第1話 雨音と台帳

雨は、夕刻から降り続いていた。
神保町の裏通りに面した槐書房のガラス戸は、水滴の筋で曇り、外の街灯の光がにじんで揺れている。木曜の客足は、いつもより早く途切れた。最後の客が出ていってから、もう小一時間が経つ。私は暖簾を仕舞い、鍵を回し、店の空気が自分だけのものになる瞬間を、いつも少しだけ待ち構えている。
紙と木と朱肉の匂いが、雨の湿気と混ざり合って、店の奥まで重く沈んでいた。古書店の匂いというのは、ひとつの香りではない。何十年分もの紙の呼吸が積み重なった、層のある匂いだ。私はその層の、どこが今夜いつもと違うのかを、鼻よりも先に指先で確かめる癖がある。
棚の端から順に、背表紙の上を指でなぞっていく。擦れの角度、紙の起き方、埃の積もり方——それらは言葉にならない「本の機嫌」のようなものを教えてくれる。誰かが本を手に取り、戻した。その事実だけなら台帳に書いてある。だが、どう戻したか、どれほど丁寧に、あるいは急いで戻したかは、台帳には残らない。残るのは、指先だけだ。
三段目の棚で、私は手を止めた。郷土資料の並びが、一冊分だけずれている。自分で直したはずの並びだった。昨日の閉店時、確かにここは正しい順に揃えていた。
「駿さん」
帳場から真帆の声がした。振り返ると、彼女は台帳を広げたまま、ペン先を止めてこちらを見ていた。万年筆の先に光る雨の雫のような小さな滲みが、紙の上に残っている。
「棚、また一個ずれてますよね。今日、誰も触ってないはずなのに」
「ああ」
私は短く答えて、棚の前に戻った。真帆は言葉を重ねなかった。彼女は私の返事の短さに慣れている。遠慮があるぶん、核心に触れるべき時にだけ、声の芯が変わる。それが真帆という人間の、律儀さだった。
「台帳、写し終わりました。でも……」
言葉が途切れた。私は帳場へ歩み寄る。木の床がかすかに軋む音が、雨音の合間に沈んでいく。机の上に広げられた台帳には、几帳面な彼女の文字が、来店者の名と時刻を順に埋めていた。その中の一行に、彼女の指先が置かれている。
木曜の欄。久瀬透、の文字。
毎週木曜の閉店前、必ず現れる客だった。痩せた体つきで、声は低く、会釈だけして棚の前に立つ。彼が見るのはいつも同じ棚で、同じ順番だった。本を読むというより、確かめに来る。そんな来店の仕方をする男だ。本を開く前に、まず見返しと蔵書印を見る。背表紙の高さを揃えて戻す。レシートや貸出札を折らずに持ち帰る——そういう細かな癖の一つひとつを、私はいつのまにか記憶していた。口に出したことは一度もない。ただ、彼が来る木曜の夕方だけ、私の手は少し静かになる。
「退店の時刻、ここだけ薄いんです」
真帆が指した行を見て、私は眉を寄せた。他の行はすべて同じ濃さの筆跡で埋まっている。だが久瀬の退店時刻の数字だけが、こすれたように薄い。書き損じにも見える。だが真帆は台帳を写すとき、文字の濃淡や筆圧の癖までそのまま写し取る。彼女は専門知識を持たない。だからこそ、知識が邪魔をしない目で紙を見る。
「これ、駿さんの字じゃないですよね」
断定するような声だった。私は台帳を手元に引き寄せ、文字の線をなぞる。確かに、私の癖ではない。私が数字を書くとき、九の払いはもう少し短く切る。この九は、尾が長く伸びていた。
「書き直されてる」
私の声は、自分でも驚くほど平坂だった。だが胸の奥では、何かが静かに軋んでいた。本の来歴を軽んじられることに覚える怒りと似た、しかしもっと近しい場所からくる苛立ちだった。久瀬は私の店の、記憶の一部だ。その記憶が、誰かの手で薄められている。
「誰かが、あとから数字を直したってことですか」
「書き直したのか、消して書き足したのか、まだ分からない。でも——」
言いかけて、私は棚のほうへ目をやった。久瀬が必ず確認する棚。郷土資料の並びが、今夜もまた一冊分ずれている。
「あの棚だけ、二日続けて乱れてる」
真帆は眉根を寄せ、万年筆をノートの溝に戻した。
「偶然、ですかね」
「偶然は、一度までだ」
私はそう答えながら、自分の声の硬さに少し驚いた。偶然という言葉を、私はあまり好きではない。台帳と現物がずれるたび、人はそれを偶然や記憶違いで片づけたがる。だが紙は、人の記憶よりも正直だ。書かれなかったことは何も証明しないが、書かれたことの濃淡は、嘘をつかない。
「駿さん、久瀬さんって、今日ちゃんと帰ったんでしょうか」
真帆の問いに、私はすぐには答えられなかった。閉店の支度をしていた間、彼が店を出ていく姿を、確かに見た記憶がある。会釈をして、傘を差して、雨の中へ。だがその記憶すら、今は妙に頼りなく感じられた。見たはずのものが、見ていなかったもののように思えてくる。
窓の外で、雨音がわずかに強くなった。ガラス戸を叩く粒が、さっきまでより粗くなっている。帳場の明かりの下で、台帳の薄い数字だけが、濃い文字の列の中でひどく目立って見えた。
「もう一度、棚を見てくる」
私は立ち上がり、郷土資料の並ぶ棚へ向かった。歩くたびに、床板がかすかに鳴る。その音の間隔が、いつもより長く感じられるのは、たぶん気のせいではなかった。棚の前に立ち、ずれた一冊に指をかける。背表紙を抜き出すと、見返しに押された蔵書印が、いつもより薄く、まるで紙の内側へ逃げ込んだように見えた。
朱は、乾いていた。乾きすぎていた。
私はその乾き方に、理由のない予感を覚えた。本が消えたのではない。何かが、もっと静かな形で動いている。
真帆が帳場からこちらを見ている気配がした。私は何も言わず、ただ台帳の薄い数字と、棚の乾いた朱とを、頭の中で並べて置いた。雨音だけが、変わらず店の外を流れ続けていた。
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