第4話 通帳の底

矢野庄司が帰った翌朝、私は仏間の戸を開ける前に、廊下の端で一度立ち止まった。
夜のあいだに雨が降ったらしい。雨戸の隙間から入った湿気が畳に沈み、足を置くたび、目に見えない水が畳の芯から滲み出してくるようだった。台所では、澄江叔母さんがもう湯を沸かしている。やかんの底が火に触れる音、流しへ水が落ちる音、布巾を絞る音。祖父が死んでからも、朝は同じ順番で始まっていた。
私は仏間を見た。
鴨居には、黒い染みが三本あった。
昨夜までは二本だったはずだ。矢野さんが帰ったあと、私は仏間の戸を閉め、何度も振り返りながら自分の部屋へ戻った。そのとき見た鴨居には、仏壇の真上に太い線が二本、互いに少し離れて並んでいた。
今朝は、その間に短い線が増えている。
線香の煙が、まだ火をつけていない香炉の上で揺れていた。風はない。湿った空気が動いているだけだと思おうとしたが、煙はまっすぐ上がったあと、鴨居の三本目へ向かって細く折れた。
私は息を浅くした。
「真琴ちゃん、朝ごはん」
台所から声がした。
「うん。今行く」
返事をしても、しばらく足が動かなかった。染みは、見つめるほど輪郭を変えた。墨で描いた線ではない。黒いものが木の内側を這い、乾く前の傷口のようにゆっくり開いている。
私は視線を外し、仏間の脇に置かれていた祖父の遺品箱を見た。
箱の蓋は閉じている。けれど、あの中にはまだ見ていないものがある。通帳、帳面、病院の領収書。遺品箱の底から見つけた数字の切れ端が、手帳の頁に挟まっている。七の払いが長い、祖父の字。ある月だけ、急に桁が増え、そのあと何事もなかったように元へ戻っている。
私は遺品箱を抱えた。
段ボールの底が腕に食い込んだ。箱の中身は大した重さではないはずなのに、運ぶたび、誰かの沈黙を抱えているような重さがあった。
台所へ入ると、澄江叔母さんは味噌汁の鍋を火から下ろしていた。湯気が顔の前にまとわりつき、目の下の影を一瞬だけ隠した。
「それ、どこへ持っていくの」
「仏間の脇。少し整理したい」
「朝ごはんのあとでいいでしょう」
「数字を確認したいの」
澄江叔母さんの手が止まった。鍋の蓋を持ったまま、私を見る。すぐに目を逸らし、味噌汁を椀へよそい始めた。椀の縁から湯気が上がり、鼻の奥へ味噌と線香の匂いが同時に入り込んでくる。
「お父さんの通帳なら、浩一さんが見るよ」
「叔父さんが見るから、私も見たい」
「相続のことは、順番があるから」
「順番って、誰が決めるの」
澄江叔母さんは答えなかった。代わりに、焼き魚の皿を卓の中央へ置き、箸の向きを揃えた。魚は昨夜の残りだった。皮が乾き、身の端が硬くなっている。
「冷めてる」
「温め直す」
「叔母さん、もういいよ。私がやる」
「いい。座ってて」
澄江叔母さんは魚の皿を持ち上げ、台所へ戻った。流しの横に置かれた電子レンジの扉を開け、皿を中へ入れる。音を立てないようにしているのか、扉を閉める手つきが妙に慎重だった。
「澄江叔母さん」
「なに」
「通帳を見たことがあるなら、最初からそう言って」
「見たよ」
返事は早かった。
「でも、見たからって分かるわけじゃない。お金の流れが分かっても、誰が何を考えていたかまでは書いてないから」
「だから確認したいの。帳面と領収書を一緒に見れば、少しは分かる」
「分かって、どうするの」
「どうするかは、分かってから決める」
電子レンジが低く唸り始めた。澄江叔母さんはその音を聞きながら、布巾を水で濡らし、何度も絞った。感情が高ぶると、彼女は布巾を強く絞る。水が流しの底へ細く落ちていく。
「真琴ちゃんは、昔からそうだったね」
「何が」
