第5話 写しの乾く匂い

翌朝、雨は止んでいた。
それでも槐書房の中には、夜の湿り気が残っていた。木の棚は水分を吸って暗くなり、紙の束はそれぞれ違う重さを持って沈んでいる。雨戸を開けると、裏通りの空気が細く流れ込み、古書の乾いた匂いと、濡れた舗道の鉱物臭が混ざった。
私は開店の札を出す前に、昨夜の棚へ向かった。
本の背を一冊ずつ指でなぞる。見た目には何も変わっていない。だが、手のひらに返ってくる摩擦の角度が違った。誰かが本を抜き、戻した。元通りにしたつもりでも、紙の端にかかる力は同じではない。急いで戻した本は、隣の本の背をわずかに押す。丁寧に戻した本は、埃の筋を一度だけ断つ。
棚は、動かした者の癖を残す。
「駿さん」
帳場から真帆が呼んだ。
彼女は机の上に、来店記録の写しと貸出札を広げていた。札の角をそろえ、紐の通った穴を一枚ずつ確かめている。小さなノートには、時刻と数字が細かく並んでいた。
「久瀬さんの札、やっぱり一枚ずれています」
「どこが」
「木曜の分です。いつもなら、前の週の札の下に戻るんです。でも今回は、一枚あとに入っている」
私は帳場へ行き、彼女の指の先を見た。
貸出札は、古い厚紙を小さく切ったものだった。表には本の番号、裏には日付と客の名前が記されている。人の手で繰り返し抜かれ、戻されるうちに、角が丸くなっている。久瀬の札だけ、紐の擦れ方が新しかった。
「この札、いったん抜かれている」
「はい。戻したときに、順番を間違えたんだと思います」
「誰が」
「それは分かりません」
真帆は札を裏返し、台帳の写しと並べた。
「でも、これだけじゃないんです。防犯灯の記録を見ていたら、久瀬さんの来店時刻から点灯まで、いつもより五分遅れていました」
「防犯灯は自動だ」
「だから変なんです。店先の時計が遅れたか、記録を書いた人が別の時刻を見ていたか。どちらにしても、五分あります」
「五分で何ができる」
真帆はすぐには答えなかった。万年筆を指の間で回し、それから、札の列を見た。
「札を抜いて、台帳を開いて、棚の本を戻す。誰かが店を出たように見せることもできると思います。五分って、短いようで、見ている人がいなければ長いです」
私は彼女の顔を見た。怯えているわけではない。ただ、自分が拾った違和感に責任を持とうとしていた。
「店の仕事は、見たことを記録することだ」
「はい」
「推測は別に書け」
「推測も、書いていいんですか」
「推測だと分かるように書けばいい。記録と同じ顔をさせなければいい」
真帆は頷き、ノートの端に小さく「推測」と書いた。その字は、昨夜より濃かった。
私は棚の前へ戻り、最下段の板を外した。埃が湿って固まり、指先にざらついた感触が残る。板の裏には、古い値札の切れ端と、裁断されたカバーの一部が挟まっていた。
カバーをめくると、内側に細い鉛筆の線があった。数字の列と、見返しの紙色を示す短い記号。見慣れた久瀬の書き方だった。彼のメモはいつも短い。余白を埋める文章を書かず、番号と時刻だけを残す。意味を知らない者には、ただの乱雑な書き込みにしか見えない。
「久瀬さんの字ですか」
真帆が背後から覗き込んだ。
「そうだ」
「何を記録していたんでしょう」
「本の状態だ」
「状態だけですか」
私はカバーの裏に残った数字を指で追った。
「見返しの色、補紙の厚み、印影の位置。たぶん、同じ本を別の場所で見ている」
「同じ本を?」
「本そのものが同じとは限らない。記録の上で、同じ本になっている可能性がある」
真帆は黙った。彼女は古書の価値に詳しくない。その代わり、分からない言葉を分かったふりで受け取らない。
「それは、どういう意味ですか」
「本には番号がある。店の番号、目録の番号、倉庫の番号。番号が同じでも、持ち主の名が違えば、別の本として扱われることがある。逆に、別の本に同じ名を貼れば、一冊の来歴に見せられる」
「名前を貼るだけで?」
「紙を一枚貼る。台帳を一行直す。領収書の日付をずらす。それで、長い時間の中では事実になる」
