第7話 数えはじめる

矢野さんが帰った翌朝、私は仏間へ入る前に、手帳を開いた。

昨夜の頁には、五つの言葉が並んでいる。

矢野庄司。  事故。  町外れ。  病院。  重し。

その下に、鴨居の本数を書こうとして、私は手を止めた。

四本。

書いてしまえば、増える気がした。けれど、書かなくても増えたものは消えない。私は万年筆の蓋を外し、日付の横へ、ゆっくり数字を記した。

四。

書き終えたところで、仏間の鴨居が視界に入った。

黒い染みは、五本になっていた。

私はしばらく、手帳を持ったまま動けなかった。

昨夜、矢野さんを見送ったあとに見たのは四本だった。一本目は仏壇の真上、二本目はその左、三本目は木目に沿って短く伸び、四本目は仏間の外へ向かって斜めに走っていた。間違えるはずがない。私は数を数え、位置まで手帳に書いた。四本目の先には、木の節があった。節の輪郭を避けるように、線が一度細くなっていた。

今朝の五本目は、その節のすぐ横から生えていた。

誰かが、内側から木を押し広げている。

そう思った瞬間、背中の皮膚が薄く縮んだ。

香炉には新しい線香が一本立てられていた。私は火をつけていない。澄江叔母さんが朝の勤めで立てたのだろう。赤い火が先端を食べ、白い煙がまっすぐに上がる。仏壇の屋根を越えたところで、煙は右へ折れた。

五本目の染みへ向かっていた。

私は息を浅くし、煙の動きを見つめた。

風はなかった。障子は閉まり、雨戸も閉まっている。けれど煙は、まるで見えない指に引かれるように細く伸び、鴨居の下で小さな輪を作った。輪はほどけず、染みの黒い縁へ吸い込まれていく。

そのとき、背後の廊下で湯呑みの触れ合う音がした。

「真琴ちゃん、朝ごはん」

澄江叔母さんの声だった。

「今、行く」

私は返事をした。

すぐには動かなかった。五本目の線から目を逸らすことができない。触れたくないのに、見てしまう。嫌悪に近いものがあるのに、その黒さには目を吸い寄せる力があった。濡れた墨のようで、木の傷のようで、乾きかけた血にも見える。近づけば匂いまで分かる気がした。

「真琴ちゃん」

「今行く」

もう一度答えて、ようやく私は仏間を出た。

台所では、澄江叔母さんが味噌汁を椀によそっていた。湯気が立ち上り、顔の前で薄く揺れている。朝の光は弱く、窓の外の山肌も霧に隠れていた。湿った木と味噌と線香の匂いが混ざり、吸い込むたびに胸の奥が重くなる。

