第8話 通帳の綴じ目

矢野さんが帰った翌朝、私は仏間の戸を開ける前に、廊下の端で立ち止まった。
夜のあいだに雨が降ったらしい。雨戸の隙間から入り込んだ湿気が畳へ沈み、足を置くたび、床の下から冷たい水が押し返してくるようだった。台所では、澄江叔母さんがもう湯を沸かしている。やかんの底が火に触れる音、流しへ水が落ちる音、布巾を絞る音。祖父が死んでからも、朝は同じ順番で始まっていた。
私は仏間を見た。
鴨居には、黒い染みが三本あった。
昨夜までは二本だったはずだ。矢野さんを見送ったあと、私は仏間の戸を閉め、何度も振り返りながら自分の部屋へ戻った。そのとき見た鴨居には、仏壇の真上に太い線が二本、互いに少し離れて並んでいた。
今朝は、その間に短い線が増えている。
線香の煙が、まだ火をつけていない香炉の上で揺れていた。風はない。湿った空気が動いているだけだと思おうとしたが、煙はまっすぐ上がったあと、鴨居の三本目へ向かって細く折れた。
私は息を浅くした。
染みは、見つめるほど輪郭を変えた。墨で描いた線ではない。黒いものが木の内側を這い、乾く前の傷口のようにゆっくり開いている。三本目は、他の二本より短かった。その先端が、こちらへ向いていた。
「真琴ちゃん、朝ごはん」
台所から澄江叔母さんの声がした。
「うん。今行く」
返事をしても、しばらく足が動かなかった。仏間の脇には、祖父の遺品箱が置かれている。箱の蓋は閉じていたが、中にはまだ見ていないものがあった。
通帳。
帳面。
病院の領収書。
遺品箱の底から見つけた数字の切れ端が、手帳の頁に挟まっている。数字の七の払いがやけに長い、祖父の字。ある月だけ急に桁が増え、そのあと、何事もなかったように元の額へ戻っている。
私は遺品箱を抱えた。
段ボールの底が腕に食い込んだ。中身は紙と布と小さな道具ばかりなのに、運ぶたび、誰かの沈黙を抱えているような重さがあった。
台所へ入ると、澄江叔母さんは味噌汁の鍋を火から下ろしていた。湯気が顔の前へまとわりつき、目の下の影を一瞬だけ隠す。
「それ、どこへ持っていくの」
「仏間の脇。少し整理したい」
「朝ごはんのあとでいいでしょう」
「数字を確認したいの」
澄江叔母さんの手が止まった。鍋の蓋を持ったまま、私を見る。すぐに視線を落とし、味噌汁を椀へよそい始めた。椀の縁から立つ湯気に、味噌と線香の匂いが重なる。甘いのに、喉へ入ると苦かった。
「お父さんの通帳なら、浩一さんが見るよ」
「叔父さんが見るから、私も見たい」
「相続のことは、順番があるから」
「順番って、誰が決めるの」
叔母さんは答えなかった。焼き魚の皿を卓の中央へ置き、箸の向きを揃える。魚は昨夜の残りで、皮の端が乾いていた。
「冷めてる」
「温め直す」
「叔母さん、もういいよ。私がやる」
「いい。座ってて」
皿を持って台所へ戻る。電子レンジの扉を開け、魚を入れ、音を立てないように閉じる。その仕草の一つひとつが、誰かに見られたくない仕事を隠しているようだった。
「叔母さん」
「なに」
「通帳を見たことがあるなら、最初からそう言って」
「見たよ」
返事は早かった。
「でも、見たからって分かるわけじゃない。お金の流れが分かっても、誰が何を考えていたかまでは書いてないから」
「だから確認したいの。帳面と領収書を一緒に見れば、少しは分かる」
「分かって、どうするの」
「どうするかは、分かってから決める」
電子レンジが低く唸る。叔母さんは布巾を水で濡らし、何度も絞った。水が流しの底へ細く落ちる。
「真琴ちゃんは、昔からそうだったね」
「何が」
「分からないまま置いておけない。紙の順番が違ってると直す。お父さんの言葉が途中で抜けてると、何度も聞き返す。自分で書いたものなら、なおさら」
