第9話 矢野の咳払い

矢野庄司が訪ねてきたのは、梅雨の雨が細かく戸を叩く夕方だった。
雨は朝からやまず、庭の土は黒く濡れていた。軒先から落ちる雫が、石のたたきに小さな穴を穿っている。桐生家の中は昼間から薄暗く、雨戸を閉めた部屋には、湿った柱と古い畳の匂いがこもっていた。仏間から流れてくる線香の甘さは、その匂いを消すどころか、黴の奥へ押し込めるように重なっていた。
玄関の戸を叩く音がした。
一度。
間を置いて、もう一度。
「はい」
返事をしたのは澄江叔母さんだった。流しで茶碗をすすいでいた手を止め、濡れた指先をエプロンの裾で拭う。水はまだ蛇口から細く流れていたが、叔母さんはそれを閉めずに土間へ向かった。
「おやまあ、矢野さん。雨の中をすみませんなあ」
「こちらこそ、急にお邪魔して。仏さんへ、ほんの気持ちです」
矢野さんの声が聞こえた。柔らかく、いつも通り人当たりがいい。その柔らかさが、今日は妙に薄い布のように感じられた。何かを覆うには、少しばかり湿っている。
私は仏間の脇で、祖父の帳面を開いていた。通帳の数字と、澄江叔母さんの領収書を日付順に並べ、私の字で写し直している。紙の端を揃え、病院、薬局、介護用品の順に重ねていた。整えれば見えると思っていた。けれど、紙を揃えるほど、隙間の形がはっきりしてくる。
鴨居には、黒い染みが四本あった。
一本目は仏壇の真上から長く伸び、二本目はその左で途切れている。三本目は節の脇から生えたように短く、四本目は仏間の外へ向かって斜めに走っていた。線香の煙は、その四本目の下でだけ細くねじれている。
澄江叔母さんが矢野さんを連れて戻ってきた。
矢野さんは濡れた傘を玄関脇へ立てかけ、紙袋に入った菓子折りを両手で差し出した。
「仏壇へ置いてください。大したものではないですが」
「いつも、すみません」
「いやいや、こういうときは持ちつ持たれつですからな」
矢野さんは笑った。
笑いながら、まず位牌へ頭を下げた。それから仏間へ入る。座布団に腰を下ろす前、彼の視線が鴨居へ上がった。
一瞬だった。
けれど、私には分かった。
矢野さんは染みを見た。
見たというより、そこに何本あるのかを確かめた。
「浩一さんは?」
「奥の座敷で、書類を見ています」
「そうですか。では、少しだけご挨拶を」
矢野さんは座布団の向きを直し、仏壇に近い位置へ座った。祖父が生前、客を迎えるときと同じ座り方だった。膝の前に両手を置き、背筋を伸ばし、顔には人を安心させるための笑みを浮かべる。
私は台所へ行き、湯を沸かした。
やかんの底が火に触れる音がする。雨音に混じって、二階の床板が一度だけ鳴った。私は急須へ茶葉を入れ、湯を注ぐ。立ちのぼった湯気が鼻先へまとわりつく。線香の甘さ、濡れた土、古い紙、茶葉の渋み。匂いが幾重にも重なり、息を吸うほど喉の奥へ沈んでいった。
湯呑みを三つ盆に載せ、仏間へ戻る。
「これはこれは、真琴ちゃん。手間をかけるねえ」
「どうぞ」
「字のきれいな人が淹れると、茶まできちんとして見える」
「お茶に字は関係ないでしょう」
「そうですかなあ。手元のきれいな人は、ものを乱さない。徳次郎さんも、真琴ちゃんの字をずいぶん買っておられた」
私は矢野さんの前へ湯呑みを置いた。
「祖父は、私の字を使っていただけです」
「使う、というのは便利な言葉ですな」
「どういう意味ですか」
「いやいや、悪い意味ではありません。自分の言葉を誰かの手で書いてもらう。そうすれば、言葉が少し柔らかくなる。本人が言えば角の立つことも、真琴ちゃんの字なら、役所も町内会も読みやすい」
「祖父は、柔らかくしたかったんでしょうか」
「家の人間というのは、硬いままでは外へ出られませんからな」
矢野さんは茶をすすった。
その横顔を見ながら、私は祖父の書類を思い出した。町内会費の集計、道路工事への要望、役所へ出す事情説明。祖父は私の前に紙を置き、短い言葉で訂正を指示した。書け、ではなく、ここをこう。自分の声を紙へ移す代わりに、私の手を使った。
あの中に、あの便箋のような文章も混じっていたのだろうか。
