第3話 閉店後の会話

黒田が帰ったあと、私は店の明かりを一つだけ落とした。

棚の奥まで照らしていた蛍光灯が消えると、槐書房は急に狭くなった。帳場の上に残した蔵書票と、薄くなった蔵書印だけが、手元の明かりの中に浮かんでいる。外では雨が絶えず路面を叩いていた。車の通る音は少なく、時折、遠くの大通りから濡れたタイヤの音が流れてくる。街が眠り始めると、紙の匂いはいっそう濃くなる。

真帆が戸締まりの確認を終え、帳場へ戻ってきた。

「駿さん」

「何だ」

「本当に、皆さんを呼ぶんですか」

「呼ぶ」

「こんな時間に?」

「今夜のことを、今夜のうちに聞いておきたい」

私は蔵書票を薄紙で挟み、帳場の端へ寄せた。真帆はそれを見てから、入口のほうへ視線を向けた。

「三橋さんも、津村先生も、相良さんも、篠原さんも。みんな、何か知っているようには見えましたけど」

「知っていることと、関わったことは違う」

「でも、何も知らない人の顔ではなかったです」

「顔は記録にならない」

「そうですね」

真帆は小さなノートを開いた。すでに何行も書き込まれている。来店時刻、傘の種類、棚の前に立った順番。彼女は人の顔より、時間と順番を覚える。古書の値打ちや旧家の名にはまだ距離があるが、その距離があるからこそ、店の人間が見慣れてしまったものを拾えることがある。

「じゃあ、私は奥で聞いています」

「手元を見ていろ」

「手元ですか」

「人は言葉を整えられる。手は、整えるのに時間がかかる」

真帆は一度だけ袖口をつまんだ。

「駿さんも、手元を見ていますよね」

「ああ」

「久瀬さんが来ると、いつも」

私は答えなかった。

久瀬は、物を受け取るとき、必ず向きを揃えて返した。貸出札も、領収書も、私が帳場へ置いた向きのまま持っていく。棚の本を抜くときは、隣の本の背を押さえ、戻すときには背表紙の高さを揃える。古書を大切にする客は珍しくない。だが久瀬の場合、大切にしているというより、そこに残っている何かを傷つけることを恐れていた。

その彼が、今夜は帰っていない。

私は三橋へ電話をかけた。呼び出し音が四度鳴ったあと、老女の声がした。

「はい、三橋でございます。こんな時分に、まあ」

「槐書房の駿です。少し確認したいことがあります」

「久瀬さんのことでしょう」

「なぜ分かる」

「この雨ですもの。あの方が毎週木曜に通う店で、夜更けに電話をする用事といえば限られますわ」

三橋の声には、驚きがなかった。

「来てもらえますか」

「ええ。傘を取りに戻るより、濡れて伺ったほうが早そうです」

電話が切れる前に、三橋は小さく笑った。その笑いが、湿った紙の上に置かれた古い印のように耳へ残った。

一人目が来るまで、二十分ほどかかった。

ガラス戸の向こうに、小さな傘が現れた。三橋は入ってくるなり、傘を閉じ、入口脇の傘立てを壁際へ戻した。黒田が残していった位置より、さらに二寸ほど奥へ押し込む。濡れた床を見て、老女は眼鏡の位置を直した。

「まあ。ずいぶん水を落としましたね」

「誰かが傘を店内で開いた」

「雨の日に傘を開く人は、そう珍しくありませんでしょう」

「店の中で、です」

三橋は答えず、棚のほうへ歩いた。郷土資料の前で足を止め、乱れた背表紙を見た。それから本を一冊抜き、読む前に見返しと小口を指で確かめた。

「何を探している」

「探しているように見えますか」

「見える」

「これは癖ですの。値札を見るより先に紙を見る。古書商など、皆そうでしょう」

「久瀬もそうだった」

三橋は本を棚へ戻した。背表紙を隣の本と揃え、指先で軽く撫でる。

「若い方でしたからね。自分が見つけたものは、誰かに見つかる前に持っていかれると思っていたのでしょう」

「久瀬が何を追っていたか、知っていたのか」

「槐原家の本でしょう」

「それだけか」

「それ以上を知っていると、あなたはお考えですか」

「あなたは、槐原家の蔵書がどう散ったかを知っている」

三橋は、すぐに答えなかった。雨音がその沈黙を埋める。私は彼女の顔ではなく、右手に持った手帖を見ていた。布で包まれた手帖の角が、濡れた傘の柄に押されて少し歪んでいる。

