第6話 笑って濁す人

梅雨の雨は、降っているというより、家の外側に薄い膜を張っていた。
朝から雨戸を閉めたままの桐生家は、昼を過ぎても夕方のように暗い。軒先から落ちる雫が、一定の間隔で石のたたきを叩いている。その音を聞いていると、家全体がゆっくり呼吸しているようだった。湿った柱が膨らみ、畳が水気を含み、閉じた戸の向こうで古い木がきしむ。
私は仏間の脇に座り、祖父の帳面を写していた。
通帳の数字、領収書の日付、澄江叔母さんの口座から移された金額。紙を並べる順番は、何度も確認した。日付の古いものを左に置き、同じ日の支払いは病院、薬局、生活費の順に揃える。そうしなければ、数字の隙間から逃げていくものがある気がした。
鴨居には、黒い染みが三本あった。
一本目は仏壇の真上から斜めに伸び、二本目はその左で木目に沿って途切れている。三本目は少し離れた場所に短く浮かび、湿った墨を指先で引きずったように見えた。
線香の煙は、三本目の下でだけ細く渦を巻いていた。
私は煙から目を逸らし、帳面へ視線を戻した。
そのとき、玄関の戸を叩く音がした。
間を置いて、もう一度。
「はい」
澄江叔母さんが台所から返事をする。水で濡れた手をエプロンで拭きながら、土間へ出ていった。
「おやまあ、雨の中をすみませんなあ」
矢野庄司の声だった。
ほどなくして、澄江叔母さんが矢野さんを連れて戻ってきた。矢野さんは濡れた傘を畳み、玄関脇に立てかけてから、紙袋に入った菓子折りを両手で差し出した。
「仏さんへ、ほんの気持ちです。大したものではありませんが」
「いつも、すみません」
「いやいや、こちらこそ。こういう時分にお邪魔して、手間をかけますなあ」
矢野さんは笑った。声の端に湿り気がある。笑っているのに、口元より先に目が動き、家の中を確かめていた。台所、廊下、仏間の戸。最後に、鴨居。
視線が触れたのは一瞬だった。
だが私は、その一瞬を見逃さなかった。
矢野さんは鴨居を見た。
見たというより、そこにあることを確認した。
「浩一さんは、仏間です」
澄江叔母さんが言った。
「おお、そうですか。では、少しだけご挨拶を」
矢野さんは靴下の裏で畳を踏み、仏間へ入った。座布団に腰を下ろす前、もう一度だけ鴨居を見上げた。今度は、染みの数を数えているように見えた。
私は湯を沸かし、茶を淹れた。急須から立つ湯気は、台所の低い天井にぶつかって薄く広がる。線香の甘さと、濡れた土の匂いと、古い木の黴臭さが混じり、息を吸うほど喉の奥へ重たく沈んだ。
湯呑みを三つ盆に載せ、仏間へ運ぶ。
「これはこれは、真琴ちゃん。わざわざすまんね」
「どうぞ」
「達筆な人にお茶を入れてもらうと、味まできれいに見える」
矢野さんはそう言って笑った。
「お茶に字は関係ないでしょう」
「そうですかなあ。いや、でも、字のきれいな人は手元がきれいですからな。手元がきれいな人の淹れる茶は、なんとなく安心する」
「安心できる話をしに来たんですか」
私が湯呑みを置くと、矢野さんの笑みがわずかに固まった。
浩一叔父さんが、机の上の書類を揃えながら言った。
「近所への挨拶回りの件なら、昨日いただいた順番で進めます。雨が続くようなら、来週にずらします」
「ええ、ええ。そうしていただければ。こういうことは、急いでも仕方ありませんからな」
「香典返しの追加分は、今週中に手配します」
「それがよろしいでしょう。町内の方も、桐生さんがきちんとされると安心します」
矢野さんは茶をすすった。
「徳次郎さんも、帳面だけはほんにきれいでしたなあ」
その言葉に、私は筆を止めた。
「祖父の帳面を見たんですか」
「昔から、町内会の会計を任せておりましたからな。金の出入りには細かい人でした。領収書の向きが揃っていないだけで、ずいぶん機嫌を悪くされた」
「領収書の向きまで?」
「ええ。人間は大雑把でも、紙は大雑把にしてはいかん、と」
矢野さんは笑った。
「不思議な人でしたよ。庭の草が伸びていても何も言わんのに、帳面の数字が一つずれていると、朝から晩まで気にする。家の中がどうなっているかより、家の外からどう見えるかを先に考える人でした」
浩一叔父さんが、書類の端を揃えた。
「父は、責任感が強かったんです」
