第3話 引き出しの奥

午後になっても、私は会社へ戻らなかった。
上司には、祖母の遺品整理が終わっていない、とだけ伝えた。電話の向こうで、上司は一度黙り、それから「無理はするな」と言った。気遣いの言葉はありがたかったが、その声の背後では誰かがキーボードを叩いていた。仕事は私がいなくても進む。画面の中の表や数字は、担当者が一人抜けたくらいでは崩れない。
そのことに、わずかな安堵を覚えた。
同時に、祖母の部屋だけは、私がいなくなれば何か別の形に片づけられてしまう気がした。
母は昼食のあと、役所へ提出する書類を持って出ていった。叔父も、管理人に挨拶してくると言って家を出た。玄関の扉が閉まり、二人の足音が廊下の向こうへ遠ざかると、部屋の中には冷蔵庫の低い唸りと、壁時計の秒針だけが残った。
線香の匂いは、もうほとんど消えていた。
その代わり、畳の下から湿った木の匂いが上がっている。窓を開けても、冬の空気は細くしか入ってこない。冷たい風が部屋を通り抜けるたび、仏壇の横に置かれた薄いカーテンが膨らみ、すぐに元へ戻った。誰かが内側から息を吐いているように見えた。
私はまず、押し入れの下段から片づけ始めた。
段ボールには祖母の字で、「冬物・小」「薬」「年賀状」「台所予備」と書かれている。文字の大きさも、線の濃さもほとんど揃っていた。祖母は物を分類するとき、必ず箱の正面を部屋の中央へ向けた。今も段ボールは、畳の縁と平行に並べられている。
それが、かえって不気味だった。
中に何が入っているか分からないのに、箱だけは何年も変わらない顔をしている。見えないものを、見える場所へ置く。そのやり方が、祖母の暮らしのすべてだったのかもしれない。
「冬物・小」の箱を開けると、古いセーターと毛糸の帽子、その下に使い古した買い物袋が折り畳まれて入っていた。袋の底には、乾いた菊の花びらが二枚張りついている。私はそれを捨てられず、畳の脇に置いた。
薬箱には、服用時間ごとに仕切られた薬が並んでいた。朝、昼、夕。祖母が最後まで使っていたものと、途中でやめたもの。名前の消えかけた錠剤の袋まで、捨てずに残されている。母なら、これは迷わず廃棄するだろう。私も本来ならそうすべきだと思った。
けれど、薬袋を一つ持ち上げるたび、祖母の指がそこに触れていた時間まで捨てるような気がした。
片づけは、物を分ける作業だと思っていた。残すものと捨てるもの、必要なものと不要なもの。仕事では、そうやって書類を処理してきた。だが祖母の部屋では、どれも同じ重さで手に残った。不要なものにも、祖母が不要だと判断しなかった理由がある。その理由だけが、死後の部屋の中で誰にも説明されずに待っている。
私は机の前に座り、紐で束ねられた年賀状を手に取った。
紐は古い木綿で、結び目が固くなっていた。爪を差し入れてほどくと、乾いた繊維が指先に食い込む。束の一番上には、母の名前が書かれた年賀状があった。祖母の丸い字で、賀詞と短い挨拶が並んでいる。
その一枚を裏返したとき、宛名の下に小さな書き込みがあるのを見つけた。
「一月三日、来ず」
私は指を止めた。
黒いインクで、日付と三文字だけが書かれている。年はない。誰が来なかったのかも、何を待っていたのかも分からない。ただ、年賀状の裏にしては、言葉が妙に事務的だった。祖母が誰かの訪問を記録していたようにも、来なかったことを忘れないために印をつけていたようにも見える。
次の年賀状をめくる。
そこにも日付があった。
「一月五日、返事なし」
さらに一枚。
「一月七日、母には言わない」
私は手にした束を畳へ置いた。紙が重なる音は小さかったが、部屋の静けさの中では、それだけが何かを決める音に聞こえた。
母には言わない。
誰が、誰に対して言わないのか。
私は祖母が生前よく使っていた言葉を思い出そうとした。食事のあと、母が昔の話を始めようとすると、祖母は決まって台所へ立った。茶碗を洗い、布巾を絞り、濡れた流し台を何度も拭いた。こちらが話題を戻そうとしても、「お茶、いる?」と尋ねた。
