第2話 見せない顔

昼近くになると、部屋の中から線香の匂いが薄れていった。代わりに、仏壇の木と、昨日まで畳の上に敷かれていた座布団の湿った匂いが浮かび上がってくる。窓を少し開けているのに、空気は動かなかった。冬の風は入ってきているはずなのに、祖母の部屋の手前で止められているようだった。

私は机の上に三枚の葉書を並べたまま、何度目かの数え直しをしていた。

白い無地の葉書が一枚。仏壇の引き出しから出てきた、宛先の途中で止まった葉書が二枚。合計は三枚だ。そこに間違いはない。

それでも、最初の一枚に書かれた「あと三枚」という言葉が、数え終えた後も消えずに残っている。

「まだやってるのか」

玄関の方から叔父の声がした。

顔を上げると、叔父が靴を脱いでいるところだった。片方の靴を脱いでから、もう片方を脱ぐまでに、いつもより長い間があった。廊下の先にある仏壇を見て、それから私の手元へ視線を移す。だが葉書には目を止めず、玄関脇の壁に掛けられた祖母の写真を見上げた。

「鍵、開いてたから入ったぞ。まあ、昨日の今日だし、閉めておくのも変な話だけどな」

「母さんがいる」

「そうか。台所か」

叔父は返事を待たずに部屋へ上がった。靴の向きを揃え、つま先を壁と平行にする。祖母の家へ来るたび、叔父は必ず靴を揃えた。几帳面というより、何かを確認しているような動作だった。

手には、近所のコンビニの袋がある。中から缶コーヒーを二本出し、一本を私の前に置いた。

「飲め。朝から何も食べてない顔をしてる」

「顔でわかるのか」

「わかるさ。お前の顔は、考えすぎると眉間より先に口が固くなる」

私は缶コーヒーを手に取った。冷たかった。温かいものを買ってくるという発想が叔父にはない。あるいは、わざと冷たいものを選んだのかもしれない。

「片づけは急がなくていい」

叔父はそう言いながら、仏壇の前にしゃがんだ。線香立ての灰を見て、供えられた菊の本数を数えるように目を動かす。花は五本だった。私はそのことに気づいた自分が嫌になり、視線を葉書へ戻した。

「急いでいるのは母さんだ」

「母さんは、急いでるように見せてるだけだよ」

「どういう意味だ」

叔父は笑った。質問されると先に笑う癖がある。笑い声は短く、喉の奥で乾いて消えた。

「どういう意味もない。あの人は昔から、手を動かしてないと落ち着かないんだ。皿を洗う、書類を揃える、古いものを捨てる。そうしてるうちに、気持ちの方も片づいたことにする」