「徳次郎さんは、帳面だけはほんにきれいでしたなあ」
矢野さんが言った。
「数字が一つずれていると、朝から晩まで気にされた。領収書の向きまで揃えさせる。けれど、庭の草が伸びても、家の中の雨漏りがあっても、そちらは後回しでした」
「外から見えるものを、先に整えたんですか」
「旧い家の主ですからな。家の中が多少濡れていても、玄関がきれいなら、客はそう簡単には気づかない」
「気づいても、言わない人が多いでしょう」
矢野さんは、湯呑みの縁へ口をつけたまま止まった。
その間に、奥の座敷から浩一叔父さんが入ってきた。
「矢野さん、雨の中をどうも」
「こちらこそ。法要の後始末もまだお忙しいでしょう」
「挨拶回りの件なら、来週までに終えるつもりです。雨が続くようなら、順番を少し変えますが」
「ええ、ええ。そういうことは、急がずきちんとされるのが一番です」
浩一叔父さんは机の上に置かれた紙束を見て、角を揃えた。私が書き写していた帳面にも手を伸ばしかけ、触れずに引っ込める。
矢野さんは、その動きを見ていた。
「徳次郎さんの帳面も、あんなふうでした。紙は、きれいに並べるほど大事なところが見える。そう言っておられましたよ」
「父は几帳面でしたから」
「ええ。几帳面という言葉は、きれいに聞こえますな」
矢野さんは笑った。
「責任感が強い、と言えば、もっときれいに聞こえる。家のことを守った、と言えば、誰も責めにくくなる」
「何の話ですか」
叔父さんの声が低くなった。
「いやいや、昔話です。年を取ると、話が長くなっていけませんなあ」
矢野さんはそう言い、障子の外へ顔を向けた。
「今年は雨が多い。紫陽花には具合がいいですが、山の斜面にはよくない。水を含んだ土は、表面だけ見ても分かりませんからな」
私は筆を置いた。
「町外れの事故のことを知っていますか」
矢野さんの手が、湯呑みの縁で止まった。
叔父さんが私を見た。目ではなく、眉間のあたりを。
「真琴、その話は」
「祖父の帳面に、病院の名前がいくつも残っている。知らない人の名前もあった。町外れの斜面で、誰かが怪我をしたという話を聞いたことがあるの」
矢野さんは短く息を吸い、咳払いをした。
「雨の日でしたなあ」
「雨の日?」
「事故のあった頃も、たしか雨の後でした。崖というものは、晴れているときでも内側に水を抱えている。草が生えていれば、地面が固いように見える。けれど、根の下は空洞になっていることもある」
「誰がいたんですか」
「道には、いろんな人がおりますからな」
「祖父は?」
「徳次郎さんは、山道をよく知っていました」
「現場にいたんですか」
矢野さんは笑った。今度の笑みは、口元だけだった。
「近くには、いたかもしれませんな」
「いたかもしれない、ではなくて、いたんですね」
「昔の話です」
「誰かが病院へ運ばれた」
「そういう噂は、ありました」
「噂ではなく、事実を聞いています」
「真琴ちゃんは、昔より真っ直ぐになられた」
「昔は、祖父の言葉を私の字に直していたからです」
「それは、ずいぶん便利な仕事でしたな」
「便利でした。誰かが言いたいことを、私が言ったことにできたから」
矢野さんの表情が変わった。驚いたのか、困ったのかは分からない。ただ、膝に置いた手の指がゆっくり組み直された。
「言葉は、整えた方が人を傷つけません」
「傷つけないために、嘘になることもあります」
「嘘と配慮は、紙一重です」
「事故で誰かが怪我をしたかどうかも、配慮ですか」
雨音が一段強くなった。
線香の煙が仏壇の前に溜まり、白い層を作った。鴨居の染みが、その向こうで滲んで見える。
矢野さんは湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
「誰かが怪我をした、という話は聞いておりません」
「聞いていないだけでしょう」
「私に分かることには限りがあります」
「でも、病院のことは知っている」
「病院は、怪我人だけが行くところではありません」
「祖父の書類に、消された住所がある。名前の一部も残っている。あなたは町内会長で、当時のことを知っている。誰が病院へ行ったのか、知らないはずがない」