あのとき祖母は、聞こえないふりをしていたのだろうか。
それとも、聞こえていたからこそ、手を動かしていたのだろうか。
私は年賀状の束を年代順に並べた。左から古いもの、右へ行くほど新しいもの。ところどころに、家族宛てではない葉書が混ざっている。宛名は途中までしかない。県名だけのもの、市町村まで書かれたもの、住所の最後に鉛筆で線が引かれているもの。
三枚。
すぐに数えた。
白い葉書を含めれば、机の上には三枚の未投函の葉書がある。私は一度、手を引いた。だが目は紙から離れなかった。
最初の葉書は、差出人も宛名もない。「あと三枚」。
二枚目は、県名まで書かれている。
三枚目は、別の県名と、消し跡の残った市の名前がある。
どちらも宛先の最後まで届いていない。けれど、葉書の右上に書かれた日付は、それぞれ十年以上離れていた。
同じ時期に三通を書いた、という叔父の話とは合わない。
まだ叔父は、そんなことを言っていない。言っていないはずなのに、私はすでに誰かから聞いたような気がしていた。ある地方の三つの住所。祖母が何度も通った町。毎月のように訪れていた商店街。
記憶の中にない情報が、いつの間にか私の記憶の形をしている。
私は額に手を当てた。
幼い頃、この部屋で昼寝をしたことがある。畳の匂い。窓から差す午後の光。祖母が台所で茶碗を洗う音。その向こうで、誰かが低い声で話していた気がする。
男の声だった。
けれど、何を言っていたのかは思い出せない。思い出そうとすると、音だけが遠ざかる。畳の上を滑る足音。玄関の扉が閉まる音。祖母が急に水を強く流す音。
私はそこまでしか覚えていなかった。
いや、覚えているというのも正しくない。ただ、今になって、覚えていないことの輪郭だけが見えてきたのだ。
机の引き出しを開けると、祖母が使っていた朱肉の小箱が入っていた。蓋を取ると、乾いた朱色の表面から、かすかに油と金属の匂いがした。私はそれを手に乗せ、重さを確かめた。子どもの頃、祖母が私の手を取って、年賀状の宛名を書かせたことを思い出す。
「住所は、最後まで書くのよ」
祖母はそう言った。
声までは思い出せない。けれど、その言葉だけははっきりしていた。
最後まで。
私は立ち上がり、仏壇の下にある小さな引き出しへ向かった。
午前中にも開けた場所だった。年賀状の控えと、途中まで書かれた葉書を取り出したあと、底まで見たつもりでいた。だが引き出しを完全に抜き、裏返してみると、奥の板に薄い隙間がある。
指先を差し込む。
木の粉が爪の間に入り、ざらりとした感触が残った。隙間の奥には、何かが挟まっている。私は古い定規を持ってきて、板を傷つけないように少しずつ押した。
最初は動かなかった。
力を加えると、木の内側で小さな音がした。ぱき、と乾いた音。続いて、湿った紙が剥がれるような音がする。
私は定規を抜き、息を止めた。
引き出しの奥の板が、紙一枚ぶんだけ浮いている。
そこに、薄い封筒が張りついていた。
封筒は茶色く変色し、角の一部が湿気で波打っている。宛名も差出人もなかった。ただ、表面の中央に、祖母の字で小さく「三」と書かれている。
私はその数字を見た瞬間、喉が狭くなるのを感じた。
三枚。
そう考えた。だが、何の三枚なのかは分からない。白い葉書の「あと三枚」と結びつけるには、まだ材料が足りなかった。足りないのに、指先は封筒から離れなかった。
封筒を引き剥がすと、裏側に乾いた木屑が付着した。紙の表面はひどく冷たかった。祖母の部屋のどこに置かれていた紙よりも、長い間、誰にも触れられていなかった冷たさだった。
そのとき、廊下から母の声がした。
「何をしているの」
私は振り返った。
母は玄関に立っていた。役所から戻ったばかりらしく、片手に書類の入った封筒を持っている。コートの肩には、外の湿った空気がまだ残っていた。
「引き出しの奥を見ていた」
「そこは、もう見なくていい」