「そうですな。責任感が強い。そう言えば、きれいに聞こえます」
矢野さんの声は穏やかだった。
「ただ、強い責任感というのは、ときに人を黙らせますからなあ。責任を取ると言う人が、他の者に何も言わせないこともある」
叔父さんの指が止まった。
「矢野さん」
「いやいや、昔話です。私も年を取って、口が余計になりましてな」
矢野さんは笑い、庭の方へ顔を向けた。障子の向こうで紫陽花の葉が雨に揺れている。
「今年はよく降りますなあ。紫陽花には具合がいい。あれは水が多い方が色が出る」
話が、花へ移った。
私は矢野さんのそのやり方を知っていた。核心へ近づくと、季節の話をする。誰かの名前が出ると、天気の話をする。怒りが見えれば、昔の笑い話を置いて、その上から薄い布を掛ける。
「町外れの事故のことを、知っていますか」
私は言った。
矢野さんは湯呑みを口元まで運び、そのまま止めた。視線が、湯呑みの縁へ落ちる。
「事故というのは、どの事故でしょうな」
「斜面が崩れたところ。昔、誰かが病院へ運ばれたと聞きました」
仏間の空気が、ほんの少し冷えた。
浩一叔父さんが私を見た。目ではなく、眉間のあたりを。
「真琴、その話は」
「叔父さんは知ってるの?」
「町内には昔から、いろいろな話がある」
「質問に答えて」
矢野さんが、短く咳払いをした。
「雨の日でしたなあ」
「雨の日?」
「その事故も、たしか雨の後でした。山の斜面というものは、見た目よりずっと脆い。土が水を含むと、上の方は乾いて見えても、下では崩れる準備ができている。道を歩く人間には、それが分からんのです」
「誰がいたんですか」
「道には、いろんな人がおりますからな」
「祖父は?」
「徳次郎さんは、山のことに詳しかった」
「いたんですか」
「まあ、近くには」
その返事は、答えているようで、何も言っていなかった。
「近くにいて、何をしたんですか」
矢野さんは笑った。今度の笑みは、先ほどより薄かった。
「真琴ちゃんは、ずいぶん真っ直ぐ聞くようになったねえ。昔はおじいさんの言葉を、きれいな文章に直してくれたでしょう。あの頃は、聞いたことをそのまま書くのではなく、相手が言いたい形に整えていた」
「だから今は、整えられる前の言葉を聞きたいんです」
「言葉というのは、整えた方が人を傷つけません」
「傷つけないために、嘘になることもある」
「嘘と配慮は、紙一重ですな」
「事故で誰かが怪我をしたかどうかも、配慮ですか」
矢野さんの笑みが消えた。
完全にではない。口元にはまだ、社交の形だけが残っている。けれど、目の奥から柔らかさが引いていた。
「誰かが怪我をした、という話は聞いておりません」
「聞いていないだけでしょう」
「聞いていないことは、私には言えません」
「でも、今、事故のことを知っているように話した」
「古い話ですから。町内に長くいれば、いろいろ耳に入る」
「耳に入ったことを、誰がどこへ運んだんですか」
矢野さんは湯呑みを置いた。畳に触れた底が、かすかに鳴る。
「真琴ちゃん。知っていることを全部言うのが、いつでも親切とは限らんのですよ」
「言わないことが、誰かを守ることになる場合もある?」
「ありますとも」
「誰を?」
矢野さんはすぐに答えなかった。
雨の音が強くなった。軒先から落ちる水が、庭の石に当たって細かく跳ねる。線香の煙が仏壇の前でたまり、白い膜のように視界を曇らせた。
「家を守る場合もある。亡くなった人の名前を守る場合もある。残された人の暮らしを守る場合もある」
「それで、傷ついた人の名前は?」
矢野さんの手のひらが、膝の上でゆっくり開いた。
「名前を口にすると、その人が戻ってくるわけではありません」
「戻らなくても、いたことは残る」
「残れば、今度は生きている者が背負う」
「背負わせるんじゃない。最初から背負っているものを、見えるようにするだけです」
自分でも、声が強くなっているのが分かった。けれど矢野さんは怒らなかった。むしろ、困った子どもを見るように、薄く笑った。
「それが若さですなあ。見えるようにすれば、何かが正しくなると思っている」
「正しくならなくても、間違ったまま隠されるよりいい」
