第10話 封筒の向き

商店街に入ると、惣菜屋の明かりがもう点いていた。揚げ物の匂いが、夕方よりも濃く漂っている。夏帆は少し先を走ったまま、自転車のベルを一度だけ鳴らした。理由はなかった。ただ鳴らしたかっただけだろう。
黒田の家の前を通りかかったとき、シャッターの半分だけ開いた店先から、航が顔を出した。手には軍手をはめたままで、何か荷物を運んでいた途中らしい。
「お、帰りか」
航は軍手を外しながら、僕たちの自転車を見比べた。
「ずいぶん遅いな。どこまで行ってた」
「海」
夏帆が答えた。航はちらりと僕の顔を見て、それ以上は聞かなかった。かわりに、軍手をポケットに突っ込みながら言った。
「うちの親父が言ってたぞ。森島んとこの息子、県外の大学受けるらしいなって」
町はそういう場所だった。誰かが何かを決める前から、噂のほうが坂を上ってくる。
「まだ、はっきりは」
「はっきりしてないやつが、灯台の下で何時間も粘るか」
航は笑った。からかうような笑い方だったが、刺はなかった。
「出るなら出るで、ちゃんと出ろよ。中途半端に残って、誰にも何も言わないのが一番きつい」
それだけ言うと、航はまた荷物のほうへ戻っていった。振り返りもしなかった。僕はその背中を見ながら、彼が選んだ場所の重さを、初めてすこしだけ測れた気がした。
家に着いたのは、空が完全に暗くなってからだった。
玄関の明かりの下で、母が台所から顔を出した。エプロンの紐を直しながら、僕の顔を見る。
「遅かったね」
「うん」
それだけで、母はもう何かを察したようだった。台所へ戻る足取りが、いつもよりほんの少し遅かった。
食卓には、家計簿と、進学費用のメモと、無地の封筒が並んでいた。封筒の口は、几帳面に揃えられている。
「受けることにした」
僕は椅子に座る前に言った。
母は鍋をかき混ぜる手を止めなかった。
「どこの大学」
「資料、渡したところ」
「ちゃんと最後まで調べたの」
「うん」
母はしばらく黙っていた。味噌汁の匂いが台所に満ちる。
「そう」
短い返事だった。けれど、それだけで十分だった。
母は鍋から手を離すと、封筒を手に取った。中身を確かめるように指でなぞり、それから向きを変えて食卓に置き直した。
「じゃあ、明日から順番にやろうか。願書のこと、下宿のこと、必要なもの」
淡々とした声だった。けれど、その速さの中に、何かを引き止めるのではなく支える覚悟があることを、僕は知っていた。
「ありがとう」
「お礼言われることじゃないでしょ」
母は笑わなかった。ただ、封筒の向きをもう一度揃えてから、味噌汁をよそいはじめた。
湯気が立ちのぼり、台所の明かりの下で揺れている。
僕はその揺れを、しばらく黙って見ていた。
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