卓の上には、四人分の膳が並んでいた。

澄江叔母さんは、祖父の椅子の前へ置きかけた小鉢を、手に持ったまま止まっていた。中身は大根の煮物だった。柔らかく煮崩れた大根の表面に、薄い汁が光っている。

「それ、祖父さんの分?」

私が聞くと、澄江叔母さんは小鉢を見た。

「違うよ」

「でも、そこに置こうとしてた」

「置く場所を間違えただけ」

叔母さんは小鉢を私の膳へ移した。箸の向きを直し、湯呑みの位置を揃え、それから自分の膳だけを少し遠くへ押した。

「食べて。冷めるから」

「鴨居、見た?」

聞いた途端、叔母さんの手が止まった。

止まったのは一瞬だった。すぐに味噌汁の鍋へ向き直り、蓋を閉める。鍋の中で、残った湯気が蓋の隙間から細く漏れた。

「朝から、あの話はしないで」

「五本目が増えた」

「そう」

「昨日は四本だった」

「そう」

「数を数えているんだね」

叔母さんは返事をしなかった。

私は、彼女が否定しないときの沈黙を知っている。それは認めたという意味ではない。認めてしまえば次の仕事が増えるから、言葉を使わずにその場を閉じるための沈黙だ。

「いつから見てたの」

「ずっと前から」

「ずっとって、いつ?」

「お父さんがまだ元気だった頃」

「祖父が生きていたときから、鴨居に染みがあったの?」

「染みというほどじゃなかった。木が少し黒く見えただけ」

「何本?」

叔母さんの指が、布巾の端をつまんだ。

「真琴ちゃん」

「数えていた?」

「数えていない」

「でも、見ていた」

「見ていたよ」

「どうして言わなかったの」

「言ったら、誰かが拭くでしょう」

「拭けばいい」

「拭いて、消えたら、それで終わりにされるから」

叔母さんは布巾を畳んだ。濡れた面を内側へ折り、乾いた部分だけを表に出す。その手つきはいつもと同じだったが、今は、何かを隠すための作業に見えた。

「消えたように見えるだけのものもある。紙を捨てても、書いた手は覚えてる。灰をならしても、燃やした匂いは残る。染みを拭いても、そこにあったことまでなくなるわけじゃない」

「それなら、どうして黙っていたの」

「黙っていたんじゃない。言えなかった」

「矢野さんと同じことを言うんだね」

「矢野さんは、言わない人。私は、言っても誰も聞かないと思っていた人」

その言葉が胸に残った。

私は、叔母さんの前に座った。湯呑みを両手で包む。熱さが指先へ移り、冷えた手のひらだけが先に緩んでいく。

「昨日、矢野さんが、あの染みを見ていた」

「そう」

「知っているみたいだった」

「知っているよ」

「何を?」

叔母さんは湯呑みを持ち上げたが、口をつけなかった。

「家のこと」

「家の何?」

「お父さんが関わったこと。私が見ていたこと。浩一さんが知っていること。町内の人が知らないふりをしていること」

「事故のこと?」

叔母さんは目を伏せた。

「真琴ちゃんは、もう事故の名前を知ってるんだね」

「名前だけ。斜面で何かが崩れて、誰かが病院へ運ばれた。祖父が近くにいた。矢野さんは、そこから先を話さない」

「それで十分だよ」

「私は十分じゃない」

自分の声が、思ったより近くに響いた。誰かに向けた言葉なのか、自分へ言い聞かせているのか分からなかった。

「私は、祖父の書類を代筆していた。知らない名前も、病院のメモも、消された住所も、私の字に似た文章も残っている。なのに、何を書いたのか、誰のために書いたのか、何を消したのか、何も知らない。知っていたのに、見ないふりをしていた。だから今度は、見たものを数える」

「数えれば、分かるの?」

「分からなくても、残る」

「残れば、誰かが傷つく」

「もう傷ついているよ」

叔母さんは私を見た。

疲れ切った目だった。眠れていない人の目ではなく、長いあいだ眠ることを自分に許さなかった人の目。目の下の影が深く、そこだけ別の時間が沈んでいるように見えた。

「真琴ちゃん。数えるっていうのは、見つけることじゃないよ」

「じゃあ、何?」

「見つけたものを、見つけたままにしておくこと。片づけないこと。名前をつけないこと。こっち側へ置いてしまうこと」

「こっち側?」

「家の内側」

叔母さんは、仏間の方へ視線を向けた。

「一度、数えたものは、家の中に残る。誰が見ても見なくても、数字になって残る。お父さんはそれを嫌っていた。だから帳面をつけた。帳面にして順番を決めれば、ものは自分の場所に収まると思っていた」