「知っている、と言うほど大げさなものではありません」

「では、何を知っている」

「本が散るときは、誰かが一度に持ち去るわけではないということです。家が傾き、蔵が開き、相続人が値段をつけ、業者が引き取り、別の店が帳面に載せる。その間に、名が一つずつ落ちる。持ち主の名、受け取った人の名、いつ売ったかという日付。紙は残っていても、名前だけが消えることがある」

「それを黙って見ていたのか」

「見ていたからこそ、黙ったこともあります」

「黙れば守れるのか」

「若い方は、すぐに正しさを口にしますね。正しい名を取り戻すために本を動かし、その動かした本を誰かがまた値踏みする。そういうことを何度も見ました。守るための沈黙が、いつの間にか隠すための沈黙になることもある。ですから、黙ることが正しいとは申しておりません。ただ、口を開けば救えるというほど、世の中は簡単ではないと申しているのです」

私は蔵書票へ目を向けた。

「今夜、久瀬が消えた」

三橋の指が、手帖の布を一度だけ強く押さえた。

「消えた、と決めるのは早いでしょう」

「帰った証拠がない」

「帰らなかった証拠もない」

「だから聞いている」

「ええ。あなたは昔から、紙に書いてあることより、書かれていない空白を気にする方でした」

三橋が帰った直後、津村が来た。

彼は傘を持っていなかった。濃紺の上着の肩だけが濡れ、髪には細かな水滴が残っている。入店すると、まず靴の裏を見た。次に帳場の蔵書票へ視線を置き、最後に私を見た。

「このような時間に失礼いたします」

「濡れたままでいいのか」

「外套は、紙に触れないようにいたします。こちらの店では、そのほうがよろしいでしょう」

津村は上着を脱がず、帳場から少し離れた椅子に腰を下ろした。背筋が崩れない。手を膝の上で組み、話す前に一拍置く。

「久瀬さんは、槐原家の旧蔵本を調べていたのでしょうか」

「あなたが先にそれを訊く理由は」

「彼が私の研究室を訪ねてきたからです。古い目録の複写について、いくつか質問を受けました」

「いつ」

「先週です」

「なぜ、そのことを警察には話さなかった」

「話す必要があるとは思いませんでした。研究者同士の問い合わせです。彼が何かを盗んだわけでも、私が彼を脅したわけでもない」

「でも、槐原家の名前を出した」

「歴史的な資料を扱うなら、当然の前提です」

「今夜、店へ来たのは?」

津村は眼鏡の縁を中指で押し上げた。

「こちらから呼ばれたからです」

「来た理由ではない。今夜、久瀬がここへ来ると知っていたか」

「知っていた、という言い方は正確ではありません。彼は毎週木曜に来ていた。あなたもご存じだったはずです」

「何時に来るかも?」

「閉店前です」

「閉店後に残ることも?」

津村は、わずかに視線を蔵書票へ移した。

「そのようなことは、存じません」

「今、蔵書票を見た」

「見ました。槐原家のものに見えたので」

「見えた、とは?」

「図柄が似ている。槐の葉を三枚、楕円で囲む意匠は、旧家の蔵書票として知られています。ただし、図柄が同じだからといって同じ家のものとは限らない。蔵書票は複製されますし、後から貼り替えられることもある」

津村はそこまで言って、口を閉じた。

「貼り替えられることもある、というのは、何を見て言っている」

「紙の端です。あなたが先ほどから気にしている」

「この蔵書票に触れたのか」

「触れていません。触れずとも、分かることはあります」

「分かる者が、なぜ所在を答えられない」

「所在とは、何の所在でしょう」

「槐原家旧蔵本だ」

「本が一冊とは限りません」

「では、複数あると」

「槐原家が旧家であったなら、蔵書も複数でしょう。何を指しているのか分からないまま、所在を尋ねられても答えようがありません」

きれいな言葉だった。正しい。正しいからこそ、質問の中心だけが滑り落ちる。

津村は、私を見て静かに続けた。

「駿さん、資料は誰か一人の所有物ではありません。散逸した本を、いま持っている人間が保存している場合もある。出所に疑義があるからといって、すぐに元へ戻せば救えるとは限らないのです。移動の過程で失われるものもある。私は、失われる前に保全したいだけです」

