第3話 遺品箱の底

午前の光は、雨戸を半分だけ開けた隙間から斜めに差し込み、台所の板の間に細い帯を作っていた。昨夜の雨はやみ、庭の紫陽花の葉先からまだ水が垂れている。遠くで、どこかの家の雨樋が最後の雫を弾く音がした。
澄江叔母さんは、両手で抱えるようにして段ボール箱を台所へ運んできた。箱の表面は湿気を吸って波打ち、角が丸くへたっている。長いあいだ物置の奥にしまわれていたものらしく、埃と古い紙の匂いが、箱を置いた瞬間に広がった。
「これ、お父さんの遺品箱。仏間に置いとくと、親戚の目に触れるから」
言いながら、澄江叔母さんは卓の上に新聞紙を敷いた。皺の寄った新聞紙の上に、蓋を開けた箱の中身を少しずつ取り出していく。手つきは丁寧だったが、どこか急いでいるようにも見えた。
私は卓の向かいに座り、箱の角に指をかけた。段ボールの縁は何度も湿って乾いてを繰り返したのか、繊維がほぐれて柔らかくなっている。その柔らかさに、ふと指先が止まった。
――折れている。
箱の蓋のあたりに、折り目が幾重にも重なっていた。一度や二度ではない。誰かが何度もこの箱を開け、閉じ、また開けたという跡だった。新しい折り目の上に、古い折り目が重なっている。箱の中身よりも先に、その折り目の数だけ、誰かのためらいがそこにあったのだと分かった。
「叔母さん、これ、前にも開けたことがあるの」
「……何度か」
澄江叔母さんは答えながら、箱の底から白黒写真の束を取り出した。輪ゴムで束ねられた写真は、ゴムが劣化して茶色く変色し、触れるとぽろりと切れそうだった。
一枚ずつめくっていく。若い頃の祖父が、まだ黒々とした髪で、庭先に立って笑っている写真があった。笑っている祖父の顔を、私は初めて見た気がした。位牌の横の遺影も、生前の記憶の中の祖父も、いつも口を結んで、こちらを値踏みするような目をしていたから。
「こんな顔、したんだ」
思わず声が出た。澄江叔母さんは一瞬だけ写真を覗き込み、すぐに目を逸らした。
「若い頃の話だよ。私が嫁に来る前の」
その声には、懐かしさよりも、触れたくないものに触れてしまったときの硬さがあった。
写真の束の下から、欠けた数珠が出てきた。黒い珠がいくつか割れて、接着剤の跡が白く残っている。何度も直しながら使い続けたものらしい。数珠の次に、折りたたまれた紙片がいくつも出てきた。開くと、どれも病院の名前が裏側に走り書きされていた。ボールペンの線は震えていて、祖父のものにしては弱々しかった。おそらく体調が悪いときに、急いで書き留めたのだろう。
「これ、全部病院のメモ?」
「……薬のことやら、予約の日やら。いろいろ」
澄江叔母さんはそう言うと、手を止めずに次の紙を取り出した。紙の束はまだ続いていた。古い領収書、町内会の回覧の控え、そして――
私はその一枚で、手を止めた。
白黒写真の裏に、別の紙が貼りつくように重なっていた。便箋だった。黄ばんだ便箋の上に、几帳面に整えられた文字が並んでいる。文末の句点の打ち方、行間の取り方、改行の位置。見た瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
これは、私の字に似ている。
いや、私の字そのものではない。けれど、文章の癖、言葉の置き方が、私が代筆していた頃の書き癖と不思議なほど重なっていた。祖父に頼まれて町内会の文書を清書していたとき、私はいつも祖父の口述を、自分なりの言葉に整えて紙に落としていた。この便箋の文章は、まるでその頃の自分が別の手で書き写したもののように見えた。
便箋の端に、知らない人名の断片があった。「――田」としか読めない苗字と、途中で何度も消した跡のある住所。消しゴムで擦った跡が紙の繊維を毛羽立たせ、その下にうっすらと、元の文字の圧痕が残っている。何度も書いては消し、また書き直したのだろう。
私はその場で息を吸い損ねた。
喉の奥に、小さな石でも詰まったような感覚があった。読まなければ、と思う一方で、読んではいけない気もした。紙の端を持つ指先が、かすかに震えている。
「これ……」
声が出かけた、そのとき。
澄江叔母さんの手が、横から伸びてきた。
