第2話 消えた朱

蔵書印の異変に気づいたのは、帳場から戻ってすぐだった。

郷土資料の棚から抜いた本を、私は明かりの下へ持ってきた。見返しの右下に押したはずの印が、薄い。昨夜までなら、朱の輪郭が紙の繊維に沿ってわずかに滲み、槐の葉を思わせる図柄がはっきり残っていた。それが今は、印の外周だけを紙が覚えているような状態になっている。

指先で触れてみる。紙は乾いていた。

乾いているというより、油分まで抜かれたような乾き方だった。紙の表面には、印影があった場所だけ、細かな毛羽立ちがない。押した朱が染み込んだのではなく、朱と一緒に紙の表層だけが持ち去られたように見える。

私は本を閉じ、同じ棚から別の一冊を抜いた。

こちらにも印がない。

三冊目。四冊目。

蔵書印は、郷土資料の棚だけに起きているわけではなかった。帳場に近い文学書の棚でも、奥の美術書の棚でも、同じように印影が薄れている。完全に消えているものもあれば、朱の粒がひとつふたつ残っているものもある。どれも、擦った跡や水濡れの跡はない。何かを塗りつけた形跡もない。

棚の間を歩くたび、空いた場所が増えていくように感じた。

本そのものは、そこにある。背表紙も、頁も、値札も変わっていない。なのに、そこにあったはずの誰かの名だけが抜け落ちている。人が住んでいた部屋から、家具を残したまま写真だけを持ち去ったような空白だった。

「駿さん」

帳場から真帆の声がした。

返事をせずにいると、彼女は足音を忍ばせて近づいてきた。手には、薄い紙片を一枚持っている。私はその紙片を受け取らず、先に彼女の手元を見た。紙の端をつまむ指が、いつもより強くなっている。

「これ、机の下に落ちてました」

「何の紙だ」

「分かりません。でも、普通の値札じゃないです」

真帆は紙片を帳場の明かりの下へ置いた。白に近い灰色の紙で、中央に細い線が幾重にも重なった図柄が印刷されている。蔵書票だった。

見覚えのある図柄だった。

槐の葉を三枚、輪郭の細い楕円が囲んでいる。古い紙に押された槐原家の蔵書票だ。槐書房の名と似ているが、こちらは店の印より古い。葉の先がわずかに内側へ曲がり、下部に小さな空白がある。以前、久瀬が何度も見比べていたものと同じだった。

「槐原家のものですか」

真帆が訊いた。

「たぶん」

「たぶん、ですか」

「図柄だけなら、似たものはいくつかある。だが、この紙は古い。繊維の荒れ方と、印刷の沈み方が違う」

私は紙片の縁に指を置いた。表面は乾いているのに、裏側だけがわずかに柔らかい。糊を剥がしたあと、別の場所へ貼り直した紙の感触だった。糊の膜が残っている。けれど、その上からもう一度紙を貼った痕はない。

真帆が紙片を裏返した。

「ここ、何かあります」

裏面の端に、目を凝らさなければ見えない小さな凹みが並んでいた。印刷でも筆記でもない。尖ったもので、紙を傷つけない程度に押した跡だ。点と線がいくつか続いている。

私は帳場の引き出しからルーペを取り出した。金属の縁が冷たく、指先に馴染んでいる。凹みを拡大して見ると、数字のように読めた。

二七。

その下に、さらに小さな一がある。

「番号でしょうか」

「そう見える」

「何の番号ですか」

「まだ分からない」

答えながら、私は紙の縁を指で撫でた。久瀬なら、紙片を見つけたとき、まず裏面を見る。図柄の美しさに足を止めず、紙の厚みと貼り方を確かめる。彼の指先が、ここにあったような気がした。

毎週木曜、久瀬は郷土資料の棚の前に立った。背表紙を端からなぞり、三冊目と五冊目だけを抜く。頁を読むのではなく、見返しを開き、印影の位置を確認する。それから、何も買わずに帰ることも多かった。

一度だけ、私は彼に訊いたことがある。

「探し物なら、目録を出せる」

久瀬はすぐには答えなかった。紙の端を押さえていた指を離し、見返しから私へ目を移した。

「探しているというより、まだ残っているかを確かめています」

「何が」

「名前です」

それ以上、彼は話さなかった。今になって、その言葉の重さが棚の暗がりから戻ってくる。

真帆が、帳場の朱肉へ手を伸ばした。

「これ、触ってもいいですか」

「ああ」

朱肉の蓋は閉まっていた。古い木製の容器で、縁に細かな傷がある。私は毎日、閉店時に蓋を確かめる。朱肉の表面は使い込まれて平らになり、中央だけが少し黒ずんでいる。

真帆が蓋を開けた。

朱は、乾いていた。

いつもの朱肉なら、表面に薄い艶がある。指で押せば沈み、紙へ移る湿り気が残る。だが今夜の朱肉は、表面がひび割れた土のようだった。真帆が指先で触れかけ、途中で止める。