「分からないまま置いておけない。紙の順番が違ってると直す。祖父さんの言葉が途中で抜けてると、何度も聞き返す。自分で書いたものなら、なおさら」
「書いたものは残るから」
「残るから怖いんだよ」
澄江叔母さんは布巾を置き、電子レンジの表示を見た。残り時間はまだ長い。けれど、もう魚は十分に温まっているように思えた。
「残ったものを見れば、誰かが悪いことをしたみたいに見える。使った金、使わなかった金、払った日、払わなかった日。数字は黙ってるけど、黙ってるから、見る人の都合で何にでもなる」
「数字は都合で変わらないよ」
「変わるよ。誰の名前を書くかで変わる。誰の支払いにするかで変わる。私が買ったものでも、お父さんの年金から出したことにすれば、お父さんの生活費になる。私が立て替えたものでも、家の雑費にすれば、誰も私に借りがあるとは思わない」
電子レンジが音を立てて止まった。
澄江叔母さんは扉を開け、皿を取り出した。熱いはずなのに、素手で持っている。指先が赤くなった。
「熱いよ」
「平気」
「そう言って、いつも火傷するでしょう」
「火傷くらいなら、冷めたものを食べるよりまし」
その言葉に、祖父の晩年の食卓が急に浮かんだ。
澄江叔母さんが、固くなったご飯を湯で柔らかくしていた。祖父は椅子に座ったまま、箸を持つこともできず、口を結んでいた。叔母さんが匙を近づけると、祖父は顔を背けた。けれど、しばらくすると、何も言わず口を開けた。食べ終わるまで、澄江叔母さんは一度も座らなかった。
あのとき私は、廊下の柱の陰から見ていた。
手伝おうかと言えばよかった。代わろうかと言えばよかった。
でも祖父が私を見た。たった一度、目を上げただけだった。その視線に押され、私は何も見なかったように離れた。
「真琴ちゃん」
澄江叔母さんの声で、私は現在へ戻った。
「食べて。魚、温めたから」
私は頷いた。魚の皿を受け取ると、指先に熱が伝わった。熱さは、痛みになる寸前で止まっていた。
朝食を終えると、私は遺品箱を仏間へ運んだ。澄江叔母さんは止めなかった。止めない代わりに、台所から何度もこちらを見ていた。
畳の上に新聞紙を敷き、帳面と通帳を並べる。祖父の帳面は、表紙が擦れて白くなっていた。角は丸く、紙の端には手垢が染み込んでいる。開くと、日付と金額が規則正しく並んでいた。
病院。薬局。診察代。紙おむつ。米。灯油。町内会費。
どれも一度に見れば、暮らしの中の小さな出費に過ぎない。けれど、同じ日付の欄に、澄江叔母さんの買い物控えと通院の記録を重ねると、一日の輪郭が変わった。
朝、薬を取りに行く。
昼、米を炊く。
夕方、病院へ電話をする。
夜、祖父の身体を起こす。
その合間に灯油を買い、町内会費を払い、家の食料を揃える。
帳面の数字は、澄江叔母さんの一日を細かく切り刻んでいた。千円、八百円、三百二十円。小さな金額のひとつひとつに、靴を履き、坂を下り、帰ってきて手を洗った時間があった。
通帳の残高を確認する。
祖父の年金が入った数日後、病院代と薬代が引き落とされる。そのあと、生活費が減る。残高が底に近づくと、澄江叔母さん名義の口座からまとまった金額が移されていた。
私は日付を指でなぞった。
その振り込みは、毎月ではなかった。祖父の症状がひどくなった時期だけ、間隔を空けて繰り返されている。金額は同じではないが、どれも家賃や光熱費を含めた一か月分に近い。
さらに帳面の端には、祖父の字で短い記号が書かれていた。
「澄」
その下に、金額。
けれど、それは返済の記録には見えなかった。何月にいくら借りた、ではなく、ただ金額だけが並んでいる。澄江叔母さんが家のために出した金を、祖父は知っていた。知っていたのに、返した記録がない。
私は指先で紙の端を押さえた。