「書いたものは残るから」
「残るから怖いんだよ」
電子レンジが止まった。叔母さんは魚を取り出す。熱い皿を素手で持って、指先を赤くした。
「熱いよ」
「平気」
「そう言って、いつも火傷するでしょう」
「火傷くらいなら、冷めたものを食べるよりまし」
その言葉に、祖父の晩年の食卓が浮かんだ。
澄江叔母さんが、固くなったご飯へ湯をかけていた。祖父は椅子に座り、箸を持つこともできず、口を結んでいる。匙を近づけると顔を背ける。けれどしばらくすれば、何も言わず口を開けた。食べ終わるまで、叔母さんは一度も座らなかった。
私は廊下の柱の陰から、その様子を見ていた。
手伝おうかと言えばよかった。代わろうかと言えばよかった。
でも祖父が私を見た。たった一度、目を上げただけだった。その視線に押され、私は何も見なかったように離れた。
私はあの頃から、見なかったことにする方法だけを覚えてきた。
「食べて。魚、温めたから」
叔母さんに皿を渡され、私は頷いた。
朝食を終えると、私は遺品箱を仏間へ運んだ。叔母さんは止めなかった。ただ、台所から何度もこちらを見ていた。
畳の上に新聞紙を敷き、帳面と通帳を並べる。
祖父の通帳は、表紙が擦れて白くなっていた。角は丸く、綴じ目には細かな埃が詰まっている。開くと、日付と金額が規則正しく並んでいた。
病院。薬局。診察代。紙おむつ。米。灯油。町内会費。
どれも一度に見れば、小さな出費に過ぎない。けれど同じ日付の欄へ、澄江叔母さんの買い物控えと通院記録を重ねると、一日の形が変わった。
朝、薬を取りに行く。
昼、米を炊く。
夕方、病院へ電話をする。
夜、祖父の身体を起こす。
その合間に灯油を買い、町内会費を払い、家の食料を揃える。
数字は感情を持たない。だからこそ、誰かの一日を容赦なく刻んでいた。千円、八百円、三百二十円。そのひとつひとつに、靴を履き、坂を下り、帰ってきて手を洗った時間がある。
通帳をめくる。
祖父の年金が入った数日後、病院代と薬代が引き落とされる。そのあと、残高が急に減る。底に近づくと、澄江叔母さん名義の口座からまとまった金額が移されていた。
私は日付を指でなぞった。
振り込みは毎月ではなかった。祖父の症状がひどくなった時期だけ、間隔を空けて繰り返されている。金額は同じではない。けれど、どれも家賃や光熱費を含めた一か月分に近かった。
帳面の端には、祖父の字で短い記号が書かれている。
澄。
その下に、金額。
返済の記録には見えなかった。ただ、金額だけが並んでいる。何月にいくら借りた、とは書かれていない。澄江叔母さんが家のために出した金を、祖父は知っていた。知っていたのに、返した印はなかった。
「それ、どこから出した」
背後から声がした。
振り返ると、浩一叔父さんが仏間の入口に立っていた。朝の新聞を脇に挟み、眼鏡の位置を直している。いつもなら座布団の向きか、仏壇の線香を先に確認するのに、今日は通帳だけを見ていた。
「遺品箱から」
「通帳は、まだ整理の途中だ」
「整理の途中なら、見てもいいでしょう」
「何を見ている」
「祖父のお金の出入り」
「相続に関係するものだけ、後でまとめて説明する」
「介護費用は相続に関係ないの」
「関係はある。だから、順番を守れと言っている」
「叔母さんが立て替えたお金も、後で説明するつもりだった?」
叔父さんは答えなかった。新聞の角を親指で押さえる。
「澄江の口座から移した分のことか」
胸の奥が冷えた。
「知ってたんだ」
「家の金の出入りだからな」
「じゃあ、どうして帳面には何も書いてないの」
「書いてあるだろう」
「金額だけ。誰に返したか、何のために使ったか、記録がない」
「生活費だ」