「収まっていない」

「そうだね」

「祖父は、何を数えていたの」

「線香の本数。金の出入り。薬の数。人の名前。誰が来て、誰が来なかったか」

「事故のことも?」

叔母さんは答えなかった。

台所の壁時計が、短く時を打った。音は二階へ上がり、梁にぶつかってから、遅れて仏間へ戻ってきたように聞こえた。

「お父さんは、亡くなる前の晩、何かを書いていた」

「何を?」

「知らない」

「見たんでしょう」

「見たけど、読まなかった」

「どうして」

「読めば、私が選ばなきゃいけなくなるから」

「何を選ぶの」

「救急車を呼ぶか、呼ばないか。誰かに電話するか、しないか。家を守るか、あの人を守るか。そういうことは、一度決めたら、あとから書き換えられない」

私は湯呑みを置いた。

「祖父の死に、何かあったの」

叔母さんの顔が、平らになった。

「死ぬ人は、いつも何かを残すよ。吐いた息、汚れた布団、飲み残した水、言いかけた言葉。あんたたちは、それを死因という一つの言葉に押し込める。病気だった。年だった。仕方なかった。そう言えば、葬式はできる。けれど、私が見た夜は、そんな一言では終わらない」

「話して」

「まだ、話せない」

「いつなら話せるの」

「鴨居が全部埋まったら」

叔母さんは、冗談を言うときの顔をしていなかった。

「全部って、何本?」

「知らない」

「数えていないのに?」

「数えたら、そこまで行く気がするから」

私は返事をしなかった。

朝食の膳には、まだ湯気が残っていた。味噌汁の表面に油が浮き、窓から差し込む白い光を細かく揺らしている。祖父の椅子は空いている。けれど、その前の畳だけが、誰かが今も座っているように少し沈んで見えた。

私は立ち上がり、仏間へ向かった。

鴨居を見上げる。

五本の染みは、それぞれ違う形をしていた。一番古いものは木目に沿って長く、二本目は途中で途切れ、三本目は節の周りを避けている。四本目は仏間の外へ、五本目はその逆へ伸びていた。

私は手帳を開き、昨日までの記録を並べた。

四十九日。一本。  翌朝。二本。  遺品箱。三本。  通帳。四本。  食事記録。五本。  矢野の話。六本。  今朝。五本。

数字が合わなかった。

私は何度も頁を見返した。書き間違いではない。矢野さんが来た夕方に四本目を確認し、その翌朝に五本目を見つけた。だが、昨日の午後、食事記録を書き写し、叔母さんと祖父の最期について話したあと、私は鴨居を見ていない。

六本目があったのかもしれない。

見なかっただけで。

私は脚立を探した。物置へ向かう廊下は、朝の湿気で薄く光っていた。板の継ぎ目に黒ずんだ水が溜まり、歩くたびに、靴下の裏へ冷たさが染みてくる。物置の戸を開けると、黴と土の匂いが押し寄せた。

脚立は、前と同じ場所にあった。

私はそれを仏間へ運んだ。

「上らないで」

澄江叔母さんが、背後で言った。

「昨日もそう言ったね」

「昨日は、まだ一本少なかった」

「一本増えたから、上るの」

「近くで見れば、戻れなくなる」

「もう戻れないよ」

私は脚立を開いた。木の脚が畳へ触れ、乾いた音を立てる。叔母さんは何も言わなかった。止めるなら、いつもそうするように腕を掴めばいい。けれど、彼女は手を伸ばさなかった。

私は一段目へ足をかけた。

畳が沈む。

二段目。

線香の煙が、目の高さへ下りてくる。甘い香りの奥に、焦げた紙と濡れた土の匂いが混じっていた。煙は私の顔を撫で、鴨居の方へ戻っていく。

三段目。

黒い染みが近づいた。

遠くから見たときは、木目に沿った汚れだった。けれど近くで見ると、線の縁は均一ではなかった。細い繊維が何本も枝分かれし、鴨居の内部へ食い込んでいる。爪で引いた傷のようにも、墨を吸い込んだ木の血管のようにも見えた。