母はすぐに靴を脱がなかった。視線が私の手元へ落ちている。封筒に気づいている。気づいているのに、何と呼べばいいのか決められないような目だった。
「これは何だ」
「知らない」
「知らないのに、見なくていいと言うのか」
「遺品は全部見なきゃいけないの?」
「全部じゃない。残っているものには、残っている理由がある」
「理由があっても、知らない方がいいものはあるのよ」
母はそう言いながら、食卓の上の年賀状を片づけ始めた。私が並べた順番を崩さないよう、両手で束を持ち上げる。その手つきは慎重だった。捨てるために集める人間の動きではない。
「母さん」
「何」
「この三つの住所を知ってるか」
母の手が止まった。
私は封筒を開けず、机の上へ置いた。数字の「三」が母の目に入るように、表を上にした。
「祖母が書いた葉書だ。宛先の途中で止まっている。年賀状の裏にも、来なかったとか、返事がないとか、そういう記録が残っている。母さんは、何も知らないのか」
「知らない」
「本当に?」
「本当にって、何を根拠に聞いているの」
「母さんが、見ようとしないからだ」
母は束ねた年賀状を胸元へ抱えた。紙の角がエプロンに触れ、乾いた音を立てる。
「見ないんじゃない。見ないで済むようにしてきたの」
「それは、知っている人の言い方だ」
「あなたは、知っているって言葉を簡単に使うのね。少し紙を見つけただけで、誰かが何かを知っている、隠している、嘘をついているって決める。そうやって調べれば、全部が分かると思ってる」
「分かるとは思っていない。ただ、分からないままにしたくない」
「それで誰が楽になるの」
「少なくとも、見なかったことにはならない」
母は笑わなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、祖母がそうしていたように、流し台の方へ歩き出した。
「母さん、今、話をしている」
「話をするために、私は帰ってきたんじゃないの。書類をしまって、洗濯物を取り込んで、今日の夕飯を考えるために帰ってきたのよ。人が一人死んでも、残った人間はお腹が空くし、明日は来る。あなたは会社に休みを入れれば済むけど、私は家に戻れば、戻った分だけやることがあるの」
「だから、祖母のことを片づけるのか」
「片づけないと、生活が残らないからよ」
母は蛇口をひねった。水が流れ始める。けれど、すぐには食器を洗わなかった。両手を流し台の縁に置き、水音だけを聞いている。
「おばあちゃんはね、何かを隠して楽しんでいたわけじゃないの」
「なら、なぜ隠す」
「隠すしかないことがあるから」
「誰から」
母は答えなかった。
水がシンクの底に当たり、細かく跳ね返る。その音の中に、遠い記憶が混じった。祖母の部屋で昼寝をしていた午後。台所から聞こえる同じ水音。私は布団の中で目を閉じたまま、大人たちの話を聞いていた。
「この子には見せないで」
誰かが、そう言った。
声の主は分からない。祖母だったのか、母だったのか、それとも別の誰かだったのか。
私は封筒の表面を親指でなぞった。紙が湿気を吸い、皮膚にわずかに貼りつく。
「この中に、俺のことが書いてあるのか」
母の手が止まった。
水は流れ続けている。母は蛇口を閉めなかった。
「あなたのことじゃない」
「じゃあ、誰のことだ」
「知らない」
「またそれか」
「本当に知らないのよ。知っているのは、母が何かを抱えていたことだけ。それが誰に向けたものなのか、何を返そうとしていたのか、私は聞かなかった。聞かなかったし、聞けなかった。聞いたら、私が何かを決めなきゃいけなくなると思ったから」
「何を決める」
「母を許すのか、許さないのか。自分を責めるのか、責めないのか。あなたに話すのか、黙るのか。そういうことを決めたら、一度決めた方へ戻れなくなるでしょう」
母はようやく蛇口を閉めた。
水音が消えると、部屋は急に広くなった。壁時計の秒針が、ひとつずつ落ちてくる。
「私は、何も決めないことで家を保ってきたの。あなたに余計なことを気にさせないことも、その一つだった」