「保全と独占は、どこで分かれる」

「公表できる状態にした者が、独占者と呼ばれるのは不公平でしょう」

「公表するつもりがあるのか」

「準備が整えば」

「いつ」

津村は答えなかった。

その沈黙のあいだに、私は彼の鞄を見た。椅子の脇に置かれている。いつもなら床に置くことを嫌う人間らしく、膝のすぐ横へ寄せていた。革の表面に、雨ではない細かな白い粉が付着している。古い紙を束ねたときに出る粉だった。

相良が来たのは、さらに遅かった。

彼は濡れた作業着の上に薄いジャンパーを羽織り、片手に封筒を持っていた。入るなり、入口の敷物を二度踏み、靴底の泥を落とす。体格のわりに動きは静かだった。

「これ」

相良は封筒を帳場に置いた。角を揃えてから手を離す。

「何だ」

「領収書。前に頼まれた分」

「今夜、持ってくる必要はない」

「呼ばれたから」

「誰に」

相良は私を見ず、封筒の端を親指で押さえた。

「店の電話から」

「領収書の日付が違う」

「違わない」

「搬送は先週の金曜だ。これは木曜になっている」

「紙の上では木曜だ」

「紙の上と実際が違うなら、どちらが正しい」

相良はしばらく黙っていた。やがて、低い声で言った。

「仕事としては、紙の上が正しい」

「仕事ではなく、事実を訊いている」

「事実ってのは、あとから人が決める」

「お前は、そうやって帳簿にない荷を動かしてきたのか」

相良の手が止まった。

「本を動かしたとは言ってない」

「本とは言っていない」

相良は顔を上げた。初めて、目がこちらを見た。

「……紙束だ。薄い紙をまとめて、封筒に入れて、箱に入れる。箱の重さを見れば、何が入ってるかは分かる。けど、記録に載らないものを何と呼ぶかは、俺の仕事じゃない」

「久瀬を見たか」

「見た」

「何時に」

「閉店前」

「どこで」

「棚の前」

「何冊見ていた」

「三冊」

「真帆は五冊と言っている」

「俺は三冊しか見ていない」

「久瀬は一人だったか」

相良の視線が、郷土資料の棚へ向いた。

「棚の前には、一人だった」

その言い方が引っかかった。

「では、棚の前ではない場所に誰かいたのか」

「知らない」

「知らないのか、言わないのか」

「同じだろ」

「違う」

相良は封筒を取り戻そうとした。私はその上に手を置いた。紙の角が、指の腹へ硬く当たる。

「この折り目は、ここでついたものじゃない」

「分かるのか」

「一度、濡れてから乾いている。折り目の内側だけ紙が膨らんでいる」

相良は、ほんの少しだけ口を開いた。言葉が出る前に、奥歯で何かを噛みつぶすような顔をした。

「雨の日に、濡れた紙を運んだ。それだけだ」

「どこへ」

「言えば終わらなくなる」

「もう終わらない」

「そうやって、何でも言葉にするからだ」

相良は封筒を持ち上げず、ただ手を引いた。

最後に来た篠原は、呼び鈴を鳴らさなかった。ガラス戸を二度叩いただけだった。

私は鍵を開けた。篠原は挨拶をせず、濡れた骨張りのへらを布で包んだまま、店へ入ってきた。糊と湿った紙の匂いが、外気と一緒に流れ込んでくる。

「修繕した本を持ってきた」

篠原は一冊の本を帳場へ置いた。背表紙は古く、見返しはきれいに貼り戻されている。光の下で見ると、補修箇所はほとんど分からない。

「いつ直した」

「先週」

「誰に頼まれた」

「槐書房から」

「この本に、蔵書票はあったか」

篠原は本の背を押さえた。

「剥がれていた」

「剥がしたのか」

「剥がれていた」

「見返しの下に補紙がある」

「ある」

「元からか」

篠原は、私を見た。幼いころから知っている目だった。何かを言う前に、いつも紙の角を確かめる。今回も指先で本の小口を撫でた。

「元からじゃない」

「誰が入れた」

「分からない」

「お前が直したんだろう」

「直した」

「なら、分かるはずだ」

篠原は少し間を置いた。

「直したから分からなくなった」

「どういう意味だ」

「破れた紙を、そのまま戻しただけだ。だが、破れた理由までは戻せない。剥がれた見返しの下に何があったか、何が貼られていたか、見えなくするのが仕事になることもある」

「お前の仕事が、誰かの隠し事を助けたのか」