私は一本目へ指を伸ばした。

指先が届く寸前で、線香の煙が黒い線へ吸い込まれた。

次の瞬間、染みの奥で何かが動いた。

木が軋んだのではない。黒い線そのものが、内側から一度だけ脈打った。

私は手を引いた。

「見た?」

下から澄江叔母さんの声がした。

私は答えられなかった。

鴨居の五本の染みの間に、薄い影がある。線ではない。まだ輪郭を持たない黒さが、木目の下でゆっくり集まり、一本の形になろうとしていた。

私は数えた。

一本。

二本。

三本。

四本。

五本。

そして、線になりかけた影を見た。

六本目。

声に出した瞬間、仏壇の奥で数珠が落ちた。

黒い珠が畳の上を転がり、私の足元で止まる。欠けた一粒が、脚立の影に入り込んだ。

澄江叔母さんが息を呑んだ。

私は脚立から降りた。膝が震えていたが、倒れずに済んだ。畳の上の数珠を拾い上げる。珠は冷たく、湿っていた。祖父が生前、指で何度も撫でていたものだ。

「今、数えたでしょう」

叔母さんが言った。

「うん」

「声に出した」

「うん」

「だから増えた」

私は鴨居を見た。

六本目の染みは、もう影ではなかった。短い黒線が、五本目の隣に浮かんでいる。先端はまだぼやけ、木の中へ戻ろうとしているようにも見える。

「私が言ったから?」

「言葉だけじゃない」

「じゃあ、何?」

「見つけたから。見つけて、数えて、置いたから」

「それでも、私は数える」

自分でも驚くほど、声が静かだった。

「今まで、数えないことで誰かを消してきたから。見ないことで、来なかった人をいなかったことにして、書かないことで、苦しんだ人を家の事情にして、黙ることで、死んだ人の最後まできれいにしてきた。私はもう、そういうふうに整えられない」

澄江叔母さんは、私の手の中の数珠を見た。

「お父さんなら、そんなことは言わない」

「祖父が言わなかったから、私が言う」

「言えば、家が壊れるよ」

「壊れるなら、壊れたところが見える」

「見えたら、片づけなきゃならない」

「片づけない。残す」

叔母さんの顔に、怒りとも恐怖ともつかないものが浮かんだ。

「残すって、簡単に言わないで。残ったものは、誰かの手を離れない。紙も、名前も、死んだ人の声も。あんたが外へ出したら、それを持っていくのはあんただよ」

「それでもいい」

「よくない」

「よくないけど、もう見なかったことにはできない」

仏間の外で、戸がひとりでに揺れた。

閉められていたはずの雨戸が、内側から叩かれたように、かた、と鳴る。線香の煙が一斉に細くなり、六本の染みを順に撫でていく。

私は手帳を開いた。

六本。

その数字を書き、横に短い文章を添える。

数えた。声に出した。増えた。

書き終えたとき、万年筆の先から黒いインクが一滴落ちた。紙の上で滲み、数字の六を覆う。私は慌てて紙を拭おうとしたが、指を置く前に、その黒い滴はゆっくりと細長く伸びた。

鴨居の染みと同じ向きへ。

私は手を止めた。

紙の上の黒さは、インクの滲み方ではなかった。線になろうとしていた。私の書いた数字から、仏間の鴨居へ向かうように。

澄江叔母さんが、低く言った。

「真琴ちゃん、もう閉じて」

「何を」

「その帳面を」

「閉じたら、また増える」

「開いていても増える」

「なら、開いたままにする」

私は手帳を閉じなかった。

仏間の暗がりに、線香の煙が溜まっている。六本の染みは、どれも黙ったまま、木の内側からこちらを向いていた。見れば見るほど、そこに誰かの指先があるような気がした。長く押し込められ、外へ出る場所を探している指。

私は数字の下へ、もう一行を書き加えた。

見たものを、見なかったことにしない。

その文字を書き終えた瞬間、鴨居の六本目が、わずかに伸びた。

家の奥で、祖父が使っていた椅子の脚が床を擦った。

誰も座っていないはずの椅子が、仏間の中央へ向かって、ほんの少しだけ動いていた。

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