「正しさというのは、いつも誰かの暮らしを壊します。役所へ話が行けば、土地の話になる。土地の話になれば、家の話になる。家の話になれば、誰が何を知っていたかが問われる。そこに亡くなった人間の落ち度まで重なれば、誰もきれいには生きられない」
「きれいに生きているように見せるために、誰かを消すの?」
「消したつもりはありません」
「でも、名前を言わなければ、記録からは消える」
矢野さんは、そこで初めて私をまっすぐ見た。
目の奥に、長く沈めていたものがあるように思えた。罪悪感なのか、恐れなのか、私には分からない。ただ、その視線は、祖父の遺影の目に少し似ていた。問いを返さず、こちらが諦めるのを待つ目。
「徳次郎さんは、何か書いていませんでしたか」
矢野さんが聞いた。
「祖父が?」
「事故のことを、とは言っておりませんよ。帳面のことです。あの人は、口では言わずに紙へ残す癖があった。残すものと残さないものを、誰より厳しく選んでいた」
「病院のメモならあります。知らない名前の断片も」
「そうですか」
「矢野さんが知っている名前ですか」
「いやいや、私は何も」
また笑った。
「ただ、病院というのは便利な場所でしてな。怪我をした人も、病気の人も、都合の悪い人も、みんな同じ白い建物へ運ばれる。そこで診てもらえば、話は病名になる。事故ではなく、病気。責任ではなく、経過。そういうふうに言葉が変わることがある」
「誰が変えるんですか」
「さあ。医者かもしれんし、家族かもしれんし、町内かもしれん」
「矢野さん自身は?」
矢野さんは咳払いをした。
いつもの癖だった。だが今度の咳払いは長く、喉の奥に何かを引っかけたまま出そうとしているように聞こえた。
「私は、町内会の役をしていただけです」
「役をしていたから、知っている」
「知っているからこそ、言えないこともある」
「言えないんじゃなくて、言わないんでしょう」
「その二つは、似ているようで違いますな」
「どこが違うんですか」
「言えない人間は、言えば自分が壊れる。言わない人間は、言えば他人が壊れると思っている」
矢野さんの声から、笑みが消えていた。
「私は、後者でありたいと思ってきました。自分が黙れば済むなら、その方がまだましだと。町内の者が互いに顔を合わせて暮らしていくには、全部を明るみに出さない方がいい。誰かの家の事情を知らない顔で通り過ぎることも、年寄りの役目です」
「でも、黙ったままなら、誰か一人に全部が集まる」
「そうですな」
矢野さんは認めた。
「そうなることもあります」
「知っていたんですね」
「何をです?」
「叔母さんが、ほとんど一人で祖父を看ていたこと」
矢野さんの指が膝の上で重なった。
「夜中に灯りがついていた。台所の窓が、朝になっても暗かった。澄江さんが買い物袋を提げて、雨の中を何度も坂へ下りていた。見ていれば分かります」
「それでも、誰も言わなかった」
「言えば、手を貸す責任が生まれる」
「だから見なかったことにした」
「そうとも言えます」
「あなたも?」
矢野さんは、視線を落とした。
「私もです」
その答えは小さかった。
仏間の鴨居で、線香の煙が急に濃くなった。三本の黒い染みの下を、白い筋が順番に撫でていく。三本目の先で煙が結び目のように絡まり、そのまま消えた。
矢野さんが鴨居を見上げた。
今度は、確かめることを隠さなかった。
「矢野さん、この染みを知っているんですか」
私が問うと、矢野さんの顔から血の気が少し引いた。
「古い家ですからな」
「その答えは聞き飽きました」
「木は、いろいろ吸います。雨も、煙も、人の手の脂も」
「言葉も?」
矢野さんは答えなかった。
浩一叔父さんが立ち上がった。
「矢野さん、今日はもう十分でしょう。雨も強くなってきた」
「そうですな。長居をしては、かえってご迷惑だ」
叔父さんは玄関へ向かうため、仏間の戸を開けた。戸車が湿気で重くなっており、がた、と低い音がした。
矢野さんは立ち上がり、座布団の向きを直した。帰る人間の動作としては、あまりに几帳面だった。祖父の家で、祖父の癖をなぞっているように見えた。
玄関まで見送ろうとすると、矢野さんは私の隣で足を止めた。
「真琴ちゃん」
「はい」
「古い話は、古いままの方が楽なこともあります」
声は優しかった。雨に濡れた布をそっと絞るような、力のない声だった。
「楽なのは、誰ですか」
矢野さんは笑った。