「そう見えるなら、そうだろう」

その言い方に、私は胸の奥を掴まれた。篠原は言い訳をしない。言い訳をしないことで、自分の手を守ってきた男だった。

「久瀬を見たか」

「見た」

「どこで」

「棚の奥」

「何をしていた」

「本を戻していた」

「何冊」

「一冊」

「相良は三冊と言った。真帆は五冊。お前だけ一冊か」

篠原は、修繕した本の見返しへ目を落とした。

「見ていた数が違うだけだ」

「同じ夜を見ているのに?」

「人は、自分が触ったものしか覚えていない」

その言葉は、私自身へ返ってきた。私は人の話より本を見る。だが、その本を触った人間を見落としたことがある。

篠原は、見返しの端を指で押さえた。

「駿。久瀬は、何かを持っていた」

「何を」

「薄い紙だ」

「見たのか」

「見た」

「なぜ今まで言わなかった」

「聞かれなかった」

「聞いた。久瀬を見たかと」

「だから、見たと答えた」

「それは言わない理由にならない」

「俺は、聞かれたことしか答えない」

篠原の声が少しだけ低くなった。

「お前も同じだろう。本の来歴を見て、分かったことをすぐには言わない。紙が何を覚えているか確かめてから話す。俺は、剥がしたものが元へ戻せるか確かめる。それだけだ」

「その結果、何かを隠してもか」

「隠したくて直したことはない」

「だが、隠れた」

「そうだ」

篠原は否定しなかった。

四人の話を聞き終えたとき、雨は少し弱くなっていた。

誰も、露骨な嘘はつかなかった。三橋は知っていることを知っているとは言わず、津村は答えられる問いだけを選び、相良は紙の動きを事実の代わりにし、篠原は見たものを見たままにして、意味だけを拒んだ。

私は帳場の前に立ち、四人がそれぞれ触れた場所を見た。

三橋は郷土資料の棚。津村は蔵書票。相良は封筒。篠原は修繕本。

だが、誰も同じ場所を見ていない。

真帆がノートを閉じた。

「駿さん」

「何だ」

「久瀬さんが見ていた棚、三冊目と五冊目だけじゃありません」

私は彼女を見る。

「今日の閉店前、久瀬さんは棚の端から全部、指で触っていました。いつもより遅かったんです。何かを見つけたというより、並びが変わっていないか確かめているみたいでした」

「並びが変わっていたのか」

「一冊だけ、奥へ入りすぎていました」

「どの本だ」

真帆は棚を指した。

私はその場所へ歩いた。四人の視線が背中へ集まるのを感じた。郷土資料の棚から一冊抜く。背表紙の下端に、黒い湿り気が細く残っていた。

棚板の端にも、同じ色の擦れがある。

指でなぞると、木の粉に混じって、紙の繊維がひとつ絡んだ。雨を吸った紙が、重いものに押されて擦れたときの繊維だった。

「駿さん、何かありますか」

真帆の声に、私は返事をしなかった。

棚の奥には、何もなかった。空洞も、隠し扉も、落ちた本もない。ただ、誰かが本を一冊、急いで押し込んだ痕だけがある。

その擦れは、棚の中へ向かっていた。

人が店を出るときに残す傷ではない。何かを持って、奥から帳場へ寄り、また棚へ戻した手の傷だった。

私は紙の繊維を薄紙に挟んだ。

「今日はここまでだ」

津村が、初めて声の調子を崩した。

「まだ、何も分かっていないのではありませんか」

「分かっていないことが、増えた」

「それは捜査とは呼べないでしょう」

「記録が揃っていないだけだ」

黒田の言葉を、私はそのまま返した。

「揃っていないから、揃える」

三橋が小さく笑った。

「本はね、戻す場所を間違えると、戻したこと自体が傷になりますよ」

「知っている」

「では、急がないことです」

「久瀬が戻らなかったとしても?」

三橋は答えなかった。

その沈黙だけが、四人の中で初めて同じ重さを持った。

私は戸締まりのために、入口へ向かった。振り返ると、郷土資料の棚の一冊が、ほんの少しだけ前へ出ている。さきほど私が戻した本だった。指先で背を押し、隣の本と高さを揃える。

本は元の位置へ戻った。

けれど、棚板の端に残った暗い擦れだけは、戻らなかった。

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