言いながら、私は自分の若い頃を思い出していた。仕入れた一冊の来歴を、売り手の言葉だけで判断したことがある。槐原家の名がかすかに残る本だった。私は価値のある装丁だけを見て、誰の手を通ったかを深く調べなかった。その本は別の店へ流れ、持ち主の痕跡はそこで途切れた。
紙を一枚軽く扱っただけだった。
それでも、消えた名前は戻らなかった。
昼前、黒田が現れた。缶コーヒーを片手に、濡れてもいない袖口を直している。店へ入るなり、昨日と同じ順番で床、帳場、入口、傘立てを見た。
「相良のところから、帳簿の写しを持ってきた」
黒田はクリアファイルを机へ置いた。中には、出版社倉庫の入出庫記録が数枚入っている。紙の縁は揃っていたが、右上の一枚だけ、折り目がほかと違った。
「帳簿に載っていない搬出がある」
「本か」
「それが分からない。品名が書いてない。重量と箱数だけだ」
「いつの記録だ」
「先週の金曜。それと、三か月前の木曜」
木曜、という言葉に、私は顔を上げた。
黒田はペン先で机を二度叩いた。
「津村の研究室も見た。正確には、本人に資料を出してもらっただけだがな。同じ目録の参照先が、何度も書き換えられている」
「書き換えたのは津村か」
「そこまでは言えない。だが、研究者ってのは面倒だな。正しいことを言っているように聞こえるのに、肝心の場所だけ空白になる」
「あなたは、彼を疑っている」
「疑うのは仕事だ。証拠になるかどうかは別だ。あんたの店の蔵書印が消えたことも、今のところは証拠にならない。だが、帳簿外の搬出と、書き換えられた参照先と、久瀬の行方不明が同じ時期に重なっているなら、偶然として片づけるには重い」
黒田はファイルを閉じた。
「相良は、何を運んだか答えたか」
「紙束だと言った」
「本ではなく?」
「本とは言っていない」
黒田は眉間を寄せた。
「その言い方、嫌いだな。人間は都合が悪くなると、名詞を捨てる」
「あなたも、久瀬の失踪とはまだ呼ばない」
「俺は確認できていないから呼ばない。呼びたくないから呼ばないわけじゃない」
その返事には、乾いた苛立ちがあった。黒田は机の上の紙を一枚ずつ角まで揃えた。
「俺は以前、証言が食い違っているのを、記憶違いで処理したことがある。あとで、その一か所が全部の時系列を崩した。だから、分からないものは分からないまま残す。ただし、残したままにしない。次に確認する」
黒田が帰ったあと、三橋が来た。
彼女は熱い番茶の入った小さな水筒を持ち、入口の傘立てを壁際へ丁寧に戻した。昨日と同じ所作だったが、今日は傘立ての底を一度覗き込んだ。
「何を見ている」
「水の跡ですわ。濡れたものは、乾けば消えると思われがちですが、木は覚えています」
三橋はそう言って、郷土資料の棚へ歩いた。値札には目を向けず、最初に見返しを開く。紙の端を指先で撫で、背を軽くそろえた。
「槐原家の蔵書を調べているそうですね」
「久瀬が」
「あなたもでしょう」
「私は店の本を見ているだけだ」
「同じことです。古書店の棚は、調べる人間の欲を隠せません。値段を見ている人は札を見る。由来を見ている人は、札の裏を見る。久瀬さんは、いつも裏を見ていました」
「あなたは、彼が何を見つけたか知っている」
三橋は一度笑った。話す前に笑うのが、この人の癖だった。
「知っている、と申し上げるほどではありません。若い方が、古い傷を見つけた。それだけです」
「傷とは」
「本が誰のものだったかを示す傷です。槐原家の蔵書は、戦後に散りました。戦火だけではありません。相続があり、家が傾き、書庫が開き、誰もが本を売りました。そのとき、売られたのは本だけではなかった。名前も一緒に切り離されたのです」
「切り離したのは誰だ」
「一人ではありません。売った人、買った人、帳面を書いた人、見なかったことにした人。皆が少しずつ手を入れた。だから、最後に残るのは責任者の名ではなく、別の所有者の名になります」
「その流れを、あなたは見ていた」
「見ていました。見ていたから、今も本の値段より先に来歴を見ます」
「それでも黙っていた」
三橋は湯呑みの蓋を指で押さえた。