「祖母もそうだった」

その言葉を口にした途端、叔父の笑みがわずかに遅れた。

「似てるところはあるな」

「似てるんじゃなくて、同じことをしてるんじゃないか」

私は机の葉書を一枚ずつ揃えた。白い葉書を左端に置き、途中まで書かれた二枚を右へ並べる。叔父はその動きを眺めていた。眺めているのに、何を見ているのかは分からない。

「これを見てくれ」

白い葉書を差し出す。

叔父は受け取らなかった。目だけを落とし、すぐに仏壇の方へ向ける。

「よくあることだよ。郵便受けってのは、思いがけないものが入る」

「差出人も宛名もない葉書が?」

「誰かが間違えて入れたのかもしれない。子どもの悪戯かもしれない。集合ポストなんて、部屋番号を見間違えることもあるだろ」

「裏を見ていないのに、どうして悪戯だと決められる」

「決めてない。可能性の話をしてるだけだ」

「俺は可能性の話をしてるんじゃない。この字が祖母に似ているかと聞いている」

叔父は口元に手を当てた。煙草の箱を探すような仕草だったが、今日は持っていなかった。指先だけが宙に残り、やがて膝の上に戻る。

「字なんて、年を取ればみんな似てくる」

「そんなことはない」

「そうか?」

「横棒の長さ、はねる前の止まり方。祖母の字には癖があった。年賀状を見ればわかる」

「お前、昔からそういうところだけ細かいな。小学生の頃も、祖母さんがくれた小遣いの札の向きを揃えてた」

「覚えてない」

「覚えてないことの方が多いんだろうな」

その言葉が、部屋のどこかに引っかかった。

叔父はすぐに話題を変えようとした。立ち上がり、壁際の段ボールを一つ持ち上げる。

「これは何だ。古い食器か?」

「触るな」

思ったより強い声が出た。叔父の手が止まった。

段ボールの側面には、祖母の文字で「冬物・小」と書かれている。だが紙箱の底が少し膨らんでいて、衣類ではないことが分かる。私はそこへ歩き、叔父の手から箱を受け取った。

「まだ分類していない」

「分類してから捨てるのか」

「捨てるとは言ってない」

「捨てるんだろう。母さんはそういうつもりだ」

叔父は、箱を見下ろしたまま黙った。

「祖母が何を残したか、誰が何を捨てたか、あとから分からなくなるのが嫌なんだ」

「分からなくなった方がいいこともある」

「誰にとって?」

「家族にとってだよ」

「その家族に俺も入ってる」

「だから言ってる」

叔父の声から、いつもの軽さが消えていた。私は初めて、叔父が私を子ども扱いしているのではなく、何かから遠ざけようとしているのだと感じた。

「祖母の過去に、俺が知ると困ることがあるのか」

「困るのはお前じゃない」

「じゃあ誰だ」

「死んだ人間に決まってるだろ」

「死んだ人間は困らない」

「そう思うから、生きてる人間は何でも掘り返すんだ」

叔父はそこで言葉を切った。視線は私から外れ、窓の向こうへ逃げている。ベランダに干された黒い喪服が、風もないのにわずかに揺れていた。

「昔、祖母さんは町内会の回覧板を全部書き直したことがある」

唐突に叔父が言った。

「紙が汚れていたからだ。誰かが醤油をこぼしてな。普通なら次の家に回せばいいのに、祖母さんは一枚の紙を新しく清書した。名前も順番も、全部同じように写してな。半日かけて」

「今、その話をする意味があるのか」

「あるさ。あの人は、乱れたものを見ると、元の形に戻そうとした。人間関係も同じだったんだろうな。壊れたところを直すんじゃなく、壊れていないように並べ直す。そうすれば誰も気づかないと思ってた」

「それで直ったのか」

「見た目はな」

「中身は?」

叔父は答えなかった。

台所から水の流れる音がした。母が洗い物をしている。蛇口から落ちる水は一定で、叔父の沈黙よりよほど規則正しい。水音の向こうで、皿が一枚、重ねられた。

叔父は仏壇の横に立ち、写真の額縁を指で少しだけ直した。右に傾いていたわけではない。むしろ、最初からまっすぐだった。叔父はそれでも、わずかに触れて、元の位置へ戻した。

「その葉書、母さんには見せたのか」

「見せた」

「何て言った」

「たまたまだって」

「そうか」

「叔父さんはどう思う」

「俺か? 俺は、たまたまってこともあると思うし、そうじゃないこともあると思う」

「便利な答えだな」

「便利じゃない。長く生きてると、そういう答えしか残らないことがある」

「残らないんじゃなくて、言わないだけだろ」

叔父はゆっくり私を見た。目が合ったまま、答えない時間が続いた。普段なら、その間に笑いか天気の話を挟むはずなのに、今回は何も言わなかった。

「お前は、祖母さんを穏やかな人だと思っていたか」

「思っていた」

「今もか」

「分からない」

「分からないなら、分からないままにしておけ」

「それは無理だ」

「なぜだ」

「分からないものを、分かったふりで片づけるのが嫌なんだ」

「片づけるのは、いつもそういうものだ。全部の事情を知ってから捨てる人間なんていない。古い服も、書類も、関係もな」

「祖母は関係を捨てたのか」

その瞬間、叔父の顔から色が引いたように見えた。だがそれも、窓から入った光のせいかもしれない。

「その話は、今することじゃない」

「いつならする」

「もうしなくていい」

「俺が決める」

「お前は、何も知らない」

「だから聞いている」

「聞けば知れると思うな。聞いたことは、聞いた人間の中で別の形になる。お前はお前の都合で、祖母さんを悪い人にも、かわいそうな人にもできる。そういうのは、死んだ人間には確かめられない」