祖父は、澄江叔母さんに借りていた。
金だけではなく、時間も、睡眠も、身体も。
そのどれにも、帳面の中で返済の印はついていなかった。
「それ、どこから出した」
背後から声がした。
振り返ると、浩一叔父さんが仏間の入口に立っていた。朝の新聞を脇に挟み、眼鏡の位置を直している。いつもなら、まず座布団を直すか、仏壇の線香を確認する。今日はそれをせず、通帳だけを見ていた。
「遺品箱から」
「通帳は、まだ整理の途中だ」
「整理の途中なら、見てもいいでしょう」
「何を見ている」
「祖父のお金の出入り」
「相続に関係するものだけ、後でまとめて説明する」
「介護費用は相続に関係ないの」
「関係はある。だから、順番を守れと言っている」
「叔母さんが立て替えたお金も、後で説明するつもりだった?」
叔父さんは答えなかった。手にしていた新聞の角を、親指で押さえた。
「澄江の口座から移した分のことか」
その言葉で、胸の奥が冷えた。
「知ってたんだ」
「家の金の出入りだからな」
「じゃあ、どうして帳面には何も書いてないの」
「書いてあるだろう」
「これは金額だけ。誰に返したか、何のために使ったか、記録がない」
「生活費だ」
「誰の生活費?」
「家のだ」
「家って、誰?」
叔父さんは仏壇の方を見た。鴨居の黒い染みが、彼の肩越しに見える。三本目の線が、朝よりも太くなっていた。
「家の維持には金がかかる。病院や薬だけじゃない。光熱費も食費も修繕費もいる。祖父の年金だけでは足りなかった。それを澄江が補った。俺も出した」
「いくら」
「必要な分だ」
「金額を聞いているの」
「細かく言えば、家族の間で余計な感情が出る」
「もう出てるよ。帳面に」
叔父さんの顔が硬くなった。
「真琴。金は、出した人間が偉いという話ではない」
「そういう話をしてない」
「介護をした人間が全部正しく、しなかった人間が全部悪い、という単純な話にもできない。俺には仕事があった。町内のことも、親族への連絡も、葬儀の手配も、祖父の名義の整理もあった。澄江が現場を担ったのは事実だが、俺には俺の役目があった」
「役目って言えば、何でも許されるの」
「許されるとは言っていない」
「じゃあ、何なの。叔母さんが夜中に起きて、あなたが朝に来て、祖父の顔を見て帰る。それで同じだけ背負ったことになるの?」
「同じだけとは言っていない」
「でも、同じ家族でしょう」
「家族だから、同じことをする必要はない」
「家族だから、誰か一人にやらせていいわけでもない」
言葉を重ねるほど、声は落ち着いていった。怒鳴るよりも、帳面の数字を読み上げる方が、今の私には自然だった。
「祖父の年金だけでは、毎月赤字だった。叔母さんが自分の口座から補填していた。叔父さんはそれを知っていた。でも、帳面に返済の記録を残さなかった。どうして?」
叔父さんは一拍置いた。
「返すつもりだった」
「いつ」
「相続が終わってから」
「相続が終われば、返すつもりだった?」
「そうだ」
「でも、祖父の土地と家を売る話は、先に進めていたよね」
叔父さんの目が上がった。
私は、遺品箱の底にあった封筒を思い出していた。祖父の名義が印刷された封筒の中に、家の評価額と、町外れの土地に関する不動産会社の案内が入っていた。澄江叔母さんが隠した便箋ほど目立つものではなかったが、封筒の折り目は新しかった。
「家を売るつもりなの」
「まだ決まっていない」
「でも、話はしている」
「古い家を維持するのは難しい。修繕費もかかる。誰かが住み続ける予定がないなら、売却も選択肢だ」
「叔母さんが立て替えたお金を返すため?」
「それだけではない」
「じゃあ、何のため?」