「余計なことじゃない」
「今は、あなたにとって余計じゃない。でも、子どもの頃のあなたにとってはどうだったの。祖母のことを知って、何かできた? どこへ行ったのか、誰に会ったのか、何を返せなかったのか。そんなものを知って、あなたの子どもの生活に何が残ったの」
「何も知らないまま大人になった」
「それが悪いことだと思う?」
「少なくとも、今、何が起きているか分からない」
「分からなくても生きてこられたでしょう」
母の言葉は平らだった。だがその平らさの下で、何かが折れている気がした。
私は封筒を持ち上げた。
「開ける」
「やめなさい」
「なぜ」
「おばあちゃんが隠したものだから」
「隠したものなら、隠したままにするのが正しいのか」
「死んだ人のものを、勝手に暴くのが正しいわけじゃない」
「これは祖母の部屋にある。俺たちの家に残っている。誰かが次に捨てれば、それで消える。消えてから、母さんは本当にそれでいいのか」
母は私を見た。
その目に、初めて疲労がはっきり現れた。四十九日の準備をしていたときも、葬儀場で親族へ頭を下げていたときも、母は泣かなかった。泣かない代わりに、書類を揃え、香典の名簿を確認し、湯飲みを洗っていた。
今、母の目の奥だけが、ひどく古い場所にあるように見えた。
「開けても、あなたが欲しい答えは出ない」
「それでも開ける」
「書かれたものは、書いた人の答えじゃない。書いたときの気持ちが残っているだけよ。日が変われば、同じ人でも別のことを書く。あなたはそれを並べて、順番をつけて、真実みたいにする。けれど人間は、そんなにきれいに並ばない」
「祖母は、並べていた」
「並べていたんじゃない。並べているように見せていただけ」
その言葉を聞いて、私は部屋を見回した。
整えられた仏壇。角の揃った段ボール。分類された薬箱。紐で束ねられた年賀状。どれも祖母が長い時間をかけて作った形だった。だがその形の内側には、宛先のない言葉と、書かれなかった返事が残っている。
整っているのではない。
整って見えるように、押し込められている。
母は食卓の上の書類を手に取り、封筒の角を揃えた。
「その封筒、今日は開けないで」
「明日は?」
母は答えなかった。
「母さん」
「開けるなら、私のいないところで開けて」
「見られたくないのか」
「見たくないのよ」
その声は、初めて母自身のために発せられたように聞こえた。
私は封筒を机の引き出しへ戻した。すぐには開けなかった。祖母が何かをしまうとき、必ず向きを揃えていたことを思い出し、封筒の角を木の縁に合わせた。
母は廊下へ出ていった。足音が二つ、三つ続き、そこで止まる。
「それから」
母は振り返らずに言った。
「その葉書のこと、叔父さんにはもう聞かないで」
「どうして」
「叔父さんは、あなたが思っているほど強くないから」
「母さんも?」
長い沈黙があった。
「私は、強いふりをするのに慣れただけ」
母はそれだけ言って、台所へ戻った。
私は引き出しの中に、年賀状の束と封筒を並べた。封筒は三枚の葉書の下に置いた。白い葉書、宛先の途中で止まった二枚、その下に隠されていた封筒。
紙の重なりは薄い。けれど、そこに祖母の何十年分もの沈黙が挟まっているように感じた。
私は手帳を開き、今日の日付を書いた。
その下に、三つの項目を並べる。
未投函の葉書。
来なかった人。
返事のない住所。
書き終えてから、さらに一行を加えた。
自分が覚えていないこと。
ペン先が紙の上で止まった。
部屋のどこかで、木が軋んだ。仏壇の引き出しではない。押し入れの奥か、壁の内側か、それとも私の記憶の中で、長い間閉じられていたものがわずかに動いた音だった。
私はもう一度、封筒の数を数えた。
三枚の葉書。
一通の封筒。
数は合っている。
それなのに、祖母が残したものは、数えるほど増えていった。
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