「じゃあ、何もしない方がいいのか」

「少なくとも、葉書一枚で家族を疑うのはやめろ」

「一枚じゃない」

私は机の上に置かれた二枚の葉書を指した。

「ここに二枚ある。合計で三枚だ」

叔父の視線が、初めて葉書の上に落ちた。

そのとき、玄関のインターホンが鳴った。

叔父は反射的に仏壇を見た。私は立ち上がり、廊下へ向かった。モニターには、郵便配達員の制服が映っていた。若い男で、名札の位置まできちんと整っている。私は受話器を取る。

「はい」

『郵便です。こちら、管理人預かりのものが一通あります』

「今、開けます」

玄関を開けると、配達員は軽く会釈をした。配達用の手袋を外し、封筒を一通差し出す。宛名は私の名前だった。差出人の欄には何もない。

「これは、いつから預かっていたものですか」

「管理人室に置かれていたそうです。昨日の法要のあと、集合ポストの下に落ちていたものを、管理人が拾ったと」

「昨日?」

「はい」

彼は端末の画面を確認しながら続けた。

「通常の配達記録はありません。切手も消印もないので、郵便物として処理されたものではないです。ただ、管理人さんがこちらのお宅のものだろうと」

封筒は薄かった。紙の表面に、指で押したような浅いへこみがある。私は受け取らず、差出人のない封筒を見つめた。

「中身は分かりますか」

「分かりません」

「誰かが、配達員に渡した可能性は?」

「私が受け取った時点では、管理人室の机の上にありました」

「いつ置かれたかは?」

「それは、管理人さんに確認してください」

言葉は正確だった。正確すぎて、何も残らない。私は封筒を受け取った。配達員の指が、私の手に触れないように離れる。

彼は一度だけ封筒の角を揃え、それから頭を下げた。

「失礼します」

階段を下りていく足音が、一定の間隔で遠ざかる。私は玄関に立ったまま、その音が消えるまで動けなかった。

背後で、叔父が低く言った。

「開けるな」

振り返ると、叔父は笑っていなかった。

「どうして」

「まだ、開けなくていい」

「中身を知っているのか」

「知らない」

「なら、なぜ止める」

「知らないから止めるんだ。分からないものを開けるときは、開けたあとのことまで考えろ」

「考えても、分からないだろ」

「分からないままでも、考えることはできる」

叔父はそう言って、私の手から封筒を取ろうとした。私は一歩だけ後ろへ下がった。封筒の紙が、指の中でかすかに鳴った。古い紙の匂いがした。線香でも、樟脳でもない。長い間、閉じた場所に置かれていた紙の匂いだった。

台所の水音が止まった。

母が廊下に顔を出している。封筒を見た瞬間、母の表情が変わった。ほんのわずかな変化だったが、見間違いではなかった。口元が固まり、右手がエプロンの端を握りしめる。

「それ、どこから」

「管理人室」

「捨てて」

母の声は平らだった。平らすぎた。

「中身を見ずに?」

「見なくていいものもあるの」

「祖母のことか」

母は返事をしなかった。代わりに、玄関のたたきへ降り、私の手から封筒を取ろうとした。

その動きは早かった。私は反射的に封筒を背中へ回した。母の手が宙で止まる。

三人の間に、郵便受けの蓋が閉まる音に似た沈黙が落ちた。

叔父が咳払いをした。

「今日は、もうやめておけ」

「何を」

「数えるのをだよ」

私は封筒を見下ろした。表には私の名前。差出人はない。机の上には三枚の葉書。どれも白く、どれも黙っている。

私は封筒を手帳の間へ挟んだ。紙の端を揃え、手帳を閉じる。閉じたあとも、封筒の厚みが指先に残った。

「片づけは、急がなくていいんだな」

叔父は答えなかった。

その代わり、仏壇の方から、木の引き出しがひとつ閉じる音がした。

誰も触れていないはずの音だった。

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