第1話 白い葉書

郵便受けの蓋には、長年の開閉で角の塗装が剥げ落ち、素地の鉄がうっすら覗いている。その冷たい金属の縁に指をかけたとき、主人公は自分の指先がいつもより長く留まっていることに気づいた。四十九日の法要から一晩しか経っていないのに、もう次の月曜が来て、会社に行かなければならない。スーツの内ポケットに社員証を確かめ、ネクタイの結び目を整えながら郵便受けの小さな扉を開く。その手続きじみた動作の中に、祖母の死はすでに組み込まれていた。喪は終わり、生活だけが続く。そのはずだった。
中には一枚、白い葉書が入っていた。
角が丸められていない、量販店で売っているような無地の葉書だった。表には宛名も、消印も、切手すらない。主人公は一瞬、マンションの集合ポストに紛れ込んだ別の部屋への誤配かと思い、裏返した。
あと三枚。
それだけが、黒いインクで記されていた。文字は小さく、しかし妙に几帳面に整っている。横棒の長さが均一で、はねる箇所だけがわずかに震えている。主人公は職業柄、書類の文字の癖を見ることに慣れていた。几帳面さの奥に潜む迷い――それは、祖母の字によく似ていた。いや、似ているという言い方では足りない。見慣れた筆圧の揺れそのものだった。年賀状に書かれた「あけまして」の「あ」の字、三画目で一度力が抜けて、また持ち直す、あの癖。
親指で紙の表面を一度なぞる。ざらついた繊維の感触が、祖母の遺品を整理する最中に何十回と触れた年賀状の束と同じだった。たまたま似た紙質の葉書が、たまたま似た字で、たまたまこのタイミングで郵便受けに入っていた。そう考えようとするほど、「たまたま」という言葉が持つはずの軽さが消えていく。たまたまにしては、具体的すぎた。
玄関に立ち尽くしたまま、主人公は何度も裏面を見返した。あと三枚。数という言葉が、まるで催促のように胸の奥へ食い込んでくる。何の三枚なのか。誰が、誰に対して「あと」と言っているのか。差出人を示すものは何もない。ただ、短い命令のような言葉だけが、白い紙の上に置かれている。
「それ何?」
台所から声がした。母だった。振り向くと、母は食卓に役所提出用の書類を並べているところだった。死亡届の控え、年金の資格喪失手続きの用紙、香典返しの礼状の見本。どれも封筒ごときちんと角を揃えて積まれていて、母の几帳面さは、祖母によく似ている。だがその指先だけが、落ち着きなく書類の端を何度も叩いていた。
主人公は黙って葉書を差し出した。母は一瞥しただけで、すぐに視線を書類へ戻す。
「そんなもの、たまたまでしょ」
それだけだった。葉書を手に取ることも、裏返すこともしない。湯飲みを伏せる仕草が、妙に乱暴だった。普段の母なら、茶碗の扱いひとつにも無駄な力を込めない人だ。その母が、今は湯飲みの底を食卓にわずかに打ちつけるようにして置いた。
「母さん、この字――」
「香典返しの礼状、今日中に文面決めないと間に合わないのよ」
母はそう言って、立ち上がった。冷蔵庫を開け、麦茶のポットを取り出す。その背中は、会話を続ける気がないことを、言葉よりも雄弁に語っていた。主人公は葉書をポケットにしまい、母の背中に向かってそれ以上何も言わなかった。言えば、今度は何を言われるか分からない、という予感があった。予感の正体は分からないまま、ただ確かにそこにあった。
やることはまだ山ほど残っている。香典返しの控え、葬儀社からの請求書の確認、位牌を仏壇店に持っていく手配、四十九日を終えた挨拶状の宛名書き。生活は、悲しみを待ってはくれない。喪主を務めた母は、この一週間で目に見えて痩せたが、それでも手続きの手を止めることはなかった。主人公はその姿に安堵していたはずだった。しっかりしている、と。だが今朝、湯飲みを乱暴に伏せたあの一瞬だけ、母のしっかりさの奥に、何か別のものが見えた気がした。
主人公は葉書をポケットに入れたまま、祖母の部屋へ向かった。仏壇の前にしゃがみ込む。供えられた菊の水は、一晩で冷え切っていた。花弁の端がわずかに萎れている。線香立てには灰が白く積もり、昨日のうちに母が炊いたものがまだ形を保っていた。主人公は手を合わせることすら忘れて、仏壇の下にある引き出しに手をかけた。
引き出しは、少し重かった。何年も開け閉めされてきた木の滑りの悪さが、手のひらに伝わってくる。開けた瞬間、樟脳の匂いと古紙の匂いが、湿った布の奥から一気に立ちのぼった。それは懐かしさというより、むしろ圧のようなものだった。息を止めたくなるほどの密度で、時間が閉じ込められている。
中には、紐でまとめられた年賀状の束、住所を書きかけたまま折られた葉書、朱肉の跡が点々とついた古いメモ帳があった。どれも祖母の文字だった。几帳面に見えて、しかし何度も書き直した痕がある。同じ文字を重ね書きした跡、一度止めて書き直した線、墨が滲むほど強く押しつけた箇所。整っているはずの文字の底に、乱れが埋め込まれている。
主人公は二枚の葉書を取り出した。どちらも、宛先の途中で止まっている。県名までは書かれているのに、番地の手前で止まり、そのまま折り畳まれている。日付だけは律儀に記されていた。几帳面さが、途中で崩れている。その崩れ方が、妙に生々しかった。
指で一枚ずつ数える。郵便受けで見つけた一枚。引き出しの中の二枚。合わせて三枚になるはずだった。あと三枚、という文言が、まるでこの数を予告していたかのように思えた。だが数えてみると、手の中にあるのは三枚ではなく、足りない。もう一度、声に出さずに最初から数え直す。郵便受けの一枚。引き出しの一枚目。引き出しの二枚目。それで全部だ。三枚ある。なのに、何かが足りない感覚だけが残る。
数え間違えたわけではなかった。数そのものは合っている。それなのに、指先が納得しない。まるで、見えているものの外側にもう一枚、数えられていない紙があるような感覚だった。主人公は葉書を三枚、畳の上に並べ直した。白い無地の一枚と、祖母の文字で途中まで書かれた二枚。順番を変え、また元に戻す。何度繰り返しても、胸の奥の輪郭は、ほんの少しずつ、確実にずれていった。
外では、冬の朝の光が、まだ乾いていない洗濯物の影を壁に長く伸ばしていた。マンションの廊下を誰かが歩く足音が、コンクリートの壁を伝って遠く響く。日常は、いつも通りの速度で流れている。主人公だけが、その速度から取り残されたまま、三枚の紙片を前に座り込んでいた。
← 横にスクロールして読み進められます