何も言わずに、その便箋を指先で挟み、すっと引き抜いた。私が止めるより早い動きだった。まるで最初からそこにその紙があることを知っていて、私が気づく前に取り上げるつもりでいたかのような、迷いのない速さだった。
彼女はそのまま、卓の端に置いてあった別の空き箱――菓子箱だろうか、蓋のない浅い木箱に、便箋を滑り込ませた。紙が箱の中で、小さく乾いた音を立てた。
「叔母さん」
「お茶、淹れ直すね」
澄江叔母さんは立ち上がり、やかんに手をかけた。その背中は、私に何かを聞かせまいとするでも、何かをごまかそうとするでもなく、ただ作業の続きをするだけの、いつも通りの背中だった。だからこそ、私にはその速さが、ただの片付けではないと分かった。
隠すためというより、見つかる前に消したい、という動きだった。
迷いがなかった。躊躇がなかった。それは澄江叔母さんが、その紙の存在をずっと前から知っていたということだ。知っていて、今日この箱を開けるときも、どこかであの便箋が出てくることを覚悟していたのだ。
私はその速さを見て、澄江叔母さんがただ黙っていたのではないと、初めて思った。
黙っていたのではない。守っていたのだ。何を、誰を――それはまだ分からない。けれど彼女の沈黙は、空白ではなく、ずっと重たい荷物を抱えたまま立ち続ける人間の姿勢そのものだった。
やかんの底が、ガスの火に触れて小さく鳴った。澄江叔母さんは水を足し、火をつけ、何事もなかったように卓へ戻ってきた。
「写真、続き見る?」
「……うん」
私は答えたが、目は卓の端に置かれた菓子箱から離れなかった。箱の蓋はない。中を覗けば、あの便箋はすぐそこにある。手を伸ばせば届く距離だった。
けれど、私はその手を伸ばさなかった。
伸ばせば、澄江叔母さんの背中がどう動くか、分かっている気がしたからだ。彼女はきっと、今度はもっと早く、もっと冷たい速さで、その紙を私の手の届かないところへ移すだろう。そうして二人のあいだに、取り返しのつかない亀裂が入る。
それが怖かった。
写真の束の残りをめくっていく。祖父の若い頃の写真はそこで終わり、代わりに、もう少し年を重ねた祖父が、見知らぬ男性数人と並んで写っている写真が出てきた。場所は分からない。山道のようにも見えるし、工事現場のようにも見える。背景には、崩れた土の斜面と、何かの杭のようなものが写り込んでいた。
「この人たち、誰」
「さあ。お父さんの知り合いじゃないの」
澄江叔母さんの返事は、いつもより一拍早かった。間を置かずに返ってくる「さあ」は、むしろ何かを知っている人間の返事だった。知らない人間なら、写真をもう一度覗き込み、首を傾げる仕草が挟まるはずだ。彼女はそれをしなかった。
私は写真を裏返した。何も書かれていない。けれど紙の端に、インクの滲んだ跡がうっすらと残っていた。何かが書かれていたものを、水で濡らして消した痕跡のようだった。
箱の底には、まだ何か残っていた。古い帳面の切れ端と、丸められた紙屑。澄江叔母さんがそれを取り出そうと手を伸ばしたとき、台所の窓の外で、ふいに風が強く吹いた。庭の紫陽花が揺れ、葉に残っていた雨粒がいっせいに地面へ落ちる音がした。
その音に紛れて、家のどこかで、きい、と木が軋む音がした。
二階か、それとも仏間か。私たちは同時に顔を上げたが、音はそれきり止んだ。澄江叔母さんは何も言わず、帳面の切れ端を手の中でそっと握り込んだ。紙がくしゃりと潰れる感触が、私の位置からでも分かった。
「叔母さん、それも隠すの」
「隠してない」
「さっきの便箋は、隠した」
澄江叔母さんの手が止まった。握り込んだ帳面の切れ端を、ゆっくりと卓の上に戻す。皺の寄った紙の上に、彼女の指の跡がくっきりと残っていた。
「あれは、お父さんの字じゃないものが混じってた」
ぽつりと、それだけ言った。
「誰の字」
「知らない」
「知らないのに、隠すの」
澄江叔母さんは、私の目を見た。目の下の影は、今朝よりも濃く見えた。眠れていないのだろう。四十九日が終わっても、彼女の夜はまだ終わっていないのかもしれない。
「知らないものほど、怖いでしょう」