「家を残すことが、必ずしも家族を守るわけじゃない」
その言葉だけは、叔父さんの口から出たとは思えなかった。家を守ることを何より重く見ていた人間の言葉にしては、妙に疲れていた。
私は通帳を閉じた。
「それなら、最初からそう言えばよかったでしょう」
「何を」
「祖父が死んだあと、この家を売るかもしれない。叔母さんの立て替え分は、相続で整理する。介護の負担は、あなたが見ないままでも存在している。全部、最初から言えばよかった」
「言えば、まとまるのか」
「少なくとも、黙っているよりは」
「黙っているから、ここまで来たんだ」
叔父さんの声が、初めて乱れた。
「俺が何も言わなかったから、葬儀はできた。親族を呼べた。近所にも頭を下げられた。澄江が限界でも、家の中が止まらずに済んだ。何も言わずに手を動かす人間がいたから、外から見れば、祖父は穏やかに看取られた。そういう形にする必要があったんだ」
「誰にとって?」
「皆にとってだ」
「また、その言葉」
「家というのは、誰か一人の正しさで動くものじゃない。正しいことを全部言えば、誰かが必ず傷つく。傷ついた人間が外へ出れば、家は戻らない。俺は、それを防いでいる」
「防いでいるんじゃない。見えないところへ押し込んでいるだけだよ」
言葉を発した瞬間、仏間の奥で線香がぱちりと鳴った。
煙が一度、床の近くまで垂れた。白い筋が畳の上を這い、そこから鴨居へ向かって急に立ち上がる。三本の染みの下で煙が渦を巻いた。
叔父さんは振り返った。
染みを見たのかどうか、私には分からなかった。ただ、彼の顔から、管理する人間の表情が少しだけ剥がれた。
「通帳を閉じろ」
「まだ見終わってない」
「閉じろ」
「何が書かれているか確認するだけで、家が壊れるの?」
「確認することが、壊すことにつながる場合もある」
「じゃあ、確認しなかったことは、守ったことになる?」
叔父さんはしばらく黙っていた。
畳の上に置いた通帳の綴じ目が、湿気でわずかに膨らんでいる。私はそこへ指を置いた。紙が柔らかく、皮膚に吸いつくようだった。
「祖父は、叔母さんに返すつもりがあったの」
「父さんのことは、父さんに聞け」
「もう聞けない」
「だったら、死人の代わりに生きている人間を責めるな」
「責めてない。知りたいだけ」
「知ってどうする」
「知らないまま、また誰かに押しつけるのは嫌なの」
叔父さんは立ち上がった。話を終わらせるときの仕草だった。膝を小さく叩き、机の上の通帳へ手を伸ばす。
私はその手を押さえた。
叔父さんの手は冷たかった。けれど、指先には力がある。二人の手の下で、通帳の紙が軋んだ。
「離せ」
「嫌」
「真琴」
「これは祖父のものでも、叔父さんのものでもない。叔母さんが使った時間の記録でもある」
「金の話に時間を持ち込むな」
「金だけで済ませようとしたのは、あなたでしょう」
叔父さんの顔が近くにあった。眼鏡の奥の目が、怒りよりも疲れに濁っている。怒っているのではない。もう長い間、誰かにそう言われることを待っていたような目だった。
だが、叔父さんは手を引いた。
「好きにしろ」
「本当に?」
「ただし、外へ持ち出すな。家の中で確認しろ。ここにあるものは、ここで整理する」
「それは約束?」
「家族としての話だ」
「家族なら、嘘をつかないで」
叔父さんは答えなかった。
仏間の外で、澄江叔母さんが立っていた。いつから聞いていたのか分からない。手には、古い領収書の束を持っている。束の端が何度も折られ、紙紐が食い込んでいた。
「澄江」
叔父さんが呼ぶ。
「通帳、見せてあげれば」
澄江叔母さんは、領収書を卓の上へ置いた。
「もう見てるよ」
「そうか」
「私の口座から出した分、全部は書いてない」