矢野さんは目を細めた。
「知っていることを全部言うのが、いつでも親切とは限りませんよ」
「言わないことが、誰かを守ることになる場合もある?」
「あります」
「誰を守るんですか」
矢野さんは、答える前にまた咳払いをした。今度は短く、喉の奥で音を折るような咳だった。
「家を守る場合もある。亡くなった人の名前を守る場合もある。残された人間の暮らしを守る場合もある」
「それで、傷ついた人の名前は?」
「名前を口にしても、その人が戻ってくるわけではありません」
「戻らなくても、いたことは残る」
「残れば、今度は生きている者が背負う」
「最初から背負っているものを、見えるようにするだけです」
「それが若さですなあ。見えるようにすれば、正しくなると思っている」
「正しくならなくても、間違ったまま隠されるよりいい」
「正しさというのは、時に人の暮らしを壊します。役所へ話が行けば、土地の話になる。土地の話になれば、家の話になる。家の話になれば、誰が知っていたかが問われる。そこへ亡くなった人間の落ち度まで重なれば、誰もきれいには生きられない」
「きれいに生きているように見せるために、誰かを消すの?」
「消したつもりはありません」
「名前を言わなければ、記録からは消えます」
矢野さんは、初めて私をまっすぐ見た。
「真琴ちゃん。あんたは、徳次郎さんの字をよく見ていたでしょう」
「はい」
「あの人は、書くことで責任を残す人ではなかった。書くことで、責任の置き場所を変える人でした。自分の名前を書けば、自分が背負う。だから、別の言葉にする。事情にする。経過にする。町内の判断にする。そうやって、ひとつの重たいものを、みんなの足元へ少しずつ配る」
「配ったんじゃない。誰か一人に寄せた」
「そうですな」
矢野さんは否定しなかった。
「結局は、そうなったのでしょう」
「誰に?」
矢野さんは答えず、湯呑みをすすった。わざと音を立てているように聞こえた。
「叔母さんが祖父をほとんど一人で看ていたことも知っていたんですね」
「夜中に灯りがついていた。朝になっても、台所の窓が暗かった。澄江さんが雨の中を買い物袋を提げて坂を下りていた。見ていれば分かります」
「それでも、誰も手を貸さなかった」
「手を貸せば、事情を知ることになります」
「知ったら、責任が生まれるから?」
矢野さんは目を伏せた。
「そうです」
「知っていたのに、知らないふりをした」
「そうとも言えます」
「あなたも?」
長い沈黙のあと、矢野さんは膝の上で手のひらを開いた。
「私もです」
小さな声だった。
その瞬間、線香の煙が急に濃くなった。
白い筋が鴨居へ伸び、四本の黒い染みを順番になぞる。四本目の先で煙が結び目のように絡まり、消えた。
矢野さんは鴨居を見上げた。
「この染みを知っているんですか」
私が訊くと、矢野さんの顔から笑みが消えた。
「古い家ですからな」
「その答えは、もう聞き飽きました」
「木は、いろいろ吸います。雨も、煙も、人の手の脂も」
「言葉も?」
矢野さんは答えなかった。
叔父さんが立ち上がった。
「矢野さん、今日はもう十分でしょう。雨も強くなってきた」
「そうですな。長居をしては、かえってご迷惑だ」
叔父さんは仏間の戸へ手をかけた。戸車が湿気を含み、がた、と低く鳴る。
矢野さんは座布団から立ち上がると、乱れた畳の目を手で撫でた。祖父が客を帰すときにしていた仕草だった。見送る者に背を向ける前に、最後の乱れを一つだけ正す。
玄関へ向かう途中、矢野さんは私の隣で足を止めた。
「真琴ちゃん」
「はい」
「古い話は、古いままの方が楽なこともあります」
声は優しかった。だからこそ、その言葉が口止めなのか忠告なのか判断できなかった。
「楽なのは、誰ですか」
矢野さんは笑った。
笑ってから、答えなかった。
「若い人は、正しさを大事にする。けれど、正しさは腹を満たしてくれんし、眠らせてもくれん。ここで暮らしていくには、少しぐらい見ないふりを覚えた方がいい」
「私も、そうやってきました」