「誰の生活費?」
「家のだ」
「家って、誰?」
叔父さんは仏壇の方を見た。鴨居の三本目が、彼の肩越しに見える。朝より太くなっていた。
「家の維持には金がかかる。病院や薬だけじゃない。光熱費も食費も修繕費もいる。祖父の年金だけでは足りなかった。それを澄江が補った。俺も出した」
「いくら」
「必要な分だ」
「金額を聞いているの」
「細かく言えば、家族の間で余計な感情が出る」
「もう出てるよ。帳面に」
叔父さんの顔が硬くなった。
「真琴。金は、出した人間が偉いという話ではない」
「そういう話をしてない」
「介護をした人間が全部正しく、しなかった人間が全部悪い、という単純な話にもできない。俺には仕事があった。町内のことも、親族への連絡も、葬儀の手配も、祖父の名義の整理もあった。澄江が現場を担ったのは事実だが、俺には俺の役目があった」
「役目って言えば、何でも許されるの」
「許されるとは言っていない」
「じゃあ、何なの。叔母さんが夜中に起きて、あなたが朝に来て、祖父の顔を見て帰る。それで同じだけ背負ったことになるの?」
「同じだけとは言っていない」
「でも、同じ家族でしょう」
「家族だから、同じことをする必要はない」
「家族だから、誰か一人にやらせていいわけでもない」
叔父さんは一拍置いた。書類を整えるときの間ではなく、言葉を選び損ねた人間の間だった。
「返すつもりだった」
「いつ」
「相続が終わってから」
「相続が終われば、叔母さんに返すつもりだった?」
「そうだ」
「でも、家を売る話は進めていたよね」
叔父さんの目が上がった。
私は遺品箱の底にあった封筒を思い出していた。祖父の名義が印刷された封筒の中に、家の評価額と、町外れの土地に関する不動産会社の案内が入っていた。折り目は新しかった。
「家を売るつもりなの」
「まだ決まっていない」
「でも、話はしている」
「古い家を維持するのは難しい。修繕費もかかる。誰かが住み続ける予定がないなら、売却も選択肢だ」
「叔母さんが立て替えたお金を返すため?」
「それだけではない」
「じゃあ、何のため?」
「家を残すことが、必ずしも家族を守るわけじゃない」
叔父さんの声には、疲れが混じっていた。家を守ると言い続けてきた人が、初めてその言葉を疑っているように聞こえた。
「それなら、最初から言えばよかったでしょう」
「何を」
「家を売るかもしれないこと。叔母さんの立て替え分を相続で整理すること。介護の負担は、あなたが見ないままでも存在していること。全部、最初から」
「言えば、まとまるのか」
「少なくとも、黙っているよりは」
「黙っているから、ここまで来たんだ」
叔父さんの声が初めて乱れた。
「俺が何も言わなかったから、葬儀はできた。親族を呼べた。近所にも頭を下げられた。澄江が限界でも、家の中が止まらずに済んだ。何も言わずに手を動かす人間がいたから、外から見れば、祖父は穏やかに看取られた。そういう形にする必要があったんだ」
「誰にとって?」
「皆にとってだ」
「また、その言葉」
「家というのは、誰か一人の正しさで動くものじゃない。正しいことを全部言えば、誰かが必ず傷つく。傷ついた人間が外へ出れば、家は戻らない。俺は、それを防いでいる」
「防いでいるんじゃない。見えないところへ押し込んでいるだけだよ」
言葉を発した瞬間、仏間の奥で線香がぱちりと鳴った。
煙が一度、床近くまで垂れ、白い筋になって畳を這った。そこから鴨居へ向かって急に立ち上がり、三本の染みの下で渦を巻く。
叔父さんは振り返った。
染みを見たのかどうか、私には分からない。ただ、管理する人間の表情が、ほんの少し剥がれた。
「通帳を閉じろ」
「まだ見終わってない」