叔父さんは視線を落とした。
「返すつもりだった」
「その言葉、何回聞いたかな」
澄江叔母さんは笑わなかった。領収書の束をほどき、一枚ずつ卓へ広げていく。病院、薬局、介護用品、灯油。日付の横に、鉛筆で小さく丸がついている。丸の濃さが違った。急いでつけたもの、眠気の中でつけたもの、何度も確認してからつけたもの。
「私はね、金額を返してほしいだけじゃない」
澄江叔母さんは言った。
「お父さんのために使ったものを、家の出費の一言で終わらせないでほしい。私が買ったものを、誰かが勝手に家族の金にしないでほしい。夜中に起きた回数も、食べさせた回数も、吐いたものを洗った回数も、領収書には書けない。でも、だからって、なかったことにはならないでしょう」
叔父さんは領収書を見ていた。手を伸ばさない。紙の端を揃えることもできず、ただそこにある数字を見ている。
「俺は、澄江がやってくれたことを軽く見ていたわけじゃない」
「軽く見てないなら、重さを測ったことがある?」
「……」
「どれくらい重いか、考えたことがある?」
澄江叔母さんは、そこで一度言葉を切った。台所のやかんが、火を消されたあとも金属の熱を残して、小さく鳴った。
「私は、毎日お父さんの息を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。次があるかどうかを待った。数字なら、あんたたちにも分かるでしょう。だから帳面に書いた。食べた量も、薬の数も、熱も、便の回数も。書いておけば、誰かが見てくれると思った。でも、誰も見なかった。見たのは、死んでからの通帳だけ」
私は領収書の一枚を拾った。紙は薄く、端が擦れていた。病院名の下に、澄江叔母さんの指でつけられた小さな印がある。
この紙を、彼女は何度も取り出していた。
支払いのためではなく、忘れないために。
仏間の鴨居で、三本目の染みがゆっくりと濃くなった。
線香の煙が、領収書の束から立ちのぼるように見えた。実際には、香炉の火がいつの間にか新しい線香へ移っていた。白い煙は三本の染みを順に撫で、そのうち一番短い線の先で、細い渦になった。
私は通帳を手帳の隣へ置いた。
「全部、写す」
叔父さんが顔を上げた。
「何を」
「日付と金額。誰の口座から出たか。何の支払いか。私の字で写す」
「必要ない」
「必要がある」
「真琴、お前は家族を裁判にかけたいのか」
「裁判にかけるんじゃない。記録を作るの」
「記録は、あとで人を縛る」
「記録がないから、今まで誰かが縛られてきたんでしょう」
声は震えていた。けれど、紙を押さえる指は震えていなかった。
私は祖父の万年筆を取り出した。軸を指で拭うと、黒い汚れが薄く伸びた。ペン先を帳面へ当てる。今度は、インクが出た。
日付を書いた。
金額を書いた。
支払先を書いた。
その横に、支出者の名前を書く欄を作った。
澄江叔母さんが、黙って私の字を見ていた。叔父さんは何も言わず、領収書の束を見ている。仏間の鴨居では、黒い染みが三本、煙の向こうで濡れたように光っていた。
最初の一行を書き終えたとき、家の奥で、低く木が鳴った。
誰かが壁の内側から、指の関節で叩いたような音だった。
叔父さんが立ち上がり、仏間の戸を閉めようとした。
私は書く手を止めなかった。
閉じられる戸の向こうで、線香の煙がひとつにまとまり、鴨居の黒い線へ吸い込まれていく。
通帳の底には、残高の数字しかないと思っていた。
けれど、そこに沈んでいたのは、祖父の晩年を支えた誰かの手と、その手を見ないふりをした家族の時間だった。
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