「変ですね。蓋は閉まっていたんですよね」

「閉店のときには」

「誰かが使って、乾かしたまま戻したとか」

「それなら、印影が薄くなる理由は説明できる」

「でも、棚の本に残っているのは、薄いというより……」

真帆は言葉を探し、いったん蔵書票へ視線を落とした。

「そこだけ、なくなっています」

私は頷いた。

朱肉が乾いただけなら、印影は薄く残る。押す力が弱ければ、中央が欠ける。だが、今夜の印は、図柄の輪郭を残さず、紙の表面から抜けている。誰かが印を消そうとしたなら、布や薬品を使った跡があるはずだった。何もないことが、むしろ不自然だった。

「久瀬さんのこと、連絡しましたか」

真帆が訊いた。

私は自分の携帯電話を見た。着信も、メッセージもない。久瀬の番号は登録していなかった。彼はいつも、店を出るときに会釈をするだけだった。親しく話したこともない。けれど、来る曜日と、見る棚と、手に取る本の順番は知っている。

「帰宅しているか、確認する」

私は久瀬が以前、何気なく話した住所を思い出した。駅の反対側、古い学生向けのアパートだった。電話をかけるため、受話器を取ったとき、ガラス戸の外に人影が立った。

黒い傘がひとつ、店先で止まっていた。

やがて傘が閉じられ、濡れた路面に水が落ちる。男が扉を開けた。四十代半ばほどで、濃紺の上着を着ている。警察手帳を示したあと、店内へ一歩入った。

「所轄の黒田です。久瀬透さんの件で、確認したいことがあります」

「失踪と決まったわけではない」

「そうです。だから、まだ失踪とは呼んでいません」

黒田は店内を見回した。棚の本ではなく、床、帳場、入口の鍵、傘立ての順に視線を動かす。古書に関心がある目ではない。だが、物の位置を記録しようとする目だった。

「最後に久瀬さんを見たのは、あなたですか」

「店を出たところを見た。ただ、いつ出たのかは確かではない」

「曖昧ですね」

「台帳の退店時刻が書き直されている」

私は帳場へ戻り、該当箇所を示した。黒田は顔を近づけ、数字を見た。指で触れはしなかったが、身を屈めたとき、ペン先が机を二度叩いた。

「この数字を書いたのは、あなたではない」

「そうだ」

「誰が書いたかは」

「分からない」

「久瀬さんが店を出ていない可能性は?」

私はすぐに答えなかった。店を出る客は、ガラス戸の音と床板の軋みを残す。久瀬が帰ったなら、私はその音を聞いているはずだった。だが、雨音は強く、閉店の支度をしていた。記憶に頼れば、いくらでも間違える。

黒田は、私の沈黙を急かさなかった。

「見たことと、そうだと思っていることは分けてください。刑事は、そこを混ぜると後で困る」

「あなたは、蔵書印が消えたことをどう考える」

「まず、誰かが触ったか、何かを使ったかです。怪異の話を聞きに来たわけじゃない」

「怪異だとは言っていない」

「言っていないだけで、店の空気がそういう話をしたがっている」

黒田の声は低かった。ぶっきらぼうだが、店を笑っているわけではない。説明のつかないものを、そのままにしておくことへの苛立ちがあった。

「壊れたものはありますか」

「ない」

「荒らされた形跡は」

「ない」

「なのに、印だけが消えた。客が一人、帰ったかどうかも分からない。台帳には書き直しがある。あなたなら、これをどう呼びます」

黒田は私を見た。

私は答える代わりに、入口脇の傘立てを見た。

いつもより、少しだけ位置がずれている。壁から離れ、店の内側へ五センチほど出ていた。客が傘を入れるなら、もっと壁に寄せる。通路を塞ぐからだ。だが今は、扉を開けた人間が一度立ち止まり、傘を差したまま店内を見回すにはちょうどいい場所にある。

黒田も気づいたらしい。傘立ての脚元にしゃがみ、床を見た。

「ここ、濡れ方が違う」

傘立ての周りだけ、床板の色が濃い。雨水が落ちた跡にしては、細長く、入口から帳場へ向かっている。誰かが店内で傘を開いたか、濡れた傘を一度床に寝かせたような跡だった。