「黙らなければ守れない時代がありました。ですが、守るための沈黙は、長く続くと隠蔽に似てまいります。私はその違いを、何度も間違えました。若い方には、同じ間違いをしてほしくない。けれど、すべてを明るみに出せば救われるとも思っていないのです」
「久瀬は、それでも明るみに出そうとしている」
「だから危ういのです」
「危ういと知っていて、止めなかったのか」
三橋は私を見た。初めて、笑わなかった。
「止めれば、あの方は私を隠す側の人間だと判断したでしょう。実際、私は隠してきた。けれど、若い方の正しさを奪う権利が、私にあるわけではありません」
長い沈黙が、店の中に落ちた。
三橋が帰った夕方、私は篠原の工房へ向かった。
裏通りを歩くと、雨上がりの舗道に看板の明かりが細く伸びていた。濡れたアスファルトは、昼間の埃や紙屑まで抱え込んで黒く光っている。大学の研究室から出てきた学生たちが、傘を畳みながら笑っていた。その声が角を曲がると消え、古い建物の隙間から、印刷機の低い音だけが聞こえた。
篠原の工房は、出版社の倉庫の裏手にある。扉を開けると、糊と和紙の匂いがした。作業台の上には、背固めを終えた本が一冊、重しの下に置かれている。
篠原は指先を拭いてから、私を見た。
「昨日の本か」
「ああ」
「見返しを剥がすなら、急ぐな」
「剥がすつもりはない」
「なら、境目だけ見る」
篠原は骨へらを取り、見返しの端へ差し込んだ。力をかけていないのに、紙がわずかに浮く。薄い補紙が、下から現れた。
「これは何だ」
「補紙」
「お前が入れた」
「入れた」
「なぜ」
篠原は紙の端を指で押さえたまま、少し間を置いた。
「元の見返しが破れていたからだ」
「破れた理由は」
「分からない」
「分からないまま直したのか」
「分からないことと、直せないことは違う」
「その補紙の下に、蔵書票があった可能性は?」
篠原の手が止まった。
「ある」
「見たのか」
「剥がれた紙の下に、別の紙の厚みがあった。だが、依頼されたのは修繕だ。剥がして調べる仕事ではない」
「お前は、直すことと隠すことの違いを知っているはずだ」
「知っている」
「なら、なぜ黙った」
「お前が聞かなかったからだ」
私は彼を睨んだ。篠原は視線を合わせず、作業台の上の本の背を押さえた。昔からそうだった。駿が怒っているときほど、彼は本を整える。背表紙の高さを揃え、紙の角を爪で撫でる。物が乱れていると、話すこともできない人間だった。
「俺の仕事は、壊れたものを戻すことだ」
「戻したつもりで、別の名を閉じ込めることもある」
「ある」
「それでも直すのか」
「直さないほうがいいのか」
篠原は初めて顔を上げた。
「紙は破れたままなら、そこからさらに裂ける。見返しは剥がれ、背は崩れ、最後には何が元だったかも分からなくなる。だから俺は戻す。だが、戻した紙の下に何があるかまで、俺が決めていいわけじゃない。見えなくしたなら、それは俺の手の責任だ。けど、見えなくした理由まで、俺のものにするな」
「槐原家の本を修繕したのか」
「何冊か」
「誰に頼まれた」
「古書店から。倉庫から。研究者から。名前を聞かない仕事もある」
「津村か」
篠原は答えなかった。
工房の窓の外で、トラックが一台、濡れた路面をゆっくり通り過ぎた。水を撥ねる音が壁を震わせる。
「篠原」
「津村だけじゃない」
「では、誰が」
「名前を言えば、全部が誰か一人の仕事になる。そういうことを、久瀬は嫌っていた」
「久瀬と会ったのか」
「会った」
「いつ」
「昨日の夜」
私は一歩、作業台へ近づいた。
「何を話した」
「本を返せ、と言われた」
「誰に」
「俺にじゃない。たぶん、津村に」
「たぶん?」
「店の奥で、声を聞いた。津村の声に似ていた。けど、姿は見ていない」
「久瀬は何を持っていた」
篠原は作業台の端から、薄い紙片を一枚取り出した。角が濡れて波打っている。私は手を伸ばしかけたが、篠原は渡さず、光にかざした。
「これと同じような紙だ」
「何が書いてある」
「持ち主の名と、移された日付」
「見せろ」
「まだだ」