「そうでしょうな」
「でも、見ないふりをしている間に、消えたものがある」
矢野さんの笑みがわずかに揺れた。
「消えたのではなく、沈んだだけかもしれません」
「沈んだものは、いつか浮く」
「浮かないように、重しを置くのが大人の役目です」
「その重しで、誰かが息をできなくなっても?」
矢野さんは、今度も答えなかった。
玄関の外では、雨が細く降り続いている。傘の骨が開く音が、家の中の沈黙を一度だけ裂いた。
「仏間には、あまり長く籠らん方がええですよ」
矢野さんはそう言い残し、雨の中へ出ていった。
私は玄関先に立ち、黒い傘が坂の下へ消えるまで見送った。矢野さんは一度も振り返らなかった。けれど、歩幅は一定ではなかった。何かを言い忘れた人間の歩き方だった。
戸を閉めると、家の匂いが戻ってきた。
線香の甘さ。濡れた土。古い紙。湿った柱。
「真琴」
背後で叔父さんが呼んだ。
「矢野さんの話を、外で繰り返すな」
「事故のこと?」
「何の話もだ」
「叔父さんは、あの事故を知っているの」
「町内の昔話だ」
「矢野さんは、病院の話をした。土地の話もした」
「年寄りの話を真に受けるな」
「真に受けているんじゃない。言葉の間を見ているの」
叔父さんは答えず、手元の鍵束を握り直した。祖父から渡された古い鍵束だ。どの扉を開けるものか分からない鍵が、何本も混じっている。
「昔、町外れで何かあった」
私は言った。
「祖父が関わって、矢野さんが知っていて、誰かが病院へ運ばれた。そのあと、町内で話を止めた。違う?」
「推測だ」
「否定しないんだね」
「否定しても、お前は別の形で疑う」
「だったら、話して」
「話せば、何かが解決すると思うのか」
「少なくとも、今よりは分かる」
「分かることが、いつも人を救うわけじゃない」
「分からないまま、誰かに押しつけるよりはましでしょう」
叔父さんは仏間へ目を向けた。
戸は半分開いている。鴨居の黒い染みが、暗い部屋の中で濡れたように浮かんでいた。四本目の先から、細い黒い筋がさらに伸びている。
「お前は、何も知らない」
「だから聞いている」
「知らないから聞けるんだ。知れば、簡単には言えなくなる」
「叔父さんは、知っているから言えないの」
叔父さんは答えなかった。
代わりに玄関の鍵を確かめた。閉まっているのに、もう一度回す。金属が錠の中で擦れ、乾いた音を立てた。
「今日はもう休め」
「叔父さん」
「矢野さんの話は、忘れろ」
「忘れることはできない」
「忘れろと言っているんじゃない。考えるな」
「それは同じことだよ」
叔父さんは返事をせず、台所へ向かった。話を終わらせるとき、叔父さんはいつも別の用事を始める。茶を淹れ直す。書類を束ねる。戸締まりを確かめる。手を動かしているあいだだけ、言葉から逃げられるのだろう。
私は仏間へ戻った。
線香はまだ燃えていた。煙はまっすぐ上がらず、鴨居の染みへ向かって細く伸びている。四本目の先で、何度も折れた。
私は手帳を開いた。
矢野庄司。
事故。
町外れ。
病院。
重し。
五つの言葉を、順番に書いた。
紙の上で、最後の「し」の払いがわずかに震えた。
書き終えたとき、鴨居の染みが一本増えていた。
五本目は、四本目の隣ではなかった。少し離れた場所から、仏間の外へ向かって伸びている。誰かが木の内側から爪を立て、閉じた戸の向こうへ這い出ようとしているようだった。
私は立ち上がり、近づいた。
触れたくないのに、目が離れない。
黒い線は、煤のように乾いていなかった。表面がかすかに濡れ、古い皮膚のような光を返している。指先を伸ばせば届きそうなのに、手を上げるほど距離が遠くなる。
背後で、線香がぱち、と鳴った。
煙が五本目へ吸い込まれていく。
私は手帳に、もう一度だけ書き足した。
言わない人は、何を守っているのか。
文字が乾くまで、私は仏間を出られなかった。
雨戸の向こうで、山から流れてきた水が軒を打っている。
その音の合間に、誰かが小さく咳払いをした。
私の背後ではなかった。
仏壇の奥、祖父の遺影の下からだった。
← 横にスクロールして読み進められます