「外から入った客の傘じゃないですか」

真帆が言った。

黒田はすぐには返事をしなかった。

「それなら、傘立ては普通、入口の近くに戻る。動かした理由がある」

「久瀬さんが、傘を忘れて戻ったとか」

「久瀬さんの傘は」

私は店の隅を見た。一本だけ、細い黒骨の傘が残っている。久瀬のものではない。久瀬は柄の曲がった透明傘を使っていた。毎週、同じ傘だった。

黒田は傘立てから、その一本を抜いた。先端から落ちた水が床に小さな輪を作る。

「この傘、誰のです」

「分からない」

「店のものでは」

「違う」

黒田は傘を戻さず、柄を持ったまま考えた。

「久瀬さんは、これを見た可能性がありますね」

「なぜそう思う」

「濡れた傘がある。傘立てが動いている。店の中にいた人間が、傘を開閉した跡もある。誰かが入って、出た。あるいは、出たように見せた。今のところはそれだけです」

「失踪と呼ぶには材料が足りない」

「そう言ったのは私です」

黒田は傘を傘立てへ戻した。だが、元の位置には戻さなかった。柄の向きを変え、床に残った水の輪から少し離して立てた。

「触ったものは、触った状態を残してください。私が見た位置も、あなたが見つけた位置も、あとで混ざると困る」

「本が消えたわけではない」

「本の話は、これから聞きます」

「印が消えた」

「それも聞きます。ただ、今の段階では、印が消えたことと久瀬さんが帰っていないことを一つに結びつける証拠はない」

「証拠は、ここにある」

私は帳場の蔵書票を指した。

「槐原家の蔵書票。裏に番号が刻まれている。久瀬が追っていたものと同じ図柄だ」

黒田は紙片を見た。手を伸ばしかけたが、私が先に薄紙を敷いた。

「直接、触らないでください」

「刑事に触るなと言う店主は初めてだ」

「紙は、触った人間の手順を残す。あなたの手順を混ぜたくない」

「分かりました。では、あなたは何を見つけたんです」

私は蔵書票の裏面を見せた。

「番号らしいものがある。二七と、その下に一。意味は分からない。ただ、貼り直した痕がある」

「貼り直し?」

「紙の繊維が起きている。古い糊の膜も残っている。新しく貼ったものではない。以前どこかに貼られていたものを剥がし、別の場所へ移した可能性がある」

黒田は蔵書票と、棚の本に残った薄い印影を交互に見た。

「つまり、誰かが蔵書印を消したんじゃなく、本の中身か、来歴をいじった可能性があると」

「まだ断定はできない」

「なのに、そう考えている」

「考えなければ、見るべき場所を見落とす」

黒田は、短く息を吐いた。ため息になる前の、鼻から出る乾いた息だった。

「分からないことを分からないままにするのは、あなたも嫌いでしょう」

「あなたほどではない」

「そうでしょうね。店主は本を元の棚へ戻したい。刑事は人を元の場所へ戻したい。だが、どちらも元の場所が本当に元の場所かは、記録がなければ分からない」

黒田の言葉が、店の奥へ静かに沈んだ。

私は台帳を閉じなかった。閉じれば、書かれたものだけが一度、確かなものに見えてしまう。薄い数字も、消えた印も、濡れた傘も、すべて同じ机の上に置いておく必要があった。

黒田が帰る前に、もう一度、店内を見回した。

「明日の朝まで、この状態を変えないでください。棚の本も、傘も、朱肉も」

「営業は」

「できます。ただし、誰かが触ったら記録してください」

「客の手に触れた本まで?」

「触れた本、時間、名前。分からなければ分からないと書く」

黒田はそこまで言って、帳場の蔵書票に目を落とした。

「紙が証人になることはありますか」

「人間より、長く残る」

「なら、余計なものを足さないことです。証人は、黙っているほうが信用される」

黒田が扉を開けると、外の雨が店内へ細く吹き込んだ。濡れた空気が木の匂いを押し広げ、古書の乾いた匂いを一瞬だけ薄める。彼の靴音が裏通りへ遠ざかり、ガラス戸が閉じられた。

真帆は帳場の前に立ったまま、蔵書票を見ていた。

「駿さん」

「何だ」

「壊れていないのに、何かだけが抜けているって、さっき思いました」

「……ああ」

「もし、久瀬さんも同じなら」

私は答えなかった。

棚の本は、まだそこにある。台帳も、朱肉も、貸出札も残っている。けれど、印影だけが消え、久瀬の退店時刻だけが薄くなり、見知らぬ傘が一本、店の内側に残った。

私は蔵書票を紙箱へ戻さず、帳場の中央に置いた。裏面の小さな番号が、明かりの角度でかすかに浮かぶ。

二七。一。

その数字を指でなぞったとき、紙の底から、針先ほどの抵抗が返ってきた。誰かが急いで残したものなのか、それとも古い所有者が、長い時間の底から押し戻してきたものなのか。まだ分からない。

ただ、朱が消えたあとにも、紙は黙ってはいなかった。

雨は夜更けまで降り続いた。店の中では、何も壊れていない。だからこそ、消えたものの輪郭だけが、暗い棚のあいだで濃くなっていった。

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