第2話 見なかったことにする朝

朝の桐生家は、夜よりも暗かった。

雨戸を開ければ少しは明るくなるはずなのに、澄江叔母さんは仏間に面した戸を半分しか開けなかった。山の斜面から流れてくる霧が庭に溜まり、障子越しの光を白く濁らせている。湿った木の匂いに、味噌汁の湯気と線香の甘さが重なっていた。

私は仏間の入口に立ったまま、鴨居を見上げた。

二本ある。

昨夜、一本目の黒い線を見つけた。その隣に細い影のような筋が現れたのは、眠る前だった。朝になれば消えているかもしれないと思った。煤なら、夜の湿気に馴染んで見えなくなるかもしれない。夢を見ていたのだと思えれば、それでよかった。

だが、二本の染みは消えていなかった。

一本は仏壇の真上に、木目を斜めに横切っている。もう一本は少し離れたところから、爪の先で引いたように短く伸びていた。昨夜より濃くなったのか、それとも朝の薄い光が輪郭を拾っているのか、私には判断できなかった。

線香の燃え残りから、細い煙が上がった。

誰も火をつけた覚えがない。香炉の灰の中に、昨夜の線香が一本、まだ赤く残っていたのだ。煙は天井へ向かわず、二本の染みの下でゆっくりと輪を描いた。

私は息を浅くした。

「真琴ちゃん、そこにいるなら味噌汁を運んで」

台所から澄江叔母さんの声がした。

「うん」

返事をしても、足が動かなかった。煙の輪はほどけず、鴨居の黒い線に吸い寄せられるように細くなっていく。私は昨夜、万年筆を握ったまま何も書けなかったことを思い出した。あのときも、煙は同じ方向へ流れていた。

「真琴ちゃん」

「今行く」

ようやく目を逸らし、私は台所へ向かった。

朝食の膳は四人分だった。祖父が生きていた頃は、五人分の膳を並べるのが当たり前だった。祖父の椅子は空いたままだが、澄江叔母さんはその前に置く小鉢だけを、しばらく手に持っていた。

味噌汁の椀から湯気が立っている。焼き魚は冷め、皮が乾いていた。澄江叔母さんは魚を一度箸で持ち上げ、身の厚い部分を確かめてから、私の膳へ移した。

「叔母さん、それは自分の分じゃないの」

「私はあとでいい」

「いつもそう言うけど」

「冷めても食べられるから」

言いながら、澄江叔母さんは湯呑みを四つ並べた。祖父の分を置こうとして、手が止まる。昨夜と同じ迷いだった。彼女は何もなかったように湯呑みを一つ戻し、四つの位置を畳の目に合わせる。

浩一叔父さんは新聞を開いたまま、その動きを見ていた。白い紙面の端が、叔父さんの指先でまっすぐに揃えられている。

「澄江」

「なに」

「今日は午前中に寺へ行く。香典返しの追加分を確認したい」

「分かってる」

「それから、遺品の箱は一度、仏間から出した方がいい。親族が来る前に、見せるものと見せないものを分ける」

箸が止まった。

私だけでなく、澄江叔母さんの手も止まった。ただし彼女はすぐに、味噌汁の鍋へ手を伸ばした。蓋を開け、まだ十分に温かいのに火を弱める。鍋の中で味噌汁が小さく揺れた。

「見せないものって、何」

聞いたのは私だった。

叔父さんは新聞を畳み、膝の上で角を揃えた。紙を折る音が、狭い台所によく響いた。

「遺品には、個人的なものもある」

「祖父の個人的なものなら、家族が見てもいいでしょう」

「家族だから何でも見ていい、ということではない」

「じゃあ、誰が見るものを決めるの」

「決める役の者が決める」

「役って、誰の役?」

叔父さんはすぐには答えなかった。眼鏡の位置を直し、机の端にあった箸袋を横向きに置き直した。

「法要も相続も、順番があるんだ。気になったものを気になった時に開けていたら、話がまとまらない」

「話をまとめるために、見ないものを作るの?」

「見なくていいものを、見なくて済むようにするんだ」

「それは同じことじゃないよ」

「違う。必要なものを残し、不要なものを処理する。それが整理だ」

叔父さんの声は穏やかだった。穏やかであることに、私はいつも押し切られてきた。怒鳴られれば、こちらも怒ることができる。けれど、整った声で正しそうな言葉を並べられると、自分の違和感の方が間違っているように思えてくる。

「昨夜、鴨居に黒い線があった」

言ってから、胸の奥が遅れて縮んだ。

叔父さんの指が止まった。

澄江叔母さんは鍋の蓋を持ったまま、こちらを見なかった。

「今朝は二本になってる」

私は続けた。声が震えないように、言葉を一つずつ置いた。

「煤なら、一本ずつ増える理由がない。煙の流れもおかしい。あそこだけ、風がないのに煙が寄っていく」

「火鉢の始末が甘かったんだろう」

「火鉢は昨夜から消えてる」

「消えたあとも、匂いは残る」

「匂いの話じゃないよ」

「見間違いだ」

「見間違いなら、今見て確認して」

叔父さんは私を見た。正確には、私の目の少し下を見ていた。人の目を見るのを避けるとき、叔父さんはいつも相手の眉間か鼻筋を見る。その視線の置き場所まで、私は知っている。