「閉じろ」
「確認するだけで、家が壊れるの?」
「確認することが、壊すことにつながる場合もある」
「確認しなかったことは、守ったことになる?」
叔父さんは答えなかった。
そのとき、仏間の外に澄江叔母さんが立っていた。手には古い領収書の束がある。紙紐が束の端へ食い込み、紙は何度も折れた跡を残していた。
「澄江」
「通帳、見せてあげれば」
叔母さんは領収書を卓の上へ置いた。
「もう見てるよ」
「そうか」
「私の口座から出した分、全部は書いてない」
叔父さんは視線を落とした。
「返すつもりだった」
「その言葉、何回聞いたかな」
叔母さんは領収書を一枚ずつ広げた。病院、薬局、介護用品、灯油。日付の横に、鉛筆で小さな丸がついている。急いでつけた丸、眠気の中でつけた丸、何度も確認してからつけた丸。濃さがすべて違っていた。
「私はね、金額を返してほしいだけじゃない」
叔母さんは言った。
「お父さんのために使ったものを、家の出費の一言で終わらせないでほしい。私が買ったものを、誰かが勝手に家族の金にしないでほしい。夜中に起きた回数も、食べさせた回数も、吐いたものを洗った回数も、領収書には書けない。でも、だからって、なかったことにはならないでしょう」
叔父さんは領収書を見ていた。手を伸ばさない。紙の端を揃えることもできず、ただ数字を見ている。
「俺は、澄江がやってくれたことを軽く見ていたわけじゃない」
「軽く見てないなら、重さを測ったことがある?」
「……」
「どれくらい重いか、考えたことがある?」
叔母さんは布巾を取り出し、領収書の脇にこぼれた湯を拭いた。話をしている最中でさえ、手は仕事を探している。
「私は、毎日お父さんの息を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。次があるかどうかを待った。数字なら、あんたたちにも分かるでしょう。だから帳面に書いた。食べた量も、薬の数も、熱も。書いておけば、誰かが見てくれると思った。でも、誰も見なかった。見たのは、死んでからの通帳だけ」
私は領収書を一枚拾った。紙は薄く、端が擦れている。病院名の下に、叔母さんの指でつけられた小さな印があった。
この紙を、叔母さんは何度も取り出したのだろう。
支払いのためではなく、忘れないために。
仏間の鴨居で、三本目の染みがゆっくり濃くなった。線香の煙が領収書の束から立ちのぼるように見えた。白い筋は染みを順に撫で、短い線の先で細い渦になった。
「全部、写す」
私は通帳を手帳の隣へ置いた。
叔父さんが顔を上げる。
「何を」
「日付と金額。誰の口座から出たか。何の支払いか。私の字で写す」
「必要ない」
「必要がある」
「真琴、お前は家族を裁判にかけたいのか」
「裁判にかけるんじゃない。記録を作るの」
「記録は、あとで人を縛る」
「記録がないから、今まで誰かが縛られてきたんでしょう」
叔父さんは立ち上がり、仏間の戸へ手を伸ばした。
私は書く手を止めなかった。
祖父の万年筆を取り出す。軸を指で拭うと、黒い汚れが薄く伸びた。ペン先を帳面へ当てる。今度は、インクが出た。
日付を書く。
金額を書く。
支払先を書く。
その横に、支出者の名前を書く欄を作る。
最初の一行を書き終えたとき、家の奥で低く木が鳴った。
誰かが壁の内側から、指の関節で叩いたような音だった。
叔父さんが戸を閉める。
閉じられた向こうで、線香の煙がひとつにまとまり、鴨居の黒い染みへ吸い込まれていく。
通帳の底には、残高の数字しかないと思っていた。
けれど、そこに沈んでいたのは、祖父の晩年を支えた誰かの手と、その手を見ないふりをした家族の時間だった。
← 横にスクロールして読み進められます