「なぜ」
「お前は、見つけたものをすぐ記録に入れる。俺は、紙の状態を見てからでないと渡せない。濡れている。指で触れば繊維がつぶれる」
「久瀬が持っていた紙も、濡れていたのか」
「そうだ。雨の日だったからな」
篠原は、紙片を布の上へ置いた。
「駿。お前は、昔から本を戻すのが早すぎる」
「何の話だ」
「棚へ戻すことだ。来歴が分からなくても、背表紙が揃っていれば戻す。俺はそれを見て、羨ましいと思っていた。お前は本を店に置いておくことで、守れると思っていたから」
「今は違う」
「違うのか」
「置いてあるだけでは、守ったことにならない。誰が何をしたかを書かなければ、棚はただの墓場になる」
篠原は紙片を畳まず、そのまま薄紙に挟んだ。
「なら、書け。俺が直したことも、見返しの下に何があったか分からないことも。全部書け」
「お前の仕事を汚すことになる」
「もう汚れているなら、汚れていないふりをするな」
私は紙片を受け取った。表面は乾いているのに、指先へ冷たさが残った。
槐書房へ戻ると、真帆が帳場で台帳を開いて待っていた。
「駿さん、ここです」
彼女が示したのは、数か月前の木曜の欄だった。来店者の記録はある。だが、貸出札の番号だけが一つ抜けている。行の紙が、ほかよりわずかに引きつっていた。
「この夜、何か重い本が動いています」
「どうして分かる」
「台帳が、押されているんです。書いた人が、下に何かある状態で字を書いたみたいに」
私は紙の裏へ指を当てた。確かに、中央だけが硬い。台帳の下に、薄い紙か札が置かれていたのだろう。その上から筆圧をかけたため、文字の跡が下の紙へ移っている。
真帆は別の紙を差し出した。
「これ、写しておきました。元の台帳を傷めないように」
写しには、木曜の日付と、貸出札の番号が並んでいる。その一つが、机上の蔵書票の裏面に刻まれた数字と一致した。
二七。一。
私は蔵書票を裏返した。
番号の下に、薄い鉛筆の跡がある。久瀬の字だった。急いで書いたため、数字の終わりが少し震えている。
真帆が息を呑んだ。
「これ、久瀬さんが残したんでしょうか」
「たぶん」
「まだ、たぶんなんですね」
「断定するには、紙の状態を確かめる必要がある」
「でも、駿さんはもう分かっているんじゃないですか」
私は答えなかった。
蔵書票の番号は、槐原家旧蔵書目録の写しに記された番号と一致していた。該当する本の持ち主名だけが、薄い紙の下へ隠されている。貼り足された紙は、光の角度を変えると浮かび上がった。糊の境目が、指の腹に細い段差として返ってくる。
印影が消えたのではない。
印影のある場所が、別の履歴へ置き換えられていた。
蔵書票、見返し、貸出札、台帳、領収書。ひとつずつなら、ただの古い紙だ。だが並べれば、誰かが本の持ち主を別人にするために、長い時間をかけて手を入れてきた線になる。
「駿さん」
真帆の声がした。
「久瀬さんは、本を探していたんじゃないんですね」
「名前を探していた」
「消された名前を?」
「ああ」
私は目録の写しを閉じた。
紙の間から、古い埃の匂いが立ち上った。戦災も、相続も、再開発も、そこに書かれてはいない。ただ、貼り替えられた紙と、不自然な空白だけが残っている。
記録は、誰かが正しく書いたものではない。
誰かが、何度も書き直そうとしたものだ。
私は台帳の余白へ、短く書いた。
〈二七・一。所有者名、貼り替え痕。久瀬の筆跡。〉
その文字を書き終えたとき、店の奥で本が一冊、わずかに沈んだ。
誰も触れていないはずの棚から、乾いた摩擦音がした。
私は立ち上がり、真帆とともに奥へ向かった。紙と木の匂いが濃くなる。棚の陰には、見返しを抜き取られた本が一冊、ほかの本より少しだけ奥へ押し込まれていた。
背を引き出すと、見返しの下から、灰色の紙片が覗いている。
私はそれを抜かなかった。
紙は、急いで証人にしてはいけない。触れた順番も、乾いた匂いも、誰かが重ねた時間も、すべて残っている。
ただ、その一枚が、久瀬の行方へ続く扉のように見えた。
← 横にスクロールして読み進められます