笑ってから、答えなかった。
「若い人は、正しさを大事にする。けれど、正しさは腹を満たしてくれんし、眠らせてもくれん。ここで暮らしていくには、少しぐらい見ないふりを覚えた方がいい」
「私も、そうやってきました」
「そうでしょうな」
「でも、見ないふりをしている間に、消えたものがある」
矢野さんの笑みが、わずかに揺れた。
「消えたのではなく、沈んだだけかもしれません」
「沈んだものは、いつか浮く」
「浮かないように、重しを置くのが大人の役目です」
「その重しで、誰かが息をできなくなっても?」
矢野さんは答えなかった。
玄関の外では雨が細く降り続いている。濡れた傘の先から、水滴が土間へ落ちていた。矢野さんは靴を履き、傘を開いた。骨が伸びる音が、家の中の沈黙を一度だけ裂いた。
「仏間には、あまり長く籠らん方がええですよ」
そう言い残し、矢野さんは雨の向こうへ歩いていった。
私は玄関先に立ち、背中が坂の下へ消えるまで見送った。矢野さんは何度も振り返りそうになったが、一度も振り返らなかった。傘の黒い布だけが、雨の中でゆっくり遠ざかる。
戸を閉めると、家の匂いが戻ってきた。
線香の甘さ。湿った柱。古い紙。濡れた土の残り香。
「真琴」
背後で浩一叔父さんが呼んだ。
「矢野さんの話を、外で繰り返すな」
「事故のこと?」
「何の話もだ」
「叔父さんは、あの事故を知ってるの」
「町内の昔話だ」
「矢野さんは、病院や土地の話までしていた」
「年寄りの話を真に受けるな」
「真に受けているんじゃない。言葉の間を見ているの」
叔父さんは黙った。手元の鍵束を握り直す。祖父から渡された古い鍵束だと、以前聞いたことがある。鍵は何本もあるのに、どの扉を開けるものか分からないものが混じっている。
「昔、町外れで何かあった」
私は言った。
「祖父が関わって、矢野さんが知っていて、誰かが病院へ運ばれた。そのあと、町内で話を止めた。違う?」
「推測だ」
「否定しないんだね」
「否定しても、お前は別の形で疑う」
「だったら、話して」
「話せば、何かが解決すると思うのか」
「少なくとも、今よりは分かる」
「分かることが、いつも人を救うわけじゃない」
「分からないまま誰かに押しつけるよりは、ましでしょう」
叔父さんは仏間へ目を向けた。
戸は開いている。鴨居の三本の染みが、暗い部屋の中で濡れたように黒く浮かんでいた。
「お前は、何も知らない」
「だから聞いている」
「知らないから聞けるんだ。知れば、簡単には言えなくなる」
「叔父さんは、知っているから言えないの」
その問いに、叔父さんは答えなかった。
代わりに、玄関の鍵を確かめた。閉まっているのに、もう一度回す。金属が錠の中で擦れ、乾いた音を立てた。
「今日はもう休め」
「叔父さん」
「矢野さんの話は、忘れろ」
「忘れることはできない」
「忘れろと言っているんじゃない。考えるな」
「それは同じことだよ」
叔父さんは返事をせず、台所へ向かった。茶を淹れ直すのだろう。話を終わらせるとき、叔父さんはいつも何か別の用事を始める。
私は仏間に戻った。
線香はまだ燃えていた。煙はまっすぐ上がらず、鴨居の黒い染みへ向かって細く伸びている。三本目の線の先で、煙が何度も折れた。
私は手帳を開いた。
矢野庄司。
事故。
町外れ。
病院。
重し。
その五つを、順番に書いた。
書き終えたとき、鴨居の染みが一本増えていた。
四本目は、三本目のすぐ隣ではなかった。少し離れた場所から、仏間の外へ向かって伸びている。まるで、誰かが内側から爪を立て、閉じた戸の方へ這い出そうとしているようだった。
私は立ち上がり、近づいた。
触れたくないのに、目が離れない。
黒い線の表面は、湿った皮膚のように鈍く光っていた。煤なら乾いているはずなのに、そこだけが水気を帯びている。指先を伸ばせば届きそうで、実際には、どれだけ手を上げても距離が縮まらない。
背後で、線香がぱち、と鳴った。
煙が四本目へ吸い込まれていく。
私は手帳に、もう一度だけ書き足した。
言わない人は、何を守っているのか。
紙の上で文字が乾くまで、私は仏間を出られなかった。
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