう言うけれど、戻らないものを抱える覚悟があるようには見えない」

「母さんはあるのか」

母は、布巾を畳む手を止めた。

「私はもう抱えてるの。覚悟があるかどうかなんて、抱えたあとで考えることよ」

その言葉は、昨日より深く私の中へ入った。

母は祖母について語りたがらない。けれど、語りたくないということ自体が、長いあいだ何かを抱えてきた人間の反応なのだと、少しだけ分かりかけていた。私が知らなかっただけで、母は祖母の沈黙の内側にいた。私が外側で眠っている間も、母は水を流し、皿を洗い、見ないふりを続けていた。

「この三つの住所に、祖母は何度も行っていたのか」

「行っていたと思う」

「思う?」

「あなたの祖母は、行き先を詳しく言う人じゃなかったから」

「母さんには言わなかったのか」

「私に言わなかったのか、私が聞かなかったのかは、もう分からない」

「そんなことは――」

「分からないのよ」

母は初めて声を荒らげた。

けれど怒鳴ったわけではない。抑えていたものが一度だけ、抑えきれずに表へ出た。それは大きな音ではなかった。むしろ小さかった。小さいから、台所の壁に残った。

「分からないことを、分からないままにして生きるしかないときもあるの。あなたは今、事実を見つければ楽になると思っている。紙を揃えて、日付を並べて、行き先を一つずつ確かめれば、誰が何をしたか、どうして黙っていたか、全部つながると思っている。でも、人が黙る理由は一つじゃない。怖かったから黙る。恥ずかしかったから黙る。誰かを守りたかったから黙る。自分が傷つきたくなかったから黙る。その全部が同じ沈黙の中に入っていることだってあるのよ」

私は帳面の三行を見つめた。

「それでも、見ないよりはいい」

「見て、どうするの」

「捨てない」

「何を?」

「分からないものを、分からないまま捨てない」

母は私の顔を見なかった。

「おばあちゃんのものを捨てるのは、私がやるわ」

「なぜ」

「私の母だから」

「だから、母さんが決めるのか」

「私が背負ってきたものだから」

「俺には関係がないと?」

「そうは言ってない」

「言っているのと同じだ」

母はそこで黙った。食卓の上には、帳面と手帳と、白い葉書の入ったカードケースが並んでいる。紙の角を揃えたのは私だった。三つの地名を書いた手帳も、帳面の位置も、すべて左から右へ順番に置いてある。

母はその並びを見て、かすかに息を吐いた。

「あなたが小さい頃、祖母はよく遠くへ出かけていた」

「どこへ?」

「今の三つかどうかは知らない」

「知っているんじゃないか」

「知らない。駅まで送ったことはある。帰ってきたとき、荷物を受け取ったこともある。でも、どこへ行ったかは聞かなかった」

「なぜ聞かなかった」

「聞いたら、答えなければならなくなるから」

「誰が?」

「祖母が。私が。あなたが大きくなったときに、あなたにも」

母の指が、帳面の端に触れた。何度も使われた紙の角が、指先の湿気を吸ってわずかに暗くなる。

「あなたが小さい頃、一度だけ聞いたのよ。帰ってきた母に、どこへ行っていたのかって。母は笑って、親戚のところ、と言った。私はそれ以上聞かなかった。あなたが隣で寝ていたから。あの人は、あなたの寝顔を見ていた。見ている時間が長かった。私には、それが怖かった」

「祖母が怖かった?」

「母が、何かを決めた顔をしていたから」

「何を決めた」

母は答えなかった。

台所の時計が、八時を告げた。電子音が三回鳴り、最後の一音だけが少し遅れて消えた。

私は帳面を閉じた。

「最初の住所へ行く」

「今日?」

「今日」

「電車で何時間かかるか分かってるの」

「調べる」

「向こうへ着いて、誰に何を聞くの」

「分からない」

「分からないのに行くの?」

「だから行く」

母は私を見た。呆れたような、疲れたような顔だった。けれど、止める言葉は続かなかった。

しばらくして、母は食器棚の引き出しから小さなビニール袋を取り出した。中には、祖母が使っていた古い定規と、擦れた鉛筆が入っている。

「持っていきなさい」

「何に使う」

「住所を書き写すなら、線を引くでしょう」

「必要ない」

「必要かどうかは、あなたが決めればいい」

母は袋を私の前へ置いた。

「でも、向こうで何か見つけても、すぐに祖母のせいにしないで。あの人が何をしていたとしても、あの人だけで全部決まったわけじゃないから」

「母さんも関わっているのか」

「関わっていない家族なんていないわよ」

母はそれだけ言うと、立ち上がった。話が終わった合図だった。だが台所へ向かう前に、一度だけ振り返った。

「その住所録、帰ってきたら元の場所へ戻して」

「どうして」

「おばあちゃんが、そこに置いていたから」

「祖母が戻ってくるわけじゃない」

「そういう意味じゃない」

母は視線を帳面へ落とした。

「場所を変えると、次に探す人が見つけられなくなるでしょう」

私はその言葉を聞いて、指先が冷えるのを感じた。

次に探す人。

誰が、何を探すのか。

母はもう台所へ向かっていた。蛇口をひねる音がする。水が流れ、食器に当たり、一定の音を作り始める。祖母が生きていた頃から続いていた音。私の記憶から欠け落ちている時間を、母はこの音で覆い隠してきたのかもしれない。

私は住所録の三行を、手帳に書き写した。

海沿いの町。

県境の商店街。

川のある集落。

書き終えてから、数字を添えた。

一、二、三。

それぞれの横に、空白の四角を作る。そこへ何を記録するのかは決めていない。見たものか、聞いたことか、祖母が残した葉書の枚数か。

私は玄関へ向かった。

靴を履く前に、郵便受けの鍵を二度確かめる。ポケットの中には、手帳、カードケース、古い定規、祖母の住所録。白い葉書の紙質が、服の内側から皮膚へ伝わってくるようだった。

扉を開けると、マンションの廊下は冷えていた。遠くでエレベーターが止まり、誰かの足音が近づいてくる。私は一度振り返った。

母は台所に立っている。こちらを見ていない。けれど、蛇口から流れる水が、一瞬だけ止まった。

私は廊下を歩き出した。

エレベーターの表示灯が、上から下へ順に点いていく。数字を目で追いながら、私はまた数えていた。十、九、八。扉が開く。中へ入り、行き先の階を押す。

三。

ボタンの明かりが、白く点った。

その数字を見つめていると、手帳の中の三行が、紙の上からゆっくり浮かび上がってくるように思えた。誰かが書いた住所ではなく、誰かが私を呼ぶために残した順番のように。

一つ目の宛先へ向かう。

それだけのことなのに、エレベーターが下降していく感覚は、階を下りるというより、家の中で長く閉ざされていた場所へ沈んでいくようだった。

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