その声には、怒りも非難もなかった。ただ、疲れ切った人間が、自分の中にまだ残っている力を、やっとのことで絞り出したような声だった。
「知ってるものなら、まだ扱い方が分かる。でも知らない字で、知らない名前で、消しかけの住所が書いてある紙が出てきたら――それをどうしたらいいか、私には分からないよ」
「分からないなら、尚更、読んだ方がいいんじゃない」
「読んで、それでどうするの」
澄江叔母さんの声が、初めてわずかに震えた。
「読んで、分かって、それから? 誰かに話すの。警察に行くの。それとも、真琴ちゃんが一人で抱えるの。私はね、もう何かを新しく抱える力が残ってないんだよ」
その言葉を聞いて、私は喉の奥に詰まっていた石が、さらに重くなるのを感じた。澄江叔母さんの疲弊は、介護の年月だけのものではないのだと、ようやく分かった。彼女はずっと、祖父が隠していた何かの気配を、知らないまま、あるいは知っていながら、黙って抱え続けてきたのだ。
写真の束、数珠、病院のメモ、そして消された便箋。遺品箱の底には、祖父の生活の細部だけでなく、祖父が誰かに言えなかった時間そのものが、押し込められて眠っていた。
私は箱の中を覗き込んだ。もう底が見えている。古い帳面の切れ端と、紙屑と、埃。それだけだった。けれど、この箱の底にあったものは、きっとこれで全部ではない。澄江叔母さんが先回りして抜き取ったものが、他にもあるはずだった。
「叔母さん」
「……なに」
「私、字を見れば分かるの。祖父の字と、違う人の字は」
澄江叔母さんは答えなかった。ただ、やかんの湯が沸く音が、台所に小さく響き始めていた。
「だから、隠しても、いつかは気づくと思う」
「気づいても、言わないでいられる?」
その問いに、私はすぐに答えられなかった。
言えない。たぶん、言えない。見てしまったものを、見なかったことにする方法を、私はこれまでずっと覚えてきたはずなのに、今はもう、それができる気がしなかった。
「分からない」
正直にそう答えると、澄江叔母さんは小さく息を吐いた。それは笑いでも、ため息でもない、どちらともつかない音だった。
「真琴ちゃんは、そうやって正直に言うところが、お父さんに似てないね」
「祖父は、正直じゃなかったの」
「正直の代わりに、几帳面だった人だよ」
澄江叔母さんは立ち上がり、沸いた湯を急須に注いだ。湯気が白く立ちのぼり、台所の天井近くでゆっくりとほどけていく。私はその湯気の行方を目で追いながら、仏間の方角を見た。
戸は閉まっている。けれど、その向こうで、鴨居の染みが今もじっと、私たちのやり取りを聞いているような気がした。
遺品箱の底に残っていた帳面の切れ端を、私はそっと拾い上げた。澄江叔母さんは止めなかった。紙片には、数字がいくつか並んでいるだけで、文章らしいものはなかった。けれど、数字の並びの端に、見覚えのある書き癖があった。数字の「7」の払いが、やけに長く伸びている。祖父の字だ。
その数字の列を目で追っていくと、ある月から急に桁が増え、その後また元の桁数に戻っている箇所があった。まるで、ある時期だけ大きな金額が動き、それ以降は何事もなかったかのように数字が収まっている。
「叔母さん、これ――」
言いかけた私の声を、澄江叔母さんの手が遮った。といっても、彼女は何も言わなかった。ただ、湯呑みを二つ、卓の上に置いただけだった。湯気が私の顔のあたりまで立ちのぼり、線香の匂いと混じり合って、鼻の奥に甘く重たく絡みついた。
「お茶、冷めるよ」
それだけ言って、澄江叔母さんは卓につき、自分の湯呑みを両手で包んだ。私はその帳面の切れ端を、手帳に挟んだ。澄江叔母さんは、それを見ても何も言わなかった。見なかったことにする、という選択を、彼女は今、私に対して取ったのだと分かった。
窓の外で、もう一度風が吹いた。紫陽花の葉が揺れ、水滴が地面に落ちる。その規則正しい音のあいだに、家のどこかで、また低く木が軋む音が混じった気がした。
私は湯呑みを両手で包み、熱さが指先に染み込んでいくのを感じながら、仏間の方角から目を離せずにいた。
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