「真琴」

「確認するだけでしょう」

「確認して、それで何になる」

「少なくとも、私が見間違えたかどうか分かる」

「分かったところで、家の中に煤があるという話が一つ増えるだけだ」

「二本目がある」

「本数の問題じゃない」

「じゃあ、何の問題?」

叔父さんは、すぐに答えを返さなかった。台所の流しから、昨夜の茶碗に溜まった水が一滴、落ちた。ぽつり、と音がした。

「外へ言うな」

叔父さんは低く言った。

「まだ誰にも言ってない」

「今後も言うな。矢野さんにも、親戚にも、寺にもだ。余計な話は家のためにならない」

「家のためって、誰のため?」

「皆のためだ」

「皆って誰」

「真琴、お前は言葉尻を捕まえるな」

「言葉尻じゃない。いつもそうやって、誰のことか言わないまま終わらせるから」

声が少し大きくなった。自分で驚いた。澄江叔母さんが味噌汁の鍋を火から下ろした。蓋がずれ、白い湯気が顔の高さまで上がる。

叔父さんは怒鳴らなかった。代わりに、新聞をきっちり二つに折った。

「家の事情を外へ出せば、戻せなくなる。噂は訂正できない。誤解は消えない。誰かが面白半分に話したことでも、聞いた側には事実として残る。それで困るのは、結局ここに住んでいる者だ。お前は一時的に帰ってきているだけかもしれないが、澄江はここにいる。俺も、この家の名前を背負っている。だから、見たものを全部口にすればいいという考え方には賛成できない」

「見たものを隠せば、なかったことになるの」

「そうは言っていない」

「でも、そうしてきたでしょう」

澄江叔母さんの手から、布巾が落ちた。

叔父さんは私を見た。今度は目を逸らさなかった。

「何の話だ」

「祖父の介護。誰が毎晩起きていたのか。誰が食事を温め直して、誰が薬を飲ませて、誰が病院へ連れて行ったのか。そういうことも、家のために言わないの」

「澄江がやってくれた。それは皆、分かっている」

澄江叔母さんが笑った。笑ったというより、口の端だけが動いた。

「分かってる?」

叔父さんは黙った。

澄江叔母さんは落ちた布巾を拾い、流しの縁へ掛け直した。濡れた布が重そうに垂れた。

「分かってるなら、どうして朝から魚の身だけ真琴ちゃんに移すの。私はあとでいいって言うたびに、食べる時間がなくなるのを知ってるでしょう」

「澄江」

「どうして夜中に呼んでも来なかったの。電話をしたら、明日の朝でいいと言ったでしょう。お父さんが吐いたときも、息が変だと言ったときも、救急車を呼ぶほどじゃない、近所に知られる、葬式の段取りが、と言ったでしょう」

「それは、その時の判断だ」

「そう。判断。いつも判断だった」

「今ここで、その話をする必要があるのか」

「必要があるかどうかを、あんたが決めるの?」

澄江叔母さんの声は大きくなかった。水を張った桶の底から響いてくるような声だった。

「私は、食べさせた。むせたら背中を叩いた。眠れない夜は椅子に座って、息を数えた。お父さんが自分で起きられなくなってから、布団の中で身体の向きを変えるだけでも、腰が抜けそうになった。それでも朝になったら湯を沸かした。あんたたちは来た。来て、顔を見て、今日はどうだと言って、返事を聞く前に帰った。私が大丈夫だと言ったからでしょう。大丈夫だと言わなかったら、誰か残った?」

叔父さんの唇がわずかに動いた。

「家を回すには、役割分担が必要だった」

「分担なんてしてない」

澄江叔母さんは布巾を両手で絞った。水が流しへ落ちる。

「私に押しつけて、私が倒れなかったから、分担したことにしただけ」

私は二人の間に立つことができなかった。何か言わなければと思うのに、舌が重い。子どもの頃、祖父の部屋から咳が聞こえても、私は廊下で立ち止まるだけだった。澄江叔母さんが入っていくのを待ち、何も聞こえなくなってから、ようやく台所へ戻った。

私はあの頃から、見なかったことにする方法だけを覚えてきた。

叔父さんが膝を小さく叩いた。話を終わらせるときの癖だった。

「朝から感情的になるな。四十九日が済んだばかりだ」

「喪中なら、疲れたと言ってはいけないの」

「そういう話ではない」

「じゃあ、どういう話?」

今度は私が聞いた。

「祖父が死んで、叔母さんが疲れ切っていて、鴨居には黒い染みが増えている。それを全部、家のために黙っていればいいの?」

叔父さんは答えなかった。

仏間の方で、何かが擦れる音がした。

私たちは同時にそちらを見た。

雨戸は閉じている。風が入る隙間はない。それでも線香の煙が廊下へ流れ出し、白い筋になって台所の天井へ伸びていた。煙は途中で折れ、仏間の鴨居の方へ戻っていく。

澄江叔母さんが、ほとんど無意識に一歩下がった。

叔父さんは立ち上がり、仏間へ向かった。私も後に続いた。

二本の染みのうち、細い方が伸びていた。

昨日は指一本分にも満たなかった筋が、今は鴨居の端から仏壇の上まで、濡れた筆で引いたように続いている。表面に付いた汚れではない。木目の下から黒さが滲み、節の周りで一度途切れ、また現れている。

私は声を失った。

叔父さんが座布団の位置を直した。こんなときまで、座布団の向きを直す。その手が、ほんのわずかに震えていた。

「煤だ」

叔父さんは言った。

誰に向けた言葉なのか分からなかった。

「煤なら、触ってみれば」

私は言った。

「届かない」

「脚立を持ってくる」

「必要ない」

「必要だよ」

私は土間へ走った。廊下を曲がると、古い脚立が物置の脇に立てかけてある。木の脚に湿気が入り、持ち上げたとき、底から細かな砂が落ちた。

仏間へ戻ると、叔父さんが私の前に立っていた。

「やめろ」

「確認するだけでしょう」

「家の鴨居に傷をつけるつもりか」

「傷があるのは、もう見えてる」

「真琴」

「見なかったことにするのは、もう嫌」

言葉が口から出た瞬間、家のどこかで、低い音がした。

きしみではなかった。柱が内側から押されたような、鈍い音だった。

線香の煙が一度大きく膨らみ、鴨居の二本の染みへ吸い込まれていく。

私は脚立を畳の上へ置いた。

澄江叔母さんが、私の腕を掴んだ。指先は冷たかった。けれど、力は驚くほど強い。

「上らないで」

「どうして」

「見たら、片づけられなくなる」

「もう片づいてないよ」

「真琴ちゃん」

「叔母さんも見たんでしょう」

澄江叔母さんの指が、私の腕から離れた。

その顔には、疲れのほかに、見覚えのない表情が浮かんでいた。恐怖と言い切るには平らで、諦めと言うには深すぎる顔だった。

「見たよ」

彼女は言った。

「昨日の夜も、今朝も。お父さんが死ぬ前から、あの辺りは少し黒かった。でも、あんなふうに増えたことはなかった」

叔父さんが振り返った。

「澄江、余計なことを言うな」

「もう言ってる」

「黙れ」

「何年、黙ればいいの」

叔父さんの顔から血の気が引いた。

澄江叔母さんは鴨居を見上げたまま続けた。

「お父さんが倒れた夜も、あそこに黒い筋があった。救急車を呼ぶなって言われた夜。近所に聞こえるから、恥をかくから、朝まで待てって言われた夜。私はその黒いところを見ながら、布団の中でお父さんの息を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。途切れるたびに、次の息が戻るか待った」

「やめろ」

「戻らなかったら、どうするつもりだったの」

「澄江!」

「どうするつもりだったの、浩一さん」

叔父さんは答えなかった。

仏壇の前で、線香の灰が崩れた。小さな音だった。だが、その音に続いて、鴨居の黒い線がゆっくりと濃くなった。

私は脚立から手を離した。

上らなくても、もう分かってしまった。染みは煤ではない。少なくとも、煤だけではない。

誰かが言葉を飲み込むたび、家のどこかに黒いものが残る。

そう思った。

そして、思っただけで終わらせてはいけないとも思った。

台所の卓へ戻ると、私は自分の手帳を開いた。朝食の膳、味噌汁の鍋、布巾の水滴、叔父さんが新聞を折った回数。見たものを順番に書き留めた。書いているうちに、文字がいつもより丁寧になった。線の幅も、文字の間隔も揃えた。

最後に、鴨居の本数を書いた。

二本。

その下に、少し迷ってから、別の言葉を添えた。

見た。言わなかった。増えた。

万年筆の先が紙から離れる。

仏間の方で、また煙が動いた。

朝の光は白いままだった。雨戸の外では、山から落ちてきた水が軒先を叩いている。澄江叔母さんは冷えた焼き魚を温め直すため、黙って台所へ戻った。浩一叔父さんは脚立を物置へ運び、戻ってくると、仏間の戸を静かに閉めた。

戸が閉まる直前、私は鴨居を見た。

二本の染みの間に、まだ何もなかったはずの場所へ、短い黒い線が浮かびかけていた。

私は数えなかった。

数えれば、増える気がした。

それでも視線だけは、そこから離